14話目 伝わる伝言 後編
翌日、従姉妹はいつもと同じように仕事に向かった。泣きはらした様子もなければ、気負ったような様子もなく、いつもと同じで淡々と仕事に向かった。逆に変化がなかったことに、静流はホッとしていた。
普段見ない従姉妹の感情的な部分をどう扱えばいいのか、静流には考えきれなかったからだ。
そのうち健紀に聞いてみよう、と思いながら、静流も大学に行く準備を急ぐ。今はテスト期間で、遅刻は厳禁なのだ。
*
まだ梅雨明けの宣言はされていないが、ここの所晴れ間が続いている。早かれ遅かれ梅雨明けは宣言されるだろうと、静流は最後の課題であるレポートをまとめながら、来るヒトのない小部屋で集中していた。
カラン、と中途半端なベルの音がして、ドアを見て見れば、恐る恐る、と言った風に中を覗く従姉妹より若い女性がいた。その年で亡くなってしまったのだとわかって、静流は心が痛む。静流が会ったここにやってきたヒトの中で、一番若い。
「ようこそ、『ことのは屋』へ」
静流の言葉にピクリと反応したその女性は、少し躊躇した後、カランカランとベルの音をさせて中に入ってきた。
「伝言ができるって、聞いたんですが」
一体誰にその話を聞いてくるんだろうな、と今更ながらの疑問を持ちながら、静流は大きく頷いた。
「ええ。伝言をどうぞ」
静流がノートを開いて女性の顔を見る。少し考えこんでいた女性が、口を開いて、また閉じる。
静流は黙って女性がしゃべり始めるのを待つ。
沈黙が五分なのか、十分なのか、永遠とも思える時間の後、女性がやっと口を開いた。
「……愛してるって、伝えてもらえますか」
静流は小さく頷いて、ノートに書きつける。この言葉を伝えたい相手とこの年で別れてしまったのだとわかると、静流の胸は締め付けられた。
「伝言を伝える相手はどなたですか?」
「はるか。……雪下はるか。降る雪に上下の下、はるかはひらがなです」
静流はこの相手のことを一瞬で想像する。この女性が“愛してる”と伝えたい女性の相手。それは?
「住所は?」
ともすればかすれそうになる声を何とか保って、静流は笑顔を作る。
「江本町の木島五-二-二 コーポカラシマ三〇一です」
「貴方の名前は?」
「雪下のぞみです。のぞみはひらがなです」
ノートに書きつけていきながら、静流はきっと伝言を伝えたい相手はこの雪下の子供だろうと思う。ちょっとぶれてしまった字は、静流の動揺だ。
「他に伝言はありませんか?」
「……あの……」
「何でしょうか?」
また口を閉じてしまった雪下に、静流はつい先を促す言葉を告げる。
「……この子が言葉がわかるようになってから伝えてもらうことってできますか?」
その言葉だけで、相手がまだ言葉もわからない幼い子供だとわかって、涙がこぼれそうになる。
だが、従姉妹はそもそもこの伝言を伝えるつもりがないのだ。数年経ったからと、従姉妹が動いてくれる気はしない。
でも、伝えてあげたい。その気持ちが、心の奥から湧き上がってくる。
幽霊の言葉を伝えたことで、気持ち悪いと言われる可能性も、奇異の目で見られる可能性も大いにある。しかも、亡くなってから何年もたった母親の言葉だ。信じてくれる可能性だってないに等しい。だが、静流はどうしても伝えたいという気持ちが強くなった。
だって、そうでもしなければ、その子は母親から愛された言葉を受け取った記憶がないのだ。
静流の独りよがりな気持ちだとは知っている。理解している。
だが、何とかしてあげたいという気持ちが、静流は抑えられそうにはなかった。
ふと、視界に見えたボールペンに、静流はあの事を思い出す。
この場所ではペンが持てた、と言っていた橿原のことを。
そうだ、と静流は頭を働かせる。
「あの、まだ時間は大丈夫ですか?」
