【全二巻長編書籍化】死に戻り令嬢は憧れの悪女を目指す ~暗殺者とはじめる復讐計画~
「いずれこうなることはわかっていたわ」
18歳の誕生日に合わせた、婚約発表パーティで突然婚約破棄された夜。
寝室の明かりを消して程なくして、私の上にのし掛かる体と、冷たいナイフの感触がした。
「悪ぃな。眠らせて殺すつもりだったが、最後に淹れられた薬湯は呑まなかったのか?」
「嫌な予感がするときに、飲み物に口をつけないのは当然の自衛だわ」
「自衛してこれならザマねえな」
「…あなたは私を殺すのでしょう」
「ああ。話をして時間稼ぎはさせねえ」
「可哀想に」
私は口の端を吊り上げて冷笑した。
「あなた、端金をつかまされて私を暗殺しに来ているのでしょう? いずれあなたも殺されるわ」
「……」
「あなたの言葉には訛りがある。それに暗がりでもわかる銀髪。大きな体躯……ナイフの持ち方。北方民族の方ね。北方併合作戦を展開した我が父に恨みを持つ、北方民族を暗殺者として使うのは、王太子殿下の新婚約者――ジェスク公爵家の」
「それ以上のお喋りは終わりだ」
彼は私の喉元にナイフを突きつける。息を呑むだけで血がこぼれるのがわかる。私は微笑む。何がおかしい、と言われる。
「あなた、真面目な人ね。人払いもして、二人きりの状況で。最後にいい思いをしてから私を殺すことだってできるのに。苦しまないように薬湯を飲ませ、首を切って一思いにしようとする。悪に向いていなくてよ?」
口を塞ごうと伸ばされる左手をとり、私はその大きな手を私の右胸に導く。夜着だけを纏った柔らかな感触に、彼が息を呑むのがわかった。
「元宰相閣下の愛娘は、噂通りの淫売ってやつか?」
「私は純潔よ」
「口ではいくらでも言える」
「あなたと一緒で」
「……」
彼が黙り込む。どんな顔をしているのか見られないのが残念だ。
「ねえ、歴史に名を刻むこともない、使い捨ての暗殺者のあなた。よかったら『悪役令嬢』として命を散らす、私と派手に楽しみませんこと?」
私は彼の二の腕を指先で撫で、見下ろしてくる頬に手を伸ばした。顔の形は端正だ。垂れた銀髪を耳にかければ、ぴく、と体を震わせるのを感じた。
「これからあなたと私で、この世界をめちゃくちゃにする楽しい復讐計画を実行しましょう。つまらなければ、私を好きにして、殺していいわ」
「……」
「王太子様に女としての全てを否定された私だもの。最期に喉を切って、そのままおしまいってことにはしないでね?」
どれほどの時間が経っただろうか。
暗殺者はナイフを振り上げる。
失敗した――そう覚悟を決めた瞬間、ざくり、と刺さったのは私の一つにまとめたおさげ髪だった。
「あんたの計画に乗る。その代わり、前払いとしてこれはいただく」
「よくってよ。私の髪、ゆめゆめ商品価値をお忘れにならないで」
「服を着ろ。逃げるぞ」
私は躊躇いなく彼の前で夜着を脱ぎ捨て、万が一の為に準備していた市井のシンプルなドレスを纏う。
「私の名はキサラ。逃避行の恋人の名前を教えてちょうだい」
「……アッシュ」
低く小さく一言だけつぶやくと、彼は私を横抱きにして、窓から外へと躊躇いなく発った。
◇◇◇
私――キサラ・アーネストは王太子殿下の婚約者だった。
宰相として権勢を誇るアーネスト公爵の娘として生まれた時から、私は王太子殿下の婚約者として決まっていて、おむつが取れた頃にはすでに王宮で育てられる存在となっていた。
私は私を産んだ母のことも、父のことも思い出せない。
実家はさっさと政略結婚という役目を終えた私のことは忘れ、すぐに生まれた弟たちを溺愛した。
王宮で婚約者として育てられた私だが、周りは敵しかいなかった。妃教育が苛烈を極めたことだけが苦しみではない。私の命を狙う者や王家への不満を私に対する虐待で晴らす者もいた。
何より――王太子は生まれながらに、私のことを好きに弄んでいいおもちゃだと思っていた。
王太子殿下は金髪に青い瞳の、美しい王子だった。
柔和な笑顔と優しい物腰、慈善事業にも積極的に参加する慈愛に、国民は皆うっとりと王太子殿下に夢中になっていた。
そんな彼に私が軟禁され、ずっと虐待されているなど誰も信じないだろう。
