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ある伯爵の猫

作者: 秋澤 えで

大切という感情を、恋と呼ぶのでしょうか。

もしそうであれば叶うはずのないものでした。その方は重々しい足音を響かせ、月のような銀糸を結わえ、冬の湖のような冷たく深い目をしていました。口はいつもムスリと結ばれていて、使用人や部下たちが言葉もなく恐れている、そんな方でした。そんな方でしたが、私を見る時だけは、目元を緩めゆるりと口角を上げて名前を呼ぶのです。



白娘ぱいにゃん。」



音楽隊のバストロンボーンのような声に似合わず、柔らかく跳ねるように私の名前を呼びました。

白娘、それは私を拾ってくれた彼が付けてくれた名前でした。誰からも何とも呼ばれることのなかった私は、痛いほどに冷たい雪にふられる夜、彼に拾われました。革の手袋を外して、雪にまみれる私を拾い上げてくれました。暖かい、大きな手でした。


この街の領主であるクラウス・フォン・イチェベルク伯爵は私にたくさんのものをくれました。名前、ごはん、屋根、皆が話す言葉、知識。

この世界がとても広いことを知りました。恨むばかりだった寒い夜に、朗々とした月の明かりを知りました。人々が紡ぐ、鮮やかな物語を知りました。誰かから言葉を掛けられ、慈しまれることを知りました。

言葉や話せない私に、彼はとても優しくしてくれました。諦めることも、あきれることもなく、私だけが知っている微笑を浮かべてたくさんの知識をくれました。

 彼のしてくれたことがどれほど私の糧になっているか。芽吹いた緑に水をやるように、惜しげもなく私に言葉をかけてくれる。それでも私は、それを誰に伝えることもできません。感謝の声も出せません。


 ああ、クラウス様。

 何も言えなくてごめんなさい。



 「白娘?」



 柔らかく温かく呼びかける声に、なんと答えましょうか。



 「にゃあ、」



 ああ、なんてまどろっこしいことでしょうか。

 私は言の葉も紡げぬ、ただの猫なのでございます。 

 恋も思慕も、私は存じ上げません。ただ漠然と、それは朝露のように清らで甘いものだと思っておりました。

 この感情を恋と呼ぶのが正しいのか、私には判別しがたいものです。

 ただ、この美しく優しい伯爵を大切に思っている、それだけは確かなものでした。




*****




 それは微かに夏の匂いの近づいた、月の綺麗な夜のことにございます。

 屋敷の裏手にある兵舎の側で行われる集会の帰り道です。その日はどこぞのお店のお嬢さんが干し魚をくださっただとか、どこぞのお屋敷の屋根裏にはたくさん鼠が潜んでいるだとか、そう言ったお話をしていました。

 裏の道に面している塀の向こう側にひそひそと囁きあうような声が聞こえてきたのです。

 数人の男性が集まって何やら話をしております。私たちの集会は夜に行われることが多いのですが、人間の集会はお昼にして、夜はゆっくり眠っていると思っていましたがそうでもないようです。昼も夜もお仕事があるなんて、人間が生きるのは大変です。

 ご苦労様でございます、と心の中で呟きクラウス様の待つお部屋に帰ろうとしました。



 「月末こそあの伯爵を殺すチャンスだ。」



 不穏な言葉が聞こえたのです。

 この街に伯爵はご主人であるクラウス・フォン・イチェベルク様ただお一人です。

 あの伯爵を殺すと、塀の向こうの誰かが企んでいるのです。思わず部屋へ帰る足を止めました。



 「月末……何か機会があるのか。」

 「ああ、今月末、伯爵は領地を視察することになっている。普段はほとんど街に降りてくることがない奴がだ。これ以上のチャンスはない。」

 「そう簡単にいくもんか?降りてくるといったところで護衛は連れてるだろ。」

 「護衛は連れてるだろうか、市民の声を聞くっていうパフォーマンスでもある。多少緩くなるだろうさ。」



 複数いるうちの一人は、よくお屋敷の事情や執務のことを知っているようでした。ドクドクと音を立てる心臓にかき消されないように耳をそばだてます。



 「何、そう難しいことでもない。まず数人で直接伯爵を襲撃をする。」

 「んなもんうまくいくはずがねえさ。」

 「いやいや、ここで仕留められれば御の字だ。まず、と言っただろう、最後まで聞け。複数人でかかれば間違いなくあたりの護衛はそれにかかりきりになる。伯爵は後ろへ下がるだろう。そこを狙う。下がって自分は賊から離れているとあの氷の男は思うだろう。そこを兵士に紛れている俺が短剣で一突きさ。これでこそ、この屋敷に潜入している甲斐がある。」

 「……裏切るんじゃねえぞ。それだとお前一人とんずらこけるだろうが。」

 「それはあり得ない。お前らが裏切るならともかく、俺が裏切ることは決してない。」



 唸るような、それは怒りを抑えるような声でした。



 「あの男は、命をもって償わなければならない。」



 その言葉を最後に足音が遠ざかっていきました。


 銅像のように硬くなってしまった足を必死に動かして伯爵のお部屋へと走ります。

 一刻も早く、今聞いたことをクラウス様にお伝えしなくてはなりません。冷静で賢い伯爵も、きっと兵士の中に裏切り者がいるとは