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煉獄の斎場  作者: 長野 智
4/14

会合

 現実世界より数段人口規模に劣るセルデシア世界の都市であるとしても、このシクシエーレの活況は目を見張るものがある。〈リンドブルム〉の背から街を見下ろすクレメンテはそう思った。


 市街地を行き交う人々に、港を埋めるたくさんの交易船。クォーレやシクシエーレから冒険者の乗り込んだ哨戒艇が海でもモンスター討伐を実施するようになって以来、シクシエーレの交易拠点としての地位を急速に高めている。この街は大地人の都市では珍しく夜も灯をともし、眠り落ちることなく交易船を迎えるのだ。


 そのシクシエーレにおいて〈ルナティック〉は特別な地位を築いている。〈Plant Hwyaden〉シクシエーレ執行支部、この港湾都市におけるミナミの出先機関であり、この街の冒険者を代表するのが〈ルナティック〉だった。


 そしてクレメンテは〈ルナティック〉のギルドマスターだ。つまり実質的にこの街の女主人であるといっても差し支えない――そこまで考えて、クレメンテは助けを求めるように天を仰いだ。


 (私ってこっちに来てから休んだっけ……? 休日? 私はこき使われている……? 私の休日……?)


 ふう、とクレメンテは息を吐いた。管理職に労働基準などないと思い出した後、クレメンテは現実逃避をやめて騎竜に手綱で指示を出す。〈リンドブルム〉が一声いななくと、シクシエーレの発着場――現実では神戸空港がある人工島へ向かって高度を下げ始めた。


 クレメンテは発着場跡に降り立つと、どこかへ飛び去っていく〈リンドブルム〉を傍目に見送りつつそのまま街へ向かって歩き始めた。目的地のギルドホームは、この旧空港区画からポートアイランドを通った先にある。


 念話で誰かに到着を伝えないといけないな、とふと思った。右手の指を振ってメニューを呼び出し、リストからコールボタンへ指を伸ばす。だが指先が触れようとしたところで、スッと指が逃げた。その後も手を握りしめたまま目を彷徨わせて逡巡する。


 なんのかんのとやらない理由を浮かべて、クレメンテは結局コールを止めた。どうせすぐに着くし連絡しなくても良いか、と結論づけて。


 というか、それならわざわざ歩かなくても馬を呼び出せばもっと早く着く。けどクレメンテはやらなかった――やりたくなかった。……あまり、早く着きたくない。


 はあぁ、と思わず大きな溜め息が零れる。ギルドホームへ戻ると思うと、憂鬱な気分だった。理由は分かり切っている。


 〈ルナティック〉は内部対立を抱えている。


 一般メンバーはまだそうでもないが、幹部級の間では方針を巡って静かな争いが続いている。〈ルナティック〉の裏の業務、法儀族の連行について、意見が分かれているのだ。


 溜め息。


 ぼんやりと辺りを見渡しながら、クレメンテがとぼとぼと歩き出した。まあ特に時間を決めたわけでもないので、いつギルドホームに着いても良いのが救いだった。


 クレメンテがシクシエーレに戻ってきたのは、フォーランドへ新たに連れていくメンバーを選ぶためだ。レイド部隊ではない。レイド部隊については現状でも間に合っている――というより、今のままでいくしかない。たぶんこの先もフルレイド制限が続くだろうし、〈ルナティック〉にもこの世界のレイドに耐えられるメンバーがいくらでもいるわけではない。


 今回必要なのは、レイド以外の部分だ。


 例えば、オルニソから奪還した砦にはアムンゼンとプラム、二人が率いる分隊を貼り付けて守らせている。大地人だけでは維持できないから仕方がないのだが、フレーバーではなく本当に散発的な襲撃が発生するために引き揚げさせるわけにもいかない。


 レイド部隊がフォーランドの奥地へ進撃するにあたっては、さらなる要望がトクシマから出されている。クレメンテは祝宴の席上での話を思い出していた。将軍ガーランドから要請された、トクシマ武士団の再建。そしてトクシマ近辺の安全確保。このためにまた分隊を送り出す必要があるのだ。


 それに加えてトクシマに対する支援物資や本土との連絡手段まで――まあ、要はこのフォーランドに大地人社会が存在するうえで必要なことをすべて冒険者に頼る、ということだ。