黒髪を手綱がわりに引っ張られ、3歳も年上の王太子に四つん這いで馬をさせられたり。
気に入らないことがあれば表に見えない場所を殴られ、食事を頭に浴びせられ。
突然、ご友人の子息たちの歓談に招かれたと思えば、
「この子は僕の言いなりになるんだ。みていて」
との言葉に次いで、笑顔で逆さになるように命じられた。
「スカートだから恥ずかしい? 自分の恥辱の方が、未来の夫の命令より価値があるのかい?」
笑われながら捲り上がるスカートを覗き込まれても、私はもはや、涙さえこぼれることはなかった。
◇◇◇
私への屈辱的な扱いを否定する者は誰もいなかった。
生まれ持って加虐的な思考を持つ王太子の「ガス抜き役」として、王宮に飼われた婚約者の私は誰にとっても都合の良い存在だった。
私が黙って弄ばれている間に、父はますます権威を強め、弟たちは名門の学園に入学し、めざましい成績を残した。なぜそれを知っているのか――
「君の弟君はとても優秀だね。王太子である僕を立てるつもりもないようだ」
「っ……申し訳、ございません……」
「いいんだ。君の父上のおかげで国は豊かだし、また北方の蛮族狩りも捗った。僕も王太子として、優秀な手駒が育つことは喜ばなくてはならない、ねっ!」
彼は思い切り私の腹を蹴る。椅子から転げ落ちて吐く私の前に座って私の黒髪を引っ張り、うっとりとした顔で私をみて笑った。
「大丈夫だよ。君は王宮の外では、苛烈な政策を進める父君と王宮の庇護のもとに、社交界にも出ずに高慢に振る舞う『悪役令嬢』として大人気さ。……君がこんなに、ゲロまみれで倒れているなんて、一部の人しか知らないからね」
◇◇◇
父は北方民族の支配併合のため、平民から魔力保持者を強制的に魔術師兵団に徴兵する法律を定めた。北方民族は見目麗しく奴隷として高値で売れるため、彼らを支配し、生きた輸出品にしようとしているのだ。
平民は10歳で強制的に能力検査をさせられ、能力者は平民魔術師修練校に収容され、貴族の編成する高等魔術師の手足となり捨て身で戦う。
そのようなことをしていれば当然、国民からの反発は強くなる。
しかし父はその国民の怒りが王家や貴族に向かないよう、北方民族のネガティブな情報を散らし、反発する勢力への差別、弾圧をおこなった。
国じたいは仮初の繁栄を迎えていた。
虐げられる人々の、怒りが地下で轟くのを忘れたまま。
――そして去年、ついに父は失脚する。
使い捨てにされていた平民魔術師の遺族が各地で反乱を起こし始めたのだ。
風向きに敏感な貴族たちは皆父を批判し、人道的な政策をするべきだと訴え始めた。そこで頭角を現してきたのは元平民の成り上がり貴族たちを支持基盤に持つ、ジェスク公爵家の勢力だった。
ジェスク公爵家は成金の資金力と国民の支持を背に受け、父を批判し糾弾した。そしてついに宰相の地位から父を引き摺り下ろしたのだ。
そうなると、王家にとって私はどのような意味を持つか。
――国民に嫌われた父に甘やかされた、高慢な『悪役令嬢』。
王太子は私と会うことをピタリとやめ、唐突に妃教育も終了した。私室に軟禁され、食事もろくに与えられない日々を過ごして半年。
久しぶりに公の場に出されたパーティにて、豪奢に飾り立てられた私は、王太子によって婚約破棄と、新たな婚約者の発表をされた。
新たな婚約者はもちろんジェスク公爵家の女。
彼女は長い亜麻色の髪を艶々に飾り立て、婚約発表の場で王太子に腰を抱かれて勝ち誇った顔をしていた。
だから。
あの夜に銀髪の暗殺者がやってきても、おかしくなかったのだ。
◇◇◇
「なんだよ、噂は全部嘘だったってわけか」
翌日、日中私たちは王都を逃げ出した。
道すがら私が話した顛末に、アッシュと名乗った暗殺者は呆れて天を仰いだ。
私よりずっと背が高く、私より少し年上の物憂げな美男子だった。まるで、孤高の狼のような。
「ったく……同胞を弄んだ悪役令嬢っつーから、喜んで殺しに行ったのに」
まず早朝、乗合馬車に飛び乗って王都を発った。アッシュの言うままに無意味にあちこちを歩き回り、馬車を乗り継ぎ、疲労でぐったりとしたところで辿り着いた場所は、王都から少し離れた川辺の町だった。
