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3.大都・七月

 吐蕃暦331年、首都・大都にて行われる皇公会議の概要は次のようなものである。

 開催期間は8月1日から約15日間。

 内最初の3日間は歓迎のレセプション。続く7日間ほどで会議が行われる。このとき、皇公会議の本題以外にも、各公それぞれで懸案を話し合ったり親交を深めたりする時間を取ることもできる。何しろ位置的に最も離れている北と西では陸路でゆうに半年かかるほど離れている。転送術による道は、通常高位の術者が最低十人集まらねば維持できない。ゆえに各国の有力者の一堂に集うこの時期は、直接言葉を交わすことのできる絶好の機会なのである。

 そして残る5日間ほどは予備期間として設けられている。引き続き会議を行なっても良いし、交流を深めることが目的のイベントが行なわれても構わないということになっている。従来ならば、この期間中に、皇も列席しての晩餐が催される。皇と公は支配者と被支配者の関係であるが、同時に吐蕃皇国という巨大帝国を統治する協力者でもある。そのため、歴代の皇は各公はじめ、国内の有力者とはなるべく友好な関係を維持してきたのである。

 そして恐らく今回の会議もそのような流れになるであろうと想定して準備が進められていた。


 会議が開催されるのは王城『円城』。城中で最も広く格の高い部屋を会議場として設え、その周辺の部屋を予備会議室、休憩室、控え室などに充てる。

 また、会議に出席するために各地から来た人々の宿泊場所も城中の建物に用意される。

 いずれも高貴な立場の人々をもてなすための場所であるから、それ相応の格のある準備が不可欠である。特に宿泊場所は、各国の風習や習慣にも配慮した設備を整えねばならないので、準備段階から非常に神経が遣われていた。


 今回の会議に出席する面々は次のようになる。

 「吐蕃王国」より現皇、そして宰相以下文武両官。

 東の公国「沢東(タクトウ)公国」より東公・?(シュウリン)、以下文武高官約十名とその他所用担当の役人十数名。

 西の公国「沙南(シャナン)公国」より西公補佐たる副公・(ケイ)(セツ)、以下文武高官とその他役人。人数は東の公国と大体同様である。

 北の公国「高蘭(コーラン)公国」より北公・曜黒(ヨウコク)西域諸侯筆頭陽(ヤン)氏、(ホイ)氏、以下各氏の率いる所用役、約二十数名。

 以上の人々が、7月の終わりには大都に勢揃いすることになっているのである。



 そういったことを、嵐は円城内で働きながら知っていった。

 嵐が配属されたのは文書課であった。

 業務内容は、各部署から上がってくる書類の処理である。提出された書類を検討し、不備があれば差し戻し、問題がなければ、最終的に裁可を下す部署へ上げる。つまり必然的に城内の、ひいては皇国中の情報に触れる機会があるわけである。

「しかし…北は陽氏と回氏か……昌氏は来ぬのか?」

 書類の清書をしながら嵐は小首をかしげる。

 昌氏というのは現皇の一番の寵妃、火晶の実家のことである。確かに今回の会議の最大の議題が「立皇妃」であるのに、正妃に最も近い東の姫君の最大のライバルとみなされている火晶妃の、最大の後見人が議場に立たないというのは奇妙なことである。

 正確には火晶はまず昌氏から北公・曜氏の養女とされ、北公の娘として皇の後宮に入れられたわけなので、後見人としては北公が会議に出席するということで、体裁は整っていると言える。しかし火晶妃が圧倒的に不利だと思われる現状を鑑みると、やはり後背が手薄な感が否めない。

 昌氏というのは西域諸侯の一氏族である。北公国の領域内に本拠を置く西域諸侯の中では確かにあまり家格は高くなく、勢力も中の上くらいである。

 しかし昌氏は「現皇の寵妃を出した」という一事のみ挙げても、西域諸侯の筆頭に上がっても良いほどの功績である。事実、北公国の中で昌氏の発言力が増しているという情報を、既に嵐は得ている。家格・家力では確かに未だ陽氏、回氏の筆頭の地位が揺らぐことはない。しかし北公国ひいては吐蕃皇国に対する功績という点では昌氏の優勢を疑うことはできないはずである。

「…何か、気になる……」

 呟きながら、嵐は清書を終えた紙を脇にどけ、次の書類を手に取る。

「と、次は…陳情書か?」

 分厚い封書の内容は、どうやら国家土木事業に召集される人員数を削減してほしいというもののようであった。



 現在、吐蕃皇国で行なわれている最大の土木事業といえば、王都と王宮の造営である。

 現在嵐が働いている円城は、皇国府であると同時に現皇の住まいであり、後宮も併設されている。さすがにこの城は真先に完成させられたため、どこかが工事中ということはない。

 しかし円城を中心に計画された王都・大都は未だ未完成であるし、大都の北側、大河・明江の対岸には大きな塔が建設されることになっている。これらの建設には非常な困難がつきまとい、時間と費用と人員が嵩み続けている現状なのである。実際嵐はこの大都に来てからすぐにその影響力の極めて強大なことを実感していた。

 大都は確かに美しい町であった。

 整然と並ぶ建築物の白壁も屋根瓦の陽光を弾いて白く輝く様も、黒く艶やかな石の敷き詰められた道路も、城壁や橋の欄干のあるところでときに現れる朱のはっとするような鮮やかさも、全てが話に聞いていたよりも遙かに美しい。

