7.皇公会議 4
甘い香木の煙
流れ落ちる金糸の髪
床上や壁を彩る数多の火燭
床に広がる色鮮やかな布地の波
銀の小卓に白磁の器
緩やかな袖口からのぞく白い腕
真っ赤な爪先がつまむ銀の箸
なめした獣皮の張られた椅子に
色とりどりの絹紐の飾り房
紫檀の円卓上の玻璃の花瓶に挿された大輪の紅牡丹
金色に香る部屋の中央、燭台に挟まれた椅子上で金髪の美少女が座していた。
赤を基調に鳥や花を色とりどりに刺繍した着物を身に纏い、髪の毛を無造作に垂らしている。
淡い琥珀色の瞳は、どこか焦点の合わない視線で、ぼんやり床に向いていた。
柔らかそうな白い頬と肉感的な唇が、より彼女を少女らしく見せているようだった。
つと、少女が視線を上げた。
視線の先の大きな窓の向こうで、羽ばたきの音が聞こえ、少しの間の後、一羽の真白な鳥が室内に飛び込んできた。
体の大きさが人間の頭ほどもある大きな鳥であったが、彼女は全く驚く様子もなく、静かな瞳でその鳥が止まり木に降りるのを見ていた。
カッカッカッと軽い音を立てて鳥が止まり木の上に落ち着くと、ようやく彼女は表情を動かした。
やや大きめの唇が微かに開いて隙間から白い輝きが覗く。焦点の合い難い琥珀の瞳はやはりどこかぼんやりとしたまま、ただ止まり木の上で身じろぎしている鳥を向いていた。
彼女はどこか陶然としたように微笑んでいた。
「…誰かそこにいやるか」
視線は鳥に向けたまま、少女が問いかけると、背後の御簾の向こうで、ひれ伏す気配がした。
「ここに、控えております、姫様」
中年の女の声に、姫様、と呼ばれた少女は視線も向けずに答えた。
「…皇を、お呼びして。只今、火晶の許に天の神の遣いが、いらっしゃいました、と」
「かしこまりました、火晶妃様。ただいま」
『皇公会議』第一日目。皇が会議を中断したのはこの直後のことであった。
***
『皇公会議』も四日目になっていたが、事態にはかばかしい進展はなかった。
むしろ進展していないからこそ、より事態は深刻さを増していて、各国代表団には明らかに焦りと苛立ち、不審の感情が渦巻いていた。
初日よりずっと、皇は午後になると会議を中断していずこへかと消えていた。しかしさすがに各国の代表者たちの目から隠し続けることはできず、皇が後宮の火晶妃の許へ通っていることが知れるようになったのは間もなくのことであった。
その事実が知られると、皆一様に驚き、ある者は呆れ、ある者は憤った。
ことに不快感を示したのは言うまでもなく沢東公国の東公・?倫であった。しかしそれでは高蘭公国が優位に立っていたかといえばそうでもなく、むしろ傍目からも困惑の様子がうかがえるのだった。
そして唯一、部外者とも言える沙南公国は静観の立場を採っていた。何しろ沙南公国は微妙な立場である。通常の交流、親密度から言えば間違いなく沙南公国、特に西公一家は沢東公国の東公一家と親しく、心情的にも近しいものがある。また皇室ともそれなりの親密さを保っているが、現在は後宮に西公一族の者は入っておらず、そういう意味では皇室との繋がりは薄い。そして残る高蘭公国とは他二国ほどの交流はなかった。しかしそれはあくまでも西公一家の個人的な心情の問題であり、国としての付き合いは三国共平等を保っていたのである。
そして今回の「立皇妃」の問題に関して、沙南公国は沢東公国にも高蘭公国にも、皇室にも、どれにも特別の後押しをしないことを出国前から決めていた。敢えて言うなら、三者平等に調停役に回るスタンスである。ゆえに迂闊な口をきくことはできないと、珪節は日に日に動作も慎重に、口数も少なくなっていった。
もしもどちらかに少しでも有利な言動をしようものなら、たちまち一歩からは取り込み作戦が始まるであろうし、他方からは内部分裂を計られるであろう。いずれにせよ、平穏に事態を収めたい考えの沙南公国にとっては、全く望ましくない事態となることは明らかである。
(このような時、兄者ならどうするのだろう。あるいは父上が未だ御存命であったなら、どうなされただろう――)
ついそう考えてしまった自分自身に、節は思わず舌打ちした。
(何という弱気だ、俺は今は沙南公国の代表としてここにいるのだぞ――)