「今夜はここに寝泊まりして、明日材木と一緒に川を下って港町を目指す。それでいいか」
「ええ」
旅の夫婦のふりをした私たちは宿屋の同じ部屋に泊まっていた。
「ところであなた、妙に素直に私の話を信じるわね?」
もう少し警戒してもおかしくないだろうに。
道中で平民らしいドレスに着替えた私に、ウィッグに押し込んでいた銀髪をかきあげながらアッシュが笑う。
「信じるさ。あんたは露悪的に振る舞ってるだけの、ただの女だからな」
「そう? 甘く見ていると寝首を掻くわよ」
「ははは、気づいてねえのか」
「なによ」
「胸揉ませた時、あんたは右胸を差し出した」
天を仰ぎ、顔を覆った指の隙間から、男の目が嘲笑うように細くなる。
「鼓動がばれねえようにしたんだろ」
「……」
「それにあんたの口調だ。大切に扱われてるのに慣れた女の言葉じゃねえ。捨て鉢の……そうさな、水揚げを待つ幼い娼婦みたいな言い方だった。怖い癖に、怖さを塗りつぶした」
私はむっとしながらも、目の前で襟を楽にする男を見る。
明るい場所で見ると、彼は案の定北方民族らしい、前髪の長い銀髪の男だった。背が高く細い印象を与えながらも、肩幅と胸の厚みは意外なほどだ。開いた胸板からは火傷の痕や傷跡を多く見る。
絶句していると、アッシュは目をすがめて笑う。
「なんだ、俺の裸が気になるってか?」
「……よほど苦労してきたのね」
「ああ。もう生きるのも飽き飽きしていたところだ」
「暗殺者になる前は、何をなさっていたの?」
「ただの狩人さ。こっちの人間が『北方領域』と呼ぶ俺らの森で、獣を獲って暮らしていた。最期に仕留めて埋めたのはあんたらの平民魔術師兵と、全滅した村の『同胞』だったがな」
「……」
「正直面白い死に方ができるなら、あんたの話に乗っちまうってくらい狂っている。人を殺そうが獣を殺そうが、俺はもう何も感じない」
「……そう」
「おいおい、人を復讐計画に乗せるような女だろ、あんたは? 辛気くさい顔すんなよ」
私は狭い宿屋で、彼の顔を正面から見つめた。
この人と最期の復讐をするのだと――今の感情と景色を、目と心に焼き付けて。
◇◇◇
私はそれから情報の集まる港町に拠点を移し、下卑たゴシップ記事で儲ける出版社に声をかけた。
宮廷から姿を消した(死亡説まで流れているらしい)キサラ・アーネストが私だと知ると、彼らは大慌てで後ろ盾の後ろ盾、彼らのゴシップ記事の黒幕のアドシェル侯爵を連れてきた。
彼は父である保守派のアーネスト公爵とも、平民と成金を味方につけたジェスク公爵とも違う。海外貿易と国内情報の流出で富を肥やす、第三勢力の男だった。
私たちを別荘に匿い、アドシェル侯爵はじきじきに会いにきてくれた。
「アドシェル侯爵。私は王宮を追われ、後ろ盾の家も失った『悪役令嬢』です。宮廷の醜聞をあなたに全て提供する代わりに、私を匿っていただけませんこと?」
「噂に聞くより随分と逞しいお嬢さんなことだ。……よろしい、匿おう。ただし、君のアーネスト家にも私は遠慮なく手をかけるが、それでも構わぬかね」
私はにっこりと笑った。
「潰していただいても結構ですよ。父母の顔も、弟たちの顔ももはや思い出せませんので」
「悪いお嬢さんだ」
それから私は彼に、宮廷で得た情報やゴシップ、裏情報を出版社に売り飛ばした。身柄保護を保証になんでも裏話を語ってやるというのはとてつもない利益を生むようで、彼は喜んで私とアッシュを確保してくれた。
私が与えた醜聞や情報を軸に、アドシェル侯爵はジェスク公爵側の勢力をごっそり自らの陣営に入れることに成功し、また海外とのつながりを強化した。
「今日もまた来たのかよ、あのおっさん」
アドシェル侯爵を見送って別荘に戻ると、アッシュが面白くなさそうな顔をして食べ残していたティーフーズを手づかみで食べていた。
私も隣に座り、つまみ取ったスコーンを半分に割る。
「これからあのおっさん、エイゼレアの商人と会談だって?」
「ええ。国が傾いたとき、飛ぶ先を探しているんでしょうね」
「……偉いやつこそ、国が傾くときは国を守るもんじゃねえのかよ」
指を舐めながら、アッシュが呆れた風に言う。
最初にあったときの薄汚れた装いから、こざっぱりとしたシャツとトラウザーズを纏った彼は銀髪さえ隠せば普通の育ちの良い平民男性のようだ。
