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5.皇公会議 2

 皇公会議前夜の行事は夜の食事会のみであった。これは晩餐会というほど正式なものではないが、皇の各公に対する、ねぎらいと親和の気持ちを示すための場であり、また久方振りに直接顔を会わせることとなる各公と皇の交流を温めるための場でもあった。ゆえに、豪勢な料理の並ぶ立食形式の会場は、適度にくだけた、ゆるやかな空気が流れていた。

 大きなテーブルには大皿に盛られた料理が所狭しと並べられ、更に続々と出来立ての料理が厨房から運び込まれていた。その種類は、中央、すなわち吐蕃王国の名物料理はもちろん、北方の名物である動物の肉料理や乳製品、東の名物である魚介類の料理、西の名物である野菜や果樹中心の料理など、実に多彩かつ地域色あふれたものであった。これは違う地域の料理に触れることで各公国間の相互理解を深めることが目的であり、またそれぞれの地域料理があることで、各公国の代表者たちの持つ、遠い場所へ来たことへの不安感を和らげることも意図されており、また更にそれらを供することのできる吐蕃王国の国力、吐蕃皇の威力を示すための演出でもあった。

 料理の皿の周囲はたくさんの色とりどりの花々や小さな動物や人間の彫像などで華やかに飾り付けが為されていた。会場の一角には十人ほどの楽隊がいて、絶えず楽を奏していた。会場での会話を邪魔しないような巧みな演奏は、出席者の心を和ませていた。また、時折演奏される、アレンジされた各地方の伝統音楽は、各公国の人々を喜ばせた。


(何て華やかなところなのだろう…)

 内心溜息を吐きながら、節はそっと首を回らせて会場を見渡した。

 染み一つ見えないほど真白な内壁に、鮮やかな朱や瑠璃や藍で彩られた浮刻で飾られた柱。連兵場ほどもある広さの室内は、彼には名前も知らぬ色とりどりの花々で飾られ、更には煌びやかな立像や燭台が幾つも配置されていて、眩いほどに美しく、華やかであった。

 珪節とて吐蕃皇国の有力国、沙南公国の公子として生を受けた者である。彼と彼の実兄・潤は、前・西公であった父の正妻の子供であった。珪氏にはたくさんの公子公女がいるが、正妻の子供は潤と節の二人だけであり、当然生まれたときから次期沙南公国を運営していく者として扱われてきた。沙南公国は吐蕃皇国でも富裕な国である。当然、その正式な公子であった潤と節は、恐らく皇国の中でも上位の生活を送ってきているはずである。

 しかしそれでも、この吐蕃王城・円城は桁外れに豪華なところであると節は感じた。節の本業が軍人であり、貴族らしい役割は今まであまりなかったという事実を踏まえても、それは確かなことであったろう。

(兄者はいつもこんなところにいたのか…)

 ついそんなことを思って、節はふっと肩を竦めた。きっとあの兄は今の自分と似たような気持でいたのだろうと思ったからである。つまりは、身の置き所がないような、そわそわした居心地の悪さ、というものである。

 節は軽く息を吐くと、手にした杯を喉を反らせるようにして一息にあおった。居心地は悪くても、酒食は最高であった。とろりと喉を下る酒の香気がふわりと鼻腔を抜ける。味に酔い、香りに酔い、酒精に酔う。醸造酒の名産地でもある吐蕃王国特産の一級酒は聞きしに勝る、と節は思った。

「お飲み物のおかわりはいかがですか?」

 実にタイミング良く傍らから声をかけられた。節が声のした方を振り向くと、一人の女中らしき女がたくさんの杯を載せた盆をささげていた。

「あ、ああ、ありがとう」

 節は空けたばかりの杯をささげられた盆に置いて、代わりになみなみと新しい酒の注がれた杯を手に取った。そうしながらもちらりと遣った視線で相手の女中の姿をしっかりと目に留める。

