萌芽
凪いだ海に雲一つない晴天。単なる帆船であれば立ち往生するしかないような状況であっても、冒険者の乗り込んだ〈シルフィード〉にとってはなんの障害でもない。無風の海原でただ一隻、帆布を大きくはためかせて押し進む〈シルフィード〉は、風の召喚獣の力を存分に浴びつつトクシマを目指していた。
「はぁ……」
舷側に両腕をついてもたれかかり、手に額を押し付けて大きな溜息を吐く。フォーランドでの新たな戦いに備えて集められた二つの分隊の片方、第七分隊の長であるテオドールは、他のパーティメンバーと別れて一人外の空気に当たっていた。
マストの頂上付近から送られる風の余波でテオドールのくすみのある金髪がたなびき、腰に差している鞘に収まったサーベルが揺れる。テオドールは顔を腕に伏せたままの姿勢でそれを見やった。
細く長いその鞘の中では、テオドールの足先にまですらりと伸びた優美な刀身が戦いの疲れを癒している。身に纏うのは〈盗剣士〉らしい軽装の防具だ。それらにもわずかなほつれや傷がついている。
〈シルフィード〉の舷側からようやくのことで顔を上げたテオドールは、目の前の海を見やった。そこには少し前に倒した海竜種や魚竜種といった強力なパーティランク・モンスターの残骸が無様に海面を漂っていた。
クレメンテからエンカウント率の低い沿岸近くの海を進む、と聞かされていたが、それはモンスターと鉢合わせないことを保証するものではなかった。船体そのものに攻撃を仕掛けてくるようなモンスターには遭遇していないが、慣れない船上戦闘には流石の冒険者とはいえ疲れないわけにはいかなかった。
(それに昨日まではフィールドで実地のレイド訓練……あの半野宿みたいな強化合宿から抜け出せたのは悪くないけれど)
もう一度口から溜息を吐くと、頭を艦尾の方へと向けた。大地人の船員たちが恐々とした風で傷ついた甲板を修復している中、冒険者の一隊があたりの海を警戒している。その中で一人悠然と佇んでいる神祇官の女性冒険者を憂鬱な面持ちで見つめた。緊張のためか胃のあたりで重い異物感を覚える。憂鬱の原因は分かり切っていた。
(ユズリハたちを出し抜きながら、救出計画の準備をしなきゃいけないのか……)
そんな使命感が、身内と争わなければいけない憂鬱がテオドールの悩みの種だった。テオドールは、リナリアたちがレイド攻略を進める間、法義族たちと接触し"決行"に備えることになっていた。その目的のために、テオの分隊は全員が救出計画に参加しているメンバーで固められている。
はあ、とまたテオドールが溜息を吐く。ユズリハの第六分隊は、テオのそれとは正反対だ。彼女たちは、全員がギルド派。現実帰還のために犠牲やむなしと割り切った、仕事人たちの集まり。最初はオスカーが自分の分隊を伴って行っていたルナティックの"仕事"も、最近はほとんどユズリハたちが受け持っていたほどだ。
(僕は、そこまで割り切れない……)
単にユズリハのように犠牲を受け入れる、というだけではない。リナリアのように、法儀族を連れてミナミから――ルナティックから抜けるという極まった選択ができるほど、テオドールの決意は固まっていない。
ルナティックには愛着がある。安定を得られたのはミナミに加わったからだ。だが人体実験など、到底許せることではない――だが法儀族のために他のことを捨てられるのか?
