3話目 伝えてはならない伝言 前編
「何でだめなんだろうな」
カウンターに肘をつくと、静流はあー、と声を漏らす。その声に機械的な波がつき、勝手口のあるスペースに響く。
勝手口に作られたこのスペースにはエアコンがないため、少し暑くなってきてから家主の許可を得て扇風機を引き込んだ。それは今静流の真横にあるために、静流の声を揺らしたのだ。
静流の従姉妹は、『ことのは屋』というボランティアをやっている。それは、このカウンターのある場所に勝手口からやってきた人が伝えて欲しいという伝言を預かるボランティアだ。
静流はその従姉妹がやっているボランティアの手伝いで、伝言を預かる役割を担っている。それはこの春から始まった手伝いで、その実そのボランティアの全容を静流は全く知らなかった。
従姉妹は伝言を預かるというボランティアをしているだけで、その伝言を伝える気がないのだということを静流はついこの間知った。
従姉妹がその受け取った伝言を伝えに行くために出かけていると思っていたのは、静流の勘違いだったと言うことがつい最近判明したからだ。
それは、静流がこっそり従姉妹の後ろをつけて行って知った事実だったが、従姉妹は伝言を伝えるべき相手が住んでいる場所まで行っておいて、伝言を伝えることなく帰ってきていたのだ。何のために行ってるのかと聞いたら、従姉妹はぬけぬけと散歩と言ってのけた。
勿論静流はその言い訳に納得したわけもないし、そもそも伝えていないと気づいた時、伝えさせようと伝言相手のアパートへ従姉妹を連れて行って騒いでいる間に、その騒ぎを聞いて伝言を受けるべき相手が部屋から出てきたので、勢いで伝えて結果的に相手に怒られた。
それは男女間の別れの言葉で、確かに勢いで伝えるような内容でもなかったわけで、その怒りも静流にもわかるものだった。だが、後日偶然に会ったその伝言を伝えた相手に、逆に感謝されることがあって、静流はやはりどんな内容であったとしても、伝言を伝えるべきだと改めて思ったわけだ。
だが、静流の従姉妹は頑なで、どんなに説得を試みようと、最終的には静流を家から追い出すと言って静流の口を閉ざさせるため、説得は全く上手くいっていなかった。
あれから二日。伝言を預けに来る人がいなかったため、静流は何とか気にしないでいられたが、一週間に一度か二度は伝言を預けに来る人はいるため、数日もしないうちに誰かがここに来るだろうと思うと、気が重くて仕方なかった。
はぁ、と静流の気持ちをよく表した深いため息が、扇風機の風に揺れた。
カランカラン、と軽快な音をさせつつおそるおそる中に入ってきたのは、静流の母よりいくらか年上に見えるくらいのほっそりとしたショートヘアの女性だった。
「あの……」
その顔にはここにやって来る人特有の戸惑いと不安が見え、静流はその戸惑いや不安を吹き飛ばすように、ニッコリと笑って見せた。
「『ことのは屋』へようこそ」
静流のその笑顔には癒し効果があるのだと誉めてくれたのは、今は亡き元々のこの家の主だった母方の祖母だった。
その効果は未だ健在らしく、その女性は明らかにほっとした様子を見せた。いや単に、訪ねてきた場所が合っていたのだとわかってほっとしただけかも知れなかったが、どちらかと言えばポジティブにできている静流は、自分の笑顔の効果だと結論付けた。
「伝言を頼みたいのですが」
前回の伝言を受けた時、伝言を伝えに行っていたはずの従姉妹が実は伝言を伝えることなく伝言を受けていただけ、という事実を知った静流は、ものすごく複雑な気分で頷いた。勿論作り物ではあるが笑顔は張り付けて。
「はい、どうぞ」
「幸せに……なって、と」
真っ直ぐ静流を見据えて言われた言葉に、静流はドキリとする。勿論その眼差しの強さにドキリとしたのはあるが、それ以上に、その真摯な伝言を伝えられないということに後ろめたさからドキリとしたのだ。
「……以上でよろしいですか?」
静流はその言葉をノートに書き付けてからそっと小さく息を吐くと、何でもないことのようにいつもの言葉を付け加えた。
「……ええ」
女性は少しだけ視線をさ迷わせてから、ゆっくりと頷いた。
「どなたにお伝えしますか?」