 女は節よりも頭一つ分ほど背が低く、すらりと細身でなかなかに美しい容姿をしていた。長い黒髪は吐蕃皇国の未婚女性が正式な場に出席するときの髪型に結い上げられており、その髷には生花で作られた髪飾りが飾られていた。顔には美しく念入りな化粧が施されていたが、瞼に青い色が刷かれているのは、節が今まで見たことのないものだった。吐蕃皇国では一般的に、瞼も頬も唇も、朱で彩られるのが普通であったからである。しかし見慣れないだけにいっそう新鮮に美しいものと節には映った。

 それらの観察をほぼ一瞬で遂げた節は、傍目にはあくまで礼儀正しく杯を受け取っただけであった。女中は軽く目礼すると優雅な動作で歩み去って行った。ふわりと動いた空気が、甘い花のような香りを節の鼻先に届けた。

(髪飾りの…?いや、違う。これは人工の香りのようだ…と、するとこの城では女中ですら香料を身に着ける習慣があるということか…)

 節の沙南公国でも、人工の香料は使われている。吐蕃王国からもたらされるものもあるし、大陸通商路を経て西から移入してきたものもある。しかしそれは大変に高価で貴重なもので、宗教的行事で清めのために使われるのがほとんどで、ごくたまに貴婦人が香りを身に纏ったりすることもあるが、それは本当に珍しいことであったのだ。だからこそ、一般の身分であるはずの女中が香りを身に着けていることに、節は驚いたのである。

「本当に吐蕃王国というのは豊かな国なのだな…」

 節は呟くと、こっそりと大きく息を吐いた。


「こちらにおいででしたか、閣下」

 馴染みの声に呼ばれて節は振り向いた。そこには彼の思った通り、沙南公国の宰相・景朔林が立っていた。彼は先代の頃から沙南公国の政治に携わってきており、先代はもちろん当代の西公にも大変信任篤い人物である。

 今回の皇公会議に、沙南公国は代表たる西公は出席せず、副公が代理で沙南公国の代表を務めることとなった。しかし副公・珪節は国際舞台での経験が少なく、他国での知名度や信用度も高いとは言えない。そこで政治経験豊富で外交の手腕もあり、他国にもその人となりの良く知られている宰相たる彼が、節をサポートするために会議に出席することとなったのである。

「いかがですか、閣下。大都のご感想は」

「そうだな、聞きしに勝る、ひとことで言ってそんな感じだな。全てが立派で全てが美しい。私など、場違いなほどだな」

 朔林の言葉に、節は笑いながら答える。自虐めいた内容に対して、その表情は明るくこだわりのないものであった。この屈託することのない明るさこそが、この若き沙南公国西公の実弟、副公にして公国軍大将軍たる珪節の強さであることを、彼を幼い頃から知っている朔林は知っていた。

「お前から見るとどうだ?この国は」

 返された問いに、朔林は穏やかに答える。

「…そうですな、見たところあまり変わっておらぬように見受けられます」

彼は沙南の外交も担っているため、首都に来る機会も何度もある。吐蕃皇国の首都は変わらず豪壮で、壮麗で、見る者を圧倒させる威力に満ちている。

「活気に満ちた国だな。人も物も溢れるほどに満ちていて、ただここに立っているだけでも咽返りそうになる。良い国だ。ただ……」

 節がそこで少し口ごもる。どう言おうかしばし考え、そして思案げな表情で、言葉を継ぐ。

「何か、あるような気がする。根拠はない感覚だが。……ここにいては見えないものでもあるのかな?」

 若い主君の言葉に、朔林は明確な返答を控えた。彼は自分自身が確信を持てないことには慎重を期す性格であった。しかし決して節の言葉が的外れなことだとも思ってはいなかった。

