2.招聘
6月も半ばになっていた。季節の移り変わりを追う形で旅を続けてきた嵐と百は、吐蕃皇国首都・大都に後一歩のところまでたどり着いていた。吐蕃皇国でも北方に当たるこの地域では今が春の盛りで、ちょうど彼らが東の沢東公国で見たのと同じ花が咲いていた。
きれいに整備された運河沿いの川縁にきれいに並んで薄紅の花弁が今を盛りと誇る様を愛でながら、がくりと大きく揺れる舟に、嵐はため息を吐いた。
「よう揺れるのう」
思わずこぼした嵐に、船頭が返す。
「わりいな、おっこちねえように気をつけろよあんちゃん」
ひとりごとを聞かれてしまったばつの悪さを感じながら、嵐も返す。
「それにしても揺れるのう…雪解け水か?」
すると、船頭は頭を振った。
「いやあ、ついこないだまで大都では大雨でさあ、そのせいで水嵩があんだよ。ま、どっかでは堤防が決壊したっつーし、それにくらべりゃ全然この辺は何ともないんだけどよ」
「この辺りはこんなに雨の降るものであったか?」
嵐の知っているところでは、この地域は基本的に年間降水量は多くない。西の沙漠地帯ほどではもちろんないが、やや乾燥した気候で、水辺には緑も豊かだがそこを離れると赤い土が剥き出しの荒れた印象の土地となる。
「ああ、今は雨期だからな〜…つってもまだ早いと思うんだけどよ〜…」
「この辺りも多分に漏れず異常気象なのだな」
これまで旅してきた中で見聞きしたことを思い起こしながら嵐は呟く。その言葉が聞こえたというわけではないだろうが、船頭がにやにや笑いながら内緒話をするように声を潜めた。
「いや、それがね、あんちゃん。この雨は皇サマに対する神サンの怒りなんじゃないかって噂があんだよ」
「?」
「ほら、皇サマってまだお妃サン決めてないだろ?あんなお美しいお姫様がいんのにさあ。しかも神様がお遣わしになった尊いお方だってえのに、だぜ?」
神の遣わした姫君の噂など、嵐は聞いたことがなかった。彼の話の様子ではどうやら皇妃候補の一人のことのようであったが。それでは東の姫君のことであろうか、と嵐は考える。しかしそれならば姫君の出身地であり、実の父親である東公の治める国、東の公国・沢東公国では大騒ぎになっているであろう。しかし沢東公国に滞在していた間、嵐は全くそういった噂を聞いたことがなかった。
それでは最近皇が寵愛しているという火晶妃のことであろうか。それにしても北の諸侯の姫君がどうして神の遣いなどと呼ばれるのか。
そもそも火晶は北の公国の出身、しかも北公の実の娘ではなく、北の公国領内に勢力を持つ西域諸族の一つ、昌氏の娘だったのである。
北の公国は吐蕃皇国三つの公国のうちで、最も格も勢力も劣っている。昌氏は都にも名の聞こえた一族ではあったが、所詮は北公の部下に過ぎない。ましてや東公の娘とでは身分も後見の勢力も雲泥の差がある。
皇の寵を得ることは個人の能力でどうとでもなろうが、権力を、頂の称号を得ることは政治の駆け引きの結果である。どう考えても北方一諸族の娘である火晶妃に、東の姫君を相手として勝ち目はない。
そんな風に頭の中で考えている嵐に構わず、船頭はしゃべり続ける。
「だからさ、きっと皇サマの祈りが通じなかったんだろうよ。でなきゃあ、春祭の次の日からあんな大雨になんかなるもんかってな」
言って、げらげらと船頭は笑い飛ばした。
「つかぬことを訊くが、その神が遣わされた姫君というのはどなたのことなのだ?」
「へ?あんちゃん、火晶様のこと知んねえの?」
船頭が目を丸くして言う。やはり火晶妃の方だったか、と嵐は思った。
「火晶様は金色に光り輝くすっげえきれいなお姫様なんだ。しかも火晶様のいるところにはいつもいい匂いがしてるんだ。しかも神様とお話することもできるんだぜ!ああ、いいよな〜俺も一度でいいから見てみてえよ〜」
見たことがないのに何故美醜が判別できるのだ、と嵐は思ったが口に出しては何も言わなかった。
「あんた、大都に行くんだろ?だったら俺の代わりにしっかり金色のお姫様見てきてくれよな!そんでもって帰りに俺に教えてくれよ、どんなんだったか!」
つまり帰りもこの船頭の舟に乗れということらしい。嵐は笑顔で頷いたが取りあえず返事は保留しておくこととした。
