21話目 言葉の代わり 前編
「秋本君、何かあった?」
御厨の問いかけに、静流はハッとする。
今日は御厨と一緒にショッピングモールに買い物に来ていて、御厨が入りたいと言った雑貨屋で、静流も置いてあるものを見ていた。つまりは、デートだ。
だが、どうやらぼんやりしすぎて、静流は御厨に呼ばれてるのを気づいていなかったらしい。
カーディガンを手に掛けた御厨が、静流の顔をじっと見ていた。
静流は気まずくなって足元に目を落とす。幽霊のことより、その理由の方が、今は言いづらかった。
御厨のカーキのパンプスが目に入る。このデートのために下ろした靴だと、御厨は嬉しそうに笑っていた。
静流は、その言葉が嬉しかったのを思い出して、顔を上げる。
「……あった、と言えばあったし、なかった、と言えばなかったんだけどね」
困った顔を見せれば、御厨が首を傾げる。
「私で良ければ、聞くけど? 聞いてもいい話?」
あいまいな言葉に、御厨は静流が話したくないのかもしれないと思ったらしい。
静流はすぐに頷いた。
「御厨さんも……関係してるから」
「私も?」
御厨の表情が曇る。
その表情を見て、静流が焦る。
「いや、悪いことってわけじゃないから!」
静流の言葉に、御厨がホッとする。
「そっか。……でも、何だろう?」
「歩きながらでいいかな?」
「もちろん」
御厨の笑みに陰りがないことを見て、静流もホッとする。
雑貨屋を出ると、静流はまだ先が長いショッピングモールの端を目指そうと、右側を向いた。
その隣に御厨が立つと、静流は頷いて歩き出す。
静流と御厨は身長があまり変わらないため、歩幅もあまり変わらないはずだが、御厨の方が歩みはゆっくりで、静流は御厨に合わせて歩調を落とす。
並んで歩いてはいたが、その間には少し距離がある。向かい側から来た人を避けるように御厨が静流に寄ると、手がぶつかった。
静流はドキリとした後、また離れた御厨の手を、そっとつかんだ。
伺うように御厨を見れば、御厨が目を伏せた。
静流だって、恥ずかしい。
だけど、御厨に触れたいと思う気持ちの方が強かった。
「それで、何があったの?」
静流のドキドキが収まる前に、御厨が繋げた静流の手を少し引いた。
御厨ならば、静流が話し始めるまで待ってくれそうなのに、問いかけてきたことを静流は意外に思う。
だが、目が合った御厨の顔を見て、静流は理由が分かった気がした。
御厨の耳は真っ赤だったし、少し目が泳いでいた。
どうやら、御厨はドキドキをごまかしたいらしい。御厨の気持ちが伝わってきて、静流の力が抜けた。
向かいから歩いてくる人とすれ違った後に、静流は口を開いた。
「見えなくなったんだ」
「え? 見えないって……幽霊が?」
驚いた表情の御厨に、静流は頷く。
「そう。全く見えなくなった」
「どうして?」
「えーっと……」
静流は口にするのが恥ずかしくなって、繋いでない手でポリポリと顔をかく。
「悪いことが理由ではない、だけど、私と関係するんだよね?」
「えーっと……御厨さんのことを本気で好きになったせいみたいで」
ついごにょごにょと言ってしまったのは、恥ずかしいから、それ以外にない。
隣で耳をすましていた御厨の顔も、また赤くなっている。
「そ、そんなこと、あるんだ」
「みたい、だね」
静流の言葉に、御厨が首を傾げる。
「でも、何でそれが理由ってわかったの?」
その追及に、一瞬逡巡した静流だったが、きっと御厨なら大丈夫だろうと思って口を開く。
「従姉妹も見える人で、どうやら人を好きになると見えなくなるんだって」
御厨は目を丸くはしたが、納得したように頷いただけだった。
「従姉妹さんも、見えるんだ。そういう家系があるのかな?」
「そうかもしれない」
「それで……見えなくなっちゃったのか」
そう言った御厨が、気づかわし気に静流を見る。
