5話目 日の目を見ることのない伝言 前編
カランカラン、という音に静流はドキリとする。
静流が従姉妹から『ことのは屋』にやって来るのは幽霊だと聞いてから初めてやってくる……ヒトだ。
静流の従姉妹は、『ことのは屋』というボランティアをやっている。それは、このカウンターのある小部屋に勝手口からやってきたヒトが伝えて欲しいという伝言を預かるボランティアだ。
静流はその従姉妹がやっているボランティアの手伝いで、伝言を預かる役割を担っている。それはこの春から始まった手伝いで、その実そのボランティアの全容を静流は全く知らなかった。
従姉妹は伝言を預かるというボランティアをしているだけで、その伝言を伝える気がないのだということを静流はついこの間知った。
従姉妹がその受け取った伝言を伝えに行くために出かけていると思っていたのは、静流の勘違いだったと言うことがつい最近判明したからだ。
それは、静流がこっそり従姉妹の後ろをつけて行って知った事実だったが、従姉妹は伝言を伝えるべき相手が住んでいる場所まで行っておいて、伝言を伝えることなく帰ってきていたのだ。
そのことに瞬間的にカッとなった静流が、結果的に伝言を相手に伝えたところ、その場ではその相手に怒られることになった。それはそうだ。それは男女間の別れの言葉で、怒られるのも当然だ。……そう、静流は思っていた。結果的にはその相手から感謝されて、静流は自分が間違ったことをしていないと思うくらいだった。だけど、従姉妹はその考えを変えようとはしなかった。
そしてその次に来た伝言主が、娘に伝えられない「幸せになって」という言葉をどうしても伝えてあげたくて、静流は従姉妹に怒られてもいいとその言葉を伝えに向かった。娘は驚いていたし、その伝言に泣きじゃくっていて、伝言主をそのまま娘のところに連れていけなかった自分を後悔したくらいだった。
ただ娘からも伝言を預かって、静流は母娘の間に明るい未来が待っているんじゃないかと思えて、自分がやったことはやはり良いことなんだと確信したくらいだった。
だから又従姉妹を説得しようと気持ちを新たにしたのだ。
だが、家で待ち構えていた従姉妹は、静流に爆弾を投下した。
静流が伝言を受け取っていた伝言の主たちは幽霊だと言うのだ。
静流も幽霊だと信じたくはないが、人間と言い切れない自分に、従姉妹の言葉を信じかけているのだと感じている。
「『ことのは屋』へようこそ」
それでも、静流はいつも通りの笑顔を見せた……つもりだ。
入ってきた男性が浮かない顔を崩すこともないため、その笑顔が成功したかどうかは静流自身には分からなかったが。男性は若いとは言えないが、静流の両親たちよりは明らかに若い。多分四十くらいだろうと静流は見当をつける。
「伝言を……預かって……くれると……聞いて……」
おどおどとした物言いは、不安の現れなのかこの男性の元々の性格からによるものなのか、静流には分からない。
そして『ことのは屋』の話をいったい誰から聞いたのか、気にはなったが怖くて尋ねることはできない。
そう言えば宣伝も看板すらないのに、『ことのは屋』にやってくるこのヒトたちは、一体何で『ことのは屋』の存在を知っていくのだろうと、思考に沈みそうになった静流は、男性の咳払いで我に返った。
その時気付いた微かなお香の香りは、気づかなかったことにした。
それがたとえ、依頼主としてやってくるヒトたちが押し並べて漂わす匂いだったと思っても。
「あ、はい。伝言をお預かりします。……どうぞ」
慣れた手つきでノートを開いた静流が男性を見ると、一度口を開いた男性は、目を下げて口を閉ざした。
静流が作ってしまった間が男性の気持ちを萎ませてしまったんだと気づいて、静流は焦る。相手が誰であれ、きっとここに来るまでに色んな葛藤もあったはずだ。それを受ける側が気持ちを削ぐのはどう考えても駄目だろうと静流は思った。
でも、もし相手が口を閉ざしても、静流は急かしてはいけないと言われている。そのため静流は、男性が口を開くのを待った。
