1話目 伝言の意味 前編
カウンターのある小さな部屋は、静寂に包まれていた。
ただ、大きな窓と焦げ茶色の勝手口に嵌め込まれたすりガラスから、夏の気配すらする光が、音もなく注がれ続けているだけだ。
部屋に満たされた光の色は、太陽の位置が下がるごとに、積み重なっていく。
何の前触れもなく、それまで動くことを忘れていた銀色に鈍く光る勝手口のドアノブが、かちゃり、と動く。
カラン、カラン。
同時に、喫茶店のような少し高い音が古い家の中に響く。勝手口のドアにつけられた鈴の音だ。
その音に反応するように、小部屋に向かって走ってくる音がする。
慌てたように廊下側の小部屋のドアを開けたのは、この家に住む大学生の、静流だ。
ドアの上にある神棚のこよりが、変えられた空気の流れに揺れている。
静流は、男性の中では小柄な体を部屋に滑り込ませた。
そして、備えつけられているカウンターに手を置いた。
「こんにちは」
ニコリ、と静流がカウンターの内側から笑顔を見せる。
部屋の中にいた髪の長いパンツスーツの女性が、静流の姿を認めると、ホッと安心したように息をつく。
カウンターの内側にはフローリングが張ってあるが、外側は広い土間になっている。その上を、女性のピンヒールがコツコツと小さな音を立てる。
「ここ、『ことのは屋』さん?」
少しハスキーなその声は、タバコでも吸っている人なのかもしれないとどこかで思いながら、静流は頷く。
「はい。『ことのは屋』です」
「伝言、預かってくれるのよね?」
ずい、とその女性が前のめりになる。
「はい」
急に近づいてきた女性に少しのけぞりながらも、静流は教えられた微笑を張り付けたままでいる。
「本当にタダなの?」
良く問われるその質問に、静流はゆっくりと頷く。
「ええ。無料で伝言を預かっています」
「本当に、本当?」
疑うのも仕方ない。静流だって、初めてこの話を聞いた時には、信じられなかったし、何てお人好しな、と思ったものだ。やること自体はそれほど難しいことではないとは言え、手間と時間は使うのだ。お金を取ったら、と言ったら薄く笑われてその言葉は無視された。だから、やっている本人にはお金をもらうつもりなんて微塵もないのは明らかだ。
「ええ。本当です。今まで代金をいただいたことはありません」
またホッと息をついたこの女性は、金銭的に困っているのかもしれないな、と静流は思う。だけど、その女性の恰好が、できるキャリアウーマン的なので、そのギャップに疑問がないわけではない。でも、そんなことを問うのはご法度だ。静流の仕事はただ、来た人の伝言を受け取るだけ。
「じゃ、伝言、お願いします」
いつも使っているノートを取り出すと、静流はペンを持ってその女性を見る。
「もうあんたのこと好きじゃないから」
きっぱりとした言葉が女性の口から出る。ああ、この類か。と思いながらも無表情のまま静流はペンを走らせる。少し角ばった字が、言われたままの言葉をノートに記す。
「他にはありますか?」
顔をあげた静流に、さっきの言葉とは裏腹に物憂げに視線を伏せていた女性が、慌てたように表情を取り繕う。
「ないわ。それだけ伝えて」
「お相手は、どなたですか?」
「……それも言わないといけないの。勝手に分かったりしないわけ?」
静流は苦笑する。時折こういったことを言われることはあるが、静流に超能力などあるわけもない。
「残念ながら、お相手がどなたか分からないことには伝えることはできないんです」
時々本当に、相手の名前も住所も分からない相手に伝言を伝えて欲しいと言ってくる人がいるが、それは流石に無理だとお断りしている。人違いすると問題になる伝言もあるからだ。
「橋爪康太。川にかかる橋に指の爪、健康の康に太い、よ。住所は隣町の駅の西側にあるコーポクレインの二○一。細かい住所は忘れたわ。これじゃダメ?」