 その対価にトクシマが差しだせることはたった一つしかない。


 それはトクシマそのものを差し出すこと。形式上はウェストランデに帰属するが、実質的には完全な〈Plant Hwyaden〉の統制下に入る。トクシマは冒険者に対するあらゆる活動に協力し、くだされた要請には必ず従う。


 クレメンテは右手の指で額を抑えた。つまりトクシマは〈Plant Hwyaden〉の植民地、そういうことじゃない! トクシマで冒険者が何をしても、何を言っても逆らうな、そういう風に言い換えることもできる。


 クレメンテはげんなりした表情で歩みを進める。これでまた、〈Plant Hwyaden〉が非道の片棒を担いだわけだ。頭痛がする。一緒に戦った〈ルナティック〉はともかく、ミナミから新しくやってくる連中はトクシマでどう振る舞いだろう? まだメンバーたちにはだんまりを決め込んでいるが、願わくば〈ルナティック〉がフォーランドから手を引けますように。


 そんなことだから、クレメンテは朝からずっと気分が晴れない。思えば、フォーランドへ連れて行ったメンバーを選ぶときもひと悶着あった。もとはといえば、彼らはナカス侵攻に参加する部隊だったから。



 はぁっと我知らず息を吐いた。それで、地面の舗装が変わっていたことにようやく気付いた。


 顔を見上げれば、そこは確かにポートアイランドだ。とはいえ、現実世界とはずいぶん趣が違う。それもそのはずで、ポートアイランドはセルデシア世界で富豪や大商人、貴族たち専用の高級住宅地兼別荘地として人気を博している区画だ。品の良い木造建築の美しい邸宅と上流階級御用達の市場や職人たちの工房が軒を連ねている。


 ぼぅっと歩いている最中に、ふと、久々に戻るのだから何か手土産を買っておいた方が良いのでは? と考えがよぎった。すぐにあちこちへ視線をやって、近くに洋菓子店を見つける。


 こんな店、最初からあったかしら?


 若干疑念も持ちつつ近寄っていく最中に、そう言えば誰かが大地人にレシピを啓蒙して料理店を出してもらうんだ、と意気込んでいたのを思い出した。この店はその御陰でできたかもしれない。


 売り子の大地人が顔を見るなり飛び切り笑顔で近づく。セールストークとお世辞を笑顔で受け止め、ちらりと店のメニューに目をやる。


 ああ、ここはクッキーがイチ押しなのね。ならそれを100個くらい貰おうかしら。


 その言葉に売り子の少女がドキッとした表情をしたので、本能的にクレメンテはヤバい、と焦りを感じ始めた。ちょっと待っていてください、と店の中に走っていく。


 リアルの尺度だと100個くらいなんでもない――別に一人で食べるわけではないけれど! ――そのハズだが、普及したての大地人にとっては違うのかも。材料の問題かしら? 需要? クッキーは大量に消費するものという感じではないのか――あ、戻ってきた。


 クレメンテがさっと駆け寄ってきた売り子に声をかけようとして、ちらっと顔をうかがった。表情が曇っている。目元は潤んでいる。ふっと顔を上げた。店の奥からは店長が半身を覗かせている。もの凄く目尻を下げている。不測の事態が起きれば走り出す準備は万全のようだ。


 ああこれやったな、私。


 貧乏くじを引いた売り子にとっての地獄、注文を受けられないことを説明する時間が始まった。クレメンテは口を挟むこともできず、なんとか傷つけないようにと慎重になっていた。


 そういえば、私ってまあまあな権力者なのよね。冒険者相手にはそうでもないから分からなかったけど。


 そんなことを考えて現実逃避する最中にも売り子が決死の様子で、今作れるのが半分くらいで、あともう少し時間を頂ければお渡しできるのですが、と言ってきた。その表情を直視できなくてスッと顔を上げた。奥にいる店長と思いっきり目があった。店長がガクガクと首を振った。もちろん縦に。


 すぅっと息を吸い込む。動揺を抑えつけた手を売り子の肩に優しくポンとのせる。出来る限り柔和な表情で笑みを作り、ありのままの本心を言った。良いのよ、私こそ急に無茶を言って申し訳ないわ。できるまで待っているし、今言った数で大丈夫だから、それを頂戴? 