そこまで行くといつも先が思い浮かばなくなる。いや。本当は違う。頭の中に続きはあるのだが、それが明確になるのを拒否している。
思考から逃げるように、舷側に肘をついた状態で身をよじった。すると突然、右膝のあたりを鈍い衝撃が走った。はっとなって顔を見上げると、傍らにはいつの間にか船首甲板にいたユズリハが怪訝な顔をして立っていた。
「ユズリハ……」
「なにやってんの、テオドール? 船酔い?」
そういうとユズリハは舷側に背中を預け、ふうっと息をついた。テオドールはユズリハの肩越しに船首の方を見て言った。
「ユズリハ……君の分隊はいいのかい?」
「ん? はっ……柵に肘ついてうなだれてるアンタを放っておくよりかは、ねぇ?」
ユズリハは鼻で笑って背中を伸ばすようにきつく反らした。暗いトーンの赤でグラデーションのかかった黒髪の毛先が舷側にかかり、和風の軽鎧と細身の刀がかち合って音を立てる。そうして肘をついたテオドールに高さを合わせると、顔だけをテオドールに向けてこう言った。
「ねぇ、ホントはフォーランドに行くの、結構イヤだったりするの?」
その質問にテオドールは顔を上げてユズリハを見た。そんなテオドールの様子をどう受け取ったか、ユズリハがつらつらと話し始める。
「まぁ、なまじ外で動けるメンバーがいないからね。アタシたちの他ってなると、人手がないし。テオドールみたいに、誰かに頼りきりになるのは仕方ないと思うよ」
「いや……そうじゃないよ」
「本当に? ずいぶん憂鬱そうにしてるけどね」
「僕は……フォーランドに行くのも、戦うのも嫌じゃない。ただ、心配なんだ。このままミナミの言うがままになるのが」
「……あぁ」
ユズリハは少し冷めたような相槌を返した。そのままテオドールから視線を外して、考えるようにぼんやりと虚空を眺めていた。やがて、気を取り直したユズリハが口を開き始めた。
「まあ確かに? 〈Plant Hwyaden〉は善行ばっかりじゃないし、中枢を牛耳ってる奴等はまともな連中じゃないけど」
「……」
「ただ、無いよりはマシ。そうじゃない? 帰還の手段を見つける、それが私たちの至上命題なんだから」
ユズリハが言った。テオドールが納得していない表情のまま、ユズリハの言葉に耳を傾けていた。その様子を見てユズリハは思わず口角が持ち上がりかけたが、完全に表へでる前に押し留めた。
「でも……テオドール」
「なんだい?」
ユズリハは返事をする前に勢いをつけて舷側から離れる。そのままテオドールと向き合うように振り返る。怪訝な様子で動きを見守っていたテオドールは、体勢はそのままにユズリハへ顔を向けた。ユズリハはテオドールと視線を合わせると、口を開いた。
「私は誰かに説得されたから、あんなことをしてるんじゃないよ。これは、〈ルナティック〉の皆のためだよ」
テオドールは口をあけてユズリハを見ていた。ユズリハはテオドールに向き直って言葉を重ねてくる。
「テオドールはどうしてフォーランドへ来る気になったの?」
ユズリハが一歩近づいた。
「オスカーが言ったから? クレメンテかゴドフリーに説得された? それとも、リナリア?」
「僕は……」
ユズリハが目の前で立ち止まった。テオドールは、伏せていた顔を上げ、上体を起こしてユズリハへ向き直った。
「僕がフォーランドへ行くのは、皆のためだよ。〈ルナティック〉の、皆のためだ」
嘘じゃない。それは偽りない本心だと、テオドールは心の中で言った。ユズリハはそう、と短くつぶやくと、テオドールの肩を叩いて離れた。そのまま船室へと続く扉へ歩みを進める途中で、肩越しに振り返った。
「そうだ、後で船室に来てって、いうの忘れてたよ。クレメンテから招集。上陸前に、ブリーフィングをしておきたいんだって」
そう言い終わると、ユズリハはさっさと扉の奥へと歩み去っていった。いつの間にか息を止めていたようで、テオドールは大きく息を吐いた。再び船縁へひじをついて、海面へと視線を投げた。
みんな、悪い人じゃない。あれだけ冷酷に法義族を連行しているユズリハだって、良いギルドメンバーだと知っている。楽しい思い出だっていくつもある。
そうだ。僕は戦いが嫌なんじゃない。人より仕事を任せられるのも、嫌だとは思っていない。嫌なことは、ミナミの連中――奴らの思惑で仲間が汚れ仕事を請け負わされていることだ。リナリアと違って僕は……正直言って、法義族のためにとはいかないけれど。
(仲間が汚れ仕事に手を染めているのを、そのままにはできない)
陽射しを受けた海面がまぶしく照り返している。反射光が眼に飛び込んできて、テオドールは思わず身を伏せて舷側の陰に隠れた。これは、皆のためだ。そのためだったら、僕はなんでもできる……はずだ。
テオドールは船端へ後ろ手をつくと、そのまま大きく体を伸ばした。しばらく体を丸めていたせいで背中で骨が鳴る音がいくつもする。テオドールは気を切り替えるように勢い良く立ち上がると、船室へと続く扉へと足を進めていった。
広い会議室を思わせるその船室の中には、揺れに備えて床や壁に固定された家具やテーブルで満たされていた。もちろん、観葉植物や絵画の類は一切ない。照明は魔力的なランプが壁に取り付けられ、白色の柔らかい光が室内を照らしていた。そのせいで室内の味気無さが照らし出されることになったが、この部屋を用いる者たちがそんなことに目くじらを立てるはずはなかった。
