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ぎふと

作者: 押水武

 7時48分。海老名ジャンクションの手前で渋滞に捕まった。

 ルームミラーで後部座席を覗くと妻が「ほらみたことか」と、非難がましい顔つきでこちらを見つめている。だから俺は申し訳なさげな表情を大げさにつくって肩をすくめてみせた。本当はもっと早い時間帯に出発する予定だったのだ。俺が寝坊さえしなければ。そうすれば、こんな場所で渋滞に巻き込まれることも無かった。

 だが実際のところ俺はホッとしていた。

 この渋滞がずっとずっと伸びていればいいのに。

 到着が遅くなるほど、向こうの家に滞在する時間が短くなるのだから。

「田舎者の馬鹿みたいな迷信深さは、ほとほと嫌になる」

 と母はしょっちゅう言っていた。それを聞くたびに姉は

「お母さんだって田舎の人じゃない。東北の山奥で生まれ育ったくせに」

 とからかうのだが、するといつでも母は胸を張って

「だから私は田舎を捨てたんだよ。あんた達にちゃんと都会の暮らしをさせてあげられるように」

 と答えたものだった。

 母の実家には行ったことがないから実際そこがどのくらいの田舎なのかは知らない。しかし今向かっている妻の実家は、なかなかに辺鄙な山奥で、まさに母が嫌った田舎そのものであろう。

 そう。とにかく母は田舎のしがらみとか無駄な因習みたいなものを心底嫌っており、父が死んですぐ東京に出て女手一つで俺と姉を育て上げたこと誇りに思っていた。

 その母も姉も、今はもうこの世にいない。


 車はピクリとも進まない。

 既に太陽は十分な高さまで昇っており、フロントガラス越しに飛び込んでくる強烈な日差しがハンドルを握る俺の両腕をギジリギジリと焦がす。カーテレビから流れてくるニュースは、少なくともこの先10Kmは渋滞が続いていることを告げる。

 まあお盆の帰省ラッシュはいつだってこんなもんだ。

しかし、一体どこからどうやって撮影しているのだろう。テレビでは東名高速道路に長くうねうねと伸びる渋滞の列を、斜め上から見た映像が放送されている。

「アリさんの行列みたい」

 と後部座席で娘が言った。景色の動かない退屈なドライブがすっかり嫌になっているのだろう。ぐったりと妻に体をもたれかからせている。

 確かに見ようによっては、アリの行列にも見える映像だ。

 しかし俺はどちらかというと歯車を連想していた。大きな流れに巻き込まれて、わずかの自由も無くただ周囲の動きと同調し、全体でひとつの何かを形成する部品。ただのパーツ。個々の意思などそこには存在せず、動き始めたら終点まで止まれない。

「ねえ。いつお祖父ちゃんの家に着くの?」

 とぐずる娘を、妻は用意したお菓子やビー玉、おはじきで適当にごまかしている。

 俺達が向かっている妻の実家は岐阜県にある。渋滞に巻き込まれずにスムーズに進めたとしても到着まで4時間くらいはかかる場所だ。

 行きたくはない。気が重い。だが「お盆には普通実家に帰るもの」だから仕方が無い。

 言っておくが俺は別に義父や義母と折り合いが悪いわけではない。

 悪いわけでは、なかった。

 昨年までは。

 向こうに行けばちゃんと歓迎してもらえる。邪険にされたり面倒ごとを押し付けられたりするわけでもなく、義父も義母も気さくな人物だ。

 それでも今年の俺はあの家に行くことに猛烈な抵抗感を持っている。

 今の俺は、あの家を、あの家族を気味悪く思っている。

 俺の家族を、大事な妻と娘を、あの家に近づけたくないと思っている。


 昨年のお盆のことは今でも鮮明に記憶に焼きついている。

 夜だ。

 庭で花火を楽しむ娘と妻の様子を、俺は縁側で胡坐をかいて眺めていた。

 やけにカラッとした日で、蒸し暑さはまるでなく、かすかにそよぐ風が心地よかった。

 床の間の襖を開けて、愛想のいい笑顔で義父が俺の隣に座った。

「お母さんとお姉さんのことは残念だったね。寂しいかもしれないが、しかし耕介くん、これからはこっちの家をキミの本当の実家と思ってくれて構わないから」

「はい。ありがとうございます」

「キミは今年で35歳だろ。昔の話だが実は僕もちょうど35の時に両親と弟を亡くしてね。キミと同じで、事故だった。こんな言い方は何だが、これでキミも本当の意味でここの家族の一員になれたんじゃないかな」

