パンと聖典:下級神官が見た「本物の奇跡」
グレートバレン聖国の冬は、骨まで凍てつく。 敗戦から三日目。王都の貧民街には、敗北の衝撃よりも深刻な、死の静寂が漂っていた。
下級神官エリオは、泥にまみれたスタプア教の法衣を引きずりながら、路地を歩いていた。彼の手にあるのは、擦り切れた聖典が一冊。だが、彼の腹は三日前から空っぽで、彼が救うべき民衆の腹は、もっと前から空っぽだった。
「神官様……ひもじい……」
瓦礫の陰から、痩せ細った子供の手が伸びる。
エリオは立ち止まり、聖典を開いた。彼にできるのは、これだけだったからだ。
「祈りましょう。スタプアの神は、耐え忍ぶ者に天の門を開かれます……」
「違う!!」
子供の母親が、血走った目でエリオの手を払いのけた。聖典が泥水に落ちる。
「説教なんかで腹が膨れるか! 天国なんてどうでもいい! 今、この子にパンをくれよ!!」
母親の悲痛な叫びが、エリオの胸を鋭利な刃物のように抉った。 反論できなかった。教会の倉庫には、まだ備蓄があったはずだ。だが、高位の枢機卿たちは、サマーズ軍の接近を知るや否や、食料と寄付金を持ち逃げして姿を消した。残されたのは、エリオのような、何も持たざる末端の信徒だけ。
(神よ……。あなたの御言葉は、この親子の飢えの前では、ただの雑音に過ぎないのですか?)
エリオが絶望の深淵に膝を屈しようとした、その時だった。
ゴゴゴゴゴ……
地響きと共に、大通りの向こうから「それ」はやって来た。 サマーズの紋章を掲げた、黒鉄の車列。『陸戦型モクバ』が牽引する、巨大なフロートキャリアの群れだ。
「ひぃっ! 敵軍だ! 殺される!」
母親が子供を抱きしめて震える。エリオもまた、死を覚悟して身構えた。
だが、車列から降りてきた黒い軍服の兵士たちが手にしていたのは、剣でも銃でもなかった。
「並べ! 子供と病人が優先だ! サマーズの『オーク肉』と焼きたての『白パン』だぞ!」
漂ってきたのは、硝煙の臭いではない。焼けた肉の脂と、小麦の甘く香ばしい香り。 それは、エリオが人生で嗅いだどんな香油よりも、神々しい匂いだった。
広場は、瞬く間に野外食堂と化した。 エリオは呆然と立ち尽くしていた。敵であるはずのサマーズ軍が、巨大な寸胴鍋でスープを煮炊きし、山のようなパンを配っている。
「ほら、兄ちゃんも食えよ。腹が減ってちゃ、祈りもできねえだろ?」
無精髭を生やしたサマーズの兵士が、エリオに熱いスープと肉の塊を押し付けた。
「な、なぜ……我々は敵国なのに……」
「覇王アルヴァン様のご命令だ。『民に罪はない。飢えさせるな』とな」
兵士はそう言って笑うと、母親の手のひらに、数枚の硬貨を握らせた。 それは見たこともない、白金と黄金の合金で作られた美しい硬貨だった。
「これは……?」
「『エイル硬貨』だ。これがありゃ、サマーズの物資は何でも買える。あんたたちが持ってるスタプアの免罪符なんかより、よっぽど信用できる代物さ」
母親は硬貨を握りしめ、ボロボロ泣きながら兵士に頭を下げた。
「ありがとうございます……! ああ、神様……!」
彼女が感謝したのは、スタプアの神ではない。目の前の兵士と、硬貨に刻まれたアルヴァン王子の横顔に対してだった。
エリオは震える手で、自分の泥だらけの聖典を拾い上げた。 紙切れの教義。重みのある硬貨。 民を救ったのは、どちらだ? 明白だった。 スタプアの教えは、このスープ一杯の温かさにすら勝てなかったのだ。