ようやくのことでたどり着いたテオドールも、自分以外のメンバーがすでに勢揃いしていると分かって内装どころではなかった。
「来たわね、テオドール」
「遅ぇぞテオ、船酔いか?」
テオドールは奥の席で疲れたように大きく座る人影に驚きの視線を向けた。
「リナリア!? フォーランドに居るんじゃなかったんですか!?」
「呼び出されたんだ、信じられねぇ! おかげで大海原で迷子になっちまったぜ……」
「迷子は自己責任でしょ」
「なにぃ!?」
そっぽを向いて紅茶をすすりだしたユズリハに噛みつこうとしたリナリアを、テオドールが両手でなだめた。リナリアがドカッと力尽きるように椅子へ座り込むと、テオドールもすぐそばの椅子へ静かに着いた。向かいでは相変わらずどこ吹く風といった様子のユズリハがカップに口をつけたままにしている。
その隣の席にいるオスカーはテオドールが座るのを見ると、申し訳無さそうに口を開いた。
「悪いね、テオ。そんな船酔いとは……一応軽食を頼めるけれど、どうする? 食べれるか?」
突然の謝罪にテオドールは固まってオスカーを見返した。想定外の反応だったからか、オスカーが思わずえっ、と声を漏らした。
「ちなみに、誰から聞いたんですか、オスカー?」
「……ユズリハ」
オスカーがユズリハへ顔を向けた。ユズリハは眼が合う前にさっと反対側へ顔を向けた。しばらくジトッとした視線を注いでいたが、やがてわざとらしく溜め息を吐くと、じゃあ大丈夫なんだね?とテオドールへたずねた。そして手元のベルを鳴らして配膳の大地人を呼ぶと、すまなそうにもう一人前を頼んだ。
「しかしお前、船酔いじゃねぇなら上で何してたんだ?」
「えっ!? ああ、そうですね……」
食事が出揃うまでの間に退屈してきたリナリアがそうたずねてきた。どう言うべきかしばらく悩んだ後で、テオドールは言った。
「緊張していました。次は、フォーランドではなにが起こるんだろう、と」
風に当たっていたらもう落ち着きましたけど、とテオドールは軽く笑った。だがリナリアたちは顔に申し訳無さそうな色を浮かべ、重苦しい笑みを作っていた。よく考えれば、ミナミが方針を決めているとはいえ、実際の指示や計画は彼らが出している。責任を感じないはずがなかったと、テオドールは悔やんだ。
「すいません、そんなつもりでは……」
「いいのよ、テオ。なら尚更、フォーランドでの目的を伝えなきゃね」
クレメンテがそう言うと昼食会の雰囲気は消え、どこか重い空気の漂う会議の場へと姿を変えた。オスカーもユズリハも、もはや冷たい目でクレメンテの言葉を待っている。
「まず初めに。フォーランドでの目的はレイドダンジョンの攻略……これまでの準備は、すべてそのためのもの」
クレメンテはオスカーの方を見やり、言葉を続けた。
「オスカーは主にレイド用の戦闘資材を調達してきたーー今は船腹にあるストレージコンテナに格納されてるわ。これは後で、全員に分配します。それから」
クレメンテは次にリナリアの方へ視線を向ける。
「リナリアはレイドダンジョンの捜索を頼んでいたわ。一応ざっとは聞いてるけれど……話してくれる、リナリア?」
「ああ」
リナリアはそういうと集まった全員の顔を見渡してから口を開いた。
「だけど、俺が調べられたもんはそう多くねぇ。ダンジョン自体はフォーランド中央の山脈地帯にあったのは確認した――噴煙なんかが出てるから、行けばすぐにわかる。んで、ちょっとばかし乗り込んでやろうと思ったんだが」
そういうとリナリアはぎぃっと大きく椅子を軋ませながら背もたれに身を預けた。そして頭の後ろで手を組むと、落胆したように言った。
「入り口をふさいでる奴が居やがった。まずはそいつをレイドでぶっ倒して、話はそれからだ」
「どんな奴が相手なんだ?」
オスカーが尋ねた。リナリアが思い出すように視線を虚空へ向けながら答える。
「あいつはパッと見た感じ完全な防御偏重型のレイドボスだ。でっけえ火山を背負った亀みたいな恐竜で、ちょっとやそっとじゃ削れねぇ。雑魚も湧いてくるし、人数制限もある。かったりいな」
「ふーん、オルニソと同じか。入り口にそんな奴がいるなら、ダンジョンは複雑じゃないと期待したいけど」
「知らねぇよ。まっ、リスポーン地点になるゾーンは見つけておいたから、リテイクだけは心配ないな」
クレメンテはテオドールとユズリハを見据えて言った。
「それから私。私は攻略の間、代わりに街の面倒を任せるメンバーを探したーーつまりテオとユズリハね」
そう言うとクレメンテは視線を二人から壁掛けにしてある地図に移した。ミナミやシクシエーレ、トクシマが収まるよう拡大された地図だ。
「二人の分隊にはレイド攻略に向かう本隊に代わってトクシマに駐留してもらいたいの。外地の巡回や砦のサポートをしてもらうけど……本命はコレ」
そう言うとクレメンテは鞄から二枚の紙を取り出して、ユズリハとテオドールに渡した。そこには十数人分の名前やステータスが書かれている。しかしーーやけに平均レベルが低い。それにステータスも、このレベル帯にしては成長してなさすぎないか?
