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8.皇公会議 5

 西公・珪潤の朝は早朝6時に始まる。

 起床して身支度を整えると、邸内の礼拝所で祖先と神への祈りを捧げる。この日課は彼ら珪一族の習慣であると同時に、沙南公国の統治者・西公としての行事でもある。

 沙南地方の中心民族であるユン族の信仰する神は大地の神であり、同時に水の恵みをもたらすものと信じられている。また、人間は死んで一定期間が過ぎるとその霊魂は山を上り、神の一部となるとも信じられており、それ故に祖先の霊は神と一緒に祀られていることが多いのである。その神は通常は人跡未踏の山岳に住んでおり、時々空を駆けて雨雲を集め、雨を降らせるのだと言われている。故に沙南地方では高山は神聖な場所とされており、特別用がなければみだりに踏み入ることは禁じられている。神事は代々ユン族の頭領が代表して執り行なっており、ユン族が吐蕃皇国の一部族となり『沙南公国民』となって以降もこの信仰は受け継がれてきているのである。

 潤は捧げ持ってきた供え物――何種類かの農作物と酒――を祭壇に供え、特殊な香草を一つまみ燃やす。それから祭壇の前に跪いて短い祝詞を挙げる。この一連の礼拝の所作を、潤は亡父、つまり前西公から教えられた。

 まだ物心付くか付かずやの頃から、潤は父に連れられて毎朝儀式の手伝いをしていた。当然意味などよく分かっていなかったが、父親の真似をしてきちんとできた時などは、何故かとても誇らしい思いをしたものである。最初の頃は父と潤の二人だけで行なっていたが、ある程度の年齢になってからは、実弟の節も一緒にやるようになっていた。その頃はすっかり早起きにも儀式にも慣れた潤が、節に教え、その姿を父親が見守るという、大人になった今なら微笑ましいと思える光景があったのである。もっとも当時の潤にしてみれば、寝起きの悪い弟をたたき起こして身支度させるところから始まる朝は、彼なりに気を張って大変な思いをしていたのであるが。

 しかしここ数日は再び潤一人となっていた。弟の節が副西公として、西公・潤の代わりに王都での会議に出席しているからである。

 そろそろ会議も一週間が過ぎるが、特に大きなニュースも伝わって来ていない。そろそろ経過報告でも届く頃であろうかと潤は首都・大都との移動時間を頭の中で計算しながら思った。

 心配といえば心配である。しかし信頼もしているのである。節は武人であるだけに、胆力もあるし洞察力も優れている。政治分野の経験不足は否めないがその分は宰相・景朔林が充分に補ってくれるであろう。各国政治家との交際は節が今まであまり経験したことのない緊張感やら何やらがあるだろうし、今頃嫌な思いもしているかもしれないが、本来の気性が明るい節のことだから、あまり心配することもないと潤は考えていた。

(それでもやはり『心配』はしてしまうものなのだなあ…)

 祭壇の前で跪き、額を地面に付ける様に拝礼しながら、潤は苦笑した。

(いつから私はこんなに心配性になってしまったのだ。年端もいかない子供の使いでもあるまいに)

 わざとそんな風に考えることで、潤は気持を取り直した。一旦上げた頭をもう一度深く下げて、改めて節や朔林たちの幸運と無事を祈ると、潤は立ち上がった。

 この後軽い朝食を摂って、朝の会議が始まる。副公にして大将軍の節と宰相の二人のいない執務は少々不自由でもあったが、たかが二週間ほどのことである。

「私は私できちんと勤めを果たさねばな」

 でなければ後で節や宰相に何を言われるか分かったものではない。軽く笑いを浮かべながら、潤はそんなことを思った。




     ***




 王公会議6日目はどこか異様な緊張感の中で迎えられた。

 いつもの時間に所定の席に着いた嵐は、肌をそばだたせるような不穏さを感じていた。何ともいえない居心地の悪さにそっと辺りを窺ってみるが、職員席の方には動きがない。隣席の、やはり書記として臨時に雇われた男などは、いつも通り几帳面に筆記用具と記録用紙を整えていたが、その表情にはこれといった不安感などは見当たらなかった。

 それならば会議出席者たちはどうか、と嵐は視線を走らせる。書記、しかも臨時雇いとはいえ役人という立場であまりきょろきょろするのはよくないと思いはしたが、どうにも落ち着けなかった。