苦々しい顔をするアッシュに、私は片眉をあげた。
「あなたの『同胞』には……ご立派な方がいらっしゃったのね?」
「……ああ、そうだ」
表情をさっと固くすると、彼は空になった銀のトレイを見つめる。
そこには歪んだ形で、彼の顔が映っている。
「俺の親父は国境に最も近い村の村長で、兄貴も立派な男だった。全ての女子供を逃した後、この国の平民魔術師に降伏した……俺たちの誇りだった」
「……アッシュ……」
「俺は、あの時からずっと……死に損ねている」
その横顔に、私はなんと声をかければいいのか思いつかなかった。
身内に捨てられ、虐待を受け続けてきた私には、身内を敬い愛するという感情が欠落していたからだ。けれど彼の横顔を見ていると、私は自然と――気がつけば彼の手を握っていた。
「……同情か」
「わからない。ただ……私は世界をめちゃくちゃにはしたいけれど、あなたを悲しい気持ちにはしたくなかった」
「……」
「迂闊なことを聞いてごめんなさい。聞かせてくれてありがとう」
「…………ああ」
私たちは黙って、その後しばらく手を繋いだまま傍にいた。
◇◇◇
そして。
アッシュは秘密裏にジェスク公爵の元から『同胞』をこちらへ寝返らせることに成功した。彼らの情報提供により、私たちは特大のネタを手に入れた。
私が婚約破棄されたとき、王太子に取り入ったジェスク公爵の娘。彼女が実はジェスク公爵の血を全く引かない、気に入りの娼館の捨て子であることが明らかになった。
ジェスク公爵は、いずれ出版社とアドシェル侯爵の手により陥落する。時間の問題だった。アッシュはさらに、暗殺の奴隷として飼われていた『同胞』を全て私の元に連れてくることに成功した。
彼らは私を前にして、深く頭を下げて忠誠を誓った。
代表してアッシュが言う。
「ジェスク公爵に弱みを握られ、使いっ走りになっていた『同胞』たちだ。これからあんたの元で働きたいという」
私は正直困った。
「私に仕えなくとも、好きにジェスク公爵に復讐しに行けばよろしいんじゃなくて?」
私はこれ以上手勢が増えても面倒だったし、目立つ北方民族の人々を取りまとめられる自信がなかった。しかし行き場所のない彼らを追い出すのも趣味ではない。
「仕方がないわね。じゃあ当面は、身の回りの警護をしてもらいましょう」
「当面? 力になる人材だぜ?」
アッシュが片眉を上げる。
私は首を横に振った。
「私はもうすぐ死ぬ人間よ。それに、いくら『同胞』アッシュが信用しているとはいえ、私は『悪役令嬢』。北方民族併合を進めたアーネスト公爵の娘よ。理屈ではなく感情で、私の元で働くのはいずれ無理が生じるわ」
「それは……そうだな」
「ここはちょうど港町だから、少しずつこっそりと、船で北方の故郷へと帰るといいわ」
私はしばらく彼らを匿い、そしてアッシュを通じて彼らに路銀を渡し、全員を故郷に帰らせた。
最後の船便を見届けた午後、帰宅途中、アッシュが私を振り返っていった。
「……ありがとうな」
「こちらこそ。アッシュも北方に帰りたくなった?」
「別に」
私の提案にアッシュは肩をすくめて首を横に振る。
「まだ帰れねえよ。あんたはまだ全部をめちゃくちゃにはしてねぇ。最期まで見届けさせてもらうのが俺があんたに付き合う条件だ」
「そう、じゃあ引き続き楽しんでちょうだい」
◇◇◇
そして。ジェスク公爵家は婚約者である王太子と共に権威を失墜した。
王太子の嗜虐性癖は私以外の人間にも働いていたようで、一つ醜聞が露呈すれば、次から次へと、非人道的な王太子の行動が王国全土に詳らかにされた。
「……王太子廃嫡、ジェスク公爵家の当主交代に乾杯」
「乾杯」
月明かりの美しい夜。
私はアッシュと共に生まれて初めての酒を買い、祝杯をあげた。
甘い葡萄酒は優しい味がして、体がふわふわとして美味しかった。
「しかし、あんたは恐ろしい女だな」
葡萄酒を傾けながら、アッシュは私を見てしみじみと言う。
「あんた、箱入りだったんだろ? 父親にもジェスク公爵にも繋がらねぇ、第三勢力がバックにいる出版社、よく知っていたな」
「私はよく王太子に殴られていたからね。吐瀉物の匂いを消しながら片付けるのに新聞は役に立つのよ」