 百などは門をくぐってしばらくは辺りの様子に目を奪われて他は何も意識に入ってこないほどの状態であった。

 しかし大都に数日滞在した嵐は、この町の裏面に気が付いていた。

 大都は、円城は確かに美しく、完璧とも思える計画のもとに存在していることを感じさせられる。

 しかし一方でメインの場所を離れると、そこには荒んだ空気が存在している。人陰もまばらな貧民窟スラム。未だ工事中なのか少し前の大雨の被害の跡なのか、中途半端に積み上げられたままの石壁や建築物。

 そして町の北側まで行くと明らかに見ることのできる難工事の様子。

 遙か遠くに見える大河・明江の対岸には、建築物らしきものの陰すら見えない。ただ所々えぐられたように見える部分に人影のうごめいているのが見えるのみである。人の話によると先日の大雨で明江が増水し、岸の工事現場付近を大きくえぐってしまったのだという。

 また大都の南側、定住民以外の者が集うことを許されたエリアでは、永く離れている家族との再会を望む老人や女子供がちらほら人探しのためにたずね回っている姿がしばしば見られた。彼らの尋ね人の多くは「別宮」とも呼ばれる、明江岸の塔建設工事に動員されているはずである。しかし正に目と鼻の先にいても、一目無事を確認することすらできない。ゆえに人探しの姿は日々少しずつだが増えてゆく。

 濃い光ほど闇もまた濃い。月並みだがついそんなことを思う嵐であった。



 それはともかく、この陳情書は皇に直接届けるべきものであろう。嵐はそれを元通りにしまうと、種類別に分けられている書類の山の一つにそれを置いた。




 未処理書類があらかた片付いたところで嵐は席を立った。部屋の奥で嵐同様に書類に取り組んでいる男に声をかけてから、処理済み書類の山をカートに乗せて部屋を出た。そして各部屋を巡って決済待ちの書類を各部署に配達し、また更に処理待ちの書類を受け取る。

 王城内、後宮以外全ての場所を行き来して、嵐は仕事をこなしていった。


     ***


 百の一日は日の出と同時に始まる。

 まだほとんどの人が寝静まっている宿を出ると、まずは宿の周辺をぐるりと歩く。


 彼と彼の師匠が滞在している宿は大都の南エリア、つまり大都定住民ではない者のための区域で、きれいとは言えないが、様々な人種や職種の人々が集まっている、活気に溢れた場所であった。

 吐蕃皇国首都・大都の名前と、初めて見たときの大都の城壁と門の偉容にやや気後れしていた百であったが、この区域の、雑然とした雰囲気は好きになっていた。

 宿の周辺を回ってまだ余裕がある日には、更に南エリア全域へと彼は足を延ばす。


 大都は完全な計画都市で、街路は格子状に張り巡らされている。大通りなどのメインの道はともかく、脇に入った小道は人が二人並んで歩くにもいっぱいの狭さで、その街路いっぱいに建物の外壁が迫っている。つまり慣れない者にとっては町全体がさながら巨大な迷路となっているのである。

 しかし意外に百はこの町のつくりへの順応が早かった。

 確かにこの町には同じような道があちらこちらにある。しかしいずれも必ず格子状であるなら、角を何度曲がったかで自分の向いている方角が分かる。それにどんなに目の前の壁が同じ表情であっても、目線を上げればほとんどの場所から王城・円城が見える。円城は大都の最北に位置しているのだから、町中のどこから見ても、城のある方角がイコール北となるのである。定点ランドマークさえあれば、自分のいる位置を認識することも、調整することも、百には容易なことであった。伊達に山仕事をしてきたわけではない。



 ときにはそうしているうちに町を囲む城壁の開門時間となる。そんなときは彼は門を出て大都の壁の外を歩く。

 大都の城壁の外周はぐるりと水路で囲まれている。つまり大都に入るには、何箇所か設けてある門に続く橋を渡らねばならない。

 この水路は国土中に張り巡らされた運河の一部であり、水路でやって来た者は町の手前で下船して、最後は歩いて橋を渡り、門を潜らねばならないことになっている。

 もちろん、場合によっては船での入都も許される。例えば大きな荷物を運んできていて、陸揚げは城内でやった方がよい場合。または直接円城へと招かれた特別な賓客の場合。その他でも、役所の、ひいては皇の許可を得ている場合は、運河から水路へと船が直接入ることも可能となっている。



 城壁の、更に水路の外は、だだっ広い平原となっている。

 そして少し離れたところには、粗末な建物や耕作地が見える。吐蕃皇国の、ひいては大陸の東側で最も広く肥沃な大穀倉地帯の、最北端に当たるこの地域では、畑作が盛んであった。さすがに大都の城壁のすぐ側まで畑が広がっているということはないが、見える距離から地平線まで、緑の畑が広がっていた。

 最近吐蕃皇国中で異常気象が頻発しているが、大都のあるこの中央北部地域では目立って異常も起こっておらず、作物の成長は順調なようであった。

 地を這う濃い緑と、紅い砂の色をした小さな建物の光景を遠くに眺めながら、水路に沿って北へ行くと、そこには滔々とした大河・明江がある。そして遠く対岸は赤土の荒地となっている。現在、別宮となる予定の高い塔の建設現場もそこにある。正にそこは、「吐蕃王国」の最北端なのであった。

