8話目 伝えられる言葉 後編
駅前につくと、静流たちはバスに乗った。
窓側に座った従姉妹は窓の外をじっと見つめていて、まばたきもほとんどしない様子に、もしかしたら従姉妹の儀式とやらが始まったのかも、と静流は思う。
バスが降りてからも従姉妹は黙り込んだまま、どちらかと言えば空に視線を向けながら目的地に向かう。空は既に暗闇を纏い始めていて、星がいくつか瞬き始めていた。三日月が細く西の空に浮かんでいて、ぼんやりとした光を放っていた。
まあ、従姉妹をはたから見れば、空を眺めながら歩いているところが、のんびりした空気を醸し出して散歩に見えなくもないと静流は思った。
一体空に何が、と思いながら空を見上げた静流だったが、星と三日月以外に何があるのかはわかりもしなかったし、寧ろ手を引かれて歩みを止められた。
「着いた」
どうやら静流が空を眺めている間に、目的地にはついたらしい。ひまわりの里の第一らしい。建物の壁にぼんやりとした明かりに照らされたひまわりの里第一との文字が見て取れる。従姉妹はじっとその建物を見て、細く息を吐いている。まるで呪文か何かを唱えるように。
息を吐きつくした従姉妹は、大きく息を吸ってまた大きく息を吐くと、くるりと後ろを向いた。
「行くよ」
「え? もう?」
「そう」
確かに前回従姉妹がやっているのを見た時も、これくらいの時間だったかもしれないが、何かを祈る時間としては短すぎると静流は思った。既に次の目的地に歩き始めた従姉妹には関係なさそうだが。
静流は仕方なく黙って従姉妹の後ろを歩く。確か徒歩五分ほどでたどり着くはずだ。前の従姉妹は物憂げに空を眺めながら足を進めて居る。この間後をつけてたときにも同じように空を眺めていたか、と思い出そうとするが、普通に歩いているようにしか見えなかった。
「あ、あった」
静流の声に、従姉妹が足を止める。建物の入り口には、スポットライトに照らされた部分に、ひまわりの里第二との文字が見える。
どうやらさっきの建物とは雰囲気が違っていて、建物を見ただけでは気付かなかったのだ。それに、思っていたところよりも近くて、建物の入り口を通り過ぎたところで静流も気づいた。従姉妹は下手したらそのまま見逃していたかもしれない。
やはり従姉妹はじっとその建物を見て、細く息を吐いている。一体何を考えながら見ているんだろうと、静流はその従姉妹の横顔を見ていた。
「咲子さん!」
叫ぶように名を呼ぶ声に、静流は我に返る。確か、頼まれたのは“咲子”と言う名前の人にだったはずだ。
「どこに行くんですか」
声がした方向を見れば、年を召した女性と、従姉妹と同じくらいの年の女性が玄関先に立っていた。きっと年を召した女性が咲子さんのはずだ。隣に立つ女性の言葉が少しよそよそしさを感じるのは職員だからだろう。
「孝さんが待ってるから」
やっぱりそうか、と静流はその玄関先に立つ女性を見る。
「咲子さん……」
従姉妹と同じくらいの年の女性は、困ったような顔で咲子を見ている。
「じゃあ、私は帰りますから。お世話になりました」
ぺこりとお辞儀をする咲子は、どうやら認知症らしいと静流には見えた。
「孝さんは……こちらに帰ってきますから」
困った顔のまま咲子にそう言い含める女性は、あの男性が亡くなったのだとは口にはしなかった。
「あら、そうなの?」
咲子は案外素直にその言葉を信じたらしかった。
「ええ。だから、お部屋で待ちませんか?」
そっと咲子の手に手を添える女性は、嘘をついていることに少しだけバツが悪そうな表情で咲子を誘導していく。
「……そうよね。孝さんが私を置いていくわけないわよね」
「そうですよ」
遠ざかる声に、静流はあの男性が伝えて欲しいと言っていた伝言を思い出す。“待ってる”“早くて申し訳ない”という言葉は、認知症を患っている妻を気遣う言葉だったのだろう。
あの職員らしい女性のついている嘘は、優しい嘘だ。……それが、咲子にとって正しいのかどうかは静流にはわからなかった。
「帰ろ」
じっと咲子が消えていった玄関を見ていた静流に、従姉妹が声を掛けてくる。どうやら従姉妹の儀式とやらは終わったらしい。