「それは、どういう?」

「ほらキミが初めてこの家に来たとき。まだ結婚する前だったね。我々に初めて挨拶にきたときだ。あのときキミは言っていたね。前日の夜は緊張でまるで眠れなくて、ようやく眠れたと思ったら恐ろしい夢を見て飛び起きたと」

「そうだったかもしれません。自分ではあまり覚えていませんが」

「僕はよく覚えているよ。背が高くて薄気味悪い女がゲタゲタ笑いながら、君の足を掴んでどこか暗闇の中に引き摺りこもうとする夢だったと。それを聞いたときはっきりと悟ったんだよ。キミは間違いなくこの家に呼ばれている人間だ。ここの家族になる人間だ、と」

 義父の言いたいことが、そのときの俺にはまるでわからなかった。

 義父の顔に張り付いた笑顔が、なぜだろう、いつの間にかとても不穏で気味悪いものに見えていた。台所で義母が洗い物をするカチャカチャという遠い音も、胃の中をかき混ぜられているように感じられて不快だった。

 庭では線香花火が落ちるの見て娘と妻がアハハハハと笑っていた。

「なあ耕介くん。その夢に出てきた女っていうのは、この女じゃなかったかい?」



 10分に5メートルくらいの非常にゆっくりした速度で車は進むようになった。

 エアコンのおかげで車内は肌寒いくらいに冷えている。

 俺は無意識に胸ポケットに手を突っ込み、そこが空っぽであることを確認して、自分がもう10年も前から禁煙していたことを思い出した。

 お菓子かビー玉かどれが功を奏したのかわからないが、いつの間にか娘の機嫌は直っている。楽しそうに妻の腕に抱きついてとキャッキャとはしゃぎながら「向こうについたらお祖母ちゃんと一緒におはぎをつくって、お供えものするんだ」と笑っていた。

 単調な時間が続くが、不思議と眠くなったりイライラしたりはしない。

 先ほどまでの向こうの家に行きたくないという気持ちが何故だが今は薄れ、凪のようにまっ平らな心地だ。

 妻の実家は、本当かどうか知らないが、大昔は罪人の斬首場があった場所らしい。

 何十、何百という人間の苦痛と後悔と恨みが地中深くまで染みこんだ忌まわしい土地なのだ。本当かどうかしらないが。

 しかし悪いことが続く家であったことは確からしく、建屋だけは古くからあったものの、代々の家人に不幸が続き、たくさんの人々の手を転々としてきたのだそうだ。50年前に大阪から引っ越してきた妻の祖父が、その辺りの事情を知らされず、代わりにかなり格安の値段で入手し住まい始めたのだという。

 長年にわたって不吉な家であるといわれてきた場所に妻の一家が暮らすようになり、その後今日までに何があったのか、何も無かったのか、俺は知らない。少なくとも妻からは、あの家でおかしな体験をしたとか殊更の不幸が続いたとかそういうことは聞かされていない。だが実際どうなのだろう。人間というのは大概のことは時間と共に慣れて感覚が麻痺していくものだ。



「なあ耕介くん。その夢に出てきた女っていうのは、この女じゃなかったかい?」

 そう言って義父が取り出したのは一枚の古ぼけた写真だった。右下に赤みがかったオレンジで撮影日付の刻印が入っている。1994年6月30日。このくらいの年代の写真に特有の、微妙な解像度の低さと暗く潰れたような色合い、それとザラザラした質感がある。

どうやら妻の実家の玄関先で撮影された写真のようだ。木枠にすりガラスをはめ込んだ古臭い横開きの玄関ドアと、その脇に並べられた朝顔の鉢が背景に写っている。鉢に突き刺さった3本の支柱には青々とした朝顔の長い蔓が生い茂り絡まっている。

 玄関前の石タイルに4人の人間が笑顔で並んでおり、その横に例の女が立っている。

 そういう写真だった。

、並んでいる4人は幼いころの妻と義父義母そして恐らく妻の祖母だろう。梅雨の終わりの蒸し暑さが伝わってくるような重たい曇天の空の下で、4人笑っている。隣にいる女だけは笑っていない。