 そんな場所も、百は早朝の眩しい光の中、散歩やジョギングをしながら見ていた。

 そんなわけで、大都に滞在して一週間もするころには、百は大都の南半分と城壁の外のことは随分と分かるようになっていたのである。



 朝の運動が済んで宿に戻る頃には彼の師匠である嵐も起きて身支度を整えている。

 それから一緒に朝食を摂ると、嵐は城へ仕事に出かける。それを見送ると、再び百は一人で大都の町中へと出かけていくのであった。


 広場の片隅を占領して一通り武術の訓練をすると、さすがに飽きがくる。

 武術を身に付けるにはとにかく基礎体力をつけることと型の反復練習だ、と彼の師匠たる嵐は言った。その言葉に逆らう気なんて彼には毛頭なかったが、さすがに一人でできることも集中力も限られている。

 百はしばらく悩んでいたが、その日は潔く稽古を止めて、町へでかけることにした。

「師匠はオレにできることを探せって言ってた。でもオレまだ何にも分かんねえ。師匠はたくさんのことを知ることが必要だとも言ってた。町に出ればきっと色々見れる!」

 言い訳めいた台詞を呟いてみたのは、根が真面目な百らしいことであった。



 昼前の大都南エリアは、そろそろ昼食を求める人々で賑わい始めていた。簡素な日覆いだけの店舗から漂う食欲を誘う香りにかなり心を惹かれつつ、懐の寂しい身では諦めざるを得ず、百はのろのろとそれらの前を行き過ぎた。

「…やっぱバイト増やそうかなあ」

 大きなため息を吐きながら、百は内心で呟く。

 彼は大都に来てから不定期でアルバイトをしていた。基本的には樵として建築用の材木を納めるのであるが、ときには荷物の運搬なども行っていた。いずれにせよ彼の本分である。

「……でもなあ。他にオレにできることってもなあ」

そんなことを思いつつ、左右の天幕をきょろきょろしながら、彼は中央大通りまで来ていた。

 食料品のエリアを抜けると、色鮮やかな衣料や種々雑多な日用雑貨のエリアになり、更にその先は天幕の幾つか並ぶ広場になる。


 狭く、混雑した道を抜けた先で急に広がった視界に、百はしばし戸惑って瞬きした。が、すぐに好奇心に視線がくるくると動き出す。

 広場の中央には空間があって、そこにはたくさんの行李や金属の箱が並び、積まれていた。

 周囲には色とりどりの天幕が4〜5個あり、何箇所かには高いポールが立てられ、それぞれを繋ぐように渡されたロープには、半分千切れたような旗や飾りが吊るされ、風にはためいていた。

(祭でもあんのかなあ)

 大都会に慣れていない百はそんなことを思ってわくわくしながら広場に足を踏み入れていった。

 広場は、祭をしているにしては散漫としており、何より人が多くなかった。崩れた格好をした女が荷物の上にだらしなく腰掛けていたり、一方では屈強な男たちが何やら声を掛け合って作業をしている様子が見えた。

(あ、まだ準備中なのかなあ)

そう思いつつ、百は大き目の天幕に近付いてみた。

 天幕の入り口はやはり閉ざされており、何やら書かれたプレートが立てかけられていた。百はじいっとそのプレートを見詰めた。彼は文字を読むことがほとんどできなかったが、かろうじて読める文字が真ん中に大きく書かれていた。『閉』の一文字であった。

「あ、やっぱり…」

呟いて辺りをきょろきょろと見回してみる。しかしすぐ近くに人影は見当たらなかった。もう一度プレートに目を向けるが、それ以外で、彼に理解できる文章はなかった。何個かあった数字は読めるが、それが何を意味しているものか、前後の文章がわからない以上、それだけではどうしようもなかった。

「何やってんの、あんた。開き待ちするには早すぎるわよお」

 そんな百の背後からいきなり声をかけられた。眠そうなまったりした女の声に百が振り向くと、そこには派手な色のガウンを羽織った女がいた。透けそうなほどに薄くぴらぴらしたガウンを、ゆるく腰帯で縛っていて、その下にはやはりゆったりしたズボンを穿いている。しかし胸元は大きく開いていて、さすがに百は目のやり場に困った。しかし女はにたりと笑うと、口の端にくわえていた煙管を揺らしながらしげしげと百を見詰めている。

「あんた、見ない顔だねえ。なあに、誰かのファン?出待ちでもしてんの?どうでもいいけどあんたみたいな坊や、こんなところでぼやぼやしてたら悪い奴らに攫われちまうよ〜?」

そう言って女がけたけた笑う。『坊や』扱いされた百はそのことにショックを受けつつ、それ以上に今まで見たこともないような派手であだっぽいこの女の艶めいた雰囲気に圧倒されてしまっていた。

 何しろ距離が近い。彼女はほとんど息のかかりそうな距離で百を眺め回し、あまつさえ簡素な頭巾で覆った頭からこぼれた髪の毛に触ろうとする始末であったのだ。百自身はどぎまぎして固まっていたため、ろくに女の様子に気付かなかったが、彼女は人の悪い笑みを浮かべながら百の緊張した様子を楽しんでいたのである。