申し訳ない気分になりながら、静流は尚も聞いていく。実際に伝えないのであれば、相手の名前を住所を本人の名前を聞いても無駄だと従姉妹には言ったが、従姉妹は頑なにその手順を変えないと静流の提案には何一つ頷かなかった。聞かないならこのボランティアはもう手伝わなくてもいいし、その分家賃をいれてくれと言われた。だから仕方なく静流はその手順を踏む。
「娘に……和田友加里に伝えてほしいんです」
名前を書きながら静流は頭を働かせる。きっと直接会えないのは、この女性による理由で離ればなれになって今更顔を会わせられないのかもしれないな、と。勿論静流のたった十八年の経験による想像の範囲内でしかないが、実の母親が実の娘に直接会えない理由なんてそんなにはないだろう。
「住所はどちらですか?」
「南光町石見三-四レジデンス南光六〇二です」
ずっと顔を合わせていないだろうに住んでいるところはきちんと頭に入っているんだと、静流はきっと住所がはっきり言われないだろうと思っていたこともあって驚きつつ紙に書き留める。
もしかしたらこの女性はずっと行きたいと思い続けていたのかもしれない。でも、きっとそれが叶うことはなかった。だから今こうやって『ことのは屋』に伝言を託しにやってきたのだ。
もしかしたらこの女性の娘は結婚を前にしているのかもしれない。そう考えれば、“幸せになって”という言葉を会えなくても伝えたいという欲求が強くなって当然だと、静流は一人納得する。
「あの、お名前をお願いします」
「……お母さんから、で伝わると思います」
ものすごく寂しそうに哀しそうに笑う女性に、静流は直接会って言ってあげればいいじゃないか、という気持ちが膨らむ。でも、それができないから、この女性はここにきているのだと、静流はぐっと我慢する。
そういう伝言を受け取るのがこのボランティアだと、静流は思っているからだ。いつもならきちんと名前を聞くところだが、もうすでにこの伝言が伝えられることがないと知っている静流は、それ以上追及する意味を見出せなかった。
「では、お願いします」
きれいに頭を下げてお辞儀をすると、その女性はまたカランカランと音をさせてドアから出て行った。静流もその女性のお辞儀につられるように深いお辞儀をして女性を見送った。
それくらいしか、静流にできることはないとわかっているからだ。
ベルの音が収まると静流は顔をあげ、カウンターの内側に置いた椅子にストンと座り込む。
そして、頭を垂れ、また大きなため息をついた。あの女性の気持ちを考えると、静流は切なくて仕方ない。実の娘に伝えたい言葉を伝えることができなくて藁をもつかむ気持ちで『ことのは屋』にやってきたはずなのに、その実、その言葉は結局伝えられることがないのだ。
静流が目を閉じれば、ものすごく寂しそうに哀しそうに笑う女性の顔が目に浮かぶ。
いや、無理だ。
静流は目を開けると勢いよく立ち上がる。従姉妹にこの家を追い出されたとしても、やっぱり、この伝言は伝えてあげたい。
結局のところ、静流にとってのマイナス点は、新しく住む場所を探して、自分のお小遣いのために働く必要が出てくるだけだ。静流は勝手口の鍵を閉めサムターンカバーをつけると、決意した目をして玄関に向かった。
*
「あ……マンション。」
スマホに写してきたノートの画像を見てその場所にたどり着けば、静流は上を見上げることになった。今日は一日曇っていたためか気温があまり上がっておらず、汗も噴き出るほどではない。それでも勢いで走ってここまでやってきた静流は、手の甲で額の汗をぬぐった。
依頼のあった場所は十階建ての立派なマンションで、その入り口には、もれなくオートロックがついている。
まだ日が高く、この間のような部屋の明かりで在宅かどうかを確認もできそうにもない。
この間みたいなアパートや一軒家ならば相手に会うことも難しくなさそうだが、オートロックのついたマンションで顔も知らない相手に会おうと思うのは結構難しいことなのかもしれない。
しかも、チャイムを鳴らして不審者と認められたら最後、静流は伝言を渡すべき相手に伝言を伝える術などなくなる。
一瞬、チャイムを鳴らしてその場で友加里さんに伝えてくださいと言ってしまう、という何とも力業的な方法を思いついたが、それを受け取った相手が相手なら、確実にその伝言は握りつぶされてしまうだろう。
