盤石なアルヴァン帝国支配のための3つの政策
テルマブル併合から一月。キノア王都の経済を司るテスラ侯爵傘下の「黄金の秤」商会は、冷たい深淵に沈んでいた。テルマブル旧領での商取引が、突如として「キノア王国通貨の拒否」という名の鉄槌を食らったからだ。
「バカな! 我々の硬貨が使えないだと!? テルマブルの奴らは一体何を使い始めた!?」 商会の大幹部が、報告書を床に叩きつける。
「テルマブル全土で、『エイル硬貨』が流通しています! 女神エイルの大神殿を担保とし、サマーズ貿易公社がその価値を保証している。オーク肉、ウィスキー、ポーション……全ての独占物資が、その硬貨でのみ取引可能です!」
エイル硬貨――それは、光沢を帯びた白金と黄金の合金。表面には、慈愛に満ちた女神エイルの紋章と、裏面にはアルヴァン第一王子の横顔が刻印されている。この硬貨は、旧体制の通貨が持つ「貴族の利権」という血の匂いを一切持たず、テルマブル市民の心に、「新しい豊かさの証」として瞬く間に浸透した。
「アルヴァンめ……! 我々の築いた『金融の深淵』を、大神殿を担保とした『光の信仰』で打ち消したというのか!」 テスラ侯爵の秘書官は、蒼白な顔で呻いた。エイル硬貨は、キノア王国の通貨システムからテルマブル経済を完全に切り離し、旧体制の貨幣価値を一瞬で紙屑に変えたのだ。
テルマブル首都の大神殿前。市井の民は、エイル硬貨を手に歓喜していた。硬貨の裏に刻まれたアルヴァンの横顔は、彼らの生活向上と直結していた。
「見てくれ! この硬貨があれば、サマーズの美味しいオーク肉が買える! 病気になったら、大神殿で無償で癒やしてもらえる!」
彼らは、日々の糧を得るたびに、手のひらに輝く硬貨と、大神殿の神々しい光を対比させた。硬貨を使うことは、アルヴァン王子の統治を受け入れ、女神エイルの恩寵に感謝する行為そのものとなった。
オリビアは、大神殿の塔の上からその光景を見下ろしていた。 「軍事と経済、そして信仰。貨幣は最も身近な信仰の道具。硬貨を持つ者は、アルヴァン様の光を求める。さあ、このエイル硬貨を、ハディ王国、そしてグレートバレン聖国へと広げろ! 金融支配こそが、真の帝国の礎なり!」
彼女の号令と共に、サマーズ貿易公社の陸戦型モクバ部隊が、エイル硬貨を積んだフロートキャリアを牽引し、テルマブルの国境を越えていく。その硬貨は、やがて隣国の商人たちの手に渡り、アルヴァン帝国の「金融の光」が、グラーブ大陸全土の「経済の深淵」を侵食し始める、静かなる宣戦布告であった。
テルマブル併合後、わずか二月。旧テルマブル王国の軍事拠点跡に、女神エイル士官学校が設立された。オリビアの狙いは、テルマブル出身者を「アルヴァン帝国の光の守護者」として再教育し、支配機構の中核に組み込むこと。
校庭に並ぶのは、テルマブルの旧軍兵士、そして首都のストリートチルドレンから選抜された者たち。彼らの前には、モクバ改、アサルトライフル、結界四式が整然と並べられていた。
「貴様たちは、旧体制の『消耗の深淵』から解放された! 我らが女神エイルは、貴様たちに『光の力』と『帝国の守護者』という新たな使命を与えた!」
教官を務めるのは、「漆黒の豹」の精鋭、フリーダ中隊長。9歳の彼女だが、その眼光は鋼のように鋭い。
「貴様たちの武器は、旧王国の鉄屑ではない。これは、帝国の技術。これをマスターせよ。そして、貴様たちの故郷と、アルヴァン様の光の統治を、血を流すことなく守り抜け!」