「……」
微妙な顔をするアッシュに、私は笑う。
「うふふ、葡萄酒美味しいわね」
「飲み過ぎんなよ」
「ええ」
「なあ、キサラ」
アッシュは真面目な顔をして、私を見つめて問いかけた。
「キサラは……あんたは、自分の身の潔白は言わなくていいのか」
「何の話……ああ、『父の権威と王太子の婚約者である地位を使い、引きこもって贅沢三昧していた、悪役令嬢』って話?」
「そうだよ」
「どうでもいいわ」
私は上機嫌で葡萄酒を傾ける。ふわっと体が傾くのを、アッシュが強い腕で抱き止めてくれた。
「……アッシュ、綺麗ね」
「酔いすぎだ、ばか」
アッシュの髪に触れ、私は微笑んだ。
「身の潔白なんて、そんなものいらないわ。私のことはあなたが信じてくれているでしょう? 私は死ぬのだから、あなただけがいれば十分よ」
アッシュは何かを言おうとして、ぎゅっと唇を噛み締める。
「寝ろ。もう酒は終わりだ」
私をベッドに寝かしつけると、彼は背を向け――深くため息をついた。
◇◇◇
そして一年後。
ついに平民の成金と平民魔術師たちの怒りは頂点に達し、彼らは議会を襲撃し、実質的に貴族議会が崩壊した。
襲撃に巻き込まれジェスク公爵家は国外逃亡。国王夫妻と王太子は投獄されてその後の話は聞かず、平民たちは新たな王としてまだ五歳の第四王子を国王として指名、強引に貴族議会に認めさせた。
私の実家は――襲撃以前に没落して中央から追放されていた。おそらく生きてはいないだろう。生きていても、それは生き地獄と呼ばれるものだろう。
「王太子ってば、本当は投獄されたのではなく、もっと酷い目にあったんだってな」
「ふうん」
駅に打ち捨てられた新聞を拾い上げ、読みながらアッシュがマフラーに埋もれた口元で笑う。
私と一緒にいる間に彼はあっという間に読み書きができるようになっていた。地頭が良い男だからこそ、暗殺者にもなれていたのだと思う。
「興味ねえの? とんでもない写真が載ってるぜ」
鼻先に突きつけられた新聞を払い除け、私はやってくる魔導機関車に目を向ける。季節は秋。今のうちに少しでも北に行かなければ、じきに身動きが取れない雪の季節がやってくる。
「顔も忘れたわ、忘れたままでいたいの。お人形遊びしか能のない、つまらない男なんて」
「はは、冷たいもんだな」
笑うアッシュの息は白い。
私たちは形だけ夫婦として過ごすのが当たり前になっていた。
――王都はめちゃくちゃだった。
暴動と鎮圧、革命と反乱。
平民魔術師は遠慮のない憎しみのこもった魔力で貴族の街を焼き、王都は灰燼に帰し、政治はぐちゃぐちゃで。
それでも電車が動くのは、資本を握るのが平民だからだろう。
「来たわ。乗るわよ。新聞は捨てて」
「はいはい」
その頃には、私とアッシュは身を隠しながら、少しずつ北方へと向かっていた。
金髪、黒髪、巻毛。いくつものウィッグを着け替えて、目立つ黒髪と銀髪を宝物みたいにしまい込んで。
もはや街の誰も『悪役令嬢』キサラ・アーネストのことなど忘れていたし、北方民族に向かっていた負の感情も王宮や王族への怒りに移り変わっていた。
寝台列車の個室をとった私たちは、向かい合わせに座り、過ぎゆく車窓を眺める。長い足を組んだアッシュが窓枠に肘をついたまま呟く。
「しっかし、冷たいといやあ周りの連中もそうだな。あれだけ儲けさせてやったキサラを、持て余した途端に切り捨てるんだからよ」
「ここまで織り込み済みよ。私は死ぬまでにめちゃくちゃなことをしたいだけだから」
アッシュの言う通り、私たちは出版社と港町を追われていた。
貴族社会の崩壊と革命に伴い、アドシェル侯爵も次第に私を庇う余裕がなくなってきたからだ。私はあっさりと筆を折り、ありったけの金銭を得てアッシュと共に逃げることにした。
「あんたは」
「ん?」
「あんたは今や自由だ。まだ死ぬことを考えてんのか」
「自由も何も、ただの死ぬまでの猶予期間だとわかっているわ。私が『悪役令嬢』とわかったなら、みんなすぐに恨みを思い出す。貴族のいけすかない娘を真冬の空の下、裸にして陵辱のかぎりを尽くして、四肢を裂いて殺すでしょうね。そうなる前に、少しでも楽しいことをしたいだけよ」
