6.皇公会議 3
会議は始めから紛糾した。皇が強硬に金の姫君こと高蘭公国有力氏族・昌氏の娘火晶を皇妃とすると宣言し、他の誰の意見にも聞く耳を持とうとしなかったからである。
嵐は書記の一人として議場にいて、その様子を記録していた。ほんの最近雇われたばかりの嵐が皇公会議の書記などという重要な仕事を与えられたのは、彼が文字の読み書きという特殊技能を有していたからである。
吐蕃皇国ではこの当時、文字の読み書きは皇をはじめとした貴族や彼らに仕える役人、それ以外では学者や商人の一部が身に着けているだけの、特殊技能であったのである。殊に、嵐のように特定の有力者陣営に属さない有識字能力者は貴重で、こういった公の場の記録者として重宝されていた。偏った視点ではなく公正な目で議事録を残すことができるからである。
その期待通り、嵐は公正にこの会議を記録していた。公の発言は全てが記録され、それが公式な史書として後世へ残されてゆく。それを知っていたから尚更、嵐は公正を努めた。
皇は列席者一堂の前で言った。
「今回皆に集まってもらったのは他でもない。世が火晶を皇妃とすることを皆に告げるためだ」
形式ばった開会の辞や互いの挨拶を終えた直後のこの皇の宣言は、――そう、正にそれは『宣言』と呼ぶ以外にない、断固さを持っていた。――控え目に言って大波紋を起こした。
国の権力者とは言え、吐蕃皇は独裁者ではない。そのような力は認められていない。建国以来、国全体に関わる重要な決断には、会議をもって意見の擦り合わせと意思統一が図られてきたのである。だから今回の皇の言葉は当然のことながら異例で、諸公や、その関係者に不快な思いを抱かせた。
「そうは申されましても皇妃といえば皇のお妃様である以上に国の母たる存在になられる方。しかしながら我らは火晶妃の人となりなど、何も存じ上げませぬ。ゆえに軽々にはご賛同いたしかねまするが…」
騒然とした議場の中、皇に対してのみならず、各公同士牽制し合い、碌に建設的な意見が出ない。誰かが言わねばならないこんなセリフさえ、各公国間の言外の牽制の末、沙南公国西公代理、副公・珪節のものとなった。身中に大いなる脱力感や複雑な怒気を感じながらも、節は礼節を保ってその役目を引き受けた。沙南以外の北と東の二公国は、それぞれ皇の後宮に姫君を入れている。しかし沙南にはそれがない。故に問題の当事者ではない立場での役割というものが押し付けられてしまっているのである。
こんなことなら姉姫でも妹姫でも、はたまた遠縁の姫君でも、後宮に入れておけばよかったと、思考放棄しかけた脳髄の片隅で節は呟いた。そのままちらりと隣席の宰相の様子をうかがう。すると視線が合い、その瞬間節はたしなめるように睨まれた。表情には感情は出していないはずだが、と思いつつも節は軽く肩を竦めた。
前西公であった父親の側近として、そして兄の潤が西公位に就いた今は自分たち兄弟のため、沙南のために働いている彼は、節や潤の兄弟にとって、父親ではないがそれに近い存在であり、感情の関係もそれに近い。他人には隠し通せてもこの人物の目には自分たちの感情など筒抜けなのだろう。改めて軽く肩を竦めながら、節は背後から文官の差し出した書類を受け取り、それに目を走らせる。そこには、今現在議題の中心にいる、火晶妃についての簡単なプロフィールがあった。そこには国元、つまり沙南公国にいる間に収集した情報に加え、この数日間、随行の文官たちが大都で収集した情報がまとめられていた。
火晶。当年14歳。高蘭公国出身。高蘭公国の西端地域に中心勢力を置く、西域諸侯・昌氏の娘である。昌氏の現頭首は既に老壮の年齢であるため、随分遅くにできた子供ということになるが、それはこの場合あまり問題ではないのだろう。多かれ少なかれ、どの国、どの一族にもある話である。