(居心地悪い…というよりも気持が悪い。何だ、これは…寒い、……どうかと言えば…)

 その時議場の扉が開かれた。瞬間、嵐は全身が総毛立つような寒気を感じた。

「陛下のおなりである!」

 全員が起立して迎える中、皇が入室してくる。表情は平静を装いながら、しかし嵐は内心恐怖を感じていた。彼の背中に汗が滲んできていた。

(禍々しい……なんだ、この感覚は………)

 嵐の鋭敏な感覚は、特に自らに危険を及ぼすものに敏感に反応を示す。しかしこんなに「今にも逃げ出したい」などと感じるのは、今までになかったことであった。

 書記席の前を皇が横切り、自席へ向かう。優しい花の様な香の匂いが嵐の鼻腔をくすぐった。それは酷い動揺の中にいる嵐にも、これ以上はないほどの幸福感を与える、甘い好い香りであった。



 黄色い上衣に紫色の袴を合わせ、頭にはたくさんの飾り房の付いた冠。正装の皇が、おもむろに立ち上がった。

 形式的な朝の礼を会議出席者全員で交わした直後、進行役の文官が何か言うよりも早く動いた皇の姿に、全員の視線が集中する。

 議場全体をゆっくり一回り見渡してから、皇は口を開いた。

「本日世は宣旨を下す。今この時をもって東の姫より『王妃』の位を剥奪する。そして高蘭公国北公・曜黒の娘、火晶に『皇妃』の位を授ける」

 議場に激震が走った。更に皇の言葉は続く。

「東の姫は位剥奪の上、死罪を申し付ける。謀反を企んだ罪は、『王妃』という高位の者としてあるまじき、皇国と皇国民への背反行為である。

 また、かの者と意を通じて謀略にかたんせんとした沢東公国、東公・?倫も罪の重さは同じである。よってこれにも死罪を申し渡す。以後、?氏一族は沢東公国より追放致すこととする」

 議場中に声なき動揺と悲鳴が駆け巡った。徐々に興奮は高まり、今度はどっと騒々しくなる。

「陰謀だ!」

 どこかで上った悲鳴のような怒号も、誰のものか分からないほど、議場中は混乱していた。

 嵐は自分の感じていた「禍々しさ」がこれを予感していたことを悟った。


 一体どういうことなのか説明してほしい。かろうじて自失しそうな心を抑えながら東公・?倫が皇の目前に進み出た。血走った目で、目の前に立ち塞がる吐蕃皇国の役人には目もくれず、真っ直ぐ皇を見据える姿は、鬼気迫るものであった。しかし皇は表情も変えず、?倫を見返す。

「東の姫より東公、そなたに密書が届けられたであろう。偽ろうとて無駄だ。既に幾つかは世の下にも届けられておる。姫は後宮での最高権力を持っておったが、それを私的な企みのために行使しようとするとは、怖ろしいことよ。かの者は此度だけではなく、今までにも何度かそちに書を届けようとしていたようだな。つまり随分と以前から謀反を企んでおったということだな。しかしそれは今までずっと妨げられてきた。使者は沢東公国へは来なかっただろう。しかし今までは寛大にも不問としてやっておったのだ。それが寵を得られなくなったからといって嫉んだ末、世はおろか罪無き火晶にもでっち上げの罪を着せようとするなど。愚かな行為だと思わぬか。

 そして東公・?倫よ。そちは此度の会議に大量の兵士を連れて来ておる。あれを見て、世はそちの心中を悟ったわ。親娘して謀反の大罪を企むなど、恐ろしくも愚かだぞ」

 あれはただのレセプションで演舞を行なうための要員だ。その旨は事前に知らせてある。その東公・?倫の反論に、しかし皇は全く耳を貸そうともしなかった。?倫の全身から血の気が引いていった。全身に細かな震えが走り、顔色がどす黒くなっていた。

「何故皇はそれほどに火晶妃に思い入れをなさっているのか!?」

 恐慌状態にある?倫の言葉には、通常皇に対して払うべき敬意が欠けていたかもしれない。だが、誰もそのことに触れなかった。それに気が付く余裕もなかったと言ってよいかもしれない。恐慌状態にあるのは、?倫だけではなかった。今や議場全体を恐怖が占めていた。