 そうして売り子はまた店の中へ引っ込んでいった。とても軽やかな動きで店長を奥へ引っ張っていった。クレメンテは思わずふぅっと息を吐き、天を仰いだ。

 

 ごめんなさい。ホントに。ごめんなさい。次からは絶対に予約してから来ますから。


 数十分後、まあまあ大きなサイズのクッキーが詰め込まれた紙袋を片腕に抱え、クレメンテは従業員たちに見送られながら店を去っていた。クッキー100個分の料金を残したのは、うん、せめてもの見栄だと自分に言い聞かせていた。




 ポートアイランドの住民たちが出し合った金で雇われた警備を顔パスして橋を渡れば、シクシエーレ市街地に到着だ。ちょうど朝市のようで、メインストリートには歩くこともままならないほどに大地人が押し寄せている。街の外れの方からはいくつもの槌音が響いていた。港の方では水夫たちが荷役を行う真っ最中だった。


 この場所に来てから何カ月も経っていないがあきらかに人口が増えている、とクレメンテは思った。周辺から出稼ぎが来ているのかしら?


 ポートアイランドに住んでいる貴族たちは面白くないだろうが、頭数の多い普通の大地人たちが豊かになっていくのは望むところだ。交易の盛り上がりをきっかけに始まったシクシエーレの好況はまだまだ新しい労働力を求めている。水夫も大工も、他の産業も、余地がある。


 貴族の影響力から保守色が強いシクシエーレにも、新しい流れが来ているのだ。〈リリエンタール〉が取り込んだ、新興商人たちで賑わうオーディアとは別種の活況を呈していた。


 その変化を支える冒険者の拠点が、この忙しさと無縁でいられるはずがなかった。


 メインストリートのほど近く、占領する土地面積はやたらと大きい、古びた3階建て木造建築。かつて大地人の役人たちが使っていた旧市庁舎が、今の〈ルナティック〉のギルドホームだった。そして同時に、大地人からの依頼を受け付けるクエスト斡旋所にもなっている。連日、冒険者への依頼が大地人たちから舞い込んでくるこの場所から、ミナミにいる冒険者へクエストを振り分けるのだ。


 当然のように、窓口対応も施設管理もほとんどが雇われの大地人によって維持されていた。ただでさえ街道警備や航路哨戒のせいで冒険者に高い需要があるので、誰にでもできるような仕事に割く余裕がないのだ。


  総員300名、中規模レイド専門ギルド<ルナティック>のうち大災害時にもログインしていた180名プラスアルファが実働人数だ。<ルナティック>はフルメンバーでもないのにやたらと仕事を抱えている。


 クレメンテは正面扉を出入りする大地人に一度目を向けると、建物の関係者用出入口へ向かう。大地人の庭師が手入れする庭を横切って、大地人の警備が詰めている守衛室のそばにある扉へ手をかけた。一般開放されているエントランスに比べれば、一階の関係者用区画はごくわずかだ。ほとんど廊下と階段しかない。


 クレメンテはさっさと上へ続く階段を駆け上がると、二階の広間へと入って声をかけた。事務作業をしていたメンバーが顔を上げ、驚いたようにクレメンテの名前を呼ぶ。そこに居たのは十数人ほど、大半のメンバーは非番で三階の居住スペースで休むか、外でクエストをこなしている。


 手近なメンバーと話してから、抱えていた袋を渡す。あとで皆に渡してね、というと部屋中から歓声があがった。その反応を見てクレメンテも笑みをこぼした。


 女の子を泣かせかけてまでして手に入れたクッキーだからね、しっかり味わってね、と心の中でつぶやく。口々に向けられる礼の言葉を聞きながら、クレメンテは笑顔がひきつる前に退散して本来の目的地へと向かった。


 二階の大部屋から出て通路を進み、一番奥の一室に進む。在室の表札を確認すると、扉をノックしてドアノブへ手をかけた。しかしクレメンテが開ける前に、ノック音に気づいた中の人影が勢いよく扉を開け出迎えの声を上げた。


 「お帰りなさいっす、クレメンテ! フォーランドの方は上手くいったようで良かったっす!」


 赤い癖毛で快活そうな狼牙族の少女が太陽のようにまぶしい笑顔で言った。クレメンテは気圧されながらも、なんとかその名前を呼んで出迎えに応えた。


 「ありがとう、朱鳥。ゴドフリーはいるかしら?」


 「もちろんっす! あたしはただのお茶係っすから!」


 そう言って朱鳥はクレメンテの手を引いて部屋に引き入れると、半ば強引にソファに腰かけさせた。


 身長的には頭一つ分ほどクレメンテの方に分がある二人だったが、冒険者としての膂力は比較にならないほどの差があった。


 クレメンテが純粋な妖術師ソーサラーであるのに対し、朱鳥は盾を持たない肉弾戦志向の守護戦士。ゲーム時代にはレイドでメインタンクを務めていたキャラクター相手では、腕力に振り回されるしかないのも当然だった。