火晶妃の特徴は、何と言ってもその容姿にある。金色の髪に淡い茶色の瞳、そして陶磁のように白い肌。基本的に黒髪黒瞳の吐蕃人とは全てが違う特徴を備えているのである。まるで遥か西方の国、例えば西の大国バルジャに住む人間のようだと節は思った。しかし吐蕃でも北方ではそういった容姿の人間が生まれてくることも珍しくないことを節は知っていた。
(西域諸侯には東西の人種の血が入り混じっていると聞く…中には完全な西方人の特徴を備えて生まれてくる者もいるとか。恐らく火晶妃はそういう人なのだろうな)
しかし何にせよ吐蕃皇国では大変珍しい容姿であり、大変に衆人の耳目を集めるということは疑いようがない。
(『金の姫君』、か――)
書類の内容を頭に入れつつ、節は先日のことを思い出していた。諸公が大都に到着したことの歓迎の宴の席、侍女を連れ、傘に身を隠しながら挨拶に出てきたかの宴の女主人。傘から垂らされた紗のために顔は見えなかったが、紗を除けた指は細く白く、肩にかかり流れる髪は、ゆるやかにウェーブした金色だった。
(なるほど、あれが『金色の姫君』だったのだな――)
その時鼻先をくすぐった甘い花の香まで蘇ってくるような鮮やかな記憶に、節は一つ大きく息を吐いた。
(確かにかの女性なら、民衆の受けも良いだろう)
書類の終わり辺りには、火晶妃の大都での評判が挙げられていた。
それによると大都の市民は彼女のことを「金の姫君」「天帝に愛された姫君」などと呼び、その名を知らぬ者など無いほどだという。また、彼女に憧れるのは老若男女を問わず、特に女性の間では彼女を真似ることが流行っているという。
異国の美貌の姫君。
その姫君の持ち込んだ、珍しい品々への興味。
加えて市井にも比較的気軽に姿を見せる親しみやすさ。
それまでの貴族の人間とは全く違う魅力に溢れた貴人。ただ物珍しいというだけの感情も含めて、民衆に人気が出るというのも当然のことであろう。
と言って、他の候補に挙がっている姫君方に魅力が無いわけではない。
特に、現在「皇妃」の次に高い位である「王妃」の称号を戴いている東の姫君は、吐蕃人の一般的に思う典型的なお姫様の象徴のような人物であった。
優雅に結い上げた艶やかな長い黒髪、しっとりと濡れたように光る漆黒の瞳、そして象牙色の肌に柳の木のようなたおやかな立ち姿。加えて、東の姫君は大変品が良く聡明で、慈悲深い心の持ち主であり、今から約10年程前後宮に入って以降、皇を支え、時には助言もしたりして、立派に吐蕃のために努めてきたのである。
特に彼女の功績として挙げられるのは、芸術学院を設けたことである。ちなみに正式名称は『吐蕃皇立芸術学院』という。東の姫君は彼女自身、琴の名奏者であったが、また同時に良き指導者としての能力もあり、芸術の能力を持つ者を広く集め、その才能を伸ばさせることが大切だと考える、進んだ人物でもあった。まだ学院の運営は軌道に乗せたばかりであったが、その評判は上々であった。
ただ、彼女は大変に真面目で伝統的な礼儀を重んじる性格で、それを誇りに思う人物であった。その価値観からすると、女性がみだりに人目に姿をさらすことははしたないことであり、また感情をあまり顕わにすることもできるだけ控えるものであった。特に夫のいる身なら尚更のことであった。いわんや身分の高い者が下々の者に直接触れ合う場所に出るなど、なるべくなら控えるべきことであった。
そういった価値観、行動規範に基づいた姿勢は、今までの皇侯貴族なら当然のことであり、そういった奥ゆかしさ、清楚さに人々は憧れの念を抱いていたものであった。
しかし他方に気さくに笑顔を向けてくれる美しい貴人がいれば、衆人の好意はそちらに向けられるのは当然の流れであったろう。
(東の姫君には気の毒なことだが――しかし――)
しかし、と節は思う。それでも皇がここまで頑なに金の姫君に入れ込む理由には弱いと思わざるをえないのである。
(皇とて東の姫君のことを尊重し、信頼していたのではなかったのか?ならば東の姫君を『皇妃』とし、金の姫君には『王妃』となっていただく。そしてお二方を両翼として皇の両脇に立っていただく。それが筋であり、最高の方策ではないのか?)