 女は背が高い。

 4人の中で最も長身な義父より、さらに頭一つ分以上も高い。

 パサついた長い黒髪と、薄汚れた灰色のカーディガンのせいで、女の周りだけなんだか酷くくすんで見える。

 それに、何て言えばいいのだろう、この女、本当に人間なんだろうか? 確かに姿形は人間なんだけど、ある種の異様な雰囲気がある。口元に表情は無く、頬はこけており、目だけはギラギラとカメラを真っ向から睨みつけている。野犬とか飢えた熊とかハイエナとか。そういう野生のケダモノを思わせるような様子だ。

 いかにも平和で満ち足りた家族写真にフッと挟み込まれたようにその女が写りこんでいる光景は、あまりにも場違いに見えた。

「なんですか、この写真」

「シラセさんが母屋を出て離れに入ることになって、最後の思い出に撮ったんだよ」

「シラセさん?」

「そう。シラセさん」

 とんとん、と義父は写真のその女を指差してみせる。

「夢に出てきた女は、このシラセさんだったろ?」

「さあ。この写真じゃなんとも・・・・・・」

「じゃあ、直接会ってみるかい? シラセさんに」

「嫌、でも。もうどんな夢だったかも覚えてないですし」

「いいから、いいから。それに浩介くんももうこの家の家族なんだから。一度はちゃんと会っておかなくちゃいけないしね」


 裏の茂みと木立に隠されるように建つ離れのことを、俺は存在すら知らなかった。

 ちゃちな南京錠で外側から施錠されたその腐りかけの木造建物に、俺は義父に呼び込まれて足を踏み入れた。

 瞬間、強烈な刺激臭とムワッとした紫の煙に包み込まれる。

「すごい匂いだろ。昔のお香なんだ。これさえ焚いておけばシラセさんはご機嫌だからね。この建物、古いからあちこちに隙間があるのに不思議とこのお香の煙だけは外に漏れ出さないんだ。さ、もっと中に入っておいで」

 煙を掻き分けて部屋の真ん中に進むと、女が立っていた。

 写真でみたままの女だった。

 写真でみたままの、とても心を通じ合わせることなど出来なさそうな、凶暴なケダモノのような雰囲気の女だった。

 立って、ゆらゆらリズミカルに頭を左右にゆらしていた。

 そのたびにパサリパサリと長い髪の毛が音をたてていた。

 何をしているのかわからないが義父は女の周りの床をパタパタと叩きながら回っており、女はあのときカメラを睨みつけていたみたいにジッと義父のことを見つめていた。お香があればこの女はご機嫌だと義父は言っていたが、とてもそのようには思えない。

「ああ。あった、あった。浩介くんこれ見てよ」

 義父が床板の一箇所を、かがんで指差していた。

 部屋の真ん中の女は今にも掴みかかってきそうな殺気立ちかたをしており、俺は恐ろしくて視線を外せなかった。そんな俺を無理やり引っ張り、義父はもう一度床板を指差した。

 人の顔だった。

 人の顔そっくりの木目が、いくつもいくつもいくつもそこに浮かんでいた。

 錯覚で顔のように見える、という感じでは決してなく、墨で描かれた精緻な絵画のような人間の顔だった。

 皆一様に苦悶の表情を浮かべていた。

 うううう、ああああ、と。低く唸る様な声が離れの中全体に響いていた。

 この声は、この顔から聞こえてくるのだろうか。それともあの女の声だろうか。

「ほら。これと、これ。僕の両親と弟だ。それにそっちには浩介くんのお母さんとお姉さんもいるだろう」

 確かに、死んだはずの母と姉がそこにいた。

 そうだ。間違いなくそこに浮き上がっているのは俺の母と姉の顔だった。

「やっぱり浩介くんはこの家に呼ばれていたんだねえ。この家の家族になることが運命だったんだねえ。お母さんもお姉さんもちゃんとここに来れてよかったねえ」

 母と姉は、他の全ての顔と同じように、耐えられぬほどの苦痛を長い間与えられ続けているような歪んだ表情を顔全体に浮かべていた。

「ここの家で死んだり、その身内になれた人間は、こうやって死んだ後ここに来ることができるんだ。シラセさんが連れてきてくれるんだ。どうだい皆安らかな顔だろう」

 何を言っているんだろう。

 この義父は何を言っているんだろう。

 義父にはどう見えているんだろう。

 地獄だろう、と俺は思う。

 これはこの世に現れた地獄だ。

 シラセさんが何なのかわからないが少なくとも人間を救ってくれる存在には見えなかった。

 俺は特別信心深い男じゃない。

 それでも普通の日本人と同じように、母と姉が亡くなったときはしっかり葬式を挙げ、送ってやったつもりだった。天国も地獄も碌に信じているわけじゃなかったが、それでも最低限納得できるくらいの弔いはしていた。