「と、ところでおばさん、何か祭りでもやってるんすか?何時から始まるんです?」

 やっとのことで訊きたいことが言えた百であったが、その途端女がこれ以上はないほどに険悪な目つきをした理由は、分からなかった。

 おばさんと呼ばれた女は、しかし百が全く悪気のない表情をしているために、呆れるしかなかった。そして同時に心の一方は更に深く傷付いてもいた。

 しかしとりあえずも彼女は彼の問いに答えてくれた。頬は不自然に引きつっていたかもしれないが。



 別に現在、大都では祭を行っているわけではない。ここは大都南エリアでも芸能関係者が商売をはる地域で、現在複数日滞在して公演を行っている団体は5件いるという。

 大きなイベントのない現在は、どこも夜の公演一度としているようだ。春の祭の時に昼夜複数回公演などできたのは、ひとえに祭という特別なイベントを盛り上げる一環であったからなのである。

「なんだーそうなのかー」

 百が本気でがっかりしているのを見て、女はけらけらと笑った。

「なあに?そんなにがっかりすること?それならあたしの舞台を見ていくかい?」

女が一瞬で身体を摺り寄せてくるのに、百が慌てて身を引いた。女はおかしそうに笑いながら、顔を間近に寄せて百に囁く。

「アタシも踊り子をやっててねえ、これでもそこそこお客サンもついてんのよ」

「お…踊り子?」

「そ。まあ、皇サマのお声がかかるほどじゃあないけどさあ。でもそうなったら一発で骨抜きにだってできんのヨ、アタシはね」

 ふっとかかるほのかな暖かい吐息。薄く化粧の施された顔と、艶めいた視線。そして鼻に重く甘ったるく香る香料の匂い。それが意味することと女の言葉の意味など、百には分からなかった。何しろこんな状況に遭ったのは初めてのことであったし。しかし本能的にこのままでいてはいけない、と百は思った。

「い………いや!また!またの機会にするよ!」

 ぴょこん、と飛び上がるように百は女から身体を離した。そしていくらかぎくしゃくとしながらではあったが、女に手を振りながら早足にその場を離れていった。

 百の素早い行動に、女はしばしきょとんとしていたが、ぶっと噴出すと、けたけたと笑い出した。その表情は決して馬鹿にしたものではなく、百の反応のあまりの初心さに思わずこぼれたもののようであった。




「ほう、今日はそんなことがあったのか…」

 その日の仕事を終えて帰ってきた嵐と夕飯をとりながら、百がその日あったことを喋っていた。これが最近の彼らの日課でもあった。

「いやあ、なんかわかんないけどオレ、あのままあそこにいちゃいけない気がして、思わず逃げちゃったんすけど…悪いことしたかなあ、せっかく見ていくか?って言ってくれてたのに……」

その時の状況を思い出したのか、やや頬を紅潮させている百に、嵐はくつくつと笑うのを止めることができない。

「いや、ついて行かなくて正解であったと思うぞ」

そうですか?と言いながらも百は尚首を捻っていた。

 それはともかく、と百はその後のことを話し始めた。

 女と別れてから、何となく理由は分からないものの悔しい気持ちだった百はそのまま手近な門から大都の外へ出た。そこは大都の東側の門で最も南寄りの門であった。水路の上の橋を渡るとそこは赤っぽい広野で、大都へと続く街道とそれに沿って植わる背の高い緑の樹があって、ずっと遠くに畑らしき緑と、更に遠くの山影がぼんやりと霞むように見えた。そして北側にはまっすぐ大都の城壁が続き、その先には大地の途切れ目と更にくすんだ赤黄っぽい隆起した台地が見える。

 百は北側へと足を向けた。そこには明江があり、その対岸では宮殿の建設工事が行なわれているはずであった。

(そう言えば兄貴たちも都の工事に行ったはずなんだよな……)

ほとんど忘れかけていたことをなぜかそのとき思い出したのが、工事現場を見に行く動機であったかもしれないと、百は言った。

「様子はどうであった?」

 嵐がなんとはなし、静かな口調で訊ねる。百は軽く首を振った。

「いや、何か、何も分かんないってのが正直なとこでした。河には橋がかかってなかったし、船もなかったし、向こう岸に渡れなくって。でもこっち側からでも充分向こうが見えたんでまあいいかと思ったんですけど。でも川岸が崩れてて、そこを掘り返してる人がいっぱいいるのは見えたんだけど、なんか建物らしきものは全然見えなかったし…

 でもあれ、多分あそこが工事現場だったんですよ。だって足場組んだのとか、崩れてないとこにはネットがかけてあったし。ただの川岸の工事なら、あそこだけそんな風になってんのっておかしいし」

首を捻りつつ一生懸命に思い出しながら話す百の報告を、嵐は時折質問を挟みながら聴いた。

 その結果は、嵐が王城内で集めたものも含めて、これまで収集した情報から嵐が導き出している王宮建設の情報を固めるものであり、大きく外れた話もなかった。どうやら百の素直な感性は、情報収集、ひいては諜報にも向いているものであるのかもしれない。そう嵐は思った。


「ところでハクよ、おぬし明日は何か外せぬ用はあるか?」

 百の話が終わったところで、嵐が訊ねた。もちろん百には予定などなかったのでそう答えた。

「では明日からしばらく、おぬしの力を借りたいのだが、よいか?」

 嵐の話によると、明日から王城では官吏採用試験と皇立研究所の職員及び研究員採用試験が始まるのだという。嵐はもちろん『皇公会議』開催のための臨時職員として雇われたのではあるが、よほど人手が不足しているのか、試験の方も手伝うようにと要請されたのである。