「……ねぇ、きら姉。さっきのが本当に咲子さんなんだとしたら、認知症もあるんだし、伝えてもいいんじゃないかな? 何とでも誤魔化せるよ?」
静流は先に歩き出した従姉妹の背中に問いかける。
「しない」
でも、振り向いた従姉妹はにべもない返事だった。
「……きら姉はさ、こうやって相手が住んでるところの近くに来てるわけでしょ。……伝えたくなったりは、しないの?」
静流の問いかけに従姉妹は首を横に振った。
「必要ない」
どうやら従姉妹の気持ちは変わらないらしい。従姉妹はそれだけ言うとまた前を向いて歩きだした。
静流はもう一度ひまわりの里の誰もいなくなった玄関を見ると、心の中に溜まってしまったわだかまりを息と一緒に吐き出して、従姉妹に駆け寄った。
*
ガタンガタン、と電車に揺られながら、静流は何をするでもなく外を眺める。
あの孝さんの伝言を咲子さんに本当に伝えなくて良いのかと、ぐるぐると自分に問いかけている。
確かにあれは死者の言葉で、本来なら伝わるはずもない伝言だ。静流だって、あの奇異の目で見られるかもしれない。
だけど、あんなにお互いを想いあっている二人なのだ。孝さんの最後の伝言を咲子さんは知りたいと思うんじゃないだろうか。
でも、ともう一つ静流は思う。認知症で孝さんがまだ生きていると信じている咲子さんに現実を突きつけることは果たしていいことなのか、と。
静流は自分が奇異の目で見られることよりも、そのどちらが正解なのかでずっと自問自答を繰り返している。
「静流?」
掛けられた声に直ぐには反応しないくらいには静流は思考に沈んでいた。
「静流。久しぶりだな」
ぽん、と肩に手を置かれて、静流は我に返る。静流が顔をあげれば、予想外の人物がそこには立っていた。
「りゅう……へい」
その相手は、静流が連絡を取ろうと同級生に連絡先を聞いていた青山だった。青山はスーツを着ていて、そのスーツがまだしっくりと来ていないのは、スーツを着始めてまだ三ヶ月も経たないからだろう。
静流の唖然とした反応に、青山はぷっと吹き出す。
「なにその幽霊見たみたみたいな反応」
「いや……まさかこんなところで会うとは思わなくて」
空は明るさを残していたがもう夜に近くはあったし、大学の六限目が終わって静流が乗った電車に、仕事終わりの青山が乗っていたとしても何らおかしくはない時間帯だ。
だが今まで一度もこの電車で会ったことはなくて、まさかこんなところで遭遇するとは思ってもなかったのだ。
「確かに。俺も会うとは思わなかった」
ふ、と笑う青山は、髪色も黒く戻っていて、静流がよく話していた頃の青山の雰囲気を醸し出していた。
「仕事帰り?」
そう言いながら、静流は違和感を持つ。青山の住んでいた所は隣の市で、こっちとは逆方向の電車になるのだ。
「ああ。静流は大学の帰りか?」
「ああ。……実家、隣の市じゃなかったっけ?」
静流は違和感をそのままに出来なくて質問した。
「あ、引っ越したんだよ。こっちの方が俺も母親も通勤が楽だから。どうせ家借りるなら近い方がいいだろ」
「そっか」
「そ。あ、そう言えば、俺の連絡先聞いてたんだって?」
あの伝言を伝えるために静流は確かに青山の連絡先を同級生に尋ねていた。そして、連絡先が手に入った時には自分の中で忘れていた幽霊が見えていて“気持ち悪い”と言われていた過去を思い出してしまった後で、もう青山に父親からの伝言を伝えようという気持ちはしぼんでいて、結局連絡は取らずじまいだった。
「……どうしてるかな、と思って」
それは正直な気持ちではあったが、本来静流が伝えたかった内容ではなくて、静流は目を伏せた。静流は本当は伝えたい気持ちはある。だが、まったく見ず知らずの相手に奇異の目で見られてもいいと諦める気持ちは持てるが、よく知った相手から奇異の目で見られるのには耐えられそうにもなくて、あの伝言を口にできそうにもなかった。
「悪かったな」
ぼそりと呟く青山に、静流は、え? と聞き返した。