「……あとちょっとだけなら」
「便箋と封筒を持ってくるので、待ってくれませんか」
「え?」
戸惑った様子の雪下をその場に置いて、静流は自分の部屋へ走りこむ。
普段手紙など書くことはないが、離れて暮らす静流の母親からたまには手紙を書いて送れと押し付けられた便箋セットがあったはずだ。使いもしないので、どこかに押し込めていたはずだ。
静流は記憶を手繰りながら、案外あっさりと便箋セットを見つけ出す。勢いよく勝手口のある小部屋に戻れば、雪下が所在なさそうに立っていた。
「これで、手紙を書いてあげてください。筆跡はあなたのものなので、ご家族が見たらあなたが書いたものだとわかるんじゃないでしょうか」
「え、でも……ペンが……」
雪下も、何も持てないと思っているようだ。静流は置いてあったボールペンを差し出す。
「この間ここに来た方が、ここだとペンが持てるって言ってました。ドアもすり抜けるんじゃなくて、普通に開けれたでしょう?」
恐る恐る雪下がボールペンに触れ、驚いたように目を見開く。
「書いてください」
静流が便箋を差し出すと、おずおずと雪下が便箋を受け取る。
「書いて、いいんでしょうか」
「いいと思います。だって、書けるんですから」
「信じてもらえるでしょうか」
「……僕が伝えに行っても、信じてもらえない可能性の方が高いですから。それなら、雪下さんが書いた手紙の方が、よっぽど信ぴょう性がありませんか? 僕なんてたぶん、不審者扱いしかされませんから」
静流が苦笑して見せると、雪下が苦笑を返して、便箋に文字を書く。静流は書いている中身を見ようと思っていたわけではないが、視界に入ってきた雪下の字は丸っこくて小さくて、特徴のある字ではある。これならば、家族は雪下の言葉だと信じてくれるかもしれない。
雪下は二行ほど書くと、ペンを置いた。
「もういいんですか?」
静流の問いかけに雪下は柔らかな笑顔で頷いた。
「十分です。こうやって伝言を残せる機会をもらえただけでも、贅沢でしょう?」
本当なら小さな子供を置いて先に亡くなったことに未練があるはずだ。その未練をどこに置いてくることができたのか、静流は不思議な気持ちでその笑顔を見た。
でも、まだ終わりじゃないと我に返る。
「住所とあて名と、自分の名前を書いてください」
封筒を差し出せば、雪下は小さく頷いて封筒に記していく。書き終わった雪下が、便箋を丁寧に折って、封筒の中に入れる。
「お願いします」
静流は頷いて、差し出された封筒を受け取る。直接ポストに入れるつもりだ。従姉妹からは反対されるだろうが、静流は誰が何と言っても、やるつもりでいた。
「お願いします」
もう一度念を押すように雪下がお辞儀をする。その声には涙が滲んでいる。静流もつられるように涙が滲んで、慌てて飲み込んだ。
「絶対、渡しますから」
顔を上げた雪下は涙の気配はさせずにニコリと笑って、小さく頷いた。そして、踵を返すと、来た時とは違うどこか堂々とした様子でドアを開けて出ていく。
静流は受け取った封筒を握ったまま、雪下が出て行ったドアから目が離せなかった。
*
「ただいま」
ドアから顔を出した従姉妹に、静流は封筒を隠してノートだけ取り出す。
「一人来たよ」
「そう」
ノートを受け取った従姉妹は、ぱらぱらとノートをめくると雪下の伝言を記した部分を読み始める。
「お子さんがまだ小さいらしくて、言葉がわかるようになってから伝えてくれないかって」
ノートには書かなかったが、とりあえず静流は従姉妹に言ってみることにした。従姉妹は顔を上げて、目を伏せた。
「若いヒト?」
「うん。きら姉より若いと思う」
「そっか」