「そこでおぬしにも仕事を手伝って欲しいのだ。と言っても正式に職員として採用してもらうことは残念ながらできなかったのだが、わしの手伝いとして王城に出入りすることは許可してもらえた。ただ働きにはなるが、わしの王城での仕事をしばし手伝ってもらえぬか?」

 嵐が話し終えるよりも随分早くから百は思いっきり全身で頷いていた。師匠に力を貸して欲しいと言われて嬉しかったのもあるが、一般人がなかなか入ることの許されない王城内に堂々と入れることなど、ましてやその中で働くことができるなど、百としてはほとんど夢のような話である。百に否やのあるはずがなかった。

 早速翌日から嵐と百は共に登城することにして、彼らは席を立った。




(…あ、そういえば、一つ言うのを忘れてたことがあったなーー…)

 自分の寝台に向かいながら百はふと思い出していた。

 昼間、踊り子の女にあしらわれてなんだかむかむかしながら門へ向かっていた途中、彼はふと粗末な日覆いの下に幾つかの物が並べられて売られているのを見たのである。

 大都土産を売っているのだと、その粗末な露店の男は盛んに通る人に声をかけていた。百はたまたまその店の直ぐ前を通っていたので、思わず歩調を緩めて並べられた品物を見ていた。

 その中に、一枚の絵があった。それを見た瞬間、百は心臓が音を立てるのではないかと思うほどどきりとした。

 それは、一人の女が描かれたもので、他の品物と比べて大きかった。こちらを真っ直ぐに見据える女は、ひとことで言ってとてつもなく美しく、たかが絵だと思っても、胸がどきどきするのは収まらなかった。

 面長の、白い顔。少しきつめの紫色の目と真っ赤な唇。真っ黒な髪の毛は長く腰の辺りまであって、ところどころに赤や青の丸い飾りが付けられているようで、柔らかそうに広がっていた。衣裳は真っ黒で足先だけが見えるほど長かったが、中の身体が透けて見えるように描かれていて、妙に恥ずかしかったが、目を離すことができないほど綺麗だと百は思った。

(うわあ、きれーな女の人だなあ……)

 先ほど会った躍り子の女も確かに綺麗な女性であったが、この絵の女のように見とれてしまうことはなかった。紙に描かれた、特にものすごく実物に似ているというわけではない絵で、これほどにどきどきさせられるのだ。一体、この絵のモデルとなった女性はどれほどに綺麗なのであろうか。

(うわ、やべ………)

 思い出しただけで顔が熱くなったのに気が付いて、百は慌ててぺしぺしと自分の頬を叩いた。彼が今いるのは宿の廊下。他に誰もいなくて助かった、と百は紅潮した頬を押さえながら慌てて自分の部屋にすべり込んだ。

「師匠には…言えないな。これじゃあ」

 寝台に潜り込みながら、百は呟いた。

 



 皇立研究所の試験は通常四年に一度行われる。ほとんどの場合において官僚登用試験も同時に行われるため、試験実施に当たった年は、首都・大都は大変な騒ぎと厳戒体制となってしまう。

 試験は筆記と面接が定められており、研究所の試験にはこれに実技が入る。試験内容に関する情報の漏洩防止には毎回大変な苦心が為されている。それでも毎回必ず一件以上は不正が発覚するという。余談ではあるが、試験に関する不正に関わった者は大都市民権剥奪などの厳罰に処される決まりである。

 なぜそんなにも厳しいのかと言えば、いずれの試験も国政に深く関わる人材を全国、全世界から募るためのものであるからである。

 これらの試験は世界一難しいと言われており、一発合格の確率が一割に満たないとさえ言われている。

 しかしその一方、受験資格は無いに等しい。完璧能力主義の制度なのである。そして合格さえすれば、王城勤務の官僚として衣食住には困らない生活ができるようになるし、努力次第では大貴族並みの生活を手に入れることも可能である。また、皇立研究所の研究員として好きな研究に没頭する日々を送ることも可能だし、術力を有する者はそれを有効に活かすこともできるようになる。

 そのため、いかに難関ということが知られていようと、受験ノイローゼで自殺する者が出たり、受験生同士での足の引っ張り合いが刑事事件にまで発展しようとも、受験希望者は毎回後を絶たないのである。

 試験は七月初めから三ヶ月間かけて行なわれ、九月末に採用者が確定するということになっている。そしてその間、受験生は外部との接触がほぼ不可能な状態にされる。これは不正を防ぐ目的でもある。しかし一方では、余計なことにかかずらっていられない受験生としては、例え可能であっても好んで外部への接触を求めることはほとんどないのであった。



 試験を数日後に控えたその日も、明青は王城内の書庫にこもっていた。

 もともと勤勉で勉強家な彼女ではあったが、ここ数日は更に鬼気迫るものがあった。朝一番から入城して書庫に直行すると、そのままほとんど飲まず食わずで閉門時間までいることさえあった。