「お前が俺のこと思って色々言ってくれてたのはわかってたんだけど、お前は何にも苦労しなくて進学できるってことに嫉妬した。そんな自分にもイライラして、そうなるのが嫌でお前のこと避けてた。……今なら、自分のこと心配してくれてたのが誰かとか、わかるのにな」
思いがけない青山の答えに、静流はうろたえる。
「いや、僕も無神経だったと思う。皆進学するのが当たり前だって……あの時までは思ってたから。自分の常識が他人の常識じゃないんだって、あの時初めて知ったから。だから、青山がそう思うのも当然だし、避けられたのも仕方ないと思うよ。僕だって、自分が進学できないってなった時に、何も苦労せず進学する人がいたら嫉妬するよ」
静流が肩を落とすと、青山が二人がつるんでいた時いつもしていたように静流の肩に拳をトン、と当てる。
「お前、考えすぎだしお人好しすぎなんだよ。……卒業するまで俺見るたびに心配してますって顔してさ。ホント、うざいんだよ」
その言葉はぞんざいなのに、青山の顔は照れたように笑っていて、その言葉が言葉通りの意味を持たないのだということが青山との付き合いが二年あった静流にもわかる。
「うざいとか、ひどいんだけど」
自分が心配していたのが青山に気付かれていたのが分かって、静流も何だか気恥ずかしい気分になる。
「それがお前のいいところだけどさ。……ほどほどにしとかないと、変なことに巻き込まれるぞ」
青山のその忠告に、静流はドキリとする。確かに静流は……色んな事に首を突っ込みすぎているかもしれない。
「……そうだな」
「で、俺の連絡先は知ってるんだよな?」
「ああ。教えてもらった」
「お前、まだ登録してないだろ。登録しとけよ。またLINEするから」
勢いがなくなった静流は、青山に普通に連絡を取る勇気も持てずにその連絡先を登録をすることもできていなかった。だから、迷わず頷いた。
「分かった。登録しとく」
次の駅名が車内に響くと、青山が「次」と降りることを示した。
「今度、会おうよ」
静流は初めて青山と外で会う約束をすることにした。
「あー」
だが、青山は少し戸惑う声を出す。
「あ、いや。忙しいなら、いいや。社会人って忙しそうだもんな」
静流は慌てて自分の発言を取り消す。勿論忙しそうな社会人の中には静流の従姉妹は入らないが。
「実はさ、大学、夜学に通おうと思ってて、受験生なんだわ」
照れたように頭をかく青山の思いがけない告白に、静流は驚きと嬉しさで目を見開く。
「進学、するの?」
「会社の社長がさ、せっかく成績良いんだからもったいないって。学費も貸してやるって言ってくれてさ。それに、親父なら折角だからやれって言いそうだなって思って」
「そっか。……よかった」
再び勉強をやる気になった様子の青山に、しかも伝えてもない青山の父親からのメッセージが既に青山に伝わっていたのだと言うことがわかって、静流は嬉しくて最近緩みやすい涙腺が緩む。
「だからさ、たまに勉強教えてくれ。三年の時は授業も適当に聞いてたから、わかんないところもあってさ」
適当に、と言いながら三年の時も青山は静流よりも成績は上位のままだった。だから、きっとこれは、静流と会う機会を作ってくれているだけなのだ。
「いいよ」
静流は嬉しくて何度も頷く。
「じゃ、またな」
次の駅に着き、青山が手を挙げて電車を降りる。静流は青山に手を振って、その後姿を見送った。
青山の父親が残した伝言はきちんと青山に伝わっていた。そのことに、静流は残された伝言は伝えなければ伝わらないと思っていたことが、実は違っていたのかもしれないと感じていた。
その人たちの関係性がきちんとあれば、わざわざ静流が伝えなくても、伝えたかったメッセージは伝わるのかもしれない。
勿論、例外はあるだろう。だけど、わざわざメッセージを残さなくても、伝わるものもあるのだ。
……ならば、あの咲子にも、孝のメッセージは伝わっているんじゃないだろうか。そう、静流は思いたくなった。
暗さを増す中を走る電車のドアのガラスには、青山の進学の話と父親からのメッセージがきちんと伝わっていたことに緩んだ静流の顔が映っていた。