4話目 伝えてはならない伝言 後編
静流は不思議な気持ちで、家への道をたどっていた。
確かに伝言を伝えたその時には、後悔ばかりだったけれど、別れ際和田から託された伝言に、どこか許されたような気持になったせいもあるかもしれない。
和田はもし母親に会うことがあったら伝えて欲しいと、静流に伝言を託した。
勿論静流も伝えられると約束はできないことは言ったが、和田はそれはわかっているし、もし万が一また会うことがあれば伝えて欲しいと、その話をする前までスンスン鼻を鳴らしていたのを忘れたように笑顔を見せたのだ。
そして、託された伝言は「幸せになるから、会いに来て」だった。
静流が伝えた言葉は、きちんと和田に伝わったのだと嬉しくもなったし、その言葉にこの親子が実際に会える日が来るんじゃないかと思える希望があって、それもまた嬉しかった。
そして帰り際、帰ろうとする静流に深くお辞儀するその姿に、伝言を預かったときに見た女性の姿が重なって、離れていても親子は親子なんだな、と、静流の目にも涙が滲んだ。
そうして家までたどり着いてみれば、時刻は既に五時半を過ぎ、いつもの通りなら既に従姉妹は家に帰ってきているはずだ。
だから、ガラス戸の向こう側に人影があるのは、きっと従姉妹に違いないと、静流でも理解できた。
だが、なぜ従姉妹が待ち構えているのか、その理由が一つしか思いつかない静流は、ぶるりと体を震わせた。なぜ従姉妹が今日のことを気づいてしまったのか、それについては静流は思いも至らないが、それ以外で従姉妹が玄関先で静流を待ち構える理由などあるはずもない。
たぶん今から静流は、従姉妹から「出てけ」宣告をされるのだ。
でも確かに静流は従姉妹の言いつけを守らなかったかもしれないが、静流は悪いことをしたとは全く思っていない。むしろ良いことをしたと思っている。
だから、そのことを責められても、静流は謝る気はなかったし、出てけと言われれば、出ていく覚悟はしていた。
だが、実際それが間近に迫ると、何とか回避できないかと頭は算段を始めてしまう。
とりあえず、静流が出した結論は、誤魔化す。それ一択だ。
「ただいま」
手を掛ければ、ガラス戸はガラガラと簡単に開いた。
「おかえり」
いつもにも増して従姉妹の声が低い。間違いなく怒っているのがわかって、静流は得意のスマイルを繰り出す。
「どうしたの? きら姉?」
祖母に癒し効果があると言われた笑顔だ。従姉妹にも効果があるといいな、と思って繰り出したが、従姉妹には全く効果はなかったらしい。静流はぎろりと睨まれただけだった。
「どこ行った?」
おお二語文、といつもより語彙の多い従姉妹に驚いているのは、完全に静流の現実逃避だ。
「え? ちょっと友達に会いに」
「……南光に?」
ああ、ばれてる。と静流は思ったものの、顔に出すわけにはいかないので、顔には笑顔を張り付けたままだ。
「え? きら姉、僕の友達知ってるっけ?」
南光はそれなりに栄えているため、確かに同級生の誰かは住んでいたはずだ。
「……知るか」
「だよね」
ですよね、と心の中で思いつつ、微動だにしない従姉妹に静流は気圧されている。やっぱり無理だ、と静流は白旗を上げることにした。十八も上の従姉妹に勝てるわけがないのだ。
「ごめんなさい。でも、伝えに行ったのは良かったと思ってるし、後悔はない。だから、出て行けと言われれば素直に出ていくけど、きら姉は、伝える努力をした方がいいと思う」
謝りつつも静流は言いたいことを言った。
「はい?」
機嫌の悪そうな従姉妹に聞き返されたが。
「だから、今日伝えに行った相手には感謝されたし、喜んでた。だから、きら姉も、面倒だとか何だとかそう言う理由で伝言を預かるだけにするんじゃなくて、きちんと伝えようよ」
「違う」
それが“面倒だとか何だとか”という部分の否定だと静流がわかったのは、そこを言ったとたん、従姉妹の眉間にしわが寄ったからだ。長年の付き合いでそんな小さな表情の変化から静流は従姉妹に足りない語彙を足すくせが出来上がっている。
「だって……じゃあ何できら姉は伝言伝えてないのさ」
