第七十九話 凍結と融解:経済の深淵に沈むテルマブル
極北の商業都市。テルマブル王国の心臓部であるこの街の市場は、長年の紛争による疲弊と、突如として発生した「魔石ショック」によって、冷え込みと混乱の渦中にあった。
高位魔道具店。店主は、血の気を失った顔で、輸入商人の悲鳴を聞いていた。 「バカな! 高品位魔石の価格が先月の五倍だと!? 冗談ではない、街の給湯器が、工場の魔導炉が止まってしまう!」
「止まっているんです! サマーズ領からの供給が、完全に断たれた! あそこが握る高純度資源と火薬原料は、まるで北の氷壁のように堅く、我々の商会は手も足も出ない!」
テルマブルの経済は、王都の貴族と同じく、資源と流通の深淵に依存していた。そして今、オリビアの「輸出規制」という名の冷たい光が、その深淵を直撃した。
テルマブル軍事工場。砲弾のコアとなる高品位魔石と、無煙火薬の原料(硫黄、硝酸カリウム)が枯渇し、生産ラインは完全に停止していた。
「将軍! アサルトライフル用の弾薬生産が止まりました! これでは、前線の兵士の補給が……!」 製造責任者の叫びが、広大な工場に空しく響く。
「くそっ! サマーズのあの小僧め……! 我々の『戦争の骨格』を、根元から凍らせたのか!」
オリビアの目的は、テルマブル軍を直接叩くことではない。その工業基盤と軍事補給を断ち、現体制の軍事力を内部から無力化すること。テルマブル王国は、魔石価格の高騰と、インフラの維持困難により、国民生活を巻き込んだ経済の深淵に突き落とされた。
テルマブルの市場が凍りつく中、南の国境を越え、高品質で安価な物資が秘密裏に流入し始めた。サマーズ貿易公社の流通配達部隊、ストリートチルドレン出身の精鋭たちが、夜陰に紛れ『陸戦型モクバ』を駆り、物資を運び込む。
テルマブルの貧民街。子供たちは飢え、兵士の家族は夫の無事を案じていた。
「母さん、見て! オーク肉だ! いつもの五分の一の値段で、こんなに上等な肉が買えるなんて!」
市民が広場で、サマーズ産の高品質なオーク肉と、樽詰めのバーボンを受け取って歓喜の声を上げる。
「この酒は、最高だ! こんな上等な品、テルマブル王室でも飲めんぞ!」
兵士の夫を持つ女たちが、「アルヴァン王子の恩恵」を語り合う。
そして、国境付近の最前線。激戦で負傷し、撤退してきたテルマブル兵の目の前に、夜の闇に浮かぶように女神エイルの治療院のテントが現れた。そこには、セブンシスターズの巫女が、穏やかな表情で立っていた。
「さあ、こちらへ。女神エイル様の慈悲の光は、無償です」
「バカな…… 教会の神官は金を取るのに……。なぜ、キノアの王子の領地の者が、我らを癒やすのだ……?」
瀕死の兵士が、無償の回復魔法『ハイキュア』を受け、傷が塞がっていく光景に、涙を流す。
「我らが王は、我らを戦いに駆り立てるのみ。だが、敵国の王子は、我らの傷を癒やし、食料をもたらす」
テルマブル兵たちの心に、現王家への『厭戦の深淵』と、アルヴァンへの『希望の光』が、静かに植え付けられていった。
ヴェルリーナ要塞の指令室。オリビアは、テルマブルの諜報員が報告した国民の動揺を示すデータを見て、静かに頷いた。
「軍事基盤の凍結、そして国民の心への融解……。テルマブルの現王家は、統治の正当性という名の深淵に、自ら落ちていくだろう」
経済的苦痛と、無償の慈悲という二つの力が、テルマブル王国を内部から弱体化させた。国民の意識は、「現王家(貴族)の支配は苦痛だが、アルヴァンの統治は豊かさをもたらす」という、平和的併合(開城)の土壌へと変わりつつあった。
「あとは、『最後の仕上げ』のみ。アルヴァン様、テルマブル王国の心は、すでに光の統治を求めています」
オリビアの瞳の奥で、次の軍事作戦の青写真が、冷たい光を放っていた。




