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死にかけの第一王子を拾いました 生ず殺さず領土開拓  作者: トール
四章 覇王の胎動 第三節 グレートバレン聖国 A級:情報と外交の壁

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パンと聖典:下級神官が見た「本物の奇跡」

 グレートバレン聖国の冬は、骨まで凍てつく。  敗戦から三日目。王都の貧民街には、敗北の衝撃よりも深刻な、死の静寂が漂っていた。


 下級神官エリオは、泥にまみれたスタプア教の法衣を引きずりながら、路地を歩いていた。彼の手にあるのは、擦り切れた聖典が一冊。だが、彼の腹は三日前から空っぽで、彼が救うべき民衆の腹は、もっと前から空っぽだった。


「神官様……ひもじい……」


 瓦礫の陰から、痩せ細った子供の手が伸びる。


 エリオは立ち止まり、聖典を開いた。彼にできるのは、これだけだったからだ。


  「祈りましょう。スタプアの神は、耐え忍ぶ者に天の門を開かれます……」


「違う!!」


 子供の母親が、血走った目でエリオの手を払いのけた。聖典が泥水に落ちる。


「説教なんかで腹が膨れるか! 天国なんてどうでもいい! 今、この子にパンをくれよ!!」


 母親の悲痛な叫びが、エリオの胸を鋭利な刃物のように抉った。  反論できなかった。教会の倉庫には、まだ備蓄があったはずだ。だが、高位の枢機卿たちは、サマーズ軍の接近を知るや否や、食料と寄付金を持ち逃げして姿を消した。残されたのは、エリオのような、何も持たざる末端の信徒だけ。


(神よ……。あなたの御言葉は、この親子の飢えの前では、ただの雑音に過ぎないのですか?)


 エリオが絶望の深淵に膝を屈しようとした、その時だった。


 ゴゴゴゴゴ……


 地響きと共に、大通りの向こうから「それ」はやって来た。  サマーズの紋章を掲げた、黒鉄の車列。『陸戦型モクバ』が牽引する、巨大なフロートキャリアの群れだ。


「ひぃっ! 敵軍だ! 殺される!」


 母親が子供を抱きしめて震える。エリオもまた、死を覚悟して身構えた。


 だが、車列から降りてきた黒い軍服の兵士たちが手にしていたのは、剣でも銃でもなかった。


「並べ! 子供と病人が優先だ! サマーズの『オーク肉』と焼きたての『白パン』だぞ!」


 漂ってきたのは、硝煙の臭いではない。焼けた肉の脂と、小麦の甘く香ばしい香り。  それは、エリオが人生で嗅いだどんな香油よりも、神々しい匂いだった。


 広場は、瞬く間に野外食堂と化した。  エリオは呆然と立ち尽くしていた。敵であるはずのサマーズ軍が、巨大な寸胴鍋でスープを煮炊きし、山のようなパンを配っている。


「ほら、兄ちゃんも食えよ。腹が減ってちゃ、祈りもできねえだろ?」


 無精髭を生やしたサマーズの兵士が、エリオに熱いスープと肉の塊を押し付けた。


「な、なぜ……我々は敵国なのに……」


「覇王アルヴァン様のご命令だ。『民に罪はない。飢えさせるな』とな」


 兵士はそう言って笑うと、母親の手のひらに、数枚の硬貨を握らせた。  それは見たこともない、白金と黄金の合金で作られた美しい硬貨だった。


「これは……?」


「『エイル硬貨』だ。これがありゃ、サマーズの物資は何でも買える。あんたたちが持ってるスタプアの免罪符なんかより、よっぽど信用できる代物さ」


 母親は硬貨を握りしめ、ボロボロ泣きながら兵士に頭を下げた。


「ありがとうございます……! ああ、神様……!」


 彼女が感謝したのは、スタプアの神ではない。目の前の兵士と、硬貨に刻まれたアルヴァン王子の横顔に対してだった。


 エリオは震える手で、自分の泥だらけの聖典を拾い上げた。  紙切れの教義。重みのある硬貨。  民を救ったのは、どちらだ? 明白だった。  スタプアの教えは、このスープ一杯の温かさにすら勝てなかったのだ。