「何故と問うか。理由が必要か。では言おう。単純なことだ。火晶は神に愛されておる娘だ。これ以上に余の正妃として、皇国の皇妃として、相応しい器量の者がおろうか?」

 皇の言葉に、議場は一瞬にして静まりかえった。静寂の中でよく通る皇の言葉は続く。それに誰も言葉を挟まなかった。否、何かを口にする気力さえ存在しなかったのである。

「火晶は類稀なる能力を有する娘だ。あれは神の声を聞くことができる。そしてその言葉で今まで幾度も世の迷いを救ってきた。

 あれは本物の巫の能力者。あれ程に強力な能力者を、世は今までに見たことがない。火晶は神の加護を一身に受けている娘なのだ。これ程に皇国に恵みをもたらせ得る者が他にいようか、いや、在り得ぬ。

 皇妃の資質として皇のよき理解者であり助けることのできる者であること、そして民にとってもよりよき母たるべき者であるべきと言われるな。

 それならば火晶は正にそのような存在であると、世は判断する」

 語り続ける皇に、誰も何も口を挟まない。しかしこの無言は肯定の意思表示ではない。単に恐怖による思考停止である。

「あの者の言うことは、全て正しい。あの者の言うことに従って、間違うということがない。何よりも、誰も逆らえぬのだあの娘には。

 あの者に見つめられると、他に目がゆかぬ。

 あの者の語る言葉は、他の全てを圧する。

 あれこそ、桃源の心地。世は、この国をあの者の力で、他にない天の原へと導くのだ。

 分かるであろう?世と、この皇国には火晶が必要なのだ」

「で、ですが――」

 もつれそうになる舌を渾身の意志力で動かし、東公・?倫がようやく言葉を発する。途端、?倫は咽たように咳き込んだ。そこかしこで大きな呼吸音が聞こえる。

 おかしい、と思った。

 恐怖に包まれる議場の中で、嵐はしかし落ち着いていた。それは恐怖の根源を既に見抜き、予測していたからである。そして同時に彼は冷静に周囲を観察し、様々な状況を想定し、それへの対抗策を考え始めている。

 嵐の見たところ、吐蕃王国サイドには動揺は薄い。特に常勤の役人や兵士はこの事態を知っていたのかと思えるほど、落ち着いていた。それはもちろん、この断罪の当事者ではないから、ということもあろう。しかしそれだけでは説明のつかない平静さが、嵐には不気味に思えた。

 沢東公国の人間が一様に恐怖し、動揺しているのは当然のこと。沙南公国の人間は、それに劣らぬほどの衝撃を受けているように、嵐には見えた。密かに言葉を交わす副公・珪節と宰相・景朔林の様子が見えた。平和主義の彼らがこの会議中、色々と心を配っていたことを、嵐は知っているそれを思うと、この事態に心痛はいかばかりかと、気の毒に思える。

 北公の姿は、残念ながら嵐の席からは見付けられなかった。席を立っていることだけは間違いではないようであったが。

 巡らす視界には、扉という扉全てを警備する冷静な吐蕃王国兵士と動揺する各国代表団という悪夢のような光景が捉えられる。一体これは何の喜劇か、悲劇か。

 しかし、と嵐は再び思う。

 やはり、おかしい。

 皇は何故それほどにその姫君――火晶にこだわる。

 皇は、何故それほどに火晶を擁護する。

 それほどまでに一人の姫君に、皇ともあろう人間が執着するのは、一体何故なのか。

(――もしかして)

 ふ、と嵐は思う。

(――もしかして、違うのではないか)

(もしかしたら、実は逆なのではないのか――)

 嵐が思考に入ろうとするのを、一際大きな声が遮った。

「せめて、せめて娘を――いや、皇の王妃、東の姫君をこの場に呼んでくだされ。ひとことの弁明も聞かず、いかに大罪を犯した者であろうとも、紛れも無く皇のためにこれまで尽くし、働いてきた人間を、例えひと時とはいえ、『王妃』の高位を戴いた人間を、何も言わせぬまま殺すことは、皇の高名をも汚すこととなると思われますが」