それにしてもよくしゃべる男だ、と嵐は思った。しかも聞く者が聞けば不敬罪で咎められそうなことを、である。西の沙漠で聞いた話では皇の陰口を叩いただけで捕まることもあるということだったが、さすがにそれは噂に過ぎなかったのであろうか。それともここが地上ではなく水上であるが故の、この男の気楽さなのだろうか。
そういえば先ほどから静かな奴がいるな、と嵐が傍らを振り向いた。
嵐のすぐ隣で、彼の「自称」弟子である百は舟の縁にあごを乗せて青い顔で呻いていた。
「…うわ!大丈夫かおぬし!」
「…し、ししょ〜だめっす〜気持ちわるいっす〜〜ぐるぐるするっす〜」
涙目で訴える少年の背中をさすってやりながら、嵐は深々とため息を吐いた。
明日は大都に入るという夜、嵐と百は一つ手前の街に着いた。例の如く野営の準備をした嵐は、やはりこのところの日課である武術の訓練に励んでいる百を探した。
街を囲む壁の外には嵐たち以外にもたくさんの野営をする人間がいた。その集団から少し離れた大木の下に熱心に素振りをする百の姿があった。嵐は少し離れた場所で足を止め、しばらく百の様子を見守った。
百の扱う棒は太くてやや長めにしてある。百に武術の訓練をさせることに決めたとき、嵐が百のために見立ててやったものであった。
明らかに重いと分かるそれを、百は軽々と振っているように見えた。両手で振りかぶり、振り下ろす。それから左右に切り返し。以前よりも格段に正確に、速くなった百の動きに、嵐は笑みを浮かべた。
「精が出るのう」
素振りが一段落したのを見計らって、嵐が声をかけた。百は師匠の声に振り向き、歩み寄る姿に気が付いて汗ばむ顔を輝かせた。
「どうだ?一度手合わせしてみるか?」
嵐が言いながら手近な木切れを取り上げて百に向けた。嵐が百に珍しく稽古をつけてくれるというのである。百は嬉しそうに笑いながら大きく頷いた。
嵐は腰から筆記具を取り出すと、百の使う素振り用の棒の先端部分の一方に印を付けた。
「よいか。ここがおぬしの武器の刃だ。ここの部分でわしの体に当てることができればぬしの勝ち。それ以外の部分であれば、わしが負けを宣言せぬ限りは勝敗は決せぬ。よいか?」
嵐の言葉に、百はわくわくした表情で頷いた。
手合いを終える頃には百はくたくたになって地面に寝転がっていた。既に手合いを始めて2〜3時間も経過していたであろうか。しかし結局彼は嵐から負けの宣言をとることができなかった。さすがの体力自慢の百が、荒い息を整えることしかできなかった。
一方、嵐も疲れてはいたが百のようにへたりこむほどではなかった。これは体力の問題ではなく、いかに戦いの際に体裁きが重要であるかということの見本のようなものであった。
百の隣に足を投げ出して座っていた嵐が、おもむろに百に声をかけた。
「ハクよ、聞け。わしらは明日、吐蕃皇国首都・大都に入る」
「はい、やっとですね師匠!」
「そう。いよいよだ」
頷いて、嵐は表情を引き締める。
「大都に入って後のことだ。よく聞け、ハク。わしはそこである任務に就かねばならん。その間はハク、おぬしに何かしてやることはできぬと思う。そのこと、承知しておいてくれ」
「どういうことですか?」
やっと起き上がった百が訝しげな表情をする。
「オレ、何でもお手伝いしますよ!」
「ああ、分かっておる。きっとおぬしの力も借りることとなろう」
嵐が安心させるように笑う。
「だがな、分かってくれハク。わしの任務はわしのもの。わしがやらねば意味はないであろう?」
そこで嵐は少し表情を引き締めた。
「わしはな、ここでわしの能力を尽くしてそれを示さねばならんのだよ」
「…………分かりました、師匠」
百は頷いた。かなり不承不承といった態度ではあったが。
そんな百の感情が手に取るように分かる嵐は、思わず微笑む。
「おぬしにはおぬしでやることがあろう?」
柔らかく笑いながら、むくれた弟子の目に視線を合わせる。それは揶揄するでもなく、何かを誤魔化そうとするものでもない、本当の嵐の言葉であった。
「鍛錬の成果は確かに出ておる。そうだな、次は片手で今と同じ動きができるようになるとよいだろう」
「え?片手で!?」
百が目を丸くする。