 彼女の知り合いの研究所員がさすがに彼女の身を案じると、明青は頑なな表情で首を振った。

「まだまだです。まだ足りない。時間が限られていることは重々承知しています。でも今はとにかくできるだけのことはしたいのです」

若い、少女らしい美貌でありながら、その瞳に宿る勝ち気と一言で表現できない迫力は、彼女の意志を誰にも翻意させることのできないことを示していた。

「だって本当に私はまだ足りない」

 分厚い書物の頁をくる手をふと止めながら、明青は思う。

 春祭で衝撃的な事件に遭った明青は、しばらく情緒不安定な状態に陥ってしまった。他人と顔をあわせるのが恐怖で、終日自室に閉じこもったりもした。そんなことをしても無意味だと分かってはいても、体は心を裏切って、どうしても動こうとはしなかった。

 そんな状態を脱することができたのは、ふと小耳に挟んだ紅珠の噂がきっかけであった。



 その日明青は、寮母に無理矢理のように食堂に引き出されて食事を摂らされていた。食事さえまともに摂らずに閉じこもっていた明青の体が心配されてのことである。そこでその日久々に、彼女はなかなか食物を受け付けようとしない自分の体を何とかなだめながら食事をしていた。

 そのとき、隣接するフリースペースでの会話が耳に入ってきた。

 聞くともなしに聞き流していた明青であったが、「春祭り」の声に全身が反応した。動揺する胸を押さえつつ、聴覚に全神経が集中する。早鐘のように鳴る鼓動と割れるように痛む頭は恐怖からかそれとももっと別の感情からなのか、彼女には判別できなかったが、そんなこともどうでもよかった。

「………らしいよ、まだ捕まらないらしい」

「極秘捜査なんかにしてるからじゃないのか?この国にいることは確かなんだから、本腰入れて探せばすぐに見つかると思うのだがなあ」

 どうも見つからない犯罪者の話題のようであった。何だ、関係なかったかと明青は無意識に詰めていた息を少し吐き出した。

 しかし続く会話に、彼女は再び全身が凍り付くような感情に襲われた。

「………………からさ、そりゃ無理だよ。あれは一種市民の偶像だからな。美しき天よりの御使い。人々に憩いと慈しみを与える。…まあ、正体は所詮流れ者の踊り子なのだがな」

「いや、そう言ったものでもない。あの女だが、ただの踊り子ではなかったぞ」

(『天の御使い』?『流れの踊り子』?それってまさか…)

 がんがんと目が眩みそうなほどに頭が痛む。耳の奥がじわじわと熱くて痛くて、よく会話が聴こえない。何かが明青を牽制していたのかもしれない。それでも彼女は知りたかった。その続く言葉が、聴きたかった。

「…ちょっと調べてみたのだがな、紅珠、といったろう?あの色っぽい踊り子。あれは本当は流れの傭兵らしい。『沙漠の女戦士』などという名で知られているらしいぞ」

 気が付いたら明青は席を蹴って駆けだしていた。背後で何か言っているような気もしたが、そんなものは気にも留まらなかった。走って、走って、自室の寝台に飛び込んで上掛けを頭から被って、ようやく呼吸が落ち着いてきた。

(コウジュ――――――『紅珠』!)

 その名を、明青が忘れるわけがなかった。忘れようにもつい先日のことである。紅珠と最後に言葉を交わしたのは。出会ったのもつい数日前のことではあったが、そんな短い付き合いでも、紅珠という人物の存在は、明青の心に強い印象を刻み込んだのである。



 初めて会ったのは大都の町外れ。研究所の受験者の嫌がらせで使役獣に追われていたところを助けてもらったときだった。道路よりも低い位置にある水路からいきなり飛び出してきて一蹴りで使役獣を反対側の壁まで吹っ飛ばした。その強さと、振り返ってこちらを見た彼女の姿の美しさに、とても驚いたことを思い出す。

 もう一度会いたい、と思って彼女の仕事場を訪ねた。彼女の踊り子としての姿を見て感動した。素顔の彼女と他愛ない会話を交わすことができて、思う以上に楽しかった。

 助けてもらった感謝の心でも、その能力に魅せられたのでもない。紅珠という一個の人物と知り合えたことが、明青には嬉しかった。多分紅珠は、明青が故郷の村を出て大都に来て、初めて得た友人であった。

 紅珠と最後に交わした言葉を、明青はよく思い出せない。残酷な場面を目撃してしまってひどく動揺していたときに交わした会話であったからだ。そして泣き疲れて眠った後、次に目を覚ましたのは今いる、この寮の自分の部屋の寝台であった。そして目の前には黒髪の美人ではなく、いかつい姿の男、紅珠が舞姫として所属していた移動芸能集団『天藍』の団長がいた。

「紅珠があんたによく謝っといてくれと言っていた。あんたの心を思い遣ってやれなかった、あんたの心を傷付けるような目に遭わせてしまった。あんたをちゃんと守ることができなかった。ごめんなさい。と」

 『天藍』の団長が伝える紅珠の言葉に、明青は思わず涙ぐんだ。謝ってもらう必要などないのに、そう叫びたかった。

「…多分あんたは、『謝ってもらう必要などない』と言いたいのだろう?」

彼の言葉に、だから明青は驚きを隠せなかった。涙の零れる菫色の瞳を大きく瞠って自分を見つめる少女に、彼はいかつい顔の表情を変えずに続けた。

「だがあんたにはそれを言う権利はない。あんたは紅珠に一緒にいて欲しいと願った。そして紅珠はそれを承諾した。それが何を意味するか、わかるかい?あんたは紅珠に『依頼』をしたんだ。そして紅珠はあんたの『依頼』を受けた。例え何があっても依頼者を何ものからも守るのが、紅珠という女の仕事だ。例えそれが目に見えないものによる原因であったとしても。そして紅珠は受けた依頼はどんなことがあっても遂行しようとする。例え不可抗力で失敗したとしても、それを理由にあの人は自分の失敗を正当化しようとはしない。例え依頼者本人が許しても、紅珠は失敗した自分を忘れず、その過失を忘れない。紅珠は――あの人は、それだけの厳しさをもって生き抜いてきた人だ。―――戦い抜いてきた、人なんだ」

