第八十一話 戦慄する王都の深淵
キノア王都ノルディア。テスラ侯爵家の広間は、王国の経済と軍事の「深淵」を牛耳る中央貴族たちの、重く澱んだ空気で満たされていた。現王妃ドロテーの父であるテスラ侯爵が、眉間に深い皺を刻み、玉座の影で静かに座している。
そこへ、血相を変えた伝令が飛び込んできた。
「報……報告申し上げます! 北西方面より、信じられぬ凶報が!」
テスラ侯爵が、冷たい眼光で伝令を射抜く。
「落ち着け。たかが辺境の諍い。北の犬(グッドスピード辺境伯)が少し有利になった程度であろう」
「いえ、侯爵様! テルマブル王国が……陥落しました!」
広間に、凍てついた静寂が広がる。貴族たちは一瞬、息を止めた。
「陥落だと? グッドスピード辺境伯が勝利したのか!?」
「それが……! 辺境伯軍の本格的な攻勢はなかったと。テルマブル王族は、首都で捕縛されました。制圧したのは、アルヴァン第一王子の私兵……サマーズの航空魔導部隊です!」
「サマーズだと!?」
テスラ侯爵は、その瞬間、座っていた椅子を蹴り倒し、立ち上がった。彼の顔には、怒りではなく、絶対的な恐怖が滲んでいた。
驚愕は、すぐに戦慄へと変わった。次々と入る情報が、彼らの築いた「深淵」を音を立てて崩していく。
テルマブルの陥落は、流血を伴う「征服」ではなかった。航空魔導部隊による『奇襲と制圧』は一瞬で終わり、その後は『光の統治』が始まったのだ。
「テルマブルの全農地に、サマーズの八倍収穫の種籾が配給されていると!」
「首都で無償の医療が始まった! セブンシスターズの巫女たちが、女神エイルの名の下に!」
「テルマブルの国民が、アルヴァン第一王子の旗に歓喜して集っている……! 旧王家を糾弾し、アルヴァンを解放者と呼んでいる!」
貴族たちは、顔を青ざめさせ、互いに目を見交わす。彼らがテルマブル国民の支持という名の『深淵』を軽視していた間に、アルヴァンは、経済的苦痛と慈悲の光という二つの力で、国民の魂を完全に支配していた。
テスラ侯爵は、奥歯を噛みしめる。
「くそっ! 我々が資源の輸出を止め、経済的に苦しめている間に、あの小僧はテルマブル国民の『心』を買っていたというのか!」
そして、決定的な報告が、広間に叩きつけられた。
「グッドスピード辺境伯が、アルヴァン第一王子に対し、恭順の意を示しました! テルマブルの北部領土を割譲され、アルヴァンを『統一国家の礎』として公然と支持すると!」
テスラ侯爵は、その場で崩れ落ちそうになった。グッドスピード辺境伯は、王都の第二王子派閥が頼りとしていた最大武力の一つ。その辺境伯が、テルマブル併合の報酬と引き換えに、アルヴァンの「覇道」を承認したのだ。
「グッドスピードが動いた…… 我々の軍事的な基盤が……!」 「ブッファ王国の後ろ盾に、今やグッドスピード辺境伯の武力までが加わった!」
貴族たちの顔には、もはや焦りではない、絶望的な恐怖が広がっていた。
テスラ侯爵は、血走った眼で広間の虚空を睨みつける。彼の脳裏には、オリビアの冷徹な笑みが浮かんでいた。
「血を流すことなき併合……。国民の支持という名の、最も強固な光の支配……」
彼の口から、蚊の鳴くような、しかし、広間の全員に届く戦慄の声が漏れた。
「アルヴァンは……自分の国を作るつもりか!?」
「東のサルノヴァ辺境伯は、どうなのだ? 我々の側なのだろうな!」
王都ノルディアの深淵に、若き覇王が築き始めた「統一国家」の、巨大な影が、今、不気味に迫りつつあった。