彼の扱っている棒は、重りも仕込まれていて、実は結構重い。最初は両手で扱っていてさえ、遠心力に体全体が引きずられて持っていかれそうになっていたものだ。今現在、両手で扱って、ようやく体がぶれなくなってきたところである。それを片手で、しかも同レベルの動きをしろと言われても、百にはすぐに首を縦に振ることはできなかった。
しかし嵐は相変わらずにこにこしながら、頷いている。
「そうだ。片手で、両方同じように使えるようになっておけ。それから、おぬしには大振りする癖がある。それを改めれば、もっとおぬしは強くなる」
そもそも百には地力がある。伊達に樵を生業としてきたわけではない。
「おぬしにかまってやれぬと言うても全く何もできぬわけではない。だがしばらく、恐らく二ヶ月ほどであろうと思うが、おぬし一人でがんばっておってくれ」
そう言われて尚不満を述べることができるほど、百はわがままを言える性格ではなかった。
翌昼、彼らは皇公会議の準備に忙しい大都に入った。6月半ばのじわじわと暑くなり始めた頃のことであった。
*****
吐蕃皇国三公国の一つ、西の沙南公国の現在の統治者たる西公は、名を珪潤という。年齢は32歳。背が高く、体格のいい青年で、品良く整った顔つきに鋭く切れ上がった目をはしばみ色の瞳が和らげていた。
昨年、前西公であった父親の急死により、公の座を継いだ、若き公である。しかし幼い頃より公の座を継ぐ者として教育され、ここ数年は執政として政に関わっていた彼が西公位に就くのには何の異論も支障もなかった。また、彼にはそれだけの器量も才能もあった。
西公たる珪潤を補佐するのは前西公の頃より公国に仕えていた者がほとんどである。中でも珪潤の弟である珪節は副公の地位にあり、兄である西公・珪潤をよく支え、協力して国を治めることに尽力していた。
今、沙南公国府である「雲水城」の一室に、公、副公をはじめとした沙南政府上層部が揃っていた。約一月半後に迫った吐蕃皇国首都・大都で行われる皇公会議への対策を話し合っていたのである。
「やはり公御自身が出席されるのは賛成しかねます」
長い討論の末、宰相・景朔林が断定するように言った。
彼は先代から沙南公国の宰相であった男で、既に初老の年齢ながら、がっしりした体つきと思慮深さを持った人物で、周囲からも信頼されており、特に珪潤、節の兄弟にとっては、父親代わりといっても過言ではない存在であった。
宰相の言葉に、他の会議出席者もそれぞれの表情で頷く。そんな彼らに、西公・珪潤は、渋い表情になる。
といっても彼は、臣下たちが自分の大都行きに反対する理由は理解しているのである。そして彼らの反応は当然だとも思うのである。しかしそれでも、彼にとって会議不参加に納得するのは不本意なのである。
最近、吐蕃皇国首都・大都からは不穏な話や情報が数多く聞こえてくる。それはここに至るまでの会議でも言われていたことである。
例えばここ数年来続けられている大規模な土木工事。皇国中を繋ぐ運河の建設は既に完成しており、現在では大都の建設工事と、王城・円城と大河・明江を挟んだ対岸に建設されている離宮の建設が、国家事業としての大規模土木工事のメインとなっている。この「離宮」に関して、彼らは様々に疑問に思うことがあるのである。
そもそも何故首都建設計画が始まった頃には話にも上らなかった「離宮」が造られることとなったのか、しかも何故明江の北側という、地盤も悪く不便で、格別景色が良いとは言えない場所に、高層の巨大な建物を建設するということになったのか。
また例えば、皇が「王妃」の位にある東の姫君以外の姫君に寵を与えているということ。
皇のような立場の人間にとって、情愛といったことはプライベートなことなどでは決してありえない。しかも、正妃に最も近い立場である「王妃」の位を持つ姫君がいるにも拘らず、それ以外の姫君への辺り憚ることのない寵愛ぶりを示しているということになれば、かの姫君方の周辺が相当神経質になっているのも、噂を聞くまでもなく想像に易いことである。
また、先頃行なわれた春祭、通称「春の燔祭」でも一騒動あったことが既に伝えられている。
祭の最大の目的であり、最大の見せ場でもある皇による3日間の神への祈祷の満願翌日より、大雨が数日間にわたり大都周辺地域を見舞ったのである。