「クレメンテ……これはどういう」
「オスカー?」
テオドールがクレメンテに質問のために口を開きかけたとき、ユズリハが困惑した声を上げた。そちらに目をやると、立ち上がったオスカーがいつの間にかテーブルを回り込み、二人のすぐそばで立っていた。
オスカーは答えずに指を振ってウィンドウを操作すると、マジックバッグからアイテムを実体化させた。
ガシャンと大きなガラス音を二度響かせて、飲料ケースに納められた大量の瓶が現れた。ざっと眺めただけでも数ダース分はありそうだ。ユズリハは唖然と目を丸くしてケースを見つめている。説明を求めるように、テオドールはオスカーの顔を見上げた。
「これはミナミから引っ張ってきたEXPポッドだよ。模造品らしいが……いちおう効果はあるらしい」
オスカーが言った。確かに記憶にあるものとは容器が違う気がするが……。
「これを……どうしろって言うの、オスカー?」
「あら、もちろん決まってるわ、ユズリハ」
動揺するユズリハへ、クレメンテが答える。テオドールにも想像がついてきた。
「いま渡したメモは、ガーランド将軍と選んだ新しいトクシマ武士団のリストよ。二人は彼らを戦力になるよう鍛える。これは嘘ではないけれど、忘れないでほしいの」
クレメンテはどこか圧を感じさせる厳しげな雰囲気で言った。
「私達が本気で育成するのは法儀族だけで良い。ポッドも、投与していいのは法儀族だけよ。私達がレイド攻略に臨む間、可能な限り高レベルを目指して」
テオドールは体が凍り付いたような気分になった。向かいでユズリハが諦観したように言った。
「そういうことなんだ……もう決まってるんだね?」
「ええ、将軍とも話は付けてある。私達はトクシマを救う対価に、法儀族を貰うのよ」
〈シルフィード〉に備え付けられた汽笛が鳴り響いた音で、ようやくテオドールはハッと我に返った。気付けば魔法鞄のストレージには幾つものEXPポッドが入っている。テオドールはその事に複雑な思いを隠しきれないが、無理にでも気を逸らそうと顔を上げた。
船は陸地にほど近い沖に碇を降ろし、腰を落ち着けていた。遠くの方にトクシマの街が見える。そこから編隊を組むようにして、飛竜がこちらへ飛んできていた。
船尾の甲板へ目を移せば、既にやってきたレイド分隊の面々がストレージコンテナを囲んでアイテムの受取をしている。船縁や帆を畳んだマストには彼らが騎乗してきた飛竜たちが海鳥のように並んで休んでいた。
「しょげてんな、テオ?」
「リナリア……」
後ろからつかつかとやってきて声をかけてきたリナリアに、テオドールは振り返った。そして短く溜め息を吐くと、顔を正面へーー船尾の方へと戻した。
「そりゃあ、気も落ち込みますよ。ああもハッキリと言われるとは思ってもみませんでしたから」
「ミナミの連中は、レベルの高い法儀族を欲しがってるらしい」
リナリアは答えずに話を始めた。テオドールは無言になって、続きを促した。
「またくだらねぇ実験をするためなんだろうが、こっちにしても悪いことばっかじゃねえ」
「……そうですか?」
怪訝な顔をするテオドールに、リナリアがにっと快活な笑顔を見せた。
「ああ、そうだぜ! 考えてもみろよ、鍛えるってこたぁ暫くフォーランドの法儀族は安全だってことだ。これで用意してた案も使える」
「……! それじゃあ」
「あぁ」
リナリアは頷き、密やかにだがハッキリと宣言した。
「俺たちがレイドを攻略する間に、お前は法儀族たちを鍛えてやるんだ。ここをでた後もやっていけるようにな。ゴドフリーの方はどうなってんだ?」
「ゴドフリーも……大丈夫だよ。フィールドレイドで戦闘訓練をしていることになってるメンバーで、イコマの調査をしてる」
「良いぜ、決行の時でもゴドなら大丈夫だ」
「頭数はぎりぎりだけどね……僕の分隊が抜けて、向こうにはハーフレイドの人数しかいない」
「ああ、だから、しくじれねぇ。始めんのはレイドが終わった日の夜だ。その日に決行する」
だからな、テオ、とリナリアはテオドールに呼び掛けた。
「法儀族たちを、死なせるなよ? みんな、生き延びさせてやろうぜ」