その視線の意味が分からなくて、静流は首を傾げる。
「何?」
「ううん。秋本君、だから、寂しそうな顔してるのかな」
御厨の言葉が予想外で、静流は首を傾げる。
「寂しそう?」
そう言われても、静流はピンとは来なかった。
「うん。多分、その表現であってると思うけど」
「そうかな?」
「今日、待ち合わせ場所で会った時から気にはなってたんだけど、その話聞いたら、そうなのかな、って思ったんだけど」
「幽霊が見えないのが? 寂しい……?」
「少なくとも、見えなくなったことが嬉しそうには見えないけど」
御厨が困ったように眉を下げる。
通りかかった洋服屋の鏡に、静流は自分の顔を映す。
自分で見る限りには、いつもと変わらない顔にしか思えない。
「そんなに違う?」
「あ、もちろん、そういう風に感じるってだけで……すっごく凹んでるようには見えないよ?」
慌てたような御厨に、また静流は首を傾げた。
「ちょっとした違い、ってこと?」
「そう、かな」
「でも、御厨さんは見るだけでわかるんだ?」
静流の視線に、御厨が耳を赤くして顔をそらした。
「一応、秋本君のこと、見てたから」
静流もそれが何を指すのかわかって、耳を赤くする。
「そっか。じゃあ、わかるのかもね。寂しいとか思ってるつもりはなかったけど……」
静流は御厨を見る。
照れたような顔の御厨が、静流の視線に気づいて首を傾げる。
「何?」
「ううん。好きになってくれてありがとう」
静流は御厨の手を握る手に少し力を入れた。
お返しのように、御厨の握る力も少し強くなって、くすぐったい気持ちになる。
静流の変化をわかってくれる御厨だからこそ、その些細な変化に気づいたのかもしれない。
寂しい。
静流はそう言われて、あの出会いを、案外楽しんでいたのかもしれない、と思う。
最後の伝言。
本当ならば、誰にも伝えられないはずの伝言。
でも、最後に伝えたい言葉を、残すためにあのヒトたちは『ことのは屋』へやってくる。
一人一人、その背景も、状況も、全然違う。
だけど、誰一人、誰かを傷つけたいとは思っていない。勿論、結果的には違うかもしれないが。
だから、会っても嫌な気分にはならないのかもしれない。
あのヒトたちに、もう二度と会えないのかと思うと、静流は確かに、ホッとしたものではなくて、そこはかとない寂しさを感じていることに気づく。
「表情って、見えない言葉みたいだよね」
御厨の言葉に、静流は一瞬止まった後、大きく頷いた。
「そうかも」
そう言って御厨の表情を見る。
静流の視線に気づいた御厨が、静流と目を合わせると微笑む。
その表情には、静流への好意が見えて、嬉しさと同時に照れ臭くなる。
静流は御厨に照れ笑いを返すと、のんびりと歩き出す。
『ことのは屋』にやって来るヒトたちも、その表情で語っていた気がする。
声が聞こえなくとも、表情が見れれば、と思ったが、伝えたいものは何も残せそうにない。
だが、静流は思い出す。
彼らがペンを持てたことを。
静流は、従姉妹に提案してみようと思う。
静流に幽霊は見えないかもしれないけど、ことのは屋に伝言メモを残す方法を。
きっと、従姉妹は「いい」とは言わないだろう。
だけど、静流は可能性を試したかった。
やってみなければ、わからないから。
そう決心すると、心なしか足取りが軽くなった気がした。
――この数時間後、静流の予想通り、従姉妹に二つ返事で却下されることにはなるのだが。
*
まだ残る春の空気に、学食も浮足立っているように感じる。
静流はカウンターでカフェラテを受け取ると、きょろきょろと学食の中を見回した。
「静流、こっち!」
奥の席で手を振るのは、青山だ。
青山は無事法学部の二部に合格し、この春から、静流と同じ大学の学生になった。