旧テルマブル軍出身の元騎士が、その場で膝を突いた。 「我が命、アルヴァン様に捧げます! この鉄の翼で、帝国を守護せん!」
士官学校の訓練は、過酷を極めた。高高度飛行、急降下射撃、そしてサイコミュシステムを利用した「意識の共有」訓練。テルマブルの若者たちは、旧体制では想像もできなかった、空を支配するエリートへと生まれ変わっていった。
数週間後、士官学校を卒業したテルマブル出身の精鋭たちを核とした新たな航空魔導部隊が編成された。彼らの機体には、女神エイルの紋章と、アルヴァン帝国の旗が誇らしげに描かれている。
オリビアは、彼らの門出をヴェルリーナ要塞の指令室から見送った。 「テルマブルの人的資源は、帝国の軍事チートを複製・増強する。これで、ハディ王国への侵攻は盤石となる。彼らの忠誠心は、故郷の解放者であるアルヴァン様と、彼らの生活を保証する大神殿の光に結びついている」
「士官学校の設立は、『支配の永続化』を意味します。彼らは故郷の英雄となり、テルマブル国民の模範となる」 ハリー家令が、その軍事的な合理性に感嘆する。
テルマブルの空を、多国籍化した「漆黒の豹」の鉄の翼が覆い尽くす。それは、アルヴァン帝国の「軍事の光」が、次の標的へと向けられた、静かなる咆哮であった。
テルマブルの学校。市民は、旧体制の貴族や王族が長年にわたり築いてきた「深淵」の真実を、新しい教科書によって初めて知ることになった。
「見よ! これが旧テルマブル王族と貴族が、国境紛争を利用して私腹を肥やし、国民を『消耗の深淵』に追い込んだ真実だ!」
新しい教師が、分厚い『アルヴァン統一国家史』という名の教科書を教壇に掲げる。表紙には、女神エイルの光に包まれたアルヴァン王子の肖像が描かれている。
教科書には、旧王族が魔石資源を独占し、兵士の補給を断ち切った史実、スタプア正教会の神官が高額な治療費を要求した暴挙が、生々しい挿絵と共に描かれていた。
「旧体制は、国民の苦難を顧みず、自らの利権に執着した。アルヴァン陛下は、その『深淵』から我々を救い出し、女神エイルの導きによって、この『光の時代』をもたらしたのだ!」
市民の瞳には、旧体制への憤怒と不信が燃え上がった。彼らが教え込まれるのは、テルマブルの歴史は「深淵」であり、アルヴァンによる併合こそが「解放と光の実現」であるという、新たな『統一国家史観』であった。
大神殿に隣接する教育機関の建設現場。オリビアは、設計図を手に、ハリー家令に指示を出していた。
「教育こそが、支配の永続化の鍵を握る。テルマブルの子供たちの精神に、旧体制への回帰の芽を一切残してはならない」
「御意。教育を受けた子供たちが成人する頃には、彼らにとって、テルマブル王国の存在は、遠い『闇の伝説』となるでしょう」
テルマブルの併合は、軍事的な勝利に留まらず、文化と精神の領域にまで及んでいた。旧貴族の紋章は撤去され、アルヴァン帝国の紋章と、女神エイルのシンボルに置き換えられた。祝祭日は、旧王族の記念日から、「アルヴァン陛下の即位記念日」「女神エイルの恩寵の日」へと完全に書き換えられた。
オリビアは、テルマブルの首都全域に張り巡らされた広報ポスターを見つめた。ポスターには、病に倒れる旧王族の絵の上に、大神殿の光を背負ったアルヴァンが立つ姿が描かれている。
「『深淵』を清算し、『光』を定着させる。イデオロギーの統一こそ、帝国の精神構造なり」
テルマブルの地は、もはやキノア王国の辺境ではない。アルヴァンが目指す統一国家の、精神的な最前線となったのだ。