『皇妃』と『王妃』の違いなど、実質的にはほとんどないものと言ってよい。強いて言うなら『皇妃』の方により強い「拒否権」があるくらいなもので、他の権限はほぼ同等に認められている。何と言っても最終的な「決定権」は皇唯一人が持つものだからである。
この称号が生まれた当初にはもっと大きな違いがあったのかもしれないが、現在では『皇妃』の名称はほとんど名誉的な扱いとなってしまっているのだ。それでも『皇妃』を戴く姫君が皇の正妃であることは確かで、その席を空けてはいけないのである。
節はそう考え、その案は間違ってはいないと確信を持っていた。何より、それで各公の面目も保たれる。そして、そんなことが分からぬほど、現皇は暗愚な人物ではないはずである。
書類を全部読み下し、節はゆっくりと視線を上げた。相変わらず議場には異様な空気が漂い、不毛な遣り取りと無言のかけひきが続いていた。今この状況で正論を述べてもたちどころに黙殺されてしまうであろう。そして下手をしたら各人の変な意地やプライドを刺激し、提案が闇に葬られてしまうかもしれない。今は時期ではない。そう節は判断した。
しかしそれでも最終的には理性的な結果に落ち着くだろう。それほどに深刻な事態となる問題ではない。険悪な雰囲気に空気が重く澱んでいる議場を眺め渡しながら、節はそう考えていた。
どこかで軽やかな鐘の音がした。それを合図としたように、皇の傍らの男―皇付きの侍臣―が立ち上がり、午前の会議の終了を告げた。
結局何一つ進んでいない。節は既に一日分の精神力を消耗した気分になっていた。
しかしその日、結局会議はそれ以上全く進まなかった。
午後、一時間ほどの休憩を終えて議場に戻った節たち会議の参加者はそこで、午後の予定が中止になったことを知らされたのである。理由も説明もない一方的な通告に、節はさすがに呆然としてしまったのであった。
午後からの審議がなくなってしまったためさしずめやることのなくなってしまった嵐は、臨時職員用の控え室に戻った。
廊下はたくさんの人が行き交い、ざわざわと慌しい雰囲気に包まれている。おそらく普段はこれほど騒がしいことはないのだろう。こんな中でもあくまでしとやかな挙措で廊下を歩んでいた女官たちが危うく後ろからぶつかられそうになって、とうとう壁際に立ち竦んでしまっていた。飾り気はないものの上品な衣装の彼女たちはこの吐蕃皇国王城・円城に普段から仕えている上級女官であるが、足音荒く通り過ぎる文官――おそらく衣装からして沢東公国の人物と思われる――に、嫌悪の視線を向けている。おそらく彼女たちの常識では許されない無作法さなのであろう。
(諸公は大変だな。これ程深刻な話になるとは思っておらんかったであろうしな)
しかも皇は誰の話にも聞く耳を持たない。いや、おそらく、反対意見に対して聞く耳を持たないのであろう。
(しかしそれならそれで、事前に根回しの一つあれば、それである程度の混乱は避けられたのではないか?当事者たる北公と東公には完全な冷静さ、納得のいく条件を提示できぬであろうが、ならばせめて西公には事前に打診一つあってもよいはず。それすらおそらくなかったのであろうな、あの様子では)
先ほどの議場の様子を思い出しながら、嵐はそう考える。
もちろん、これだけの政治家が集まって、駆け引きの一つもないはずはないから、もしかしたら承知の上での演技をしている者もいるかもしれない。しかし嵐は自分の人を見る目には自信を持っていた。その目で見て結論は、今の混乱は本物である、ということであった。
皇は一体どういうつもりでいるのか。事前情報には全くなかったこの混乱ぶりに、嵐は思考を廻らせる。
もちろんこの城内での情報は吐蕃皇国内でもトップシークレット扱いであり、特に皇の考えていることなど、一般職員の知りおおせるところではないことは承知している。しかし臨時雇いとはいえ、会議の書記という重責を伴う仕事をしている関係上、嵐は――嵐たち会議書記役たちには――大まかな審議の予定や内容などが知らされていた。
それによると、『立皇妃』は三公と皇全体の話し合いの議題であるが、その他に各個懸案事項について情報交換もしくは対応策を講じたりすることとなっていた。例えば沙南公国とは最近勢力を増してきている「砂漠の民」について意見交換される予定となっていた。彼ら「砂漠の民」が勢力を増してきているのは事実であるが、それは実際どのようなことになっているのか、吐蕃皇国として深刻な脅威を感じるほどであるのか、またそうであればどのような対処が必要か、など。