大雑把な情報ではあったが、静流にはこれで十分だとは思えた。念のため地図アプリを取り出して女性に見せる。
「どのあたりですか?」
女性が、地図アプリを前にうーん、と唸る。
「地図読めないのよね」
女性にはままあることで、静流は地図の画像を実際の場所が分かる画面に変える。すると途端に女性が、ああ、と声をあげる。見覚えのある風景だったらしい。
「その道をまっすぐ行って、右に曲がるとあるはずよ」
女性の説明通りに画面をたどると、その先に「コーポクレイン」という名前が見えた。
「ここですか?」
「ええ。そこよ」
頷く女性の表情は、先ほどの物憂げな表情に戻っている。あんなことを言いながら、未練があるのだろうと静流は思う。勿論そんなのは、この女性の勝手だ。静流には関係がないことで、口を出すようなことではない。
女性の手が唇に触れた後、当たり前の動作のようにポケットを探りだして、ハッとしてその手を止める。
もしかしたらタバコを探していたのかもしれない。だけどきっともうタバコは吸っていないのだ。女性からはタバコの匂いがしないから。寧ろお香のようなどこかで嗅いだような匂いがする。
「お名前は?」
「……言わなきゃいけない? きっと言わなくても分かるわ」
「いえ。時折行き違いもあったりするので、教えてください」
「なら、最初に名前聞きなさいよ。あんたの仕事のくせになってないわね」
「すいません。つい」
微笑で流したが、静流だって度々言われるこの注意に不満がないわけではない。だが、仕事をする本人から、一番最初に伝言を聞くようにと指示されているため、本人の名前は後から聞くことになるのだ。
曰く、本人の名前や相手の名前や住所を言ってる間に言いたいことをひっこめてしまう人もいるから、だと。 伝える勇気をもってここに来たはずなのに、その勢いを受け取る側が消しちゃいけない、というのが静流が理解していることだった。
「西山まなみ。東西南北の西に、山。まなみはひらがなよ」
さらさらと名前をつづり、静流は顔を上げる。
「確かに承りました」
「本当に、本当に、伝えてくれるのね?」
この役目を始めてから、最後にこんな風に念押しされることは普通のやり取りで、その流れに慣れてしまった静流は微笑を浮かべて頷いた。
「ええ。伝えますよ」
すると皆が皆、揃えたようにホッとした顔をする。その顔を見ると、静流はたとえどんな……それこそ別れの伝言だったとしても、この役目を果たしている意味があるのだと感じるのだ。
「じゃあよろしくお願いします」
最後にぺこりと頭を下げると、その姿はコツコツと音を鳴らして勝手口から出て行った。
一つ仕事が終わったことに静流はホッとしつつ、先ほど頼まれた伝言を見る。
「……これ、本当に伝えられるのか?」
伝言を伝えるのは静流の仕事ではない。だが、伝言を伝える役割の人間のことを思うと、どうもその役を果たせそうには思えなかった。
カチャリと開いた内ドアに静流が目を向ければ、この家の家主である静流の従姉妹が顔を出した。
「おかえり」
「ただいま」
静流は、ああ、もう帰ってくる時間か。と思う。時計に目を走らせれば、六時半を過ぎていた。最近は日が長くなってきててまだ明るかったから、そんな時間だとは気付いてなかった。
「今日は遅かったね?」
いつもならこの従姉妹は五時半には家にいる。従姉妹の仕事の終業時間は五時で五時半には家にいるので、静流が残業はないのかと前に聞いたら、しない、と単刀直入に答えられた。静流が本当にこの従姉妹は仕事大丈夫なのかクビにならないのかと思ったのも仕方ないだろう。
「ん」