 彼は前西公の頃から沙南の政治に携わってきた人物であり、内政はもちろんのこと、外交にも秀でた才能を発揮してきていた。だからこそ今回、若く政治経験の少ない副公の補佐としてこの大都へ来たのだ。当然彼は今まで何度もこのような首都での会議に出席した経験がある。しかしそんな彼にも、何やら今回は感じるものがあるのだ。それが何なのか、そもそも単なる勘違いなのか、それはまだ彼にも分かっていなかった。しかし充分気を付けておくべきだ、と彼は改めて思った。

 朔林は副公・珪節の能力、特に状況判断能力を高くかっているのである。確かに節は軍人であり、何よりも年若いため、政治経験は浅い。しかし軍人・将軍として、状況判断や他人の能力を見抜き適材適所で活かす能力に優れていた。節は西公一族珪氏の名前だけで沙南軍の上に立っているわけではないのである。


「沙南の方々でいらっしゃいますか」

 小柄な影が近づいてきて控えめに声をかけてきた。沙南の主従は同時に振り返った。そこには王城勤めの下級書記官がいた。

「皇がお呼びでございます」

彼は低いがはっきりと通る声でそう沙南の主従に告げ、礼儀正しく礼をとった。



 そう言えばまだ皇に直接会ったことはなかったな、案内する役人の後をついて歩きながらそう節は思った。

 皇の年齢は30代後半。節の兄、西公である潤よりも少し年長だがほぼ同年といってよいだろう。そう考えると親しみも覚えそうなものだが、何故か節にとって吐蕃皇は遠い存在であった。

 前皇が病を理由に譲位して後、北方の土地に遷都して新たに商流を起こし、更なる国の繁栄を期している。皇について節の知っていることは、その程度しかない。

 沙南公国は吐蕃皇国の中でも大国であるが、その地理的要因もあり交流は以前よりも薄い。東と北の公国は公女を皇の後宮に入れたりして繋がりを強化しているが、現在沙南公国はそういった姻戚関係を築くといったこともしていない。それは単に時機がなかったり必然性や逼迫した事情もなかったためであったが、こういうとき、その繋がりの薄さを実感するものなのだな、と節は思った。


「そなた、随分若いな、私と同じくらいか?この城に勤めて長いのか?」

 節が前に立って廊下を案内して歩く男に声をかけた。気軽な口調で話しかけられた若い書記官は歩調を緩めて後ろを振り返った。やや高い位置にある沙南公国副公の顔は、気さくな笑顔を浮かべていた。その表情に、彼――それは今回の皇公会議で下級書記官として働くことになった嵐であった――は親しみを覚えた。

 確か沙南公国副公にして大将軍珪節は30歳くらい。嵐は35歳であるから、同世代と言えばそうである。年齢相応に見られることの少ない嵐としては大変意外な沙南副公の言葉であった。

「いえ、私は臨時職員でございます。この数ヶ月間は皇公会議と試験が重なって人手不足になってしまうために補充されたのでございます」

 意外だと感じる気持を表情の裏に隠したまま、嵐は礼儀正しく会釈をする。

「そうだったのか。そなたすっかり落ち着いておるからてっきりそうだと思ってしまったのでな。失礼」

嵐の言葉にやはり沙南の副公は気さくに笑ってみせた。

 随分礼儀正しい人物だな。為政者、それも軍人にしては驕らない節の人柄は好感が持てる。嵐は短いいくつかの言葉のやり取りの中でそう感じていた。

 これはこの珪節一人の美質なのか、それとも沙南人の持つ気質なのだろうか。いずれにせよ、実兄の西公・珪潤の気質も推して知るべしである。

「こちらで皇がお待ちでございます」

 廊下をしばらく進んだところで嵐は立ち止まり、大きな扉を示した。豪華な装飾の施された黒い艶々した大きな扉であった。扉の両側に兵士が控えている。彼らに嵐が来意を伝えると、表情も変えないまま、兵が扉を開けた。

 謝辞を述べて扉の向こうに消えた沙南の主従を見届けると、嵐は静かに廊下を歩み去った。

(さすが吐蕃有数の大国の要人だ)