機関車が止まる。駅で売られるあたたかなホットサンドとココアを、私は窓を開けて買い求めて受け取る。
「はい、アッシュ」
アッシュは渋い顔をしている。
「そんなことよりも。ねえアッシュ、アッシュはどんなめちゃくちゃなことをしたい?」
「俺は……」
「私はある程度、好き勝手にめちゃくちゃにしたわ。次はアッシュのやりたいこと、聞きたいわ」
開いた窓から雪がひらり、と入ってくる。
それを眺めてホットサンドを食らい、アッシュは呟く。
「そうだな。……馬鹿みてぇに、美味い飯が食いたい」
「いただきましょう」
「海を見たい」
「いいわね、行きましょう」
「女を抱きたい」
「私を抱かないくせに?」
「後腐れない女を抱きてえ」
「私だって後腐れないわよ、どうせ死ぬのだし」
「……変更。墓参りがしたい。殺された同胞たちの墓を」
「私もついていくわ」
「あんたは来るな。あんたが『悪役令嬢』と知ったら、同胞たちはあんたを殺す」
あまりに真剣に言うものだから、私は思わず笑った。
「何がおかしい」
「暗殺者のあなたに、命を心配されるとは思わなかったわ」
「今更だろ」
列車は次第に動き出す。
私たちは温かなカップを傾けながら、二人で心地の良い沈黙の時間を過ごした。
それから二年。
私たちは穏やかに、時に浮かれて笑い、時に路銀を苦労して稼ぎながら、ささやかにアッシュの言う「めちゃくちゃ」を楽しんだ。
◇◇◇
夏がもうすぐ終わる。彼と過ごす夏も、もう3度目だ。
「なあ、キサラ」
夕日の落ちる海を眺めながら、アッシュは私に訊ねた。
あの日短く切られた髪はすっかり伸び、私の背中には再び長い三つ編みが垂れている。アッシュもそのまま銀髪を伸ばし、二人分のおさげ髪が強い海風に流れた。
「最近は俺の望みばかり聞いているが、あんたはめちゃくちゃにしたいもんは他にねえのか?」
「してるわよ、現在進行形で」
「何を」
「あなたの情緒」
「…………は?」
「暗殺者のあなたがいつしか私を好きになってくれてたら、それ以上ない『めちゃくちゃ』じゃない?」
私が顔を覗き込んで言うと、彼は目を瞠って呆れた声をあげる。
「……そのためにあんたは俺と過ごしてんのかよ!」
「悪い? いやならこのアイスもあげない」
「……よこせよ」
「ふふ。はい、どうぞ」
二人で海を見ながら量り売りのアイスをこれでもかと食べる。
もうすぐ店仕舞いのアイス屋は、一つ分の料金で食べきれないほどカップに盛り付けてくれた。
最初は楽しく食べていたのに、夕日が沈み始めて、体が冷え始めると、なかなか全部食べきれない。
馬鹿馬鹿しい状況に、私は思わず笑った。
「もう! お腹痛くなりそう」
「だから盛り付けすぎだっつーの、これ!」
「宿に帰って食べましょう、寝るまでまだ時間はあるわ」
私が手を繋ぐと、アッシュは頬を染めて怒ったような顔をして顔を背けた。
ああ、全てがめちゃくちゃになっている。
私は満たされていた、これ以上ないほど。
◇◇◇
幸福な時間は突然幕を下ろした。
偽名を使って海辺の町に住んでいた私たちの元に憲兵がやってきたのだ。
罪状は公文書偽造。
あちこちを逃げ回って遊びまわる間に使っていた身分証が、嘘だとついにバレてしまったのだ。
私たちは手錠をはめられ、拘置所の檻に囚われた。他にも政治犯が多いのか、私たちはベッドほどのサイズの空間に二人きり閉じ込められた。
周りの檻から聞こえる話を聞けば、どうやら全員問答無用で処刑される運命らしい。めちゃくちゃになっていた王都はますます狂乱の都と成り果て、貴族とあらば女子供かまわず、日々何らかの罪状によりギロチンの刃の錆となっているらしい。
「……終わっちまったな」
「ええ」
私たちは二人で並んで、天井を見てつぶやいた。
「まだ復讐計画半ばだったんだろ? 残念だな、俺の『めちゃくちゃ』に付き合っているうちに終わっちまった」
「復讐はもうじゅうぶん。このまま死んでも満足だわ」
「はあ?」
怪訝な顔をする彼に、私は微笑んで肩を寄せる。
私たちは捕らえられて尋問されて、その間に服もぼろぼろになっていた。薄い布地だから、触れるだけで体温を感じられて温かい。この状況も、悪くない。