しない、と即答しない従姉妹に、静流は少しだけ従姉妹の気持ちの変化を読む。もしかしたら、この間橿原からの伝言を受けたことが、従姉妹の気持ちに変化を与えたのかもしれない。
「行く?」
いいとも悪いとも言わず、従姉妹はいわゆる“散歩”と呼ぶ儀式に静流を誘ってきた。
静流はもしかしたら従姉妹にも同意が得られるのかもしれないと少し期待しつつ、頷いた。
従姉妹から反対されても実行するつもりではいる。でも、従姉妹から同意が得られた方が、静流としても気持ちが落ち着く。
それは、従姉妹がどういうつもりで伝言を伝えないのでいるのか、そのすべての理由を静流が知っているわけではないと考えているからだ。
結局雪下に書いてもらった手紙のことを静流は言い出せないまま、静流と従姉妹は雪下の告げたアパートにたどり着いた。
まだ完全には夕闇は落ちておらず、辺りはまだ薄明るい。街灯の明かりはまだ目立つことなく光っている。
アパートを見上げた従姉妹が、ねぇ、と静流に声を掛ける。
「未練は?」
「……なさそうに見えたよ。ただ、伝えて欲しいって」
「不思議」
ぽつり、と従姉妹が呟く声に、静流は何とも答えられなくて、じっと従姉妹の顔を見る。薄い明りの中、従姉妹が口を開く。
「ないはずない」
未練がないわけがないのに、という言葉には、確かに静流も頷きたくなる。だが、『ことのは屋』にやってくるヒトは皆、まだ生きたいという気持ちを感じることがない。だから、静流は頷きようがない。
「……きら姉は、どういうつもりで、伝言預かってるの?」
「知らん」
はぐらかされたことは静流にもわかったが、これについては静流は深追いはしなかった。
「この間、橿原さんから伝言受けた時、どう思った?」
静流は気になっていたが聞けずにいたことを従姉妹に問いかけた。
「伝えたい?」
従姉妹は静流の質問には答えずに、静流が今一番聞きたいことを尋ねてきた。多分、静流の質問の意図をきちんと読んだらしい。
「伝えようと思ってる」
静流は誤魔化すことはせず、正直な気持ちを告げた。従姉妹はじっと静流を見ると、肩をすくめた。
「決めてる」
止めても無駄なんだろうと言われて、静流は自分が思っている以上に、従姉妹に思考を読まれていることに気付く。だから、黙っていることが無駄な気がした。
「手紙を書いてもらったんだ」
静流の言葉に、従姉妹の目が見開く。
「どうやって?!」
信じられないものを見るような従姉妹に、従姉妹でも知らないことがあるんだと、静流の方が驚いた。
「あの部屋、ペンが持てるようになるらしくて……ほら、ドアも開けて入ってくるでしょ? それと同じ原理みたいだよ?」
「うそ」
「これ、書いてもらった手紙」
静流がバッグから雪下の手紙を取り出すと、従姉妹は手紙を見て、大げさにため息をついた。
「いいんじゃない」
大きなため息に、ダメ出しがくるのかと身構えていた静流は、一瞬従姉妹の言った言葉が理解できなかった。
「え?」
OKが出たような気がするが、気のせいだったような気もすると、静流はもう一度同じ言葉を所望した。
「いいんじゃない」
従姉妹は静流から視線を逸らすと、またアパートを見上げた。
「知る権利」
それが、従姉妹が今回OKした理由らしい。
「じゃあ、他の人も?」
従姉妹は一瞬止まって、首をゆっくりと横に振った。これは、今現在の従姉妹の精一杯の妥協点なのかもしれない。相手が小さな子供だから、というのが大きな理由かもしれないが、それでも、伝言を伝えることにOKしたのは、今回が初めてだ。
橿原の伝言が、従姉妹の気持ちを変えたのかもしれない。
「ポストに入れてくる!」
跳ねる静流の声に、従姉妹は肩をすくめて見せただけだった。
ポストに向かう静流の足は、従姉妹に隠し事がなくなったこともあって、一層軽くなったような気がした。




