17話目 伝言はない 前編
静流はいつもは暑さに強いつもりでいた。だから、夏の暑さでバテたことなどなく、こうやってソファに横になってグダグダしている自分に自分でも驚いていた。
最近はあまりの暑さに火の前で料理をする気にもならず、連日素麺が続いている。勿論素麺を茹でるのに火を使いはするが、あっと言う間にゆで上がる素麺のお陰で、あまり鍋の前に立たなくていいことも重宝している理由だ。
従姉妹は幸い素麺の日々が続いても、嫌いではないらしく文句を言わず食べてくれるから助かっている。
その日々の食事が、益々静流から力を失わせているのだと言うことも理解しているが、片やだるいと言うでもなく元気に仕事に行っている従姉妹を見る限り、食べ物だけのせいにもできない。
もう大学も夏休みに入り、特にやることもない静流が、家賃を免除してもらっておきながら食事も作らずうだうだするわけにもいかない。だから最低限の料理をするが、昼は面倒でつい抜くこともある。
あまりの暑さに、勝手口のある小部屋にクーラーが設置されたのは、嬉しい誤算だったが、いくら過ごしやすい温度に下げられたとは言え、今の静流はリビングのソファから動けそうにはなかった。
つまりは夏バテだ。生まれて初めての夏バテは、ことのほか静流には堪えた。
カランカラン。
いつもより低い音がして、静流はきっと健紀が来たのだと思う。
どうやらあのベルは、幽霊が通る時にはいくぶん高い音色を鳴らすらしい。仕組みについては従姉妹も理解していないようだが、低い音が聞こえてきたら、それは生きている人間なんだと言う。
同時に入ってきた時にどう聞こえるのかは従姉妹も知らないらしい。
「静流!」
案の定聞こえてきた健紀の声に、静流はのっそりと起き上がった。
あの部屋にいかないでいると健紀は家の中に上がり込んでくるのだ。従姉妹は嫌がっていたから、静流も行かないといけないだろう。
「静流大丈夫か?」
だが、今回は動き出しが遅すぎたらしい。健紀が廊下から顔を出した。
「不法侵入」
「何が不法侵入だよ。俺は、今日きららから頼まれごとしてんの!」
「頼まれごと?」
「そ。お前の昼ご飯。ほら」
静流の目の前に、駅前のお弁当屋さんの袋が突き出される。
「から揚げ、普通に好きだろ?」
どうやら中身はから揚げ弁当らしい。
「ありがとう。……まあ好きだけど」
確かに静流はから揚げが好きではある。だが、今の夏バテ気味の今の状況で、から揚げが食べたいかと言われれば、大分違う。
「何だよ」
どうやら静流が微妙な顔をしたのに気づいたらしい健紀が、憮然と腕を組む。
「……もっとさっぱりしたやつが食いたかった」
「そんなんだから夏バテになるんだろ」
いや確かにそうかもしれないが、だがから揚げは静流の胃が今求めていないのだ。
「……そうかな」
納得は行かないが、静流が最近昼食を抜くことがあると知った従姉妹が健紀に頼んだと思うと、無下にもできず、曖昧な返事をしておいた。
『ピーンポーン』
のんきな音がして、お、と勝手に動き出そうとした健紀を押しのけて、静流は玄関に向かった。
確かに健紀は今日は従姉妹に頼まれてうちに来たのかもしれないが、だからと言って、我が物顔で動かれても困る。
従姉妹の気持ちは確実に健紀にはなく、健紀がうちの中を我が物顔で歩いていたら、光に申し訳ないような気がしたからだ。
「はーい」
「えーっと、きららの……友達の光だけど」
ついさっき思い浮かべた人物の声がして、静流は驚く。鍵を開けてガラガラ、と戸を開けると、この間来た時よりもラフな格好の光がこれまた食べ物が入っていそうな袋を持っている。
「差し入れ。夏バテらしいな」
どうやらその会話を従姉妹とした人物がもう一人いたと知って、静流は何とも言えない気持ちで頷く。最初から光が来てくれた方が、静流的にも複雑な気分にならずに済んだのに、とすら思った。
「きら姉、仕事でいませんよ?」
光が会いたいのは従姉妹だろうとその名前を口に出せば、光が首を振った。
「きららがいないのは知ってる。今日は非番で、静流君が話を聞きたがってたし、と思って来てみたんだけど、今からいいか?」