「それは…どういう……」

 団長の強い言葉に、明青は戸惑いを禁じ得なかった。不思議なことに明青を責めるような態度にも見えないことも、彼女を困惑させていた。彼の話す内容からすれば、紅珠を困らせる原因を作った明青を責めてもいいようにも思えたのだが。

「――多分、あんたの訊きたいことは分かる。だが、それは今、俺に答えられることではない。ただ言えるのは、あんたは紅珠に助けられた。あんたは、それを決して忘れてはいけないということだ。そして助けられた命であんたが何を為すべきなのか、よくよく考えることだ。紅珠に恩義を感じなければならないと言っているのではない。紅珠に何かしなければならないと言っているのでもない。むしろそれは不要なことだ。紅珠は紅珠の仕事をした。それは完了したと紅珠は言っている。だからあんたが考えるべきは、今後あんたが自分自身に何を為すか、ということだけだ」

「……」

「あんたはあんたの道を進め。あの人も自分の道を進んでいる。戦っているんだ」

 しばらく沈黙が下りた。男はにこりともしないで明青を見つめている。だが決して明青は居心地は悪くなかった。愛想のない男だが、面倒見がよく心根は優しいのだ、そう紅珠は言っていた。そしてにこりともしない男の、その視線は穏やかなままであることに、明青も気が付いていた。

「教えて。彼女は――紅珠は、一体どういう人なの?――――――今、どこにいるの?何をしているの?」

 沈黙を破ったのは明青であった。解答が得られるとは思っていなかった。ただ、訊ねずにはいられなかったのだ。

「紅珠は、戦っているよ」

団長の声は淡々としていた。

「あの人は、そういう人だ。戦って、戦って、戦い抜いて今のあの人がある。戦うことで自らの道を切り拓き、自らの存在と地位を確立させた。それはあの人の生き方全てだ。きっとこれからもずっとそうなんだろう」

「――あの人は、舞姫じゃないのね。戦う人なのね」

紅珠の戦闘能力が優れていることは、明青も知っていた。何度も守られ、彼女の戦う姿を目のあたりにした。そのときの彼女は、決して単なる移動芸能集団の舞姫などではなかった。戦い慣れた者の姿であった。

「いや、あの人は舞姫でもある。彼女は優れた舞の名手で、同時に戦士でもある。それが紅珠という人だ」

団長の答えは、明青にはすぐには納得できるものではなかった。だが、確かにそうなのだろうとも思っていた。理屈ではなかった。ただ、明青の見てきた紅珠という人物は、美しい舞姫であり、同時に強い戦士でもあった。それは確かなことであったから。



(紅珠は捕まっていない―――紅珠は、生きている。確かに生きている。どこでか、ここか、それともとっくにもうどこかへ行ってしまっているのか、それはわからないけれども、でも確かに紅珠は生きている。戦っているんだ!!)

 『天藍』の団長の言葉が明青の脳裏をぐるぐると回る。

『戦って戦って戦い抜いて―――』

(紅珠は、今も戦っているんだ)

 そう思うことで、不思議に心が熱くなってきた。上掛けに包まったまま、明青はしゃくりあげて泣いていた。目も、頭も、胸も、全てが熱くて痛くてどくどくいっていた。

『紅珠は戦っている。だからあんたもあんたの道で戦え――それくらいしか、俺があんたに言えることはない』

 去り際の団長の言葉。そのときはぼんやりしていたのでほとんど聞き流していた。しかし、確かにその言葉は明青の中に残っていたのである。

(彼女は、戦っている。多分、今この時もどこかで。だったら私は―――!)

『戦う』という言葉が明青の胸に強く響いていた。



 通常の生活が送れるようになってから、明青は砂漠の舞姫の噂を聞いた。なんでも祭明けの翌朝に、魔術を用いて大都周辺に豪雨をもたらした女術士がいたという。その女術士のいでたちは全身黒装束で、舞と歌で雨を降らせたのだという。

 それが行なわれたのは早朝であったが、目撃者は多数存在し、その中には『天藍』の公演を見に行った者も多く、その術士は確かに『天藍』の踊り子、「砂漠の舞姫」の異名をとった紅珠に間違いなかったとの証言が多く得られている。

 ともかくその女術士は、皇国に災いをもたらそうとする者、皇国の敵として、王城では重罪犯として行方が捜索されているのである。

 しかし不思議なことにその人物は、王城ではそのように極悪人として扱われているのに反して、一歩城を出ると、その人物は天よりの使者と考えられ、密かに慕われているのであった。

「あのお方は天の御使いで、皇の傲慢、皇の非を(ただ)すために天の意を示して雨を降らせたのだ」

 町で話をしていた男にそこまで言い切られた時には、さすがに明青も苦笑を禁じ得なかった。

 しかしそういった言葉が出るほど、その雨を呼んだ女術士の存在が市民たちに好意をもって受け入れられ、強く慕われているということであった。そしてそれ故に政府は彼女を危険人物として極秘裏にでも排除せざるを得ないのであろう。