 がっしりと肩を掴まれて強制的に着席させられると、目の前にはすでに湯飲みに冷えた黒烏龍茶が置かれていた。


 「ご苦労やったな、クレメンテ。まさか突然フォーランドでレイドが起こるなんてなぁ」


 そう声をかけてきたのは執務机に座る大柄なドワーフのゴドフリーだった。ゴドフリーは彫の深い顔立ちに鋭い目を光らせ、クレメンテを見つめている。


 「しかしお前……もうちょっと早く来れんもんか? 時間を食うなら一言欲しかったが」


 「いっ……いや? 私も流石にここまで遅くなるつもりはなかったんだけれどね?」


 しどろもどろになるクレメンテを怪訝な様子で一瞥するゴドフリーだったが、まあええわ、と意識を逸らした。


 「アドラはどうやった? 第四をあいつに任せっきりやが、ちゃんと役に立っとるか?」


 「もちろんよ、ゴド。メインタンクとしてじゅうぶん活躍してるわ」


 ゴドフリーの問いかけに、クレメンテがそう受け合った。


 ゴドフリーは現状4つある一級分隊のうち、戦士職からなる壁戦士タンク部隊をまとめた第四分隊のチームリーダーだ。自身も巨大な戦鎚を操る盾無しの〈守護戦士〉であり、ゲーム時代にはレイドでメインタンクを務めることもしばしばあった。


 とはいえ、今はレイドを離れてシクシエーレで残ったメンバーの面倒を見ている時間の方が多くなっている。ゴドフリーが<ルナティック>で一番の年長者であることもその一因だが、それだけが原因ではなかった。


 「そうか。まっ、せやないと任せた甲斐がないがな」


 ゴドフリーは反動をつけて椅子から降りると、クレメンテの向かいにあるソファへどかっと腰を下ろした。所在なげな朱鳥は、その後ろに立ってソファの背に体重を預ける姿勢で落ち着いたようだ。


 「それよりも、クレメンテはなんでシクシエーレに戻ってきたんや? フォーランドの一件が終わりゃあ、すぐにサイキョウへ向かうと思ったんやが」


 「あっ、そうっすよ! サイキョウ行きはお流れになったんすか?」


 二人が問い重ねてくる。さあ、ここからが本番ね、と浮かない気分を払いのけるように自分を奮い立たせた。


 「そっちの方はいったん保留になったの。私たちはフォーランドに注力する」


 「フォーランドっすか……?」


 「新しいレイドクエストを受けたの。フォーランド山脈の奥地。レイド本隊は攻略に向かうけど、トクシマの街でもやることがある」


 「それで新しく分隊を連れていきたいゆうわけか、クレメンテ。でもなぁ、ワイらにはそんな余裕ないやろ? ……余裕のある連中はもう出し切っとる。待機組に期待すんのはやめとけ」


 ゴドフリーが険しい顔でそう言った。そして、傍らでどこか眼を泳がせている朱鳥に声をかけた。


 「すまんが朱鳥、なんか菓子でも取ってきてくれんか? この間、貴族連中から差し入れがあったやろ」


 「へぁっ!? ぅ、分かったっすよ、ゴド。あー、でもあたしアレいまいち好きじゃないんっすよねぇ……」


 ぶつくさ言いながら朱鳥がさっさと扉を開けて出ていった。クレメンテが目で見送る間に、ゴドフリーは朱鳥が出してくれたお茶を一息で飲み干した。空になった湯飲みの底に目を向けつつ、ゴドフリーが口を開けた。