静流は六階の位置をじっと見つめながら、何かいい方法はないかと考える。
でも結局出てきたアイデアは、チャイムを鳴らして娘さんの名前を言って本人を出してもらい、そして本人に母親からの伝言があると伝えることくらいしかなかった。
勿論、あの女性にも色んな事情があるだろう。だが、しばらく考えてちょっとだけ冷静になった静流は、娘の方にも言い分があって、その言葉を受けたくないと思う可能性があることに思い至った。
勿論伝えられるなら伝えたいと思うが、その言葉を娘が聞きたくないという場合には、もう一度だけチャレンジして諦めるしかないだろう。そうしなければ、静流が不審者として通報されてしまいそうだと流石に静流でもわかる。
静流にできることはそれくらいのことだ。
意を決して、静流はマンションの入り口で六〇二と部屋番号を押す。
ピンポーン、という思いのほか明るい音は、静流の緊張した気持ちを跳ねさせる。
『はーい』
聞こえてきた声は、若い女性の声だった。静流はもしかして、と気持ちが逸る。
「和田友加里さんはご在宅でしょうか」
『どちら様ですか?』
訝しそうな声に、そりゃそうだろうな、と静流も思う。インターホンの画像は荒くてもどう見ても若いスーツでもないそこら辺を歩いてそうな男が、女性を名指しで尋ねてきたのだ、それは訝しくも感じる。
「『ことのは屋』というボランティアをやっていて、友加里さんに用事があるんですが」
『『ことのは屋』? どんなボランティアですか?』
はたしてこの相手が友加里さん本人かどうかはわからないが、どうも詳細を話さなければならないらしいと静流は観念する。もう一か八かだ。それでだめだったら仕方ない。
「伝言を預かって伝えるボランティアで……友加里さんのお母さんから伝言を預かってるんです」
『え……』
インターホンの向こう側で、息を呑む音がした。その反応に、静流はやっぱり無理かな、と思わざるを得なかった。どう考えても、歓迎されている雰囲気はないからだ。
しばらくの沈黙も、静流のその考えを肯定させるに十分な沈黙だった。
『母から私に……伝言ですか』
それでもその返事に、静流は少しだけ光明を見出した。
「ええ。お母さんから、あなた宛てに伝言を預かっています」
『ちょっと出ますから、そこで待っていただけますか』
まさかの返事に、その言葉を信じてもらえたことと、娘が母親の言葉を受け取ってくれる気になっているという二つのことで、 静流は一気に気分が高揚した。
「ええ。勿論。お待ちしています」
インターホンが切れて、静流は、ヨシ、とガッツポーズをとる。勿論誰かに見られても変に思われない程度に小さくだが。
案外思っていたより簡単に信用してもらえたことに静流は安堵もしていた。きっと従姉妹は、相手に信用されるまでのやり取りが嫌で伝言を伝えていないんじゃないかと初めて考えつく。
確かに『ことのは屋』なんてボランティアをやっていると言われても胡散臭いだけだし、会えもしない相手から伝言を預かってます、と言われても、信用する謂れは全くない。静流がもしその伝言を受ける相手だとしたら、どうだろう。
案外自分は信じてしまうかも、と思っていると、マンションのエントランスから人が出てきた。
静流とそれほど年が変わらないくらいに見える女性が、きょろきょろと見回して静流の姿を認めると、静流に近づいてきた。
ああきっと和田友加里さんに違いないと、静流はぺこりと頭を下げた。女性が近づいてきて、静流は緊張が高まる。
「和田友加里さん、ですか?」
ええ、と頷く和田の表情は、訝しそうだ。まあ当然だろう。
「母からの伝言を預かってるって……」
何かを探るような視線で静流を見る和田は、明らかに警戒をしている。
「ええ。一言だけなので、ここでいいですか?」
静流はその一言を告げるだけのつもりだったが、和田は予想外に首を横に振った。
「少し先に公園があるので、そこで少し話を聞かせてくれませんか」
どうやら静流は尋問される側になるらしいと静流は理解して、でもそれも仕方がないことだろうと頷いて同意した。黙って先を歩く和田の後ろを、静流はこれからどんなことを尋ねられるのかと緊張した面持ちでついていく。
「ここで、いいですか?」
和田は公園に入ってすぐわきにあるベンチを選んだ。