静流の問いかけに、はぁ、と大きなため息が返事として帰って来た。
これは仕方がない、ということだと静流は思っている。だからきっとこれから、その説明をしてくれるはずだ。
「上がって」
従姉妹が先に向かった先はダイニングだ。どうやらこれからテーブルで、ゆっくりじっくり、従姉妹の行間を読む時間が始まるようだと静流は理解した。
静流がダイニングに行くと、テーブルの上には伝言を書き記すノートが置かれていた。先に座った従姉妹を横目に、静流は自分用と従姉妹用のお茶を用意する。
「ごはん、どうする?」
麦茶を注ぎながら静流が従姉妹を見れば、従姉妹は「ラーメン」とぼそりと呟いた。元々静流がこの家で暮らす前は、従姉妹はインスタントラーメンを常備していて、その残りがまだあったらしいと静流も理解して頷いた。これで夜ご飯の問題は解決した。
「はい」
「ありがと」
お茶を差し出した静流にお礼を言う従姉妹の声は、さっきよりも幾分怒りは解けているらしい。多分、静流が最初から誤魔化そうとしたのがまずかったのだと、静流も理解していた。
静流はいつもの席に座ると、従姉妹の顔を見た。
従姉妹は静流を見てまた大きなため息をついた後、ノートを開いた。従姉妹が指さしたのは、今日、ついさっき伝えたばかりの伝言の主を書いた部分だ。
「死んでる」
静流は従姉妹が何を言ったのか理解できなくて、へ? と間抜けな声を漏らした。
従姉妹は静流の戸惑いを気にもせず、前のページをめくる。そこには前回静流が無計画に伝えた伝言の情報が書かれている。
「死んでる」
また従姉妹はそう言ってその部分を指さすと、静流の反応を待たずその隣にあった伝言主の名前を指さす。
「死んでる」
従姉妹はまたページをめくって伝言主の名前を指さす。
「死んでる」
「ちょ、ちょっと待って! きら姉、何言ってるの?」
従姉妹がノートから顔を上げて、静流を見る。
「事実」
そう淡々と言われても、静流には理解が追いついてこない。
「え……どういうこと?」
従姉妹はノートを持ち上げて、トントンとノートを叩く。
「全部死んでる」
「は?」
静流は全く従姉妹の言おうとしていることが理解できなかった。いや、理解したくなかった。
「全部幽霊」
従姉妹の顔は至極真面目に静流には見えた。
「はあ?!」
だが静流には理解が追いつかない。
だけどとても荒唐無稽なことを言っているのに、従姉妹は真面目な顔をしていて、そこに静流には嘘は全く見つけることができなかった。だから更に静流は混乱する。
従姉妹はまた今日のページを開いて、今日の伝言を伝えて欲しいと言った人間を指さす。 “お母さん”と書いてある部分だ。そして、静流をじっと見る。
「幽霊」
「いやいやいやいや、きら姉、何言ってる?」
静流はとりあえず否定した。そうでもしないと、静流の当り前が崩されそうで怖かったからだ。
「だから怒った」
従姉妹はその前のページをめくって、静流が伝言を伝えてしまった相手の名前を指さす。
「いや、そんなわけ……」
この間偶然出会ったその相手との会話を思い出しながら、静流は否定する材料を探そうとする。だが、遠い目だとか、いつと聞かれ言わなくていいと言われたことだとか、香っていたのが線香の匂いだったとか、思い出せば出すほど、それを否定するどころか肯定になりそうなことしか思い出せなくて、首を振って自分自身で否定する。
「今日は?」
従姉妹から今日の相手はどんな反応だったか、と問われたことに、静流はついさっきのことを思い出す。
あの親子は二人とも会いたがっていた。でも会えなかった。それは……。和田が泣いていた理由は。今日会ったと言ったことに驚いていた理由は。
「いや、違うでしょ……」
否定するよりも肯定する材料しか出てこないことに静流は絶望的な気分になりつつも、そんなはずはないと否定するほかない。
「だって……僕……幽霊とか見えるはず……ないし」
従姉妹が言っていることは、つまり静流が幽霊が見える、と言っているということだ。だが、従姉妹は静流の期待を裏切り首を横に振った。
「見える」
「そんなわけ、ないし!」
静流は強く否定するが、またもや従姉妹に首を横に振られた。