「私、最期に幸せになりたかったの。あなたと」
「……は?」
「私、生まれた時から人形でしかなかった。人形として遊び終われば、死ぬことを求められていた。それだけの存在だったのよ? それにあなたも。使い捨てのやけっぱちの暗殺者。……ふふ、私たちみたいな二人が、数年間も、好き勝手に世界をめちゃくちゃにして、浮かれ騒いで楽しく生きるなんて、誰も思わなかったでしょう」
「キサラ……お前……」
「結婚する相手さえ、生まれた時から決められていた私が……ふふ、殺しにきた男の人と、笑い合ってご飯を食べて過ごすなんて……ふふ、めちゃくちゃだわ。本来なら王宮で飼い殺されて、弄ばれて、無実の罪を着せられて『悪役令嬢』として死ぬだけの私。それがこんなに……ああ、おかしいったらありゃしない」
私はひとしきり笑ったのち、アッシュの顔を見た。
数年間ずっと一緒にいる間に、すっかりいろんな一面を知った。
それはどれもとても楽しくて、一生忘れられない思い出となった。
「アッシュ、ありがとう。あなたのお陰で楽しかったわ」
「俺は何もやってねえだろ。ほとんどぶっ放したのはあんただ」
「あの夜、私の鎖を切って連れ出してくれた」
私は最初の夜を思い出した。
「あの時私を殺さずに、私の話を聞いてくれた。一緒にたくさん旅をしてくれた。笑い合ってくれた。美味しいものを分け合って食べてくれたし、私の汚い復讐心も受け入れてくれた。旅で怖い目に遭わなかったのはあなたが守ってくれたお陰だし、寂しくなかったのも、あなたのお陰。二人で潜伏したアパートメントで、あなたが作ってくれた塩味のパンケーキ、美味しかった。夜お酒を傾けながら、あなたが話してくれる北方の話、どれも興味深かった。寒い夜は隣で寝てくれたことも、朝目覚めても変わりなく傍にいて、おはようって髪を撫でてくれたことも、嬉しかった」
「……」
「ああでも、本当は抱いてほしかったわ。だって私、経験したことなかったから」
「馬鹿野郎」
「今、抱いてしまう?」
「無理言うなよ。あんた、本当は何するかわかってないだろ?」
「そうよ。箱入りの令嬢だもの、私」
私たちは笑い合い、手錠をはめた手を絡めあった。
「……もっと早く誘えよ、馬鹿」
「奪ってほしいって最初から言ってたわよ」
――そして永遠とも感じられる夜は終わり。
私とアッシュは、二人並んで処刑場へ向かう馬車に乗せられた。
◇◇◇
処刑場へ向かう馬車は、なぜか大広場に向かわず真逆の海辺へと向かっていく。
「おい、どうなってるんだ」
困惑するアッシュに、私は体を寄せて囁いた。
「アッシュは逃げて。御者は『同胞』と通じている人よ」
「なっ……」
反射的にコチラを見る彼の顔を、私は目に焼き付けた。
◇◇◇
――私は捕まえられた時のため、かつて船で『同胞』を逃すときに彼らにお願いをしていた。
「私のわがままに付き合ってくれているアッシュの命が脅かされたときは、どうか救ってほしいの」
私はアッシュに切られていた、黒髪のおさげ髪を小分けにして彼らに渡していた。長い黒髪は航海の守りとして高く売れる。全員が助けてくれずとも、誰かはアッシュを助けてくれると信じていた。
アッシュは立派な死に様を遂げたご家族の生き残りと聞いている。
アッシュや亡きご家族を慕う人も、きっと向こうにはいるだろう、と。
そして私は捕まる直前、事前に捕まった場合の逃走方法について彼らから聞かされていた。処刑場までの御者は『同胞』が務めると。貴族社会が崩壊した最近では、北方民族の者が労働していても比較的馴染めるのだという。
特に貴族に蹂躙された経験のある『同胞』が、貴族の処刑で御者や執行人を務めることはよくあるのだと。
銀髪の北方民族の彼なら生き残れる。
私が死ねば――それで全ては終わるのだ。
◇◇
馬車は海の倉庫の前に止まる。
現れた『同胞』たちが、アッシュの縄を解いて船に連れていく。
「待てよ……あんたは! キサラはどうするんだ!?」
「私は死ぬわ。だって……もう生きてはならないほど、悪いことを重ねたもの」
復讐。
それはまごうことなき加害。
「ねえどうか、アッシュ。最期に私の願いを叶えて。……全部をめちゃくちゃにしたいの。殺しにきた暗殺者を生かすなんて、めちゃくちゃにも程があるでしょ?」