 嵐が思い出していたのは旅の途中で立ち寄った沙南公国の様子である。緑と水に溢れ、大都のような壮麗さはないものの、穏やかに美しいところであった。実際、沙南公国は吐蕃皇国の中でも有数の治安の良い土地柄なのである。

(明朗快活で気質もよく、その上洞察力も備えている貴人に、明晰かつ経験豊富な宰相。政治手腕は彼らの国の様子を見れば一目瞭然――か)

 ふっと嵐は振り返った。歩みを緩めながら、既に角の向こうのために様子を窺うこともできない位置であるが、沙南の主従と皇の会談の行なわれている部屋はすぐそこである。そちらと思しき方向に視線を遣りながら、嵐は声に出さずに呟く。

(さて、どう出るのか――)



 沙南公国副公・珪節の目に、初めて拝謁の叶った吐蕃皇は想像以上に若く見えた。冷静に考えれば皇の年齢は節の兄、潤とほぼ同年。とすれば節自身とも十歳も違わない。だが吐蕃皇という大国の統治者としての姿を想像するときその姿はあまりにも若すぎるように思われても当然のことであったろう。人間の想像力とは往々にして陳腐なものである。

「おもてを上げよ。楽にせい」

 やや甲高い若々しい声が一段高い場所に設えられた皇の場所から発せられた。節が顔を上げると、皇は穏やかな表情で微笑んでいた。

「兄君の西公とは何度か会っておるがそなたとは初めてであったな。噂は聞いておるぞ。弱冠の身で西公国軍を束ねる大将軍。武はもとより、文にも優れておるとか」

「お耳汚しでございました。何分まだ若輩者ですから、先達に教えを請う毎日です。それでも亡き父の名に恥じぬよう、兄を助けよい政を行うよう、心がけております」

「亡き前西公も鼻が高いであろうな。兄弟共に正副公の地位にあって協力して国を治めておるのだから。世も前西公には世話になった。頼もしい相談相手と思っておったよ」

「過分なお誉めの言葉、ありがとうございます。西公も我が父前西公も、喜んでおると思います」

 勧められた椅子に着いた節は改めて頭を下げた。節の背後に宰相・景朔林ともう一人の文官が彼同様、椅子に着いている。各公国の代表者は形式的には皇の配下だが、実質力関係は、皇国の統治のために協力する同士である。完全に皇と公は同等の立場ではないが、公とは皇にとっても敬意を払わねばならぬ存在なのである。

「ところでこたびは西公はいかがした?体調が優れぬと聞いておるが…」

 ふと、といったように話題が変えられた。しかしそれは予測の範囲内であったので、節は慌てることもなく、一礼すると答えた。

「はい、西公はここしばらく体調を崩しておりまして。最近の異常気象のせいもありましょうか。直前まで出席したいと希望しておったのですが、やはり無理が利かぬということで断念したのであります」

「そうか、残念だな。しかしそのために副公のそなたに会うことができたのだな。やはり巡り会わせというものかな」

 節の説明に、皇は特に不審を抱いた様子もなかった。少なくとも、節や、その後ろで控えていた宰相の目にも、そう映った。


 会談は終始和やかな雰囲気の下に終わった。節の目には、皇は少し神経質そうではあるが穏やかな人物と映った。国にいる頃に聞いていた皇に関する情報でしばしば聞いていたような、独裁性や猜疑心の強さなどは特に感じられなかった。もっとも、これはあくまで非公式な会見であり、ただ単に機嫌が良かっただけという可能性もあるため、単純に皇のことを判断するには至らないと節は思っている。