己を叱咤することで、節はとりあえず自分を取り戻した。この辺りの切り替えの早さと巧みなセルフコントロールの能力が、節をこの若さで一流の軍人たらしめている理由の一つである。
(おれが政治に関して経験不足なのは分かり切っていることだ。だからこそ兄者は朔林を付けてくださったのだ。これ以上に心強いことなどないではないか。今は修行だ。珪節)
朔林というのは沙南公国の宰相で、景朔林という。先祖を辿れば節の一族、珪家とも何らかの繋がりがあるということだが、節にとってはそんな過去まで遡らなくとも、現在ここにいる朔林にこそ意味がある。幼い頃から父親である前・西公の片腕として辣腕を振るってきた人物であり、節にとっても教師であり父親に近い存在であり、父亡き現在は沙南公国で最も頼りになる人物の一人なのである。もちろんそれは節にとってだけではなく、兄の潤にとっても同様のことで、その重要な人物を今回大都にまで遣わした兄の心を思えば、節に泣き言を言っている暇などあるはずがないのだった。
前・西公であった父なら皇との直接の交流もあった。ならばあの父なら直接皇を諭したであろう。臣下の身として不遜にもとられようが、これほどの重大事、しかもここまでこじれてしまっては、父親代わりの役も、敢えて選んだであろう、そういう人物であった。
兄の西公・潤ならばどうするか。もしかしたら皇とも同年代で親しく口をきいたこともあるということであるし、やはり直接面談を願い出るかもしれない。だがその前にもう少し各国間の調停に動いていたであろうか。高蘭公国とは地理的要因で交流も薄く、従って北公との交流も薄いが、人柄が穏やかで協調性を尊ぶ気質の兄・珪潤ならば相手を安心させることもできるであろう。東公とはもっと親密な話し合いの機会を作っていたかもしれない。想像でしかないが、節に思いつくことと言えば、今はこのようなことしかないのであった。そしてそんな自分はやはり未熟者だと思わざるを得ない。
(どちらにせよ今この状況を打破する上手い方策が思いつかん――)
戦場に例えれば完全な膠着状態である。各国とも互いの出方を疑心暗鬼でうかがっているに違いない。下手に突付けば暴発の危険性もある。それほどの緊張感である。
(調停役に俺がなるには完全に役者の力不足だしな)
自嘲でなく素直にそう節は思う。
「こんなことなら最初からはっきり言っておけばよかったかもしれないな。東の姫君と火晶妃を両立させればよいと。そうすれば少なくとも西の立ち位置は明確にしておけた。今のようなややこしい立場に追い込まれることもなかったかもしれないのに」
しかしそれは今ではあまりに時期を逸してしまった。節の立場から見れば皆が損をしない公平な解決策と思えるのだが、他二公にはそうは受け取られないだろう。日和見ととられ、軽蔑されるか、でなくとも無視はされるであろう。またこの案は、この数日間の様子から判断すると、皇にも受け入れられそうにない。皇にとっても損どころか益だと、節なら思えるのだが、恐らく今の皇は、火晶妃のことしか頭にない。むしろ今回のことで不満や不審を抱いているであろう東公一族を疎んじ始めているかもしれない。そうなると、東公一族を後宮に置き続けることすら難色を示しかねない。そんなことをもし本気で行なえば、皇自身の器量が疑われかねないほど自己本位で狭量なことだが、それ程に現在の皇は近視眼的な人物に、節には映るのである。
「――とりあえず、やはり皇とお話をさせていただくしかないな」
節は大きく息を吐きながら言った。小卓を挟んだ位置で、宰相・景朔林も頷く。
「北と東に話し合いの席についていただくためにも、まずは皇のお気持をきちんとお聞かせ願うことが最前であり最善であると私も思います」
そうしてその次の段階で、北と東それぞれに話をし、最終的には全員を一つの卓に揃わせる。いくらこじれてしまってどうしようもない状況だと思ってはいても、解決させねばならないなら一歩目は基本から入るしかない。それが最善だと朔林は考えていた。
「朔林、その役目頼んでよいか。お前なら皇とて無碍にはできんだろう」
「かしこまりました。力を尽くしてみます」
