13話目 伝わる伝言 前編
静流にはちょっと変わった従姉妹がいる。
ちょっと、という表現でいいのかは、賛否両論あるだろうが、静流からすれば、ちょっとだけ変わっている。
まず、しゃべる言葉は基本的に単語だけ。
まあこれは、日がな一日奥さんとほとんどしゃべることなく過ごす口下手なおじいさんを思い浮かべれば、日本には割りにいるタイプかもしれない。
……例えそれが三十代女性だとしても。
だから日々静流はその行間を読む必要があるのだが、五歳の時から十三年近くその修行をしてきた静流には、それほど大変なことでもない。
次に、静流の従姉妹は、幽霊が見える。それは霊感があると言うことなのかも知れないが、何となくわかる、レベルではなくて、わりとくっきりはっきりその存在が見えてしまう。……なぜ静流が分かるかと言えば、静流もまた、幽霊が見えているからだ。だから、世間一般からすれば、大分変わっているとカテゴライズされるこの事実も、静流からすればちょっと変わっている、にランクダウンしてしまう。
そして、静流が従姉妹をちょっと変わっていると定義付けた一番の理由は、従姉妹がその幽霊たちの伝言を預かるボランティアをしているからだ。
最初は普通に伝言を預かるボランティアだと思っていた静流だが、従姉妹がその伝言を預かるだけ預かって実はその伝言を相手に伝えることはないと知ったとき、静流は従姉妹はやっぱりポンコツなのだと思った。
言語聴覚士という言葉を操る仕事をしている人間が単語しか喋らないのは仕事にならないと思うし、しかも残業を断固としてしようとはせず家に早々と帰ってくる従姉妹は、社会人としての何かが欠落していると……静流は思っていて、常々従姉妹ポンコツ説を心の中でひそかに唱えていたわけだ。それが受け取った伝言を伝えないという暴挙で、やっぱりポンコツだと静流が結論付けることになったわけだが。
だが、ポンコツな従姉妹に代わって静流が伝言を伝えた相手から罵倒される出来事があってから、静流は自分が小さい頃友達に同じように罵られたことがあったのを思い出した。だから、従姉妹が伝言を伝えない一因がそのことにあるだろうことは理解した。
従姉妹がなにも考えずに伝言を伝えない訳ではないと知って、静流は従姉妹が単なるポンコツではないと少しだけ考えを改めたわけだ。
梅雨が予想外に早く明け、急に夏になった。
暑さは厳しく、エアコンのない勝手口のある小部屋は早々にサウナ部屋になった。
従姉妹はあの部屋で過ごすことの多かった静流のためにエアコンを備え付けることにしたらしく、先週エアコンがついた。
快適になった小部屋で、静流は大学の課題やテスト勉強をここですることが多かった。
十分なスペースとは言えなかったが、静流にとっては集中できる場所だった。
カランカラン、という高いベルの音がして、静流は顔を上げる。
「こんにちは」
にこやかな老女がドアから顔を出した。
「『ことのは屋』へようこそ」
静流はいつものノートを取り出すと、老女の歩みを待つ。
「『ことのは屋』さんは、かわいらしい男の子がやってるのねぇ」
ニコニコと笑う老女に、静流は肩をすくめる。
「僕は店番をやってるだけなんです」
「あら、そうなの。じゃあ、店主さんによろしくお伝えくださいな。伝言を受け取ってくれる場所があるだけで、助かるわ」
「ええ、伝えておきます。では、伝言を」
「そうねぇ。よくしてもらって感謝してるわ、って伝えてくださる?」
「どなたに?」
「……あら、名前がいるのね。あら、何て言ったかしら。珍しい名前だって言うのは覚えてるんだけど」
これは顔見知り程度の相手に伝える伝言なのだと静流は理解した。前までなら名前のわからない相手に対する伝言は預かっていなかった。だが、直接伝えるわけでもないことだと理解している静流は、そのままこの伝言を受けることにした。
「どこで会った方ですか?」
あ、と老女が声をあげる。
「病院よ。すぐそこのM病院」
M病院と言われて、静流はドキリとする。従姉妹の勤務先でもあるからだ。もしかしたら従姉妹に問えばヒントで誰かわかるかもしれない。
「どんな仕事の方ですか?」