大都周辺では一部河川の堤防が決壊し、周辺の耕作地や運河に被害が出、建造物にも落雷などの被害があったと言う。
皇の祈祷は耕作初めの季節が晴天に恵まれるよう天に願うものである。それがこのような悪天候になったとあっては、皇の面目は丸潰れである。
特に大都周辺で耕作を行なっている者たちにとって、天の神は素朴に信仰されているものであり、素朴であるが故に純粋に、深く強く信仰心が根付いている。そしてそんな彼らにとっては、「皇」は「天」の下に位置されているものなのである。そんな彼らが今回の件をどう捉えているのか、これは吐蕃皇にとっては極めて重要なことなのである。
「春祭の直後続いた大雨に、皇の周辺も大都市民も過敏になっています。一部では皇に対する天の罰であるという噂が立っているとも聞きます」
文官の一人が報告書の束を手にして言う。名前は珪髄。姓が示す通り、彼も前西公の子供であり、現西公・珪潤、副公・珪節の異母兄である。
彼は皇国中の情報収集、分析を主な職務としており、各地に諜報員を派遣していた。沙南公国で最も国中の情報を知り得る立場にある人間である。
公国で最も皇国の情報に通じた彼の言う言葉には強い影響力があった。益々珪潤の表情が渋いものとなる。
そもそもこの皇公会議自体、今年開催される予定もなかった。会議開催の告知文が届いたのはつい先日5月末、会議開催約二ヶ月前という時期だったのである。
内容はいたって簡潔で、会議が行なわれるのは来たる331年8月初めで、各種行事の行なわれるのも含めて約半月が予定されていること。会議の主要な議題は、ここ数年来懸案となっていた「立皇妃」の問題であること。各公国と王都・大都への直通転送路、通称「皇の道」の大都側ゲートは7月晦日に開かれるということ。等であった。
告知文の内容に取り立てて問題があるわけではない。きな臭いのはこの『皇よりの告知文が半月前に正規のルートで届けられた』ということである。
「確かにこんな大規模な会議の告知が開催二ヶ月前になされるのは単なる不手際とも考えられます。しかし確認できている限り、この話が王都で、ひいては王城で聞かれ始めたのはこの一月半以内。それ以前の報告にはこれに関する話題はありません」
資料に目を通しながら言う珪髄に、珪潤が訊ねる。
「最近の報告ではどうなのだ?」
潤の問いに、髄がやや表情を暗くして答える。
「新しい報告は、ありません。定期連絡が、途切れています」
歯切れの悪い髄の返答に、潤が首を傾げる。
「――郵便が遅れているとでもいうことか?」
「いえ、そういうことではありません。だからこそ変なのです」
どこか間の抜けた潤の言葉に、髄は全く呆れた様子もなく答える。
「確かに悪天候などの理由から、流通に滞りが生じております。しかし全ての交通路に問題が生じているわけではありませんし、人の流れは切れることなくあります。民間の物流も遮断されてはおりません。何より、間違いなく王城からの告知文は正規のルートで、正常な期間で届いておるのですから」
いかに皇令の使者が特別であろうとて、民間とそんなにも差別化されているわけではない。
もちろん転送等の術を使えばほぼ一瞬で情報の遣り取りも可能である。しかし転送術を一回行なうには相当な時間や労力、何人もの術者、それも最高レベルの術力を有するものが揃わなければならない。そんなことはよほどの緊急事態でない限り、実行されることはない。
実際、今回の皇公会議の開催告知文は、皇令の使者の手で届けられたのであるから。
であれば、諜報関係の報告が滞っている原因として疑わしきは、沙南公国の王都駐留大使館に勤務する者たちの怠慢或いは身の危険となる。この場合、むしろ怠慢であってくれた方がどれだけ安心することか、と彼らは思っていた。
「ともかく、西公閣下におかれましては、今回は是非とも国へお留まりあそばしますよう、重ねがさねお願い申し上げます」
髄と潤の会話が途切れるのを見計らったように、宰相・景朔林が深々と頭を垂れながら発言した。西公・珪潤は、今度はさすがに不機嫌そうな表情はしなかったが、それでも困惑した表情で反論する。