「はい」
無論、静流に異論などあるわけもない。和田が座った後に、倣うように静流もベンチに座った。
「えーっと、私の名前はご存知のようですが、和田です」
「えーっと、秋本です」
静流も和田に倣うように自己紹介をする。そう言えば静流はまだ一度も自己紹介をしていなかったことに、今になってようやく気が付いた。
「あの……秋本さん。母からの伝言はいつ受けたんですか?」
「今日……です」
静流がそう言った瞬間、和田がひゅっと息を呑んだ。
その反応に、もしかしたら今日会ったなどと言うことは誤魔化した方が良かったのかもしれないと静流は思う。和田だって母親に会いたかったかもしれないのだ。だが今日会った静流にも、その母親の住んでいるところも連絡先も何もわからない。和田に渡せるような有意義な情報など何もありはしない。
「……今日……」
そう言って顔を手で覆った和田がその手をどかした時には、和田の目は潤んでいて、今にも涙が零れ落ちそうに見えた。
静流は下手な気休めなど何も言えそうになくて、口をつぐんだまま、和田の言葉を待つことにした。
「……そうか」
何かを思い出したように口元を手を合わせるように覆った和田が、口元から手を離し空を見上げた。
「そっか。今日、だから」
和田はそう言って、自分の中で何かを納得したようだった。静流はきっとこの親子の中で通じる日付が今日だったのだろうと理解した。
「私に会いに来てくれればよかったのに」
泣き笑いの表情で和田は静流を見た。その表情には、親子間にあるかもしれないわだかまりのようなものは静流には感じられなかった。だから静流はますます、伝言しか伝えるものがない自分が申し訳ないような気分になって、何とも言うことができなかった。
静流は従姉妹に言われたことなど守らず、無理やりにでもあの女性を和田に会うように説得すればよかったと後悔すらしていた。
「ごめんなさい。そんなこと言われても困るわよね」
静流の表情を正しく読んだらしい和田に、静流は首を横に振る。
「いえ。会いたい気持ちはわかります」
静流の言葉に、和田の目から涙が一筋こぼれた。静流は慌ててカバンからティッシュを取り出し和田に差し出す。
和田は小さくコクリと頷いて、そのティッシュで涙をぬぐった。スンスン、と小さく鼻をすすった後、和田は下げていた視線を上げて静流を見た。
「母は、どんな様子でしたか?」
「どんな……ですか?」
「ええ。元気そう、でしたか?」
和田が聞きたい内容を理解して、静流は頷いた。和田は今の母親のことを知りたいのだ。
「ええ。元気そうでしたよ」
その言葉に、和田がホッと息をついた。
「そうなんだ。……よかった」
その表情は本当に嬉しそうで、この親子間に会えない理由があるとは静流には到底思えなかった。だが、あの女性は会えないのだと信じてしまっていたために、こんな哀しいすれ違いが起こってしまったのだ。
静流は次があるならば、相手の連絡先もきちんと聞いておこうと心に決める。こんな哀しいすれ違いなど、ない方がいいに決まっている。
「髪はショートにされてました」
「え……そうか、ショートなんだ。似合ってた?」
「ええ、似合ってましたよ」
「そうなんだ。想像つかないな」
その髪型は和田の記憶になかったものなのか、少し戸惑った様子だったが、それでも、そんな小さな情報が嬉しいようだった。
「貴方のことを、心配されてるみたいでしたよ」
そんなことはあの女性は一言も言わなかったが、つい静流は言ってしまった。でも実際そう見えたのだ。だから嘘はついていない、と静流は誰にでもなく開き直った。
「……そう」
視線を落とした和田は、またこぼれてきた涙を指で拭うと、息をついて静流を見た。
「母は何と?」
ああ、直接あの女性に伝えて欲しかった、そう思いながら静流は和田を見つめた。
「幸せになって、と」
静流がそう言った瞬間、和田の涙腺が決壊したように涙があふれ出てきた。和田は顔を手で覆って、嗚咽を漏らさないように我慢しているように見えた。
「お母……さ……ん、会……い……たい……よ」
和田から漏れ出てきた声は、間違いなく和田の願望だろう。静流にだって、その和田の気持ちは痛いほどわかった。
会わせてあげたかった。それが静流の後悔だ。