「……看護師さんだと思ってたんだけど、看護師さんの着てる服とは違う服だったのよねぇ」
老女は思案顔になり、頬に手を添えた。病院で看護師以外の仕事と言えば、まだ沢山あるだろうし、静流も全部は想像できない。
「どんなことをしてもらったんですか?」
「顔のマッサージだとか、口の中をきれいにしてもらったりだとか、時折私が目が覚めてるときにはゼリーを食べさせてくれたのよ。甘くてねぇ、美味しかったわ」
それだと静流には全く仕事が想像できなかった。とりあえず何かのヒントにはなるだろうと、静流はノートに書きつけていく。
「私が寝てるときには、マッサージしながらねぇ、色んな話をしてくれたわ」
「どんな話ですか?」
クスクスと老女が笑い出す。
「それがねぇ、不思議な話なのよ? 変な幽霊に会った話だとか、小さい従兄弟が幽霊に会って怖がる話だとか、そんな話」
は? と静流は固まる。そんな話をしそうな人間に一人、心当たりがありすぎるからだ。
「あの、もしかして……それって井形さんって人じゃありませんか?」
しずるは恐る恐る従姉妹の名字を口にした。
「あ! そう。井形って名前だったわ」
静流は苦笑しながらその名前をノートに書きつける。
「あら、お知り合い?」
「……従姉妹なんです」
「そうなのねぇ。じゃあ、井形さんによろしくお伝えくださいな……」
そこまで言った老女がまじまじと静流を見る。
「もしかして、あなたが……幽霊を見て怖がる従兄弟さん?」
「そうだと思います」
さっき、面白そうに笑っていたことと、既に亡くなっているこの老女相手に否定する必要も感じなくて静流は肯定した。
「あの話は本当だったのねぇ。作り話にしては描写が細かいと思ってたのよ」
「井形さんは……しゃべるんですか?」
静流の疑問に老女が首をかしげる。
「よくしゃべってるわよ?」
「よく、ですか?」
よくしゃべる従姉妹、というのが静流には想像できなくて、今度は静流が首をかしげた。
「私が話せない分、しゃべってくれたんじゃないかと思うわ。……井形さんにお会いした頃には、私の声は出なかったから」
どうやら老女は病気のせいなのか、声を出せない状況だったらしい。
「そうなんですね」
「でも、幽霊の話は、私が目をつぶってるときにしかしてくれなかったわね。目を開けてるときは、天気の話とか今日のニュースだとか、最近あった面白かったこととか、私が色んな情報を得られないからでしょうね。……井形さんは、優しい人ね」
はっきり言って静流には従姉妹がどんなつもりで話しかけているのかはわからない。だから、曖昧に頷いておいた。
従姉妹が優しい、という事実を否定するつもりはあまりない。ただ、職場でだけふつうにしゃべっているその従姉妹の気持ちが、静流にはわからなかった。
「井形さん最後に、何もできなかった、って言っていたの。でも、そんなことはなかったって、伝えてくれるかしら。私は充分良くしてもらったわ。……良くならなかったのは、それが私の寿命だったからよ、って」
達観したようなその言葉には、愁いのある気持ちは全く見当たらず、静流の耳にもあっさりとした言葉に聞こえた。
「はい。必ず伝えます」
静流はノートに老女の言葉を書きつける。静流が伝えなくても、従姉妹はこのノートを見るのだから、必ず伝わるはずだ。
「あの、お名前は?」
「橿原トミ。トミはカタカナなんだけれどね、橿の字が難しいのよ。ペン貸してくださる?」
橿原にそう言われ、静流はボールペンを差し出す。橿原はそのボールペンをすらすらと動かすと、橿原の“橿”の字を書いてくれた。
「文字が書けるなら、手紙でもしたためればよかったわねぇ」
頬に手を当てながら、橿原は手に持ったペンを静流に返してくれる。
そう言われて、静流はハッとする。
幽霊だから何も持てないと思い込んでいたが、確かにここに来るヒトたちはドアを開けてやって来るし、あの嫌な記憶の中でも、静流の首を押さえた手があった。
橿原が今書いてくれたように、このヒトたちはペンを持って手紙を書けるはずなのだ。
「……今から、書きますか?」
静流の言葉に、橿原は少し考えた後、首をゆるりとふった。
「もうそろそろお暇しなきゃ」