これは国としての防衛の問題でもあるが、一方で吐蕃皇国の刑法上の問題にも関連してくることである。というのも、「砂漠の民」と呼ばれる非定住民族は、その構成員のほとんどが吐蕃皇国から脱走した人間と言われている。そして脱走の理由は様々あれど、その多くは吐蕃皇国内において罰せられるべき罪人なのである。もちろんそのような人物ばかりではなく、周辺の国――例えば南のカジャル王国からの亡命者などもいたりする。基本的に出自も事情も問わず受け入れるというのが「砂漠の民」の姿勢であり、それを頼り、或いは憧れて人々が集まり、現在では一つの民族を名乗れるほどの人口と多様性、組織性が存在しているといわれている。しかしそれを容認することは、できない、というのが国としての姿勢である。今までは黙認してきたところがあるが、何らかの対応をとらねばならない時期に来ているのではないか、それが吐蕃皇国の考えである。
そういった各公国との個別会議にそれぞれ最低一日という時間を割くとして、最低三日は必要。つまり残り四日間で「皇妃」を内定し、正式な告知の日取りや式典の準備など詳細を決する予定であったのだ。それも他の問題がスムーズに収まれば、の話である。当然そうはならないと予想されているからこそ、会議予備日なども最初から用意されているのである。
しかし、いくら予定を組んでいてもこのように審議拒否とも取れる行動に開催側である皇が出ては、到底予定の内容もこなせるものかどうか。
(予想以上に先行き困難なようだのう…)
嵐は一つ大きく息を吐いた。
では皇は自身の要求が諸公に受け入れられないということを承知しているということなのだろうか。否、それは違うと嵐は思う。特に根拠があるわけではなかったが、彼は確信していた。皇はそれ程無欲でも無我でも無様でもない。むしろ自意識の大変強い人物である。そのような人間が負け戦を仕掛けるはずもない。しかも今日のような、相手――この場合は諸公たちであるが――を焦らし、侮辱とも取られるすっぽかしを食らわすといった手段をとっているのである。
(皇には『勝つ』自信があるのだ。それだけは間違いない)
今日の午後に入った皇の「急用」がいかなるもので、本当に重要なものであったとしても、理由を何一つ説明せず、納得のいく説明もなく、ただ「中止」と宣言しただけのこのたびの皇の側の態度は、諸公国にとっては大変な非礼に値する。いかに皇がこの吐蕃皇国の統治者であり、公の上に立つ者であるとしても、こと皇国政治に関して皇と公はは同等の立場にあるはずである。それを軽んじるような態度は大変不味い。公の憤りを受けても文句は言えない。
(全く、皇は何を考えているのやら。まるで――)
そこで嵐はふと足を止めた。
彼の周囲を器用にすり抜けながら人々が行き交う。中には廊下の真ん中で突っ立つ障害物となってしまった嵐を迷惑そうに睨んでゆく者もいた。しかし嵐は全くそれが気にならなかった。彼の目は見開かれていたがそこにある何も見えず、彼の耳は騒々しい廊下の音を拾わなかった。
(まるで、それでは、それでは―――)
嵐の耳には自身の内なる声しか聞こえてはいなかった。
突っ立っている嵐の背が、どん、と押された。危うく足をもつれさせそうになりながら、嵐は体勢を立て直し、歩き始めた。
嵐が休憩室に戻ると、百が見つけて駆け寄ってきた。二人とも城内勤務に就くようになってから日中顔を合わせることなどなかったため、嵐はこの偶然に驚いた。
百の言うところによると、今日の彼の仕事は城内での荷物運搬であった。この城内には様々な人間がおり、それぞれの仕事も種々ある。よって城内に運び込まれる荷物も小さく軽い書簡から大人が数人力を合わせて運ばなければならないほど大きく重いものもある。百は午前中、主に書簡の配達に従事していた。それを終えて次の荷物を受け取りに行ったところで、本日の業務は午前で終わりにすると言われ、わけが分からないまま、この休憩室に戻ってきたのだと言う。