「しかし会議に出席せぬわけにもいかぬではないか。それこそ皇に対する謀反の心ありと疑われる素であろう」
「そのために私がいるのではありませんか」
場違いなほど明朗な声に、西公・珪潤はまばたきをして声の主を見た。声の主である副公・珪節がにこりと笑って一礼した。
「会議へは私が出席いたします。私は西公補佐で副公の任にある者。私が西公の代理を務めることは決して非礼なこととはならないでしょう」
確かに公が代理人をたてることは前例もあり、決して不自然なことではない。
「そうですな、おそれながら公には体調が思わしくないということにしていただいて」
宰相が真っ先に賛成意見を述べ、場の全員が賛成の表情を取る。
珪潤としてはいささか不本意であった。
嘘を吐くということ。皇の臣下の身でありながら、皇に偽りを述べること。つまり西公として、世の人には公明正大で実直な人物として通っている自分が、世間を欺くということにである。
しかも実の弟である副公に実質の責任を押し付けてしまう形になり、自分の部下たちは上司たる自分の身を守るために嘘を吐くという選択をしている。全てが彼の気質としては不本意なことであった。
しかし一方で珪潤は、今回副公・珪節が王都・大都へ行くということに、意義を見出してもいた。
珪節は沙南公国の副公であり、沙南公国軍の大将も務めていた。副公の地位は以前は珪潤が就いていたもので、潤が公の座に就いたとき、節に譲られたものである。しかし節は軍の大将の地位にはそれ以前から就いていた。実兄である潤の目から見ても節の器は大きく、特に軍の将として兵を率いる能力も、当然のことながら一軍人としての能力も、優れていた。
そんな節であったが、いかんせんまだ歳若く、経験が圧倒的に不足していた。軍人であるといっても大規模な戦闘などここ数年起こっていないし、大規模な遠征もない。何より、大都へもまだ節は行ったことがないのである。
節はこれからもっと大きく成長していく人間であると潤は思っている。そのためにも、できるだけたくさんの経験を積ませ、皇国内の有力な人物との面識を作り、交流することが望ましいと考えていた。そういった意味では、今回の皇公会議はまたとない好機であるように思えた。
確かに現在の大都は色々不穏な噂も聞こえるしそれ以上に皇自身にも幾つか疑問を感じさせる話が、大都から遠く離れたこの沙南にまで伝わってきている。それは臣下たちに言われなくても、潤とて既に聞き及び、知っていることである。
だがしかし、今回の会議の目的が立皇妃に関することであるなら、そこまで危険なことが起こるとは思えない。そして会場には各公国から公や有力な貴族や官僚が集っているであろう。またとない顔見せの機会である。どうしても副公の立場では不都合な事態となったときには、西公たる潤が出向けばよい。それは会議期間中、沙南と大都を直結している転送術の道を使えば何の問題もない。
潤は決断を下した。
「…わかった。私の代理人として副公・珪節を遣わすこととする。会議では西公代理としてよく務めるよう。そして今回を良い機会と心得、見聞を広めてくるよう。よいな」
「はっ。西公代理の任、確と心得て務めて参ります」
西公・珪潤の命を、副公・珪節が拝礼して承る。節が礼をするのに、会議場全ての人間が合わせて頭を垂れた。
この後、7月晦日の出発の日まで、沙南公国府では珪節の皇公会議出席のための更に綿密な打ち合わせと準備が行なわれた。
*****
部屋に入った瞬間、嵐はふと人工的な香りに気付き、くるりと周囲に目を遣った。
広すぎもせず、狭すぎもしない四角い部屋。壁は真白に塗りこめられ、ただ四隅と扉や窓などの開口部が、黒光りする細い木で縁取られていた。
彼の正面に布張りの衝立が立てられ、その前に幾つかの椅子が設えられていた。そしてその部分にだけ、板張りの床の上に色鮮やかな敷物が敷かれていた。その他には書類やら何やらを納めた棚以外、これといった調度品は見当たらない。執務用の机すら見えないのは、恐らく衝立の向こうにあるからだろうと嵐は思った。
「よくぞ来たな、ラン」
衝立の向こうから声がした。そして衣擦れの音と床を踏む足音が、衝立を回って出て来た。
「ぎりぎりではあったがな」