橿原に残された時間は少ないのだと、静流は理解して頷いた。
「でも変ねぇ。他のところでペンを持つどころかドアもすり抜けていたのよ? 『ことのは屋』さんって不思議なところね」
どうやらここに来るヒトたちがペンを持てるのも、ここに限るのだと、橿原の話を聞きながら静流は予想する。
この何の変哲もない小部屋に、一体どんな不思議な力があるのか静流にはわからないが、どうやら幽霊には持てなくなったものも持てるようになるらしい。
「他に伝言はありませんか?」
「ええ、今言ったことを伝えてくれれば、それで満足よ」
「……他に伝言を伝えたい人は?」
この柔らかい雰囲気を持つ橿原は、周りに人が集まらないはずもない。従姉妹に伝言を伝えるよりも、言葉が話せなかった間に話したかった相手もいたはずだ、と静流は思った。
「もう誰もいなくなっちゃったわ」
哀しそうに首を振る橿原に、静流は気まずい気分になる。
「そんな顔しないでいいのよ。人はいずれ死ぬの。私の場合は、私が一番最後だったってだけよ」
橿原の優しい言葉に、静流は滲んできた涙にちょっと鼻をすすると、ニコリと笑う。
「伝言は必ず伝えますから」
初めて、その言葉がいい意味で現実になるのだと、静流は思った。
従姉妹の意図には反するかもしれないが、静流は何も言わずにノートを渡そうと思っている。
「ごきげんよう」
にこやかにドアから出ていく橿原を見送ると、静流はノートをぎゅっと抱きしめた。
*
「今日は?」
小部屋のドアを開けた従姉妹に、静流は何でもない顔をしてノートを渡す。
「一人来たよ」
「そう」
そう言って従姉妹はカウンターの裏の静流の座っていた椅子に掛ける。じっとノートの文字をたどる従姉妹を、静流は横からじっと見つめる。
最初は何の感情も載せていなかった顔が、ある時点で急に戸惑った表情になる。
もしかしたら、その伝言の相手が自分だと気づいたのかもしれない。
その視線が伝言を伝える相手の名前の所で、ぴたりと止まる。自分の名前が書いてあったのだ、その反応も当たり前かもしれない。
「これ……」
今まで見たこともない戸惑いのある表情で、従姉妹が静流を見た。
「橿原さんが、伝えてくれって」
「しゃべったの?」
この従姉妹の様子では、本当に橿原は何もしゃべれない状態だったようだ。
「うん。しゃべってた。きら姉が沢山話をしてくれたんだって、楽しそうに話してたよ」
従姉妹はノートから手を離すと、顔を両手で覆った。
「何もできなかった」
「そんなことないって、言ってたよ」
「できなかったの!」
従姉妹の声が涙に濡れていて、静流は戸惑う。泣いている従姉妹など、初めて見たからだ。
「……寿命だったから仕方がないって」
ノートにも書いていたことだが、静流はその橿原の言葉を思い出して従姉妹に告げる。
「なくない!」
「でも、橿原さん……すっきりしてた。この世に未練はなさそうだったよ」
「……そんなの……」
静流がただ慰めたいだけだと、従姉妹は言いたいんだろう。静流はふと、ノートには書き留めなかった橿原との会話を思い出した。
「ゼリー、美味しかったって。……嬉しそうだった」
従姉妹は顔を上げると、息を詰めて、涙を我慢していた。
「……意味のないことなんて、ないんだよ」
静流には従姉妹の仕事がどんなことをするかも、従姉妹が何にやるせなさを感じているのかも具体的にはわかるわけではなかったが、ただ橿原の表情には、従姉妹に対する感謝の気持ちがあった。それは、間違いのないことだった。
「どうして」
従姉妹は自分の両手を開いて、力なく握りこんだ。
従姉妹は医師ではない。だが、医療従事者として一人一人の患者に力になりたいという気持ちは持っているのだろう。だから、その患者との別れが“死”であることは空しさもあるだろうと、静流は想像した。
「でもさ、最後にきら姉に伝言をしたいって思われるくらい、きら姉は……橿原さんのために頑張ったんだよ」
静流の慰めに、従姉妹は力なく首を振った。
「何も」
何もしてないわけがない。静流はそう思ったが、ふらりと立ち上がった従姉妹の背中に、その言葉を掛けることはできなかった。