 食事の配給の横では、簡易テントが設営され、負傷者や病人の治療が行われていた。  そこには、あの噂の「セブンシスターズ」の姿があった。前髪に金色の光を宿した彼女たちが手をかざすと、不治と思われた病が癒えていく。


「魔法だ……。あれこそが、本物の奇跡……」


   エリオは、魔法を使えない自分との埋めがたい差に打ちのめされた。


 だが、彼が本当に衝撃を受けたのは、魔法そのものではなかった。  テントの裏手で、一人の女性が、現地のボランティアたちに指示を出していた。彼女は魔法使いのローブではなく、奇妙な「白衣」を着ていた。その手には、分厚い冊子が握られている。


「いいですか。魔法で治しても、環境が不潔なら病はぶり返します。煮沸消毒、手洗い、汚物の隔離。これを徹底しなさい」


 彼女の指示は、エリオが学んできた「悪魔祓い」や「祈祷」とは全く異なる、冷徹なまでの「理屈」だった。


 エリオはおずおずと近づき、彼女の手にある冊子を見た。  表紙にはこう書かれていた。  『公衆衛生・基礎医療マニュアル —— 著:オリビア』


「それは……聖典ですか?」


   エリオが問うと、白衣の女性――サマーズから派遣された衛生士官――は、鼻で笑った。


「聖典? いいえ。これは『戦うための武器』よ。病原菌という、目に見えない悪魔と戦うためのね」


 彼女はエリオに冊子を放ってよこした。  ページをめくる。そこには、神話も奇跡も書かれていなかった。書かれていたのは、病気の原因、感染経路、栄養学、そして衛生管理の手法。  エリオの目から鱗が落ちた。


「神の怒りだと思っていた疫病は……防げるものだったのか……?」


「そうよ。女神エイル様は、ただ祈ることを求めない。『知ること』と『行動すること』を求めるの」


 エリオの脳裏に、熱病で死んでいった子供たちの顔が浮かんだ。彼が必死に祈祷し、聖水を振りかけても、救えなかった命。  もし、この知識があれば。もし、ただ祈るのではなく、水を煮沸していれば。彼らは生きていたかもしれない。


(僕がやっていたことは、信仰ではない。無知という名の怠慢だったんだ!)


 夕暮れ時。配給の列が途切れることはない。  エリオは、路地裏のゴミ捨て場の前に立っていた。


 彼の手には、泥にまみれたスタプアの法衣と、聖典がある。  彼は迷わなかった。それらをゴミ山へと放り投げた。


「さようなら、無力な神よ。僕はもう、空腹の民に空虚な言葉を食べさせるのは御免だ」


 彼は、配給所の裏手にある「衛生兵募集」のテントへと歩き出した。  受付の兵士が、泥だらけのエリオを見て眉をひそめる。


「なんだ、あんた。飯ならあっちだぞ」


「いいえ。飯をもらいに来たのではありません」


 エリオは背筋を伸ばし、先ほどもらったばかりの『衛生マニュアル』を胸に抱きしめた。彼の瞳には、かつての虚ろな諦めではなく、燃えるような決意の光が宿っていた。


「僕は、文字が読めます。怪我人の世話も慣れています。どうか……その『白衣』を、僕に着させてください」


 兵士はエリオの目を見て、ニヤリと笑った。


  「神官崩れか。だが、うちは人手不足だ。女神エイル様は、働く者なら誰でも歓迎するぜ」


 渡された真新しい白衣。袖を通すと、それは法衣よりもずっと軽く、動きやすかった。  袖口についた、小さな女神エイルの刺繍。


 エリオは、スープの湯気が立ち上る広場を見渡した。そこには、笑顔でパンを頬張る親子の姿があった。


(神の奇跡とは、空から雷を落とすことではない。飢えた子にパンを与え、熱病の子の熱を下げることだ)


 彼は、マニュアルを開き、衛生兵としての第一歩を踏み出した。  口先だけの祈りはもういらない。彼の手は今、「本物の奇跡」を行うためにあるのだから。


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