「……幸せになってほしいと」
男性が伝言を口にしてくれたことに静流はほっとしつつ、ついこの間聞いたばかりの伝言に心を重くする。だがそれを感じさせない手つきでノートに書き付ける。
「伝言はほかにありますか?」
「母をよろしく、と」
静流がそれを書き付けるのを見届けると、男性はほっと息をついた。
「どなたに伝言を伝えますか?」
「妻に……瑞枝に伝えてください」
「ミズエ……さん。名字は?」
「真鍋……いや町田かな」
どうして名字で迷うのか。それは離婚したということか。いや、深く考えるのはやめよう、と静流は心の中で首を横に振る。そして、いつもと同じ手順を踏む。
「ご住所は?」
これはもしかしたら、住所は答えられないかもな、と静流はどこかで思う。相手の名字がどうなっているかも知らないのだ。今住んでいるところなど知らない可能性の方が遥かに高い。
静流の予想通りうーん、と考え込む男性に、静流はやっぱりと思う。顔をあげた男性は困った顔をしたまま口を開いた。
「今……住んでいるところは……知らないですが、今いるところなら……わかるん……ですけど」
しぼんでいく声に、静流ははて、と思う。男性が言っていることの意味がよく分からないし、今いるところが分かるって何だよ、と静流は考えようとして、考えるのをやめた。
ここに来るヒトの言ってることの意味を考えていたら、従姉妹の言ったことを裏付けする答えしか出てきそうにないと思ったからだ。
「でしたらそれを」
それに結局この伝言は伝えられることはないのだ。だから、住所が正しかろうと正しくなかろうと嘘だろうと、誰も困りはしない。
足を向ける従姉妹もその場所に誰がいるかは知るよしもないのだ。
「鷹羽三-五-二ビレッジハイツ一〇三です」
それでも言われた住所をぶつぶつと繰り返しながらノートに書き付ける静流は、結局それ以外で手を抜くことはない。
今日も言われた通りに言われたことを律儀にノートに書き付けていく。
「お名前は?」
「正幸です。……真鍋正幸です」
その名前に込められた意味と、もし亡くなっているとすれば早すぎる死に皮肉さを感じ、静流はそっと息をはいた。……まだ相手が本当に亡くなっているとは、静流も認めたくはないのだが。
「妻に……伝えてください」
帰り際振り返った男性の顔は下を向いていて静流にはその表情は読み取れなかった。
*
「ただいま」
「おかえり」
五時半になり、従姉妹がカウンターに顔を出し、静流はノートをヒラヒラと持ち上げた。
「一人、来たよ」
「そ」
「……今日も行くの?」
伝言を伝えもしないのに相手先まで行くのか、という静流の素朴な疑問だ。
単なる散歩にしか思えないそれは、従姉妹曰く、故人が思い残したことを胸に故人に想いを馳せ、成仏を祈る作業らしい。
どんな作業だ、と静流が思ったのは間違いなくて、それなら伝言を伝える方がよっぽど成仏できそうだと静流は思うわけだし従姉妹に言ったが、取り合ってももらえなかった。
「行くよ」
行くのか、と静流が思って呆れた顔で従姉妹を見ると、従姉妹が静流を見ていた。
「行く?」
思いがけない誘いに、静流は驚く。今の今まで、従姉妹は静流が行きたいと言っても全く取り合ってくれなかったからだ。
「なんで?」
「知ってる」
もう静流は伝言を伝えに来たのが幽霊だと知ったから、と言うことか、伝えないことを知ったから、と言うことか、はたまた両方か。静流はどれにしても苦笑しか出なかった。
「行く?」
再びの従姉妹の問いかけに、静流は首を横に振った。伝えないのであれば、従姉妹に着いていく意味はないと思えたからだ。
「そ」
従姉妹はそれ以上何を言うでもなく、勝手口を指差すと、ノートをヒラヒラと持って内ドアに消えていった。
注意されなくても鍵くらい閉める、と思いながら、静流はカウンターに肘をつきながらまだ明るい空を眺める。