夏休みで特にやることもない静流には断る理由などない。頷いて、光を招き入れた。居間に戻ると、まだ健紀がいて、我が物顔でソファに座っていた。
「あれ? 静流、誰?」
健紀の存在を一瞬忘れていた静流も、嫌が応にもその存在を思い出した。
「健紀さんありがとうございました。お客さん来たんで、帰って下さい」
あ、と健紀が声を漏らして、光をまじまじと見ている。
健紀と光は四つ違うはずで、光の住んでいるところも実家もこの近所ではなさそうなので、顔見知りのはずはない。だが、健紀は光のことを見たことがある雰囲気を醸し出している。
「帰って下さい!」
「はいはい。じゃ、お邪魔しました」
静流がきっぱりと言うと、健紀は渋々立ち上がり、部屋を出ていく。
「誰?」
光の問いに、静流はどう言っていいか困る。この間はライバルがいると言って見せたが、はっきり言って、健紀は従姉妹の眼中にない。今日来たのだって、単に頼める近所に住む人間が健紀くらいしか思いつかなかったからだろう。静流だって、健紀くらいしか思いつかない。
「近所の人?」
カランカラン、と音がして、健紀が出て行ったのはわかった。
「さっきの人、どこから出て行ったわけ?」
ベルの音に、光が戸惑ったように廊下の方に視線を向ける。
「勝手口からです」
「……それって、勝手口はいつも開いてるってこと?」
「そうなりますね」
「不用心だろ」
顔を険しくした光に、静流はため息をついて見せる。
「それ、きら姉に言ってもらえますか。僕が言っても聞いてもらえなくて」
「きらら……一人の時もそんなことしてたってこと?」
「そうなんですよ。不用心だって言ったんですけど、別に大丈夫だろうって。うちに取られるようなものはないし、きら姉は襲われることはないって」
光から言われれば従姉妹も気持ちを変えるかもしれないと、静流はありのままを伝える。
「何でそんな不用心なこと!」
怒ったような光は、従姉妹のことを本気で心配しているんだろう。これが、健紀と光の違いだな、と静流はその怒りの矛先が自分にないのを理解して、そんなことを冷静に思っていた。
「……でも、開けてるのには理由もあって」
「一体どんな理由が?」
「幽霊が入って来るのに、開けといて欲しいって」
「……あー。もう。ちょっと勝手口見せてもらえる?」
従姉妹のやりたいことを理解したんだろう光は、対策がないのか考えることにしたらしい。静流は頷いて勝手口のある小部屋へ光を連れて行く。
「……この部屋って、元々何の部屋だったの?」
不思議な作りの部屋を、光がぐるっと見回す。
「元々は隣の部屋とくっついてて、台所があったはずです。いつだったか忘れたんですが、リフォームして隣の部屋と仕切られて、物置になってたはずで、こうなったのは、たぶん二年くらい前です」
「……わざわざこういう部屋にしたってこと?」
「そう言ってた気がします」
「で、あれが例の勝手口なわけね」
勝手口に近づいた光が、ドアを開ける。カランカランと低い音がして、光は上を見上げる。
「このベルがあるから大丈夫とか、きらら思ってるわけじゃないよね?」
「……わかりません。でも、そうかも。音の高さで、入ってきたのが幽霊なのか人間なのかがわかるから」
は? と光が静流を振り返る。
「そのベル、幽霊がドアを開けたときには、もっと高い音がするんです」
「……どんな仕組み?」
「残念ながら、僕もきら姉もその仕組みはわかりません」
「……このドアそもそも、鍵かけてても簡単に開けられるよな……」
何か言いたげに光はドアノブを見つめている。
「一応サムターンカバー、あるんです」
しずるがカウンターの下からサムターンカバーを取り出して見せれば、光が近づいてきてサムターンカバーを見る。
「まあ、ないよりはマシか。でもこのドアだとこじ開けられたりとか……」
「光さん、そんなこと言ったら、この家ものすごく無防備なので、セキュリティないに等しいですよ」
「……古い家だからな」
はぁ、とため息をついた光は、ドアをじっと睨む。
「そう言えば、幽霊ってすり抜けて入って来るもんじゃないの? 勝手なイメージだけど」
「……普通はそうみたいですよ? そのドアだけなぜか開けられるらしいです」
「どんな仕組み?」
「よくわからないんですよ。この部屋に入ると、何も持てないはずの幽霊がペン持てたりとかするらしくて」