 「朱鳥あいつの様子はどうやと思う? クレメンテ」


 「ずいぶん良くなっていると思うわよ。初めは部屋に籠りっぱなしだったし、元気なところを見れるのはうれしいわ」


 クレメンテは努めて正直に言った。ゴドフリーは湯飲みを机に置いて腕を組み、ソファにもたれかかって朱鳥の消えた扉を見つめた。


 「元気に、な。まあ空元気でも中に閉じこもっとるよりはよっぽどマシやな」


 「朱鳥は今でもあの事、引きずってる?」


 「ああ、当然や。はっきり口にはせんがな、街の外側近くには近寄りたがらん」


 ゴドフリーが口から微かな怒りを漂わせながらきっぱりと言った。クレメンテの表情が少し硬くなる。


 それは数週間前、〈スザクモンの鬼祭り〉での話だった。ウェストランデを揺るがしたその事件に、当然ながら〈ルナティック〉も参戦していた。朱鳥はミナミの冒険者という広いくくりで見ても、かなり先発で投入されたいくつかの部隊の一人だった。オスカーやアドラ、それにゴドフリーといった"硬い"冒険者を中心に編成されたパーティは、<リリエンタール>などから派遣されてきた部隊と一緒にミナミからの本隊投入まで時間稼ぎを任されていた。


 負けることはあり得ない。なんといっても凄まじいレベルの差が広がっている。物量やランクの補正があるとはいえ、〈ルナティック〉の一級守護戦士である朱鳥にとって脅威にはならない。


 だがそれはあくまでも冒険者の肉体だけを見た場合の話だ。数百体と迫ってくるモンスターの波に押されてパーティが散り散りになった時、朱鳥は数体の大型モンスターに囲まれていた。その時に見てしまった。相対したモンスターの眼に滾る本物の殺気。


 ゴドフリーたちが朱鳥と合流した時にはモンスターはもうこの世界に居なかった。だが大剣を地面について目を見開いたまま息を荒げる朱鳥に、簡単には取り去れない傷を残していった。


 「ミナミに協力するんは結構やけどな、クレメンテ。ついて来れん奴らも見なあかんぞ」


 「……分かってるわよ」


 クレメンテが気まずい顔で呟くように言った。


 「連れて行くのは、他の業務をしている分隊を引き抜くつもり」


 「他の連中やったらあかんのか? ミナミにやって、レイドやないならフォーランドに行ける奴もおるやろう?」


 「追々引き継がせる予定だけど……初めはそういうわけにもいかないわ」


 「なんでや」


 「大地人部隊を育成させる計画なの。それに救援物資の配布とかもあるし、身内の方が――」


 「別にワイらが一番ようできるもんでもないやろ」


 ゴドフリーの反論で、クレメンテの口が止まる。何度か口を開け閉めした後で、はぁっと溜め息をつく。


 「私たちの"仕事"よ。全部そのためだから……他にさせられないの」


 クレメンテが白状してそう漏らした。ゴドフリーがいっそう険しい表情を作る。


 「また法儀族か」


 クレメンテは返事をしなかった。代わりに、放置したままだったお茶に手をつけ、ゆっくりと飲み干した。ゴドフリーが怒気混じりの溜め息をついて口を開けた。


 「分かったわ、もう! そんならユズリハの分隊を連れてけ。"仕事"持ちの分隊や、ちょうどええやろ」


 「そうね。あ、できれば、もう一個欲しいのだけれど……」


 「はあ……? んん……。んなら、テオドールのとこも連れていけ」


 「いいの? フィールドレイドに出てるんじゃ……」


 「呼べば今日中には戻れる。それに、他に出せる奴がおらん」


 クレメンテが無言で頷いた。


 「わかったわ。じゃあ、連絡、お願い。今週中にでも準備ができれば出発するから」


 ゴドフリーが片手をあげて返事をした。それで話は終わりだった。クレメンテは立ちあがった。そうして扉を開けて部屋を出ようとして、不意に扉からノック音が響いた。音の主が扉を開ける前に、クレメンテがドアノブを回してぐっと引っ張った。部屋の前で大皿を片手に目を丸くしている朱鳥と目が合う。


 「えぅ……クレメンテ、もう帰るっすか? あの、クッキー、もらってきたんすけど……」


 尻すぼみになりながら朱鳥がそう言った。クレメンテは利き手で開けたまま塞いでいた手を入れ替えて扉を押さえ、朱鳥を中に入れてやる。朱鳥はとりあえず中に入ったが、冷えた空気に戸惑って視線を動かしていた。クレメンテは皿のクッキーを見た。自分が最初に買ってきたものだった。


 これ、もらうわね、とクレメンテが言って、朱鳥の返事も待たずに一枚を口に咥える。ゴドフリーの方をちらりと見た。それが不毛なことだと気づくと、部屋を出て、ぱたりと後ろ手に扉を閉じた。

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