 それなのに。

 母と姉はここにいて、気味の悪い女の怨嗟に絡め取られて、苦痛に悲鳴をあげている。

 涙がでそうだった。

 苦しそうに、辛そうに、呻き声をあげる床の顔たちを、義父は愛おしそうに丁寧になであげた。そしてその義父を、女はねっとりとした視線で睨みつけていた。

 義父は狂っているとしか思えない。義父も義母も、妻も、俺も、娘も。みんな死んだらここに来るらしい。それが幸せで、だから自分は死ぬことがまるで怖くない、寧ろ待ち遠しいのだと言う。

 ケラケラケラと笑っていた。

 いつの間にかシラセさんが笑っていた。

 母と姉の顔そっくりの木目を見て震える僕のほうを向き、神経を逆なでするような甲高い声で笑っていた。その笑い声を聞いて、記憶が蘇った。あの夜夢に見たのは間違いなくこの女だ。

 だったらやはり俺は、あのときにはもう・・・・・・。

「浩介くん。これで正真正銘、キミはこれからこの家の家族だねえ」

 ぞっとするくらい穏やかな声で、義父がそう言った。



 2時間の後、車は渋滞を抜けた。このまま小牧にでて名神高速道路に乗り換え、3時間後には到着するだろう。

 行きたくないと思っている。

 行くべきではないと思う。

 それなのに俺は車を走らせ続けている。

 義父は運命だと言っていた。あの夜シラセさんの夢を見たのはその証だと。本当にあの夢に出てきたのはシラセさんだったのだろうか。あの離れでシラセさんの笑い声を聞いたときには、間違いなくそうだと思った。でも今となっては何だか曖昧な気持ちだ。

 それでも俺はこの車を止められない。

 魅入られているということだろうか。

 憑りつかれているということだろうか。

 行きたくないと思っている。行くべきではないと思う。それなのに俺は車を走らせ続けている。俺は歯車を連想していた。大きな流れに巻き込まれて、わずかの自由も無くただ周囲の動きと同調し、全体でひとつの何かを形成する部品。ただのパーツ。個々の意思などそこには存在せず、動き始めたら終点まで止まれない。

 狂っているとしか思えない。

 妻はシラセさんのことを知っていた。何しろアレは妻が子供のころから、いや、生まれる前からあの家にいるのだ。妻にとってはアレがいることが当たり前で、いずれは自分たちがあの家に移り住んでシラセさんの住む離れを守るのが当たり前だと思っているようだ。

「だってそうしなきゃ、あたしもあなたも、それにこの子も死んだ後行く場所がなくなっちゃうじゃない」

 

 このまま止められないで進み続けるのだろうか。

 俺もあんな風に狂ってしまうのだろうか。

母は田舎のしがらみとか無駄な因習みたいなものを心底嫌っており、父が死んですぐ東京に出て女手一つで俺と姉を育て上げたこと誇りに思っていた。その母も姉も、今はもうこの世にいない。

 俺は、俺の妻と娘を乗せた車を走らせ続ける。

 妻の実家に向かって車を走らせ続ける。妻の実家は、なかなかに辺鄙な山奥で、まさに母が嫌った田舎そのものであろう。

 耳の奥で誰かがケラケラと笑う声によく似た耳鳴りが聞こえた。

 その声はシラセさんではなく義父の声にそっくりなのだと気付いて、俺は背中の毛が粟だった。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 初めまして。読ませていただきました。 お盆の里帰り、渋滞に巻き込まれるという状況で、妻の実家の恐ろしい真実が明かされる。 シラセさんの正体は判らないけれど、その家の家族になるということは…
[良い点] 楽しそうな母と姉の話が後半に効いてきます 今もこれからも苦むと思うと、もう何か後味悪くて ・・・最高です∑d(d´∀`*)グッ!
[良い点] ∀・)いやはや文句つけようのないハイクオリティホラー、素晴らしいです。シラセさんも怖いけど、それ以上に義父が怖いと言う演出の良さ。これはホラー創作を極めた人でないとできない表現ですわ。不気…
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