「……さっぱりわからん」
光が首を横に振る。
「大丈夫です。僕にもわかってないし、きら姉もペン持てるって僕が教えて知ったみたいでしたから」
「で、つまり、このドアは、開けないと幽霊は入れないってこと?」
光にそう言われてみて、静流はあれ、と思う。
「いえ。サムターンカバーが付いて無ければ、幽霊は鍵かけてても入ってこれます」
一度静流が怖い思いをしたとき、あの時はドアの鍵は閉まっていて、でもサムターンカバーをつけていなかったせいで、あの悪霊ともよべる幽霊がこの部屋に入ってきてしまっていた。
確かその時、ベルの音もしていたはずだ。従姉妹がベルの音にこだわるのであれば、閉めていても大丈夫かもしれない。
「閉めてても、大丈夫かもしれません。ベルの音も、その時もしていた気がしますし」
「……じゃあ、今日は閉めておいてもいいか?」
光が少しホッとした様子で、そう提案してくる。
「はい」
「……実際に幽霊が来ないと分んないけどな」
カチャリ、と光が鍵を閉めた。
「そうですね」
静流たちは小部屋を後にして、居間に移動する。
「そう言えば、さっきの近所の人とやらは、何しに来てたんだ?」
「ああ。お弁当を買ってきてくれたんです」
「……あー。そうか。俺の差し入れ要らなかったな」
そう言えば差し入れと言って何か買ってきてくれていたのを、静流も思い出した。
「えーっと、何を持って来てくれたんですか?」
「夏バテって聞いたし、最近まともなもの食べてないらしいって聞いたから、サラダうどんとバンバンジーなら、さっぱりして食べられるかと思ったんだけど」
「ありがとうございます!」
静流はそれなら食べられると、すぐに反応した。
「え……買ってきてもらったお弁当はいいのか?」
居間に戻って、ローテーブルの上に置いてある健紀の買ってきたお弁当を、静流は苦笑して持ち上げる。
「……から揚げ弁当は、今はちょっと」
「そうか。確かに胃もたれしそうだな」
「そうなんです。だから、光さんが買ってきてくれたもの、もらいますね」
「おう。何ならから揚げ弁当俺が貰おうか? 俺もサラダうどん買ってきたんだけど、足りないなって思ってたところだったんだけど」
「ぜひぜひ貰ってください!」
丁度いいトレードができたと、静流はローテーブルにあった食べ物たちをダイニングのテーブルに置きなおした。
「お茶だすんで、座って下さい」
静流の声に、光はこの間と同じ席に座った。
トン、とお茶を出すと、袋の中身を二人で広げる。サラダうどんは、そこそこボリュームがあるように静流には見える。
「光さん、結構多いですけど、両方食べられますか?」
「体力勝負の仕事だからな。今でもこれくらい軽く食べられるんだよ。……これ年とって管理職とかなった日には、摂取カロリー過剰でぶくぶく太るんだろうなって思うんだけど」
「……すごいですね」
静流も食が細いとは言えないまでも、お弁当を二つ食べることはない。
「感心されるようなことでもないから」
苦笑しながら光は蓋を開けていく。
「いただきます」
二人そろった声は、静流にとって居心地が良かった。
「ところでさっきの近所の人、平日の昼間に暇って何の仕事してるわけ?」
「あー。ここの近くの神社の神主……見習いなんですよ」
実際に健紀の身分が何かは知らないが、まああながち間違ってはないだろう。
「あいつ、どっかで見たような気もするんだよな」
「……たぶん光さんたちの四つ下なんで、学校が一緒になったことはないはずです」
「四つか。確かに学校が一緒になることはないな。……あれ?」
光がうどんをつかんだ箸を止めた。
「何ですか?」
「それって俺が高校生の時には中学生ってことか?」
「そうなりますね」
「きららに突っかかってきてた中坊いたな。確かきららにタケって呼ばれてた」
「あー。まさしくそれです」
「あれか」
光の苦笑の意味が分かって、静流も苦笑を返す。たぶん、光には健紀が従姉妹に突っかかっていた意味が分かっていたんだろう。
「今も?」
「きら姉はこれっぽっちも相手にしてないから大丈夫です」
その静流の情報にほっとする光に、やっぱりなぜ、と静流は思わずにはいられない。