普段は仕事と大学の両立で忙しい青山だが、時折有休を使って大学に早く来ることがある。
今日も、静流の最後の授業と、青山の最初の授業の間に丁度時間があって、二人は学食で落ち合うことにした。
静流は速足で奥の席に向かう。
「久しぶり」
「いや、先月も会ったし」
青山が首をかしげる。先月大学の入学式があって、そこに青山も出席していた。
静流は、青山に会いに会場に行っていた。今日は、その日ぶりになる。
「いや、久しぶりだって」
「そりゃ、な。ほぼ毎日会ってる彼女と比べたら、久しぶりだろうな」
アイスコーヒーのグラスを片手にからかうような声色に、静流はムッとする。
「流石に毎日は会ってない」
静流は恥ずかしさを紛らすように、カフェラテに口をつけた。
青山は軽く笑うと、アイスコーヒーを一口飲む。
「だから、ほぼ毎日って言っただろ。どーせ、今日もこの後デートなんだろ? リア充め」
少々恨みがましい言葉とは全然違うからかう表情で、ニヤリ、と青山が笑う。
確かに、この後は御厨とのデートだ。この後用事があると静流は言っていたが、何の用事かは青山には言っていなかった。
図星をさされて、静流は気恥ずかしさから黙り込むしかない。
「ま、仲良きことはいいことかな。最近は喧嘩してないのか?」
からかうような表情を消して、青山が首を傾げた。
「喧嘩……って言うほどのものは、今までもないよ。ちょっとした意見の食い違いと言うか……」
付き合い始めてから、予想以上にお互いの考え方の違いに戸惑うことがあった。
その最たるものが、LINEの頻度だろう。
静流だって付き合い始めた当初は、御厨のLINEに律儀に返事をしていたが、その数は徐々に落ち着いた。
何しろ、一番身近にいる異性である従姉妹が、LINEしても既読すら翌日くらいにしかつかない相手である。だから、女子が頻繁にLINEをするものだとは、どこかで耳にしたことはあっても、それが重要なことだとは思っていなかった。
それが御厨的には、嫌われたのかもしれない、という深刻な話になったらしく、その誤解を解くのに少々てこずった。
「夫婦喧嘩は犬も食わないって言うからな。あー。俺も彼女欲しいなー」
「……受験生なのに愚痴に付き合わせてゴメン」
静流が申し訳なくなって告げると、青山は表情を変えず肩をすくめる。
時折、御厨との間にあるちょっとしたすれ違いに悩んで、静流は勉強を尋ねてきた青山に話すことがあった。もちろん、青山の受験勉強の邪魔になりたいわけではなかったので、ついポロリ、とこぼす程度だった。だが、それでも、誰にも悩みを吐露することがなかった静流にしては、弱音を吐いている方だった。
「どちらかと言えば、のろけだろ。お陰で、俺も早く大学生になって彼女作ってやる! ってモチベーション上がったけどな」
ニヤリと笑う青山に、静流は目を瞬かせる。
「のろけじゃないでしょ」
「当の本人は自覚なしだろうけどな」
屈託なくニシシ、と笑う青山に、静流は益々申し訳なさが沸いてくる。
「ゴメン」
「謝る必要はないけどな。のろけったって、2つか3つメッセくれるだけだっただろ。それくらいで落ちるならそれまでだろ。それに、モチベーションになったって言っただろ。そういうところ、気にしすぎ」
「……そうかな」
「静流は人の世話は焼くくせに、人に世話焼かれるのは苦手なのな。俺にも頼ってくれていいんだって」
「……ありがと」
静流の言葉に、青山が微笑む。
静流は息を吐いて、笑顔を返す。
「ところで、大学は慣れた?」
「何とかな。レポートとか多いのかと思ったけど、そうでもなくて助かってる」
「へー。そうなんだ。やっぱり二部だと両立する人が多いからかな?」
静流は相槌を打った後、視線を感じて顔をそちらに向ける。
そこには、静流達よりは大人びた女性が立っていて、静流と目が合うと、小さく会釈をされた。