「昔から」
そんなわけ! そう静流は否定しようとして、何かが記憶をかすめた。
「怖がってた」
追い打ちをかけるように、従姉妹がそう告げる。
「……そんなの……」
記憶にない、と言おうとして、なぜ静流がこうまでもこのコミュニケーションがままならない従姉妹に懐いたのか、その始まりを静流は思い出していた。
小さな静流が怖いと泣くのを一番理解してくれていたのは、誰よりもこの従姉妹だった。今となれば、何が怖かったのかは静流には記憶にはない。でもそれも、この従姉妹に忘れていいと言われたからで、静流は確かに何かを見て怖がっていた記憶が……ある。
「知らない人とは目を合わせるなって……」
その頃に従姉妹から言われた注意事項を、静流は口にした。
「ついてくる」
続いた従姉妹の言葉に、静流は何が、とは問いかけなかった。
ぞわりとした何かが静流の背中を駆ける。
ならば、この間橋爪のアパートに行ったときに感じた嫌な気配は。
今まで感じていた、嫌な気配たちは。
「だから」
その従姉妹の一言に、昔幽霊を見て怖がっていた静流のことを考えると、従姉妹は静流が対応している相手が幽霊だとは言いにくかったのだと、そう静流は理解した。だが、である。
「なら、最初から手伝わせなかったら……」
怖がっていた静流を気遣うのなら、最初からその接触を断つようにするのが普通だと思う。
「見えるし」
どうせこの家に暮らしていくのだったら静流は遅かれ早かれ幽霊に会っていただろう、と従姉妹は言いたいらしい。それは確かにそうかもしれないが、静流は納得はできないし、今でもその相手が幽霊だったとは……思いたくはない。
「だって目が合ったらついてくるんでしょ。僕普通に来た人たちの目見てたよ?!」
「大丈夫」
あっさりと答えられた内容に、静流はますます納得がいかない。
「大丈夫じゃないでしょ。だって……幽霊なんでしょ」
本当かどうかは別として、そう仮定するのであれば、大丈夫だとは言い切れないと思うのだ。
「安全」
幽霊相手に安全って何だよ、と思いつつ、静流はため息をついた。
「安全ってどうしてわかるわけ」
「わかるから」
静流はこれ以上は従姉妹が説明する気がないと理解した。従姉妹の“知らない”は逃げの一手だが、“わかる”はこれ以上説明しないの表現だからだ。
「……幽霊とか……いきなり言われても……。いや、でも、あのヒトたちに会っても、全然嫌な気配とかなかったし!」
静流はようやく否定できる理由を思い付いて、従姉妹を見る。
「安全」
従姉妹はさっきの言葉を繰り返して頷いただけだった。
「え……、いや……でも……。なら、教えてくれておいても……」
これ以上否定できるようなことを思い付かなくて、困ったように従姉妹を見つめる。
「無意味」
従姉妹は静流の戸惑いを置いてきぼりに、ノートをトントンと叩いて見せる。
「いやそれは……違うでしょ」
だが、たとえそれが幽霊だったとしても、静流はその伝言を伝えないことが無意味だとは思えなかった。この間の出来事と今日の出来事を考えれば猶更。
「受けるのは」
伝言を受けるのには意味があると従姉妹は言いたいらしいが、勿論静流は納得できるわけがない。
「伝えることに意味がある」
「それはない」
「絶対ある。それが生身の人間であっても死んだ人間であっても!」
力説する静流は、とりあえずあの対応していた人間が幽霊だったのかどうかは横に置くことにした。今検証は無理だ。
「死んだ後はない」
静流はドキリとする。
確かにあれが幽霊だとしたら、本来なら伝えることができなかった言葉になる。だけど、である。だからこそ、だと静流は思う。
「残された人は救われるかもしれない」
「詭弁」
「どこが。実際二人とも納得してたし僕は感謝された」
「たまたま」
「たまたまじゃないし! きっとどんな伝言でも、きっと誰かは必要としてるんだって!」
「ない」
どうやら静流と従姉妹の意見は一向に交わりそうにもなく、このやり取りは一向に終わりそうにはなかった。
窓を通る風が一足早く出された風鈴を鳴らし、二人の議論にゴングを鳴らしたようにも聞こえた。