「キサラ……」
規定の道から逸れた馬車を追いかけて、憲兵が馬でやってくる。
「『同胞』の皆さん、アッシュをお願い」
私の名を呼び叫び、船に押し込まれていくアッシュの声を背に。
私は一人、憲兵の前に立ちはだかる。
やってきた憲兵は意外にもたった一人だけだった。
「ああ、……お久しぶりでございます」
若い憲兵は私を前にして、馬から降りて丁寧な辞儀をした。
「あなたは……?」
「覚えていらっしゃらないのも当然でしょう。亡き王太子殿下の学友の一人、マイクです」
彼は帽子を恭しく外す。
私は記憶がフラッシュバックした。
「あの……私を逆さにして…………笑っていたあのお茶会の……」
「当時の無礼、ずっと謝りたいと思っておりました」
マイクは私に跪き、深く頭を下げる。
「……話をする時間はありません。私が時間稼ぎをしますので、キサラ様もお逃げください。どうかあの時の非礼の詫びをさせてください」
「そんな……あなたは貴族家の人だわ。きっと酷い目に遭う!」
「平民のふりをして逃げ続けていた私の死に場所です。……それでは、さようなら!」
マイクは雄叫びをあげ、元きた道を馬とともに去っていった。
「いや、いや…………!!!」
「キサラ様、逃げましょう。彼の思いを無駄にしないためにも……!」
私はそのまま、『同胞』の人々に強引に商船の一室に押し込まれた。
すでに中にいたアッシュが、私を見るなり駆け寄り、強く抱きしめる。
私はアッシュの腕の中で慟哭した。
私の中で何かが、ぽきりと折れてしまった。
「……私を……私なんかのために……死ぬなんてないわ……死なせてよ……」
「きっと貴族として……最後は何かを守って、高潔に生きたかったんだ、彼は。最後だけでも……」
「そんなのあいつのエゴだわ。私を生かすなんて……最低」
私はめちゃくちゃにした罪を背負い、そのまま死にたかった。
「まだ当分、死なないでくれよ。あんたがめちゃくちゃにしちまった、俺の心はあんたなしじゃ耐えられねえ」
水底に飛び込もうともがいても、アッシュは離してくれなかった。
船はどんどん、国から離れていく。
私がめちゃくちゃにした、復讐をし尽くした国から。
◇◇◇
商船は汽笛を鳴らして港を発つ。
ゆらゆらと大きく揺れる狭い部屋は荷物置き場らしく、木箱が軋む隙間に私たちは身を寄せ合って座っていた。
窓の外からの光が揺れるのだけが、夢みたいに綺麗だ。
「なあキサラ」
暴れ疲れ、泣き疲れた私を腕に抱き、アッシュは頭を撫でて言う。
「終わりでいいだろ。これからは……新しい人生を生きろよ」
「いやよ……私が生きているかぎり、殺されるまで、復讐は続くわ」
「復讐にけりをつけて、幸せになるってのじゃだめなのか?」
「嫌よ」
「強情だな」
「だって、復讐を終えてしまえばあなたは離れてしまう」
「……」
「傍にいて。私が無様に死ぬ今際のきわまで離れないで」
「ばあか。あんたがめちゃくちゃになってどーすんだよ」
声を震わせしがみつく私に、アッシュは呆れたような、甘やかすような優しい声で囁く。
「じゃあ次は、何をめちゃくちゃにしたいんだ? 悪役令嬢さん」
私はアッシュの肩に手を乗せ、触れるだけのキスをした。
「あなたがめちゃくちゃにしたいものを、めちゃくちゃにしてほしいの」
「……了解」
大胆な行為に鼓動を跳ねさせる私の前で、アッシュが久しぶりに暗殺者の目をして唇を舐めた。
そして、あの夜とは別の順序でキサラの体に触れる。
二人分の影が重なる。
めちゃくちゃに崩壊した国の行く末も。逃亡するめちゃくちゃになってしまった暗殺者と悪役令嬢、二人の未来も誰にもわからない。
けれど復讐は続く。
人形だった女と使い捨てだった男が、どこまで世界の意図に反してめちゃくちゃに生きていけるのか。
二人はまず、手短なところから、全てをめちゃくちゃにする計画を実行することにした。
「泣くなよ?」
「泣いてもやめないで」
二人で幸福を感じることも、それは世界への復讐の一つなのだから。
いつか死ぬまで、殺されるまで。
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