食事の配給の横では、簡易テントが設営され、負傷者や病人の治療が行われていた。 そこには、あの噂の「セブンシスターズ」の姿があった。前髪に金色の光を宿した彼女たちが手をかざすと、不治と思われた病が癒えていく。
「魔法だ……。あれこそが、本物の奇跡……」
エリオは、魔法を使えない自分との埋めがたい差に打ちのめされた。
だが、彼が本当に衝撃を受けたのは、魔法そのものではなかった。 テントの裏手で、一人の女性が、現地のボランティアたちに指示を出していた。彼女は魔法使いのローブではなく、奇妙な「白衣」を着ていた。その手には、分厚い冊子が握られている。
「いいですか。魔法で治しても、環境が不潔なら病はぶり返します。煮沸消毒、手洗い、汚物の隔離。これを徹底しなさい」
彼女の指示は、エリオが学んできた「悪魔祓い」や「祈祷」とは全く異なる、冷徹なまでの「理屈」だった。
エリオはおずおずと近づき、彼女の手にある冊子を見た。 表紙にはこう書かれていた。 『公衆衛生・基礎医療マニュアル —— 著:オリビア』
「それは……聖典ですか?」
エリオが問うと、白衣の女性――サマーズから派遣された衛生士官――は、鼻で笑った。
「聖典? いいえ。これは『戦うための武器』よ。病原菌という、目に見えない悪魔と戦うためのね」
彼女はエリオに冊子を放ってよこした。 ページをめくる。そこには、神話も奇跡も書かれていなかった。書かれていたのは、病気の原因、感染経路、栄養学、そして衛生管理の手法。 エリオの目から鱗が落ちた。
「神の怒りだと思っていた疫病は……防げるものだったのか……?」
「そうよ。女神エイル様は、ただ祈ることを求めない。『知ること』と『行動すること』を求めるの」
エリオの脳裏に、熱病で死んでいった子供たちの顔が浮かんだ。彼が必死に祈祷し、聖水を振りかけても、救えなかった命。 もし、この知識があれば。もし、ただ祈るのではなく、水を煮沸していれば。彼らは生きていたかもしれない。
(僕がやっていたことは、信仰ではない。無知という名の怠慢だったんだ!)
夕暮れ時。配給の列が途切れることはない。 エリオは、路地裏のゴミ捨て場の前に立っていた。
彼の手には、泥にまみれたスタプアの法衣と、聖典がある。 彼は迷わなかった。それらをゴミ山へと放り投げた。
「さようなら、無力な神よ。僕はもう、空腹の民に空虚な言葉を食べさせるのは御免だ」
彼は、配給所の裏手にある「衛生兵募集」のテントへと歩き出した。 受付の兵士が、泥だらけのエリオを見て眉をひそめる。
「なんだ、あんた。飯ならあっちだぞ」
「いいえ。飯をもらいに来たのではありません」
エリオは背筋を伸ばし、先ほどもらったばかりの『衛生マニュアル』を胸に抱きしめた。彼の瞳には、かつての虚ろな諦めではなく、燃えるような決意の光が宿っていた。
「僕は、文字が読めます。怪我人の世話も慣れています。どうか……その『白衣』を、僕に着させてください」
兵士はエリオの目を見て、ニヤリと笑った。
「神官崩れか。だが、うちは人手不足だ。女神エイル様は、働く者なら誰でも歓迎するぜ」
渡された真新しい白衣。袖を通すと、それは法衣よりもずっと軽く、動きやすかった。 袖口についた、小さな女神エイルの刺繍。
エリオは、スープの湯気が立ち上る広場を見渡した。そこには、笑顔でパンを頬張る親子の姿があった。
(神の奇跡とは、空から雷を落とすことではない。飢えた子にパンを与え、熱病の子の熱を下げることだ)
彼は、マニュアルを開き、衛生兵としての第一歩を踏み出した。 口先だけの祈りはもういらない。彼の手は今、「本物の奇跡」を行うためにあるのだから。