 大きく震えながら、ひび割れた声で、しかし威厳は保ったまま述べる?倫の姿は、吐蕃皇国有数の大貴族として、そして高名な武人として、偉大なものだと周囲に映った。

「それも確かに道理。しかしそれは叶えられぬな」

 皇の口調は先ほどと何も変わらない。しかし何故か嵐は悪寒を感じた。

「かの者は今朝方、自害を遂げた。謀反人とはいえ、立派な最期であったとの報告を受けておる」

 ぎいっと扉が開かれ、黒い衣装の役人たちが白い箱と盆を捧げ持って入ってきた。そしてそれらを皇と東公・?倫が向かい合っている間の卓に静かに置く。明らかな悲鳴、泣き声、怒号が次々と上る。

 黒塗りの盆にはまだ鮮血に濡れたままの短刀が載せられていた。一方、浅い白木の箱には、一房の黒髪と金の豪華な髪飾りが入れられていた。それらの品は「王妃」或いは「皇妃」以外身に着けることを許されない、神獣・鳳凰の姿が刻まれていた。

 ?倫は呻いた。怒りか、絶望か、それは判別し難いものであった。


「皇は、御乱心なのでは――」

 混乱を極める議場で、ひそりと副西公・珪節が呟いた。

「節様、それは軽々しく口に出してはならぬ言葉です。決して、決して」

 やはりひそりと沙南公国宰相・景朔林が返す。二人の言葉は、興奮し切っている周囲には聞こえていなかった。

「生きて、帰りたくば、決して」

「わかって、いるよ。だが、しかし、それは果たして正しい途なのか?俺は、わからない。いや、――」

「なりませぬ、節様、御自重を」

「――だがな、朔林、俺は多分、理解しているよ。予測、できているんだよ」

「節様――」

 朔林にも節の言うことが、言わんとしていることが、分かっていた。

「――俺で、よかった。兄者がここに来ていなくて、本当によかった。俺は、この会議に西公代理として参加することができて、本当によかったと思うよ」

「節様、私は――」

「朔林、まだやるべきことがある。至急、使者を出せ。決して誰にも気付かれてはならぬ。沙南公国の西公へ、可能な限り最速でこのことを伝えるのだ」

 主従の間にそれ以上余計な言葉はなかった。すぐに副公・珪節の命令を実行すべく、宰相・景朔林は節の側から姿を消した。

(俺は、本当に良かったと思ってるんだよ、兄者――)

 節の心はこの場この事態にあって、奇妙なほど、急速に落ち着きを取り戻しつつあった。

 不思議なほど無に澄んでいく思考の中で、節は目の前にいない兄に語りかけた。

(俺は俺の務めを果たしたんだ。沙南を守ること。西公を守ること。俺は沙南公国の大将軍。これが俺の本来の務めなんだ――)

 だから決して責めないでほしい。例えこれから先何が自分の身に起こっても。そして。

(兄者は、兄者の務めを果たしてくれ)


     ***


 皇公会議7日目。吐蕃皇国の首都・大都にて処刑が行なわれた。

 沢東公国の東公・?倫と数名の文武高官。罪状は皇と皇妃に対する謀反、及び謀反未遂。その罪重大なれば、死罪が相当というものであった。

 首謀者とされる元王妃・東の姫君は既にその前日に自害していたが、その亡骸も処刑場に運ばれ、一緒に晒されることとなった。

 後宮の元王妃・東の姫君の部屋は解体された。そして東の姫君の共謀者として東の大門も死罪を受けた。

 また、この謀略において東の姫君に加担して密書を運んだ人間たちも次々と捕らえられていた。いずれ相応の刑を受けることとなろう。


 この他にも処刑された者がいた。

 沙南公国の大将軍にして副公・珪節と、宰相はじめ数名の従者である。彼らは皇に対する背信を疑われたのである。

 皇国にとって重大な会議に西公本人が参加しなかったこと、そして会議中何度か沢東公国の東公と親密に接触していたことも疑惑の理由とされた。疑惑は濃厚なれど決定的な罪状というものがなかったため、当分皇の監視の目の届く大都に留め置かれることになった。


 これらのことは「転送門」によって、その日の内に速やかに各国に届けられた書状によって知らされた。

 

     *****

 

 嵐の円城での仕事は「皇公会議」の終わった少し後まで続いていた。

 担当した分の記録を整理し清書しまとめたものを文書課に提出する。その他に先の会議での事件によって数名欠けた分もまとめたり、時に会議関係以外の書類整理も頼まれて手伝ったり、という風に残務処理を済ませて、彼の任務が全て完了したのは8月下旬のことであった。