従姉妹はいつもノートを持って行ってしまうが、この後に人が来たらメモ紙に書くことになるな、といつも来ることのない本日二人目の存在を考えつつ、果たしてこのボランティアにどんな意味があるのかと想いながら。
*
翌日は、静流は午前中が休講で、午後からの登校だった。
だから扇風機を回しながら、静流はカウンターの小部屋で読みかけの文庫本を何となく読み進めていた。
同居当初からいつもカウンターの小部屋に律儀にいなくてもいいと従姉妹には言われていたが、静流は特に用事もない時には、誰が来るかもしれないのをぼんやりと待って過ごしていて、色々な事実が分かった今となっても、つい待ってしまっている。
その根底には誰かが困るのを放っておけないから、という静流の持つお人好しな部分がある。
でもと言うべきかやっぱりと言うべきか、今日は『ことのは屋』に来るヒトはだれもいなかった
静流がノートを開くと丁度昨日の男性のページで、男性の名前の横にチェックが付いている。
これを静流は以前なら伝言を伝え終えた印と思い込んでいたわけだが、実際は従姉妹がその伝言を伝える先へ足を向けたという確認のためだけの印だと既に知っている。
パラパラとノートをめくりながら、その部分に全部チェックが付いていることに感心するような逆に呆れるような気持ちで一番前の日付を見る。
その日付は二年ほど前のもので、その数が急に増えたのは、静流がここに同居し初めてからだというのが分かる。
確かに明るい内にしか伝言を受けないのであれば、いくら従姉妹が五時半に帰ってきてもそのタイミングで 現れるヒトがどれくらいいるか分からない。今はその時間が多いために現れるヒトが増えたんだろうとは静流にも分かった。
静流は書かれた内容にさらっと目を通すと、従姉妹の走り書きに苦笑をこぼす。その実、伝えるつもりもないし他の誰かに見せることもない伝言だからだろう。書き方が雑だ。間違えた所が二重線じゃなくぐるぐると塗りつぶされている所が、従姉妹らしいと言えば従姉妹らしい。
静流がこのノートの一番前を見たのは実は初めてで、個人情報でもあるから、とあえて自分が書いていない前のものは見ないように気を付けていた。勿論自分が書いたところも改めて見るようなことは初めてだ。
……依頼主が幽霊だと完全に信じたわけではないが、生きた人間じゃないかもしれない、と思うと、個人情報を覗き見てはいけない、という静流の四角定規な正義感が幾分緩んだせいもある。
パラパラとまたノートをめくっている静流は、見覚えのある名前が見えた気がして手を止めた。
いやまさか、と思う気持ちもある。
だが、その名前は高校二年間出席番号が前後で見慣れた名前で、高校を卒業してからも気になって忘れられずにいた名前だった。
青山 龍平
同姓同名がいないとも限らないが、住んでいたのはここに書いてある通り隣の市だったし、何より、書いてある日付がその同級生の父親が亡くなった日の翌月だった。
静流がなぜそれを覚えているかと言えば、その時青山と学校ではつるむくらいには仲が良かったからだ。
たしか青山の父親が亡くなったのは夏休みが明けてから一週間ほど経ったくらいでまだ暑い中だった。担任の口から父親が亡くなったことを教えられて、葬儀に行こうかと思うくらいには静流は仲がよかったつもりだ。
そしてそれを青山に伝えると、家族だけで済ますから、と断られた。
それをすんなり受け入れるくらいの関係性ではあったと思うが。
一週間後に学校に復帰した青山は、静流に進学をやめて就職することにしたと告げた。
静流の学校は所謂進学校で、半分以上は大学に進学するし、残りの人間も短大なり専門学校に進学する。就職する人間はそれこそ一人か二人いれば珍しい方だった。
しかも青山の成績はそこそこ上位で、地元の国立大学ならば難なく入れそうな成績だった。
静流はもったいないと思った。静流よりこの青山が成績がいいのも、やりたいことがあって進学したいのも知っていたからだ。
だが、説得する静流に、青山はきっぱりと首を振った。