「何か噂では皇サマが急に帰って来て、奥に行っちゃったって…だからオレらはお城の中でうろうろしてちゃいけないんだって…何かそれってオレらが邪魔って言ってるみたいじゃないですか、そんなん、なんかむかつくんですけど!」
「…ハクよ、それは正直な言葉なのだろうが、できれば控えた方がよいぞ」
嵐は百の不敬罪ととられかねない言葉遣いに小さく苦笑した。彼らは広い部屋の隅で話しており、しかも他の人間はそれぞれでやはり話し込んでおり、ぼそぼそとした囁き声や大声の怒号も飛び交う騒然とした部屋の中で、彼らの会話に耳を傾けている人間などいないであろうが、気を付けるにこしたことがないのは当然である。
とりあえず嵐も百も今日は城内にいる必要がなくなったということである。そこで彼らは城下町・大都にくりだすことにした。食事がてら町の様子をゆっくり見てみようということになったのである。
城下町と城内とは定期的に乗合馬車が往復している。もちろん城内に正規の用事がある者しか利用できないことになっているが、城勤めの者は無料なので、大変人気がある。なにしろ円城も大都も広い。城から城下の南端まで徒歩で一時間以上かかってしまうのだから。
嵐と百は昼一番の馬車で城下へ出た。
彼らの宿もある城壁内の一番南側の地区は、主要道路である「夜光の道」の両脇こそ植樹などされていて大変美しくされているが、一歩脇道に入ると道も建物も人も入り乱れた、下町の雰囲気になる。そして広場にはなぜだか露店まで出没していた。『皇公会議』開催ということで客をあてこんでいるのだろうが、基本的に会議関係者がこのような城の端の方に来ることはない。あての外れたらしい露店のオヤジたちはそれでも懸命に呼び込みの声を張り上げていた。しかしほとんどは二、三人で世間話に興じている方が多かった。そんな騒がしい町の中、嵐と百はぶらぶら歩きながら話していた。
「…皇が後宮に?」
嵐が不審げに眉をひそめた。
「そうなんです。なんで今日?いきなり?って皆大騒ぎでしたよ。後宮の人は準備ができてないって大慌てだったし、お城の人は会議をどうするんだって…」
「それが会議の突然中止の理由か……」
身振り手振り交えながらの百の様子を笑う余裕もなく、嵐は考えをめぐらす。
「王は火晶妃のところへ行ったのだな?」
「そうなんです。もうオレまで荷物運び手伝わされそうになるし、いや、後宮の人間じゃないってんですぐ追い出されましたけど…」
百の話すところによると、彼の今日の仕事は城内での荷物運搬作業であった。毎日城に届く膨大な量の荷物や書類を、各部署に配送するだけだが、とにかく量が多いのと、城内が広いため、まだ慣れていない百などにとってはなかなかの重労働であった。
何度目か荷物集積所に戻ったとき、彼は後宮宛の荷物を受け持つことになった。通常後宮には専任の所員がおり、基本的に彼ら以外一般の人間は後宮に足を踏み入れることすらできない。当然城とは別に独立した外部受け入れ口があり、後宮宛の荷物もそこへ直接届けられるようになっている。しかし何かの手違いはあるもので、時々後宮宛の荷物が城の方へ届いてしまうこともあるのである。今日が正にそれで、しかし城中が人手不足の状況下、後宮専任の人間が当分荷受に来られなくなっていたのである。そこでたまたま百がそれを運ぶ係となってしまったのである。
といっても、後宮の入口に設けられている衛所まで届ければいいだけなので、他の宛先と比べて分かりやすく楽な仕事ともいえる。しかし基本的に皇以外男性禁制の場所へ向かうわけだから、百が緊張したのも無理からぬことである。
地図で何度も確認しながら百が城と後宮の境に設置してある衛所に辿り着いてみると、しかしそこには誰もいなかった。そういう場合はどうしたらいいか聞いていなかった百は困ってしまった。荷物をそこへ置いて立ち去るか。しかし百はそのまま王城と後宮を繋ぐ渡り廊下へと踏み込んで行った。城の作法に慣れている者なら決してしない無作法であるが、百はそういった点には無頓着だった――というよりも、その時の彼には荷物をきちんと届けることの方が何よりも重要事だったのである。
しかしいくらも行かないうちに、百は見付かってしまった。
「そなた、ここで何をしているのです?」
険のある女声に呼び止められ、百はびくりと立ち止まった。彼自身には後ろめたさなどないが、相手の声に含まれた怒気は感じ取れたのである。