 ただひとつ気になったのは、最後の言葉。

『今回の宴は我が后の発案によるものだ』

というもの。

 皇にたくさんの愛妃がいるのは確かだが、正式には妃と呼べる存在は、現在の吐蕃にはいない。そもそもそれを決めるのが今回の会議の議題であったはずである。

 皇には心に決めた妃がいる、というのは確かなのだろう。だがそれを決定するのは皇の意志だけでは叶わない。愛妾ならば誰を、何人持つのも皇の自由だが、皇妃は政治権力の問題である。必ずしも皇の希望が通るとは限らないのである。そんなことは、皇も承知しているはずなのに、軽率な言葉であった。

「やはり平穏にはいかぬようだな、この会議」

 皇との会見の部屋を辞し会場に戻る廊下で、節が呟いた。主君の言葉に、後ろで朔林が無言で頷いた。



 会場に戻った節はその後も各国の代表との挨拶に追われた。何しろ節は今まで軍人としては活動していたが、純粋な政治の世界に関わるのは初めてである。つまり今回の出席者ほとんどが節にとっては初対面の人物ばかりなのであった。

 しかしそんな節でも面識のある人物がいた。沢東公国の東公・?倫である。

 三公国の中で最も軍事力を持つのが東の沢東公国で、特に重装歩兵中心に編成された軍隊は、吐蕃皇国でも重要な位置を占めているのである。軍人である節は、沢東公国に勉強に行ったこともあるし、父である前西公が存命の折りは、何度か沙南公国を東公が訪問したこともあるのだ。珪節兄弟の父である前西公は、大変博識で性格は中庸であったため、生前は皇に限らず多くの人から慕われ、知識を乞われた人物であったのだ。

「お久しぶりでございます、東公閣下」

節が礼をすると東公は親しい者に見せる表情で笑った。

「おお、西の腕白小僧ではないか!久しいな。大層活躍しておるようではないか。噂はよーく聞いておるぞ」

「それはお恥ずかしい…ですが閣下こそお変わりないようで」

「儂はもう年寄りだからな、変わりようもないわい」

「またそのようなご謙遜を。西の方でも色々お噂は届いておりますよ」

節が笑うと、東公は言うようになったな、と豪快に笑った。

 東公は立派な体格に厳つい顔をした見るからに戦場の似合う偉丈夫であった。その性格も見た目通り豪放で、しかし下の者の面倒見もよい、なかなかの人格者でもあった。

 前西公とは全く違う性格であるが、節は東公に対して父親のように親しみを持っていた。

「今回はぬしが来たのか。世代交代か?」

 からかうような東公の言葉に、節が苦笑しながら頭を振った。

「あいにくとただの武者修行ですよ。武芸のみの無粋者に都の華やかさは刺激的すぎるようです」

 冗談のような言葉であったが、彼としては本心であった。するとそれまで機嫌の良さそうであった東公の表情にふっと陰りが過ぎった。

「確かに派手すぎるな、今回は」

 東公の声にはいささかならず苦みが込められていた。

 先ほどの会見で皇は節に、確かにこの宴は后の企画したものだと言っていた。それならこの東公の表情からすると、皇の指した后とは東の姫君ではないということか。節はそう考えたが、発言は控えておくこととした。

 なぜなら東の姫君とは今目の前にいる東公の娘のことだからである。そして東の姫君が皇の一番の寵妃ではなくなっているとするなら、それは東公の吐蕃皇国中央、すなわち皇に対する勢力の弱化を示すことと同義となる。

 東の公国は歴史のある国で、産業から軍事力まで含めてしっかりとした国力を有している。そして現在の東公も統治者として大変有能な人物である。後宮内部の皇后争いに破れたところで吐蕃国内での勢力を失うわけではないが、平穏なままであるとは考えにくいことである。

 いずれにせよ会議が始まれば明らかになること。節はそう考えながら用心深く表情を消した。

 突然会場がわっと沸いた。節がそちらに視線をやると同時に強い花の香りが漂ってきた。そして人だかりの中心を割って、大きな紗を垂らした傘が進んできた。ぽかんとしてその光景を眺めていた節は、ふと隣の気配が変わったのに気付き、振り向いた。斜め上に向けた視線の先で、東公が鋭い視線を騒ぎの中心に突き刺していた。