そんな短い返事で、従姉妹は勝手口の鍵を閉めに行く。サムターンカバーまで着ける念入りさだ。静流にも暗くなってきたら鍵をかけるよう言っているくらいだから、この従姉妹も防犯意識は一応持ってるんだな、と思ったのは同居を始めた初日だった。
だが、その前に伝えられた内容から、一応だけど警戒心あるんだな、程度にしか感じなかったのは、仕方がないと思う。
従姉妹から、家にいる昼間の間は勝手口の鍵を開けておくように、と言われた静流が唖然とするのは仕方ないだろう。家に誰かがいるとは言え、今日日昼間に勝手口を開けっぱなしにしている家はそんなにないだろう。
しかもこの家があるのは田舎の田舎……という場所ではなくて、県庁所在地のはじにある住宅街だ。静流は都会ではないとは言え物騒だと言ってみたが、従姉妹はどこ吹く風だった。
その上、元々この家には従姉妹一人で暮らしていたのだ。静流が一人の時も同じことをしていたのかと聞いたら、従姉妹は当たり前、と言いたそうな顔で頷いた。
その行為の危険さを説けば、で? とだけ言って、こんな寂れた家に押し入る強盗など居ないだろうとあっけらかんとしたものだった。
三十六歳の独身女性を狙うやからもいるのだし! と静流が説教すれば、ハハハ、と静流から説教されたこと面白がる始末。
面白くないと怒れば、十八の差だよ、と静流と従姉妹の年齢差を示して子供に諭されたと揶揄した。
もう十八だから子供ではないと静流が言い張れば、四つ、と静流の母と従姉妹の年齢差が四つしか違わないと主張してきて、静流は頭がいたくなって追求をやめた。
「今日は?」
「一人だけ」
「ありがと」
「行くの?」
「ん」
その答えに、静流は頭の中で時間を算段する。
「八時にはご飯にするから」
隣町とは言え、ひと駅隣なだけだ。往復してもそれくらいで帰ってこれるだろうと問えば、従姉妹は迷いなく頷いた。
従姉妹はノートを取ると、玄関に向かう。静流もそれを追いかけて玄関で見送る。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
ガラガラガラ、と昔ながらのガラスの引き戸が閉じられるのを待つと、静流はいつものようにきびすを返すではなく、慌てて玄関に並べてあった自分の靴を履いた。
今日静流は従姉妹を追いかけて行くつもりだ。
従姉妹はついてこなくていいと言うし、連れて行って貰えることはないだろうと静流も思っている。
単語だけの会話で従姉妹の言いたいことの大体を読み取れる静流は、それこそ物心ついた頃から従姉妹との付き合いがある。静流の家と従姉妹の家は同じ町内にあり、昔からよく行き来していた。
静流の母は従姉妹と伯母姪の関係とは言え年も近く仲は良かったし、あまりむやみに構いはしないが話せば話を聞いてくれる従姉妹に静流もなついていた。そのため従姉妹が言いたいことも嫌がることも大体察知できる。
だが、果たしてあの口下手とも言える単語しかしゃべらない従姉妹が、あの託された伝言を相手にきちんと伝えられているのかが、静流はこの役割を受けてからの疑問だった。
当たり前だが、単語で伝えきれるとは思えない。それは従姉妹と静流の関係性で補完できている行間を読み取る力が必要で、それを初対面だろう相手に求めるのは酷というものだろう。
静流は従姉妹のことは好きだが、社会人としてはポンコツだろうと思っている。
五時が定時とは言え、そんなに毎日五時に帰ることができるのかと言うのがまず一つ。残業を頼まれても平気で二文字で断る従姉妹の姿が思い浮かぶ。それ以外は静流には想像できない。
それに単語だけで相手に行間を読むのを無言で強要する従姉妹が、言語聴覚士というそれこそ言葉を尽くさないといけないんじゃないかと思わせる仕事についているというところで、きっと従姉妹は社会人としてポンコツだろうと思う……いやポンコツと断言してもいいところだろう。