「あなた、すっかり大都のアイドルね。こんな状況、あなたは知っているのかしら?」

胸中に囁いて、明青は密かに笑った。

 数日後には皇立研究所職員採用試験が始まる。そうなるともうこの書庫も利用することはできなくなり、全てがこれまでに蓄えられてきたはずの受験者本人の知識や能力のみでの勝負となる。

「私はこの道で戦う。絶対に誰にも負けない」

呟いたのは、改めて己に気合を入れるためであった。


 正直なところ、皇立の研究員になることに迷いが無かったと言えば嘘になる。

 皇立研究所員となることは、吐蕃皇国政府の公務員となることを意味する。

 数ヶ月前なら迷うはずもなかった。しかし例の事件に遭遇してもこの皇国を無条件に支持できるのかと考えると、即答することはできない。その点に関しては、今も明青の中では明確な答えはない。しかし彼女はそうするしか自分を活かせる、そして胸を張って生きることのできる道はないのだということも分かっているのである。

 明青の術力は生まれつきのものであった。彼女の能力は幼い頃から強く、今よりももっと未熟で抑制力のなかった頃は、ちょっとした感情の高ぶりに反応して周囲のものを発火させてしまったり、ものを壊してしまったりと、様々な事件を起こしてしまったのである。

 彼女の両親、兄弟姉妹含め、故郷の村の住人の誰一人として、全く術力を持たないわけではなかったのだが、彼女ほどに強力な力を持つ者はいなかった。術力を持つ者は珍しくはないが、それも度が過ぎれば恐怖の、或いは迷惑の対象となるのである。

 そんな事情があって、皇立研究所職員受験資格である最低年齢の十五歳を超えた明青は、一人遠く故郷を離れて大都までやってきたのである。今更故郷には戻れないし、戻ったところで彼女には何もできない。きっとまともに普通の暮らしを送ることすら望めないのだろうと彼女は思っていた。だからこそ、彼女は何があろうとここでくじけるわけにはいかなかったのである。

 受験者寮に入って、自分のような境遇の人間がたくさんいるのだということを、明青は知った。それは一面彼女をほっとさせたが反面、同様に退くことのできない人間がそれだけ多いということでもある。だからこそ裏側では足の引っ張り合いだって日常茶飯事の如く存在するのである。それでも彼女には譲るつもりも退くつもりも、負けるつもりもまったくなかった。

「私はここで私の道を戦う。そして必ず勝ち進んでいくわ。もしもまたあなたに会うことができる日があったとしても、絶対に恥じることなんかないようにね」

 自分自身に言い聞かせるように呟いた明青の表情は、思い詰めてはいたが悲壮ではなく、その菫色の瞳には強い意志の光がしっかりと宿っていた。




 嵐について入った王城での百の仕事は、ひとことで言えば嵐の補佐であった。

 皇公会議の準備でそれでなくとも忙しかったところに、皇立研究所の試験実施のために人員が余計に駆り出されてしまった城内では、完全な人手不足状態に陥っていたのである。

 百は嵐の処理した書類を各部署に届けることを主な仕事として、城内を駆け回っていた。

 たったそれだけの仕事と他人には思われるかもしれないが、何しろ円城はとてつもなく広く、ややこしい場所も多い。百が相当急いで両手いっぱいの書類を配達して回って嵐の元へ戻っても、またすぐに書類の山が待っていたりするのである。もちろん彼は嵐の処理したものだけではなく、文書課員全員分の処理書類を配達しているので、尚更である。

 また、ただ配達するだけといっても、それはそれで大変であった。百はほとんど文字が読めないので、部屋の位置などは城内の地図を見ながら探さなくてはならないし、例え書類に宛名が記されていても、それが何と読むものなのか彼にはわからない。読み方を教えてもらってはいるが、なかなか何十枚とある書類の宛先全てを覚えることは困難である。結果、部署だけは間違いなく届けるようにして、最終的にはそこの人間に各人へ配ってもらうという方法を採ることも多くなる。

(オレってあんま役に立ってないよ〜な……)

 特に誰かから何か言われたわけではないが、何度もそういったことを繰り返すうち、百もこのままではいけないのではないか、と考えるようになってきていた。

「オレにも文字が読めたらいいのに……」

 そう思って、はっとした。

(いや、俺なんかが習っていいもんじゃないんじゃないか!?だって文字を読めるのはエライ人だけだし。オレなんかが文字読めたって何かいいことがあるわけじゃないだろうし…!)

 しかし一旦心に生まれた思いは、なかなか打ち消すことができなかった。それは百が初めて抱いた『欲求』といったものであった。




 7月に入った初日のある暑い日、皇立研究所職員・研究員採用試験は開始された。

 まずまずたいした混乱も問題もなく、順調に試験日程はこなされていく。

 そして7月に入ると同時に「皇公会議」の準備も大詰めを迎えていた。早くも先遣の役人を大都入りさせ始める国もあり、そういったものの対処も当然、嵐をはじめとする吐蕃王国の役人の仕事であり、ますます彼らは多忙を極めていった。



 様々な人々の様々な思惑の中、「皇公会議」の開催される8月がやってくる。

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