 支払われた報酬を受け取った嵐は、宿を引き払って再び旅の人となった。

 今ではすっかり彼に慣れた馬を操り都を出た嵐は、そのままぶらぶらと運河沿いに北東へと向かった。


 大都から離れ、運河が自然の川の姿に近くなる辺りで嵐はさりげなく馬の歩みを緩めた。この辺りになると人家も途切れ、耕作地からも外れ、藪とその先に続く丘陵地と林が近くなる。嵐がそっと視線を巡らすと、程近い藪が割れて、少年が元気良く駆け寄って来た。

「ししょー!ご無事で何よりです!」

「ハク、待たせたのう。そなたも無事なようで何よりだ」

 嵐はひらりと馬から降りると、駆け寄って来る百を迎えた。約1週間ぶりの再会であったが、百は少し身なりが汚れた程度で、他は何も変わりないようで、嵐を安心させた。百の手には荷物を背に括り付けられた馬の手綱が握られており、斑の馬が大人しく続いていた。百もだいぶ馬の扱いに慣れたようだと嵐は口許を笑みに緩めた。


 「皇公会議」で東の姫君の謀反が裁かれたとき、共謀者と疑われた者や少しでも関係したとみなされた者には徹底的な捜索がかけられ、容疑者として捕縛されていった。当然現在でも捜査は継続している。

 特に姫君の書状――所謂『東姫密書』の運び手となった者には厳しい追及が行なわれており、投獄された者も多いと嵐は聞いている。正確な数字は発表されていないが、容疑者は数十人は下らないと言われている。

 偶然百の手に渡った『東姫密書』の内容を読んだとき、嵐は即座に危険を感じていた。全身がぞわぞわするような不快な感覚。その時点ではまだ全く掴み所のない漠然としたものであったが、それが非常に性質の悪いものであると嵐の感覚が警告を発していた。

 書状を姫の希望通り東公の許に届けるか、無視をするか、その場合書状をどうするか、手放すのかどうか、それとも少し様子を見るのか。瞬時に浮かんだ選択肢の中から、嵐は知らない振りを通すことを選んだ。そしてすぐに百を大都から遠ざけることとしたのである。

 百には結局書状の内容は教えなかった。知らなければ、もしも百が疑われ、追及される事態になったとしても、切り抜けることができるだろう、そう考えたからである。過剰な反応だと百は不満そうであったが、嵐に命じられると拒否し切ることは彼にはできなかった。

「でもびっくりしました。まさか王妃様や東公様があんなことになるなんて…やっぱり、あの手紙が問題だったんですか?」

「おぬし…人里には近付かぬよう言っておったのに…」

 嵐が苦笑した。どうやら百はやはり納得できずに都に近付いたりしたらしい。師に即座に見抜かれた百は慌てて弁明した。師匠が心配だったのだ、と。嵐も特にそのことは追及しなかった。百の不審も不安も当然のことであり、それでも今現在こうして無事に再会できているのだから、何も問題ないと嵐は思っていた。

「さて、とりあえずはもっと都から離れよう、今回の詳細とこれからの計画は道すがらおいおいと話をすればよかろう。それと――」

 ひらりと身軽に騎乗すると、嵐は慌てて馬の準備をする百に笑顔を向けた。

「これから、おぬしに文字の読み書きも教えよう。おぬしが知らねばならぬこと、覚えねばならぬことはまだまだ山のようにあるぞ?わしの弟子ならば、覚悟しておくのだぞ?」

 はっと百が顔を上げた。大きく何度か息を吸うと、真っ直ぐに自分を見つめている師匠に、満面の笑顔で答えた。

「はい!もちろん、覚悟の上です!これからもよろしくお願いいたします!」

 百の言葉に、嵐は満足そうに頷くと、馬を南西に向けた。その後に百も続く。



     *



 吐蕃暦331年8月下旬。首都・大都を出た二騎の旅人は緑濃い中央平原を南下していく。

 彼らが向かうは西の公国・沙南公国。「緑の宝石」「水上都市」などの異名を持つ、吐蕃皇国西部の最有力国である。

 




     ―4.皇公会議・完―

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