景朔林と言えば、沙南公国では言うまでもなく、吐蕃皇国全体でも高名な人物なのである。政治の世界で彼を知らぬ者はいないと言われ、一目置かれる存在なのである。今現在の状況で節に打てる手は彼の手腕に頼るくらいしかないのである。
兄に助力を頼むべきだろうか。ふと節は思った。しかしすぐにその思いを打ち消した。
(これは俺の仕事。今回俺は沙南公国の代表なのだ。俺の判断力が試されているのだ)
節の決意は、頑固なほどに強かった。それは兄・西公に対する忠誠心であると同時に、表裏で兄に対する競争心があることは否定できなかった。しかしその奥には自分が兄を守るという無意識の感情も働いていたのであった。
強く自分自身の心に言い聞かせると、節は思いを振り切るように勢いよく立ち上がった。大股に歩み寄った窓からは、微かに風が流れ込んでくる。城のどこかで香木を焚いているらしく、ほのかに甘い香りのする夏の風は、ひどくじめじめしていた。
その日も会議にははかばかしい進展のないまま、午前中でお開きとなった。
会議の出席者や嵐も含む書記等職員たちは、いつの間にか姿を消してしまった皇のことを考えてはため息を吐きつつ、それぞれ議場を去っていく。
控え室に戻った嵐はそのままさっさと身支度を整えると、城下町行きの馬車に乗った。同僚達の中にはまだ城内に残って何やら作業している者もいたが、嵐には居残りしてまでやるほどの仕事があるとは思えなかった。それよりも町の、ひいては国の様子を直にこの目で見ておいたほうが、彼にとっては何万倍も有益なことだと思えたのだった。
官僚たちの住宅街を通り抜けると、にぎやかで華やかな商店街になる。そこで嵐は馬車を降りた。
この城下町には実に多彩な顔がある。通りを歩きながら嵐は改めてそう考える。
道を埋め尽くすほどたくさんの人間。それらが発する靴音、物音、話し声。それを圧する物売りたちの呼び込み声、どこかで鳴らされる楽器の音。どこかには動物もいるようで、賑やかさを更に演出している。
しかしここをもう少し北へ行けば、突然世界は変わる。画一された街路に外見の揃った高級な家屋群。物音はうってかわって控え目となり、外を動くのは馬車とわずかな人間のみ。
実に道路一つ隔てただけでこれ程に世界が変わるのかと思うほどである。
しかしそこも更に過ぎると、また世界が変わる。
街路は更に広くなり、建物は一回りほども大きく、荘重なものとなる。白と黒の比重が増え、針のように硬質な緑がわずかに生気を感じさせるものとなる。空気はどこか張り詰め、やや重苦しく、だが混じり気の感じられないものとなる。
(いや、そう感じるのは吐蕃王国の政治が宗教と不可分なものであると知っているためか。どちらにせよ沙南公国や沢東公国とは異質な気配であることは確かだが――考え過ぎの可能性もあるからのう)
しかし異質な気配に敏感なのも、嵐の特質であり、彼自身その感覚を信じてここまできている。だから考えすぎても過ぎることはないと嵐は改めて気を引き締める。
賑やかな陽の場所があり、厳粛なハレの場もある。そうなれば必然的に陰でありケである場所もこの町には存在することになる。貧民街・スラムと呼ばれる場所である。
当然おおっぴらにそんなものが存在しているわけではない。しかし大都市の宿命として、陰になる場所、人手のいきわたらない場所、人目につきにくい場所というものはどうしても存在する。そんな場所に一人が住み始めると連鎖的に同種の人間を呼び集める。するとたちまち何箇所か自然発生的にスラムが生まれるのである。それはこの大都に限らず、沙南公国でも沢東公国でも同様である。しかし光が強ければ影も濃くなるとの言葉もあるように、大都のスラムが最も大規模で様々な人間が集まっているというのは事実であった。
(だが――おかしい)
街路を東西に何区画かを通り抜けたところは水路になっていて、橋がかかっている。人波もややまばらになる橋の上で、嵐は足を止めた。欄干上から覗き込むと、緩やかな流れが南へと向かっている。素早く、何気なく視線を橋の裏側にもやってみるが、人の気配などはない。それこそが嵐の気になっていることである。
(大都に入って以来、暇を見つけては色々なところを歩いてみた。まだ見ていないところなど山のようにあるが――だが、それでもスラムの住人の影すら見えないとはどういうことだ?)