静流はそれが誰だかわからずに、曖昧に会釈を返した。だが、思い出そうとしても、やはり誰とも思い出せそうになかった。
「静流?」
青山の声に、静流はその女性から視線を外す。
「どうかしたのか?」
青山が、静流が見ていた方向を見る。
それにつられて、また静流は女性を見た。
「いや、」
会釈されて、と言いかけた静流は、言葉を飲み込んだ。
さっきまでいたはずの女性は、もうそこにはいなかった。
「特に何もないけど?」
振り返った青山に、静流はポリポリと頬をかく。
さっきの女性は、どこに行ったのか。
視線を周りに向けてみても、さっきの女性の姿は捉えられなかった。
「いや」
何と言えばいいのか、静流は迷った。
それでも静流は、まさか、と思う。
幽霊はもう見えないはずだ。現にもうこの半年、静流は『ことのは屋』での店番をやっていない。
従姉妹がいるときにも、あの音がして動き出す従姉妹についていってみるが、静流には未だに幽霊の姿は捉えられていなかった。
「静流って、うちの猫みたいなんだよな」
唐突な青山の言葉に、静流は、へ? と間抜けな声が漏れた。
「どういう意味?」
「時々、うちの猫、誰もいない、何もないところをじっと見つめてることがあるんだよ。何見てるんだろ、って思って見ても、何にもないし。でもしばらくじっと見てるんだよ。静流も、時々そんなことあるからさ、高校の時から、うちの猫みたいだなと思ってた」
ハハ、と笑う青山に、静流はドキリとする。
高校の時、静流は自分が幽霊が見えるとは思っていなかった。
だが、青山の言葉の通りであれば、青山には見えていないものを、静流はじっと見ていた、と言うことになる。
それならば、今の女性は?
もしかして、幽霊が見えるように戻った、と言うことになるのだろうか。
「わりぃ。気悪くすんなよ」
考え込んでいた静流を、青山は気を悪くしたと勘違いしてしまったらしい。
静流は慌てて口を開く。
「いや、猫みたいって言われても気にしてないから」
「みたいだな」
青山は静流の焦る表情で理解してくれたようで、静流はホッと頷く。
そして、ふいに青山に言いたくなった。
「幽霊が見えてるって言ったら?」
静流の言葉に、青山がぽかん、と口を開く。
その反応に、静流は失敗した、と思う。
タイミングが早かった? いや、そもそも言うべきじゃなかった?
「何てな。冗談だって」
「何だよ、冗談かよ」
苦笑した青山が自分の前に置いていたアイスコーヒーに手を伸ばす。グラスの中の氷が、カランと鳴った。
「見えてる、って言われても信じるかもな」
静流を見た青山の表情は、からかうようでも、呆れたようでもなく、どちらかと言えば、真面目な顔だった。
「え?」
思いがけない言葉に、静流は聞き返す。
「いや、うちの猫が幽霊見てる、って言われても、そんなに変じゃない気するしな。俺には見えないものを見てるんだろうな、とか思ってたし。親父が亡くなった後も……」
静流は遠くを見る青山にハッとする。青山は、幽霊の存在を信じているのかもしれない。
「青山、」
「青山君?! 久しぶり!」
静流の言葉を割ってきたのは、静流も顔は知っている高校の同級生の女子だった。ただ、派手なグループの一員だということで、顔は知っていても、静流は交流のない相手だった。
「おう、久しぶり」
「どうして、ここにいるの?!」
「今年から、俺も大学生になったんだよ」
テンションの高い同級生に、落ち着いたトーンの青山が苦笑する。
「えー、嘘! 教えてくれればよかったのに!」
どうやら空気になってしまった静流の出番は、このままないかもしれない。
静流は表情を変えずに二人を見たまま、心の中でため息をつく。
青山に伝えたい、と言う気持ちが、徐々にしぼんでいくのが分かった。