まだ弟と妹がいるから、と言われてしまえば、静流も口を閉ざさざるを得なかった。大黒柱を突然失ってしまった一家の生活がどうなるかなんて、両親が健在で一人っ子の静流でも想像はできたからだ。
そして三年になりクラスが違ってしまった青山とはそこで疎遠になった。
そもそも、学校では仲良くしていたものの、外で遊ぶようなことがなかったことと、学校の中でも少し毛色の違うグループに青山が交じるようになったからだ。進学校で毛色の違う、と言っても精々制服を人より着崩していたり髪を派手ではないくらいに染めていたり、噂では隠れてタバコを吸ったりしてるくらいで、学校を荒らすようなグループではなかったものの、地味な生徒がいる中ではどうしても浮いていた。
どちらかと言えば地味な生徒の一人だった静流が、青山と疎遠になるのも仕方のないことだった。
いや、静流が思っているより青山とは仲が良いわけではなかったのかもしれない。
静流だって、そんな風におせっかいなことはしても、青山に心の内を見せたことはないからだ。
――静流は、面倒見がよく人当たりがいい。だから友人は沢山いる。
だが、自分の心の内を見せたことのある友人は、1人もいなかった。
だけど、そのことで静流は困ったことはない。だから、心の内を見せようと思ったことはなかった。
そんなことがあって、でも記憶には残っている青山の名前が、そこに伝言を伝える相手として書いてあった。
状況的に同一人物かも、と思っておかしくない。
だが青山の父親が亡くなったのは九月で十月の下旬ではない。このずれが一体何を示すのか、静流には分からなかった。
一か月と約二十日。約五十日。そこまで考えてやっと静流は、その意味するところが分かった気がした。
四十九日だ。
はっ、と、母親の伝言を伝えた娘のことを静流は思い出す。
娘は、ああ今日だから、と納得していた。あれは、四十九日だったということなのかもしれない。
そう考えれば、伝言を伝えにくるタイミングはもしかしたらこの世から霊としての姿も消えてしまうのかもしれないと静流は思う。
静流がこの伝言主たちを幽霊だと納得できたのは、四十九日に来ているらしいと分かったからだけではない。
同級生の父親が残した伝言にもその理由はあった。
”あきらめるな”その一言は、進学を諦めてしまった息子に対する父親からのメッセージだったと思ったからだ。そして同時に、あの進学を諦めてしまった青山のやるせなさから来たんだろう学校への小さな反抗は、この言葉が伝えられていたとしたらなかったんじゃないかと思うと、静流はやるせない気分になった。
勿論、伝えたとしても何も変わらなかった可能性だってある。だが、変わる可能性だってゼロではないのだ。
今更ながら、静流は従姉妹に憤りに近い気持ちを持つ。
勿論、従姉妹が言う通り、幽霊からの伝言は本来なら伝えられない言葉であり伝わらないのが普通だ。だが、ここにその伝言を受けられて伝えられる人間がいるのだ。
それを伝えたとして、何が悪いんだろうか。
静流は既に伝言を伝えた二人の反応を思い出すと、あの行動は正解だったのだと思わざるを得ない。
青山にもこの伝言を伝えたいという気持ちが沸き上がる。もう疎遠になって一年経つし、連絡先もいつの間にかグループLINEから退出してしまった青山に連絡を取るには、少々つてがいるだろうが同じ学校だったのだ。すぐに掴めるだろうと静流は算段する。それにここに住所が書いてあるわけだし、最終手段は自宅に乗り込めばいいのだ。
よし、と心を決めた静流は、学校に行く時間なのを確認すると、ノートをスマホに写して学校に向かう。
ついでに昨日の伝言も。
昨日が四十九日なのだとしたら、まだ妻の気持ちは……落ち込んでいるだろう。それがたとえ元夫だとしても、一度は情を交わした相手が亡くなったのだ。しかも伝言の内容は幸せになってほしい、だ。伝えないわけにはいかないだろう。
静流はとりあえず行きのバスで青山に連絡が取れるよう算段して、大学の帰りに昨日の伝言を伝えに行くことに決めた。