「すいません!荷物を届けに来たんですけど、そこに誰もいなくて――」
ぺこりと頭を下げながら百が弁明する。すると相手は――鮮やかな青の裳を穿いた女性であったが――じっと百の様子を見つめていたが、彼に悪気のないのが分かったのか、ややあって少しだけ表情を緩めた。
近付いてきた女性が、百の手にする書簡の束を見た。
「ああ、これはわたくしどもの荷物ですね。ついでですから、そなた、運んでくれるかえ?」
「あ、ああ、はい!もちろん!!」
怒声を覚悟していた百は、意外にも柔らかい相手の声に、逆に驚きながらも、元気良く答えた。
先に立って歩く女性の後について何度も角を曲がり、ぐるりと内庭を周ったところで、女性が足を止めた。目の前には閉ざされたままの大きな木の扉があった。思わず辺りをきょろきょろと見回すと、どうやら目の前にあるのは小さいながらも一軒の立派な家で、地面から高床式になった、屋根のある廊下でそういった家と家が繋げられているようであった。
「ご苦労。ここまでで結構です」
女性が柔らかな微笑を浮かべながら百に言った。彼女の差し出した腕に書簡の束を渡そうと百が近付くと、彼女はそれを受け取らずに意味ありげな視線で百を見た。わけが分からず突っ立っている百の前で彼女は素早く周囲の様子をうかがった。そして僅かに百との間を詰めた。
「そなた、城に戻るであろう?ついでに持って行ってもらいたい物があるのだが――」
ほとんど囁くような声に、百は首をかしげた。
「?はい、オレでよければ――」
特に断る理由もないと思いながら百が答えかけた。しかし言い終わるより先に廊下の向こうで荒い足音がした。
「そこで何をしておる!?」
先ほど目の前の女性にかけられたものとは違う、本物の怒声に、百がびくりと振り返った。見ると、軽い甲に長い棒を持った男が足音荒く歩み寄って来ていた。
「ここは後宮なるぞ!おまえ、どこから入り込んだ!!」
居丈高に怒鳴りつけながら近付いてきたのを見ると、どちらかというと線の細い容貌の男であった。身長こそ百よりも高いが、体つきは同等くらいかもしれないと百は思った。しかし目を吊り上げて睨みつけるその表情は、生真面目そうで怖かった。
「この者はわたくしが荷物を運び込むよう命じたのです。あまり無礼な物言いは慎みなさい」
百がどぎまぎしながらも弁明しようとしたとき、彼をここまでつれて来た女性がすっと一歩出て男の前に立ち塞がった。彼女は決して体格が良いわけではなかったが、妙に威厳のあるその言動が、彼女をとても大きく見せていた。甲の男の方が逆にたじろいだようだった。
「――東の大門殿。あなた様ほどの方がよもやこの後宮の仕来りをお忘れなはずはございませぬな。一体このたびは――」
それでも虚勢を張るように声を励ます男だが、「東の大門」と呼ばれた女は全く怯まなかった。
「当然であろう。わたくしを何者と思うておる。だがしかし、今回は致し方なき仕儀であったのだ。わたくしは今は重い物を持てぬし、衛所におるはずの者もおらぬ。ゆえにこの者にここまで運ばせることとしたのだ。
――そちこそ何ゆえこのようなところにおる?いかにそなたの職務が後宮の警護とはいえ、このような場所までみだりに立ち入る権限はないであろう?――この東の御方のお部屋まわりでそちは何をしておった?」
逆に鋭い視線で反問された男は明らかに狼狽した。体格や腕力では明らかに男の方が優位であろうにもかかわらず、女の方が迫力で勝っていたようであった。
結局、忌々しげな表情ではあったが、男はそれ以上何も言わずその場から立ち去って行った。男の背中がすっかり見えなくなってから、ようやく百は大きく息を吐くことができた。どうやら無意識のうちに息を詰めていたらしい。
「迷惑をかけたな」
一転して柔らかくなった女の声が百をねぎらった。そしてまだ突っ立ったままの百の腕から書簡の束を取り上げた。
「あの、オレ、随分失礼なことしたのでは――オレの方こそごめんなさい。オレ、無知なもので――」
百が謝ると、女は一瞬目を瞠ったが、すぐに表情を戻した。頭を下げている百をじっと見つめて少し残念そうに、或いはやや諦めたように、口許で笑う。
「そなたはそのように謝らずともよい。――もどりなさい。ここまで荷物を運んでくれて助かったぞ」