 やがて傘を囲むような隊形で進んできた侍女たちの一団が節たちの目前を過ぎった。

 通り過ぎる一瞬、白く柔らかな紗が微かに揺れて、隙間から白く細い指がのぞいた。ほんのわずかできた布の隙間から、中の人物の陰が僅かに現れる。紗よりもよほど白くなまめかしい肌。鮮やかに真っ赤な口唇が動いた。

「こんばんは、皇のお客人。今夜は充分にお楽しみくださいましね」

 一言毎に甘い痺れを感じさせるような声音。耳を素通りして直接脳髄に意味を突き刺してくるように届く言葉。僅かの動作に応じて動く空気に乗って鼻孔をくすぐる濃い何かの花の香り。思わず目眩を起こしそうになって、節ははっとした。軽く頭を振って、非礼にならぬようそのまま軽く目礼をした。本能的に、この声の人物が皇の言う、今夜の会の企画者である姫君だと察したからである。

 紗の向こうの人物は目礼をしたままの節の前を再び紗を閉じて静かに歩み去った。その気配が完全に過ぎるのを待ってから、節は体を起こした。隣に目をやると、東公も節同様頭を上げたところであった。その横顔に浮かぶ表情と気配で、節には東公が必死に憤りを抑えようとしていることがわかった。

「何という…このような者のために…」

 東公の声は非常に小さく、すぐ隣にいる節ですら聞き取りにくかった。しかしその声には抑えようもない怒りがにじんでいたのである。




 皇公会議は三日間のレセプションから始まった。

 このレセプションとは普段交流の難しい各公国同士と基本的に中央で政務を執っている皇のため、各公国の名物であるとか得意分野で一種のショーを披露するというものである。ショーといっても完全な娯楽が目的ではない。重要なのはその一つの舞台で国の特徴を完全に表現することなのである。このこと一つとっても『皇公会議』が単なる全国会議などという単純なものではないことを示している。

 『皇』を頂点とし『公』がそれを補佐し手とも足とも目ともなり、協力して大陸の半分を占める巨大帝国を治め維持する。そのためには力の均衡と相互の信頼関係が何よりも重要となる。そのためには相互理解とそのための努力が必要不可欠なのである。『皇公会議』などという大掛かりな行事が数年に一度必ず開催されるのは、そういった理由もあるのである。


 一日目は西の沙南公国が舞踊を披露した。これは沙南公国を形成する中心民族であるユン族の伝統的な踊りである。

 このユン族の舞踊の一番の特徴は、男たちの演奏に合わせて女たちが舞うことである。舞台の中心を囲むように打楽器や吹奏楽器などを構えた男たちがずらりと並び、その囲まれた中に数人の女たちがばらばらに立つ。彼女たちの舞はてんでばらばらの方を向いて演奏をする男たちを、そして更にその周囲の観客たちを、それぞれ見据えながら己の舞を表現する。そしてその所作も舞手それぞれ微妙に違う。つまり団体で舞台に立っていても、彼らは自分自身を披露するのである。しかしながらその全てが全体としての美しさを形作る、実に見事な舞踊なのであった。

 また、どこか異国情緒を漂わせる衣装や楽器などの小道具は吐蕃皇国では珍しいものであり、またどこか聴く者に哀愁を覚えさせる曲調が、人々の心を捉えた。また、吐蕃地方一般の常識よりも女性の衣装は露出度が高く、西域の影響を受けたやや激しい舞の動きによる身体の表情を艶っぽく見せていた。尚、ことに皇の喜び様がすごかったというのは完全な蛇足ではある。


 二日目は東の沢東公国であった。沢東公国の東公・?倫は自らも武人であり、軍人としては一線を退いた現在でも日々鍛錬は怠らないという武勇を好む人物であるが、それが己のみに留まらず、武勇全般を広く愛し、奨励するのに何も惜しまない、というのがこの東公という人物であった。沢東公国で行なわれる大きな祭では必ず武闘大会が開かれるというのも、現在の東公になってからなのである。

