落日の謁見:最後の慈悲と狂気の逃走
教皇領、聖都大聖堂の「白の謁見室」。 かつて大陸中の王侯貴族が額を擦り付けたその場所に、たった一人の女性が、足音高く踏み込んでいた。
アルヴァン帝国の特使、シルヴィアである。 彼女は武装していなかった。しかし、その背後に控えるサマーズ衛兵隊の冷徹な殺気と、彼女自身が放つ凛とした威圧感は、居並ぶ枢機卿たちを凍りつかせるに十分だった。
「教皇猊下。単刀直入に申し上げます」
シルヴィアは、玉座に座る教皇を見据え、一通の羊皮紙を突きつけた。
「『無条件降伏』。これを受け入れれば、教皇領の自治権の一部と、聖職者たちの生命は保証します。ただし、スタプア正教会は解体。今後は女神エイルの管理下に入っていただきます」
教皇の顔が、怒りで紫色に変色した。 「無礼な! ここを神の庭と知っての狼藉か! 邪教の魔女が、神の代理人に膝を屈せよと言うのか!」
「神の庭?」 シルヴィアは鼻で笑った。
「外をご覧なさい。貴方がたの神は、飢えた民にパン一つ恵まなかった。アルヴァン陛下とオリビア様は、パンと薬、そして安息を与えた。……どちらが神の御心に適うかは、明白でしょう」
「黙れッ!!」 教皇が杖を床に叩きつける。 「異端者め! 我らには神の加護がある! 『聖戦』の炎がお前たちを焼き尽くすだろう! 交渉は決裂だ! 出て行け!」
シルヴィアは、哀れむような目で教皇を一瞥した。 「……そうですか。残念です。これが、貴方に与えられた『人間としての最後の機会』でしたのに」
彼女は踵を返した。その背中は、「これより先は慈悲などない」という死刑宣告を語っていた。
シルヴィアが去った直後、聖都は轟音に包まれた。 交渉決裂の狼煙と共に、アルヴァン軍の進撃が開始されたのだ。
ズドォォォォン!!
城壁が、長距離魔導砲の精密射撃によって粉砕される。しかし、市街地への被害は皆無だった。 空を覆うのは、航空魔導部隊「漆黒の豹」。彼女たちは爆弾ではなく、スピーカーから声を降り注ぐ。
『聖都の市民に告ぐ! 抵抗せぬ者は保護する! 武器を捨て、広場の配給所へ集まれ! 温かいスープと医療が待っている!』
教皇がバルコニーから見た光景は、悪夢そのものだった。 聖都を守るはずの民兵たちが、次々と槍を捨て、サマーズ軍の手招きに応じて走っていく。
「なぜだ!? なぜ戦わん! 異教徒だぞ!」
教皇の悲鳴は届かない。 民衆にとって、長年搾取し続けてきた教会よりも、今日の飢えを満たしてくれた「侵略者」の方が、遥かに慈悲深かったのだ。
「スタプア様は俺たちを救わなかった……」 「女神エイル様万歳! アルヴァン陛下万歳!」
街の至る所で、スタプアの旗が降ろされ、女神エイルの紋章旗が掲げられていく。 物理的な防壁だけでなく、「信仰の防壁」までもが、パンと医療という現実的な光によって瓦解した瞬間だった。
「猊下! もはや防げません! 正門が突破されました!」 「近衛兵も投降し始めています!」
枢機卿たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。 教皇は、がらんどうになった玉座の間で、一人震えていた。
「馬鹿な……。私は神の代理人だぞ……。こんなことが、許されてたまるか……!」
ドォン! ドォン! 玉座の間の扉が、破城槌で叩かれている。アルヴァン軍の足音は、すぐそこまで迫っていた。
「おのれ……おのれェェェッ!!」
教皇は玉座の後ろにある隠し扉を開けた。そこは、歴代の教皇のみが知る、地下聖堂への入り口。 薄暗い螺旋階段を転げ落ちるように駆け下りる。
「アルヴァン……! オリビア……! 私をここまで追い詰めたことを後悔させてやる!」
彼の目から理性の光は消え失せ、どす黒い狂気だけが宿っていた。 もはや、民を守る気も、国を守る気もない。あるのは、自分を否定した世界への復讐心のみ。
「地上をくれてやる! だが、その代償は高くつくぞ……!」
地下の最深部。禁忌の封印が施された「開かずの間」の前で、教皇は立ち止まった。 重厚な扉の向こうから、何かが這い回るような、湿った音が聞こえる。
「神罰だ……。これこそが神罰だ……!」
彼は震える手で、封印を解く鍵を取り出した。 追い詰められた鼠は、猫を噛むのではない。世界そのものを道連れにする「悪魔の箱」を開けるのだ。
地上では勝利の歓声が上がっていたが、地下深くでは、世界を終わらせかねない「百手巨人」の産声が、今まさに上がろうとしていた。