彼女の言葉に、百は驚いて顔を上げた。何か用事があったのではないかと訊いたがそれはもういいのだと彼女は断った。
「それ、あまりここにおってはまた煩いのが来るぞ。これ以上そなたの立場を悪くしても良くない。急ぎの用ではないのでな、また別の者にあたらせる。さあ、戻りなさい。
それから、後宮はみだりに入ってはならぬ場所。以後気を付けるよう。くれぐれもここでのことは他言無用だぞ」
そこまで言われて踏み止まる理由は、百にはなかった。百はもう一度頭を下げると、そそくさと後宮を後にしたのである。
「いやあ、オレ、あんなに緊張したの初めてでしたよー何か妙な緊張感があるもんですねー」
本当に怖い思いをしたのだろうということは伝わってくるものの、どこか軽く聞こえる百の能天気さに、嵐は軽く苦笑した。
「まあ、何事もなくてよかったのう。下手したらそなた、今頃何ぞ処罰を受けておったかもしれんぞ」
少し脅すような響きの嵐の言葉に、百がさっと青褪めた。
「ええ!?でもオレ、何もしてないっすよ!?ただ入っただけなのに…」
「そういう場所なのだよ、後宮というのは」
今更のように恐怖を感じているような百の様子に、嵐は口許を歪める。彼とて大都に来たことすら初めてなのだから伝聞でしか知らぬことだが、なかなか凄まじい話なのだ。例えば道に迷って後宮の敷地内に紛れ込んだ城の下働きの童子がムチ打ちの刑に処せられたとか、後宮内の誰ぞと逢引しようとした城の下級官吏が去勢の刑に処せられた上、大都の市民権を剥奪されて追放されただとか。仮にそれが女性であっても、やはり大都を追放されたりといった厳しい刑罰に処せられているということであった。
「うぁーいやだあぁーーー」
百が自分自身が痛みを感じているように顔をしかめて叫ぶ。その隣で嵐は、百の話の中で幾つか引っかかることがあるのを考えていた。
「――これで皇が何故火晶妃のところへ行く気になったかがわかればのう…」
しかしいくらなんでも情報が少なすぎる。明日になればもう少し状況が進んでいるだろうか、と嵐は思った。
彼らは話しながら適当な屋台で腰を下ろした。大都は、さすがに大国・吐蕃の首都だけあって世界中のものが集中していると言われているが、それは食生活においてもそうであった。皇の住まう円城では大陸の各地から料理人が集められ、毎食違う国の料理が振舞われているとも言われている。それを真似て貴族たちの邸宅でも数カ国の料理人が雇われるのが流行っているという。
そして一般庶民も、料理人を雇うことは不可能でもその代わりに屋台で各国の料理を楽しむことができるのである。それらは価格こそ安いが、反対に競争も激しく、なかなか美味なものも味わうこともできるのである。
嵐と百が選んだのもそんな屋台の一つで、吐蕃民族の料理屋台であった。嵐は適当に、ただし肉ヌキのものを、百は適当にとりあえずボリュームのあるものを、と注文した。しばらく待つまでもなく、嵐には野菜と穀類の雑炊、百には蒸した穀類の上に野菜や肉を炒めて味付けしたものがかけられたものが大皿で出された。
そういえばこの大量の肉ってのもそろそろ飽きるなー、と百は思いつつ、彼にとっては薄味の料理をたいらげはじめた。酒豪だが食は細い嵐は淡々と食事をしている。
会話が途切れたとき、ふと百はあることを思い出した。
「そうだ、ししょー、オレ、…………オレ、お願いがあるんです」
半ばは衝動的な勢いであった。そうでなければ口にすることすらできないと彼は思っていた。
「何だ?改まって」
「――こんなこと、オレが望むのってすごいいけないことなのかもしれないんですけど、でもどうしても――」
勢い込んでいたのが急に口ごもる。嵐がそんな百を不審げに見つめていた。百は何故だかいたたまれない思いがした。自分自身が口にしたことなのに、自分勝手に罪悪感すら感じている、そんな自分自身の勝手さ、弱さに、怒りさえ感じて百は腹を決めた。
「師匠!」
百が椅子ごと嵐の方に身体を向ける。背筋をピンと伸ばして正対してくる百に、嵐が更に疑問顔になる。
「師匠、オレに、文字を教えてください!」
まるで戦う前に名乗りを挙げているように一言一言はっきり発生する。嵐は今度は意表を衝かれたようにぼけっとした表情になる。そんな師匠の前で、自称弟子は深く頭を下げた。
「お願いします!師匠!!」