 この東公が皇公会議レセプションで披露したのは、模擬戦に演舞を取り込んだものであった。

 沢東公国自慢の重装歩兵が二隊に分かれて軽い模擬戦を行い、それが一区切りするとさっと退いて二隊が整列する。その中から剣舞や闘舞に優れた者が次々と中央に進み出て己の技を披露する。力強くも美しい形式美と肉体美に、広場を埋め尽くす観衆からは思わず溜息が漏れた。

 伝統と格式を有し、特に武に秀でた力を有する沢東公国ならではのショーであった。


 三日目は北の高蘭公国による馬術競技が披露された。

 高蘭公国は三つの公国の中でも特殊な形で国を形成させている。他の公国が一人の公の下に議会制の統治を行なっているのに対して、公は確かにたった一人存在するものの、それは元々北地方に点在する諸侯や少人数部族の頭領であり、多数の部族の中でも有力な者が他部族の承認も得て『吐蕃皇国の高蘭公国・北公』の地位に就くのである。そして高蘭公国の政務は北公含め有力部族の長たちが連絡を取り合い、時には一所に集って行なうこととなる。

 しかし実態はと言えば、『高蘭公国』としての行動以外は各部族内でそれぞれ独自のルールに則って日々の生活を行なっているのである。良い意味でも悪い意味でも公国構成員の独自性が強い国柄なのである。

 故に今回の皇公会議にも北公・曜黒率いる曜氏の他、西域諸侯筆頭の陽氏、回氏の計三氏族が王都・大都に集って来ていたのである。

 しかしその三部族の勇者たちが披露する馬術は紛れも無く、控えめに表現しても壮観なものであった。

 北の民族とは騎馬民族であり、現在でも定住地を持たず遊牧を行なっている部族は多い。しかし高蘭公国を形成する有力諸侯のほとんどは定住地を持っており、季節毎に多少家畜の放牧する場所を変えるくらいであった。つまり、定住しているからこそ、吐蕃皇国中央とも対等に取引できる国力を有していると、吐蕃皇国中央からはみなされるのである。しかしそれでも彼らの騎馬民族としての力はいささかも衰えず、吐蕃皇国随一の機動力を有していることは、今回のレセプションで明確に人々に示された。

 人馬一体となって広場を駆けたり、疾走する馬の背で騎手が曲芸的な身のこなしを見せたりする度、観衆からは割れんばかりの拍手と歓声が彼らへの賞賛として贈られた。

 どちらかと言えば武力よりも文官的な気質の強い吐蕃皇であったが、目の前で繰り広げられる馬と人との共同芸術に賞賛を惜しまなかったと言われる。


 また、このように各公国のショーが行なわれている中、夜には何度か演奏会も催されていた。

 吐蕃王城の城勤めの楽師たちによるもので、内庭で演奏される楽の音は王城内にいる者全てが聴くことができた。

 ある者は昼間の活動の疲れを癒し、ある者は来る会議本番へ向けての準備の手を一時休めて気分転換をはかり、またある者は就寝前の心をその美しい音楽によって静めたりした。

 後に知られたことであったが、それは後宮の王妃・東の姫君の企画したものであった。格式と伝統を大事に守ってきた東の沢東公国出身の王妃は、大変に優雅で知的な女性であり、特に音楽の分野には造詣が深く、本人も楽師に劣らぬ演奏技量を有していたのである。

 しかし彼女は伝統的な淑女としての振る舞いを大事にする女性でもあり、しとやかで奥ゆかしく、みだりに人前に姿を現すということが無かった。今回のこの演奏会にしても、結局姫君自身は決して人前に姿を現さず、それが王妃の指示によって行なわれているということも明らかにはしなかったのである。

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