ちなみに静流は言語聴覚士の仕事について簡単にネットで調べたくらいの知識しかない。従姉妹からは教えてもらえないからだが、それでも単語だけの会話は成立しないだろうと思うわけだ。
だからこそ、従姉妹がどんな風に相手に伝えているのか気になっていて、今日はそれを確認しようと思っていた。だから今こうやって静流は従姉妹の後ろをついて歩いている。
夕方ではあるが、西に近いためか日の入りにはまだ時間があり、その影は長いもののまだ空は青さを保っている。これがもう暑い中なら静流も尾行などしようと思わないだろうが、昼間は夏日になるにしろこの時間になれば肌をさらう風は涼やかで心地よい。ともすれば寒さを感じることもあるが、今日は静流の着ている半袖でも問題ははい気候だ。
まさか尾行されているとは思ってないだろう従姉妹は、何かを警戒して後ろを振り返ることもなく、静流としても後をつけやすい。
あっさりと隣町に向かう電車に乗り込む従姉妹を追いかけて隣の車両に乗り込むと、人影から従姉妹の様子を覗き見る。
スマホの画面とノートを見つめる従姉妹は、場所を確認しているんだろう。ノートには最寄り駅を書いておいたから、従姉妹も迷わず電車に乗ったが、細かい住所まではさすがにわからないんだろう。ノートを見てスマホの上下をくるくる回して位置を確認している。
その行動ではじめて静流は従姉妹が地図を読むのが苦手らしいことを知る。
長い付き合いだが知らないこともあるもんだな、と思って夕焼けに染まる隣町までの景色を見ながら静流は電車に揺られた。
*
街灯の下で従姉妹の足が止まりキョロキョロと回りを見回したかと思うと、視線が一つのアパートの前で止まった。
そのアパートは静流が依頼主に見せた地図アプリの画像にあったアパートと同じに見えた。薄暗い中では静流も断定は出来ないが、たぶんあれが頼まれた住所のアパートだろう。
ふいに、静流は嫌な気配を感じた。嫌な気配の出どころである男性の姿を前方の視界の端に捉えると、静流は目を合わせないようにそっと顔をそむけた。不自然にならないようには気を付けている。
いわゆる、知らないふり。その気配にすら気づいてませんよ、と息を潜める。
男性が通り過ぎてしまったのを感じると、静流は静かに息を吐いた。
静流は時折、今のような嫌な気配を感じることがある。そんな時は、その嫌な気配がする相手と、絶対に目を合わせないようにしている。厄介ごとに巻き込まれるような気がするからだ。
根拠はない。多分、単なる野生の勘だ。
だが、触らぬ神に祟りなし。君子危うきに近寄らず。
嫌な気配を感じるものには近寄らない。それは、静流が小さいころから守っていることだ。
幸い今のところ、厄介ごとに巻き込まれた経験はない。静流はその野生の勘のおかげだと思っている。
視線を従姉妹に向ければ、従姉妹はじっとアパートを見上げている。
アパートは単身者用のもので、二階建て、それぞれの階に五軒の部屋があるようだった。二階の一番手前と一番奥の部屋に明かりが灯り、真ん中の三軒分の部屋はまだ真っ暗だった。
部屋は静流の記憶では二○一だったはずで、その番号が手前からなのか奥からなのかどうふられていたとしても、どちらにも明かりが灯っているわけなのだから、間違いなく伝言をすべき相手は在宅のはずだ。
一体従姉妹がどんなアプローチをしてあんな伝言を伝えるんだろう、と静流が思えたのは一瞬だった。
やはり従姉妹はポンコツなのだと、静流は確信した。
なぜならアパートを見上げていた従姉妹は、足を踏み出すことなく街灯の下で躊躇もなくくるりと反転したからだ。
従姉妹は伝言を伝えるべきアパートに近寄る様子は全くなく、どう考えても帰宅の途についているようにしか静流には見えなかった。