衝立の陰から声の主が嵐の視界に現れた。その瞬間に、ふわりと甘い香りが漂ったのを、嵐は感じた。
人工的ではあるが甘く、柔らかく、馥郁とした香り。
(――ああ、桃の香だ)
その香りは匂いに敏感な嵐にも刺激が薄く、微かに感じ取れる程度のものであった。恐らくこの部屋で焚いている、或いは焚いたものではなく、移り香というものだろう、と嵐は思った。そしてほっとした。きつい香の匂いの中でなど、集中力が奪われてしまう。
「それでは、これからお前には円城内で働いてもらうこととなる。8月に行なわれる会議のことは知っておるか?」
確認するような男の言葉に、嵐は頷いた。
「そうか。さすがだな。
現在、大都では会議の準備が急速に進められておる。しかし何しろ期日がないのでな、あちこちで人手が足りない状態だ。そこでお前には、その会議の準備及び会議期間中の城内での職員として働いてもらう」
言いながら、男が傍らの行李から幾つかの書類の束と包みを取り出した。
「具体的な仕事は明日から。この任命証を持って弁官局へ出頭せよ。そこで任務を受けることとなっておる」
言いながら、嵐に視線で促す。嵐は一礼して歩み出、男から書類と包みを受け取った。包みの中身は城内勤務職員の制服だということだった。
「『皇公会議』の終了する8月半ばまで約二ヶ月、恙無く己の任務に励め。分かったな?」
簡潔に指令を伝える男に、嵐は無言で返礼した。
「――というわけでな、わしは明日より吐蕃王城・円城内部で勤務することとなった。基本的に朝8時から夕方5時までだ。融通はいくらでもきくようだし、外に出ることも多い仕事のようだ。ただし何しろ臨時雇いの職員の身分だからな、それに時期も迫ってなかなかに切羽詰っておるようだ。ゆえに定時で帰れるということはあまり期待せぬ方が良いようだ。それから期間中、特に休暇もない。特に用事がある場合は申請すれば休めるようだが」
外出先から戻った嵐は、大きな包みを幾つも抱えていた。大都の宿屋で師匠を待っていた百は、やはり自分も付いて行って荷物持ちをすればよかった、と思った。しかし付いて行くと言う百の申し出を、嵐は頑なに拒絶したのである。
(やっぱりオレがいちゃ、邪魔になるってことだったのかなあ。オレ、馬鹿だし)
百には理由がはっきりとは分からなかったが、嵐は百がその場所へ行くことを好まないようであった。
「大都に滞在中の宿は引き続きここで良いであろう。わしはここから毎日城へ通うこととなるだろう。後ほどわしからもう一度この宿の主人に説明をしておく。ハク、おぬしもここで確と己の為すべきことを定め、励むのだぞ」
ややしょんぼりしながら嵐の話を聞いていた百は、慌てて背筋を正した。そんな百に、嵐は穏やかな視線で頷いてみせる。
「オ、オレ…?」
「そうだ。昨日も言うたように、わしは今まで以上におぬしをしっかりと見てやることができぬ。だがおぬしが何か分からぬことがあったり、知りたいことがあるなら、わしはわしの力の及ぶ限り、おぬしに伝えよう」
それくらいはふがいない師匠でもできようからな、と嵐は照れたように笑って頭を掻いた。
「そしてその代わりに、おぬしの力もわしに貸してくれ。わしはおぬしも知っての通り、非力だし、その他にも力及ばぬことなど数多ある。今回のわしの任務など、期日が迫っているときた。恐らくおぬしの力を借りたくなることが出て来る。そのときは、ハク、おぬしの力も貸してくれ」
「…はい!!」
嵐の言葉に、百が元気よく返事をした。少し前までの表情はどこへやら、百本来の元気で明るい表情が、戻っていた。
「…でも、オレのなすべきことってなんなんですか?」
「それはおぬし自身で考え、見つけ出すがよかろう。ただ、わしから言うことは、身体を鍛えることだけは欠かすでない、ということだ。おぬしの身体は、未だ生来の素質のみの状態だ。素質を鍛え、その能力を発揮するには未だ多くのものが欠けておる。おぬしが資質を発揮するためには、今は地道に鍛錬を積むことが必要なのだよ」
嵐の答えは百に解答をもたらすものではなかった。しかし何となく心強くなるような感じを、百は受けた。
「……はい!!オレ、がんばります!」
再び元気の良い表情に戻った百の元気な答えに、嵐は満足げに笑った。