実は、ここがスラムではないかと思われる場所も何箇所か目にしたことはあった。しかし人のいた痕跡は確かにあるものの、少なくとも生物の気配が消えてしまうほどには以前にそこから人間がいなくなっている、そんな場所しか見つけられなかったのである。
(他に見ていない所で考えられる場所といえば地下水路の中と明江沿い。だが明江沿いは宗教区域。そもそも皇の住まいの足下だ。さすがにわしが踏み込める場所ではない。地下水路など入れば目立って怪しまれてしまうであろうしのう…)
そもそもそこまで熱心に「スラム」を探す必要が嵐にあるわけではない。誰か特定の物や人物を探しているわけではないのだ。ただ彼はあることを確かめたかっただけなのである。
(噂はあくまで噂だ。だが――わしに確認しうる範囲内で言えば――噂は事実だ。恐ろしいことだが)
嵐は水路の流れから目を背けた。背中を欄干に預け、ゆっくりと空を仰ぎ見る。空気はじっとりと暑く重かったが、空は真っ青に晴れ上がっていた。
(大都でスラムの『撤去』が行なわれた。――だが、人は?どこへ消えた?)
幾つかの噂は聞こえているし、幾つかの可能性は嵐も考えている。だが、推測とそれを事実と確認することは重さが違う。
嵐は内臓がぎゅうっと重苦しくなる感覚を覚えた。限りなく苦い、重いものを無理矢理飲み込んだらこんな感じがするかと思うほどの苦痛。我知らず嵐は胸元を掌で擦っていた。喉の奥が重く、微かに酸い感じがしていた。
大都は城壁に囲まれた長方形の城下町である。中央南北をメイン大通りの「夜光の道」が貫き、その東西にやはり南北を貫く水路がある。嵐は東側の水路にかかる橋の中央に立ち、一つ南側の橋を眺めやる。それは嵐のいる橋よりもやや小さいものであったが、人出は劣らないようであった。それも当然で、その辺りは大都の市民権を持たない人間たちのエリアなのであった。しっかりとした建築物はまばらな代わりに、天幕や掘っ立て小屋のような移動組み立て式の露台でひしめきあっている。賑わいや華やかさでは嵐の今いる商業区も劣っていないが、南のエリアのエネルギッシュさにはかなわないと嵐は思う。
しかし最近は、商売目的ではない人間も多いことを、嵐は知っている。粗末な泥だらけの着物を身に着けている男たちは都造営のために全国から召集されてきた労働者であるし、そんな彼らを見送り、或いは迎えているのはその家族たちである。
中には目当ての人物を見つけることができないらしく、よろけた足取りで人波を縫っている女子供の姿もあり、そしてそれは決して珍しいものではない。
(あれにもあまりよくはない噂を聞いたのう…)
嵐は振り返って北へと視線を向ける。
橋以外の建築物のない水路上は視界が開けていたが、大都北端には明江沿いに築かれた城壁があり、その向こうは見ることができない。しかし嵐はその先に吐蕃随一の大河・明江がとうとうと流れていて、その対岸に高層の塔が建設されつつあることを知っていた。現在大都周辺に集められている労働者の大半は、その工事現場で働かされているのである。
工事計画は既に相当遅れている。工事現場が事前の想像より遥かに地盤が弱く、ろくに土台も組むことができなかったことが一番の原因らしいが、それ以外にも様々な怪異現象も起こっているらしい。その一つ一つはばかばかしいと思えるもので、単に労働の辛さに逃げの口実を求める群集心理が働いたものとも思われるのだが、中には流言と言い切れぬものも混じっているようであった。実際、深刻な事故も複数起こっており、死傷者も既に多く出ているとの話を嵐は聞いたことがあった。しかし不思議なことに、そういった話はあまりおおっぴらには知らされることはないのであった。
嵐がそういったことを気にするのは、百の兄たちが何年か前にこの大都へ招集されたと聞いているのも一因である。そして彼らからの便りは百や彼の母親・ユアンの記憶する限り、なかったというのも嵐には気になっているのである。
(青年期の男であるから、あまり家族に感傷的になることを避ける性質の者もおるであろう。だがあの百の血縁者があまり薄情者であるとも考え難い。そもそも労働力は交代制で何度も入れ替えているはずだ。何年もあの現場で働き続けておる者など何人もおらぬであろうに)
そんなことを考えてしまうと、つい胸の奥がひやりとするような想像をしてしまうのである。
(わしらしくもない…感傷的になっておるのか?それともやはり過敏になりすぎなのか?)
ふっと嵐は息を吐いた。それでも彼には過ぎるほど神経をつかっても、それで肉体に影響が出ようと、今気を抜くわけにはいかないと思っていた。
(わしに課せられた使命は会議終了までを無事乗り切ること――言い換えればあやつは『何かが起こる』ことを予測していたということではないのか?そしてそれは単なる一介の雇われ職員にまで影響が及ぶかも知れぬほどの『何か』事件であるのかもしれない、と)
冗談ではない、と嵐は思う。利用されたまま終わることなど面白くないではないか。
ここは初めて来た異国の地。いわば全くの敵地で信頼できるものなど何もない。ならば何があっても自分自身の力を信じ、それをフルに活かして切り抜けていくしかない。ならば今の自分にできることは、極力多方面の情報を大量に仕入れ、情勢を分析し先を予測すること。そしてその中に自分の進む道を構築すること。それが嵐という人間にできる闘い方であり、今それを実践する場に自分は立っているのだと嵐は思い定めているのである。
その夜、宿舎に戻ってきた百は、一通の書状を持って帰ってきていた。一足先に戻って、市で手に入れた書物を読んでいた嵐がそれに気が付いた。
「百、これはどうしたのだ?」
嵐の指差したものを見て、百がああっと声を上げて表情を変えた。
「…仕事の忘れ物か?さすがに恋文などではなさそうだしのう…」
軽口を叩く嵐に、百はよく意味がわからないながらも慌てて事情を説明した。
それによると、やはりこれは今日の仕事の途中百が受け取ったものであるらしいが、少しその状況が奇妙なようであった。
先日間違えて後宮に立ち入ってしまった百であったが、その怖さをあまり実感しないながらも禁忌の場所というのは何となく肌で感じられたので、それ以降できるだけ後宮に関することを避けようとしていた。しかし何故かそういうときに限ってそういう仕事も巡って来るものらしく、本日何個目かの荷物が後宮への届け物となったのである。
それはどうやら大変高価な品物らしく、包みが馬鹿でかく、厳重に梱包されていた。見た目ほど重くはなかったが、貴重品であろうことは百にも想像がついたし、特に慎重に運ぶようにと荷運び係の役人頭に厳重に注意された百は、色々な意味で緊張しながら再び後宮へと向かった。
今日はちゃんと衛所の役人がいたので、そこで荷物を引き渡した。無事問題もなく届け終わったことに安堵し、行きとはうってかわって足取りも軽く荷受場に戻ろうとした百を、不意に物陰から呼ぶ声が止めた。
「あなたはお城勤めの方ですか?」
見ると、百と同年代くらいの少女であった。どうやら城の一番下級の女官らしき少女は、やはり城に不慣れな百よりも更に物慣れない様子で、精一杯威厳を保とうとしているものの百の目にでさえ動揺を隠しているのが分かる様子であった。
「ちょうど良かった。お願いしたきことがあるのです。さるお方にお手紙を届けて頂きたいのですが――」
吐蕃人らしい、細面に切れ長の目。白皙の頬は内側からほんのり紅に染まっていた。黒い髪の毛はシンプルにきっちり結い上げていて、髪一筋の乱れもない。多くの女官が老いも若きもどこかしら規定外の装飾品を身に着けることで個性を表しようとしている現在の王城の中ではむしろ例外的に全く余分な装飾も着けておらず、シンプルな上衣と裳をきれいに着こなしている、正に女官の見本のような少女であった。生真面目そうな言葉遣いがまたその感覚を助長している。
少女のことはともかく、今の問題は彼女が何やら頼みごとをしてきているということであった。百は改めて少女の言葉を頭の中で反芻した。
「ええと、そりゃあ、構わないけど――でも、何で?自分で届けたらいいんじゃないの?」
百の答えに、じいっと百を見据えるようにしていた少女が、きっと眉を上げた。
「そんなこと………できるものなら…わたくしが…やっております!」
はじめは勢い込んだ様子であったのが、徐々に語尾が弱くなる。そして恥らうように俯いた少女の頬が益々紅潮する。しかしすぐに少女は顔を上げ、興奮したことを百に詫びた。謝られてしまうと反対に百の方が居心地の悪さを感じてしまうものである。
「いや、もちろん、オレにできることなら、やるよ?手伝うよ?ええっと、手紙だったよね?どこに、誰に届ければいいの?」
いささか慌てたように百が言うと、少女がゆっくりと微笑んだ。そして胸元から小さく折り畳まれた紙包みを取り出したのだった。
「――で、それ、預かって、届け先もそのときにちゃんと聞いたんすけど…でも、何か、そのあともオレ、他のこと色々あって……仕事じゃなかったし、後でいいかとか思ってたら、何か…」
最後の方は口調がもごもごとすぼまってしまったのは自分の言葉があまりにも言い訳じみていることに百自身が負い目を感じているためだろうかと嵐は思う。口許に苦笑を浮かべながら百の手から包みを取り上げた嵐は、その表書きに目を遣って、ふっと表情を変える。
「…表に届け先は書いてあるって言ってたから、たぶんあの子はオレに任せて安心しちゃったんでしょうけど、で、オレもそん時はなんも考えてなくって、何とかなるかってそれ預かったんですけど……よく考えたら、オレ、それ、読めないんすよね…………」
「…ハク、おぬしはこれを誰に届けるか、聞いたのであろう?何と言っておった?」
嵐の口調は穏やかなものであったが、その内心は穏やかではいられなかった。しかし百に無闇に不安感を与えることも得策ではない。それはとっさの判断であったが、話しながら嵐も徐々に自分の感覚が固まっていくような気がしていた。そしてそれは――残念なことに――決して穏やかな感覚ではなかった。
嵐の問いに百が答えた氏名は嵐の記憶にはひっかからないものであった。しかしその届け先の人物のいる場所を聞いた嵐は、はっきりと表情を変えた。そして自分の感覚が誤りでなかったことを確信し、同時に百にも、そして嵐自身にもあまり好ましくない状況に陥りつつあるという予感を抱いた。
百が件の少女に告げられた届け先の人物がいるという場所は『青濫池賓館』。円城の東側に設けられた国賓用の宿泊所であり、現在は沢東公国一行が宿泊している場所であった。
嵐は百に断ってから書状の中身を改めた。百は嵐の深刻な様子に、否やを思う暇さえなかった。そして手紙の内容を無言で読み下しながら益々表情を険しくする嵐の様子に、すぐにどうやら自分の師匠が尋常ならざる事態を感知しているらしきことを察し、自然と姿勢を正して嵐の様子を食い入るように窺うのだった。
書状は「東の大門」から「?倫」へ宛てたものであった。当然「?倫」とは沢東公国の東公・?倫以外に考えられない。また、「大門」とは、後宮に入っている姫君に仕える女官の内、最高位の人物に与えられる呼称であり、「東の大門」とはつまり、東の公国の姫君に仕える女官頭を意味する。つまり、「東の大門」とは王妃である東の姫君の腹心の部下の女性ということなのである。
しかし書状の内容の微細さと手紙の宛先人に対する親密な表現からは身内に対するそれ以外を感じ取ることは難しいほどで、そういった文章を王妃付き女官の中でも最高位の人物、言い換えれば『王妃付き女宰相』という地位にある「東の大門」が記したということはいかにも考え難いことで、であればこれは「東の大門」の名を借りて「東の姫君」、つまり王妃自身が記したものだということは嵐には容易に看破できることであった。何より柔らかな筆遣いの女文字は、嵐が今まで王城内でほんの数文字見たことのある「東の大門」のものでは決してなかった。
百の預かった手紙の内容は次のような内容を伝えるものであった。
今や皇は火晶妃以外の全てに見向きもしない。皇は彼女に夢中で、まるで彼女の希望要望は全て叶えようとでもしているかのようだ。
これは伝聞に過ぎないが、現在王城・円城の北側川向に建設中の高楼は、どうやら皇が火晶妃の歓心を得るためだけに、造られているらしい。
また、火晶妃を皇妃としようとする皇の意思が働いているのか、後宮での火晶妃一派の厚遇ぶりは例外としか言いようのないほどで、火晶妃部屋付きの人間たちの横暴振りも日々目に余るものになってきている。その様子に、他の姫君方はともすれば身の危険すら感じるほどだという。
東の姫君自身はさすがに「王妃」の位を戴いた、後宮の最高権力者であるだけあって、火晶妃方も遠慮するのか、そういった危機感は感じてはいない。しかし今現在後宮をまとめる役目を負っている東の姫君の下には他の部屋の姫君方からの訴えが上ってきていて、それは日々増え、内容も深刻化してきている。既に事態は見過ごせないところまできている――と。
そして最も気になることとして、その手紙には火晶妃周辺のある噂も記されていた。
いわく、火晶妃は神憑りの姫と呼ばれ、そのことでも皇が大層彼女を大事にしているとか。
実際に東の姫君も調査をしたようだが、火晶妃の部屋から聞いた事もない呪言らしき言葉が聞こえたり、特殊な香料や道具など、少々怪しげな物品の出入りが確認されたようだ。
文面は大変几帳面で読み易く、流麗な筆跡も、くだけた親密さの中にも敬意を充分に払った言葉遣いも、書状の差出人、すなわち東の姫君の聡明さ、優しさ、それら全てひっくるめた上品な気質を示していて、ただ素直に読むなら大変ほほえましい娘から父への手紙ととれさえするものであった。
しかしそんなさりげなさの中に隠されたものは、一触即発の緊張感を孕んだ後宮の混乱振りであり、紛れも無くこれは救難信号であった。
それは実は後に『東姫密書』と呼ばれることとなる書簡であった。
嵐が推測したように、それは東の姫君の手によって実父、東公・?倫に宛てられた手紙であった。しかしこの『東姫密書』は一通だけではなく、複数の存在が確認されている。そのほとんどは東の姫君の肉筆であることが確認されたが、中には彼女の筆跡ではないものも見つかっている。そしてそれは東の姫君の腹心の存在であった東の大門の筆跡であることが確認されている。しかしそれらは偽物などではなく、全て本物であった。つまり東の姫君は自ら父親宛の手紙を複数書くと同時に、東の大門にも何通かを書かせていたのである。東の大門の手になるものは姫君の代筆という形をとっており、内容を読めばその文章の意思は全て東の姫君のものであることは一目瞭然であったが、なぜそこまで回りくどい手段をとってまで東の姫君は東公・?倫に書状を届けねばならなかったのか。それは手紙の内容から推察できるであろう。
このような密書が存在していて、しかも吐蕃皇国有数の権力者である王妃・東の姫君が実父で三公の一人である東公・?倫に正規のルートで届けることすらできない。これが現在の吐蕃皇国首都・大都の状況なのだということである。
(思うた以上にこの国は危険だということではないか…いや、少なくともこの円城は――)
嵐は我知らず背筋が冷えるのを感じていた。嵐は自身が並外れて感覚が鋭敏であることを自覚していた。しかしこれは彼の考えすぎという事態ではないと彼は思った。いや、既にもう、「何か」は動き始めている。それに気が付いていなかっただけなのだと嵐は思った。
打つべき手は打たねばならない。正直何もまだ解らないままであったが。
(解るまで待っておれば、それは『敗北』だ。それだけは明確だ)
書状を読み終えた嵐は、はっきりと今現在、王城内部で起きている深刻な事態を理解した。それは今日この時に至るまで吐蕃皇国内で見聞きしてきた全ての小さな事柄が一つの形をとることを確信したということであった。そしてそれは、ひいては吐蕃皇国全体にも重大な影響を及ぼしかねない、いや、実際に既に幾つかの事態は動き始めているのかもしれなかったが、確信が持てない以上、それはまだ推論でしかなく、『予感』という言葉でしか表現し得ない事柄であったが、確実に危機感を持つべき只中に、今現在自分たちは立っているのだということを否が応でも予感させられる、理解せざるを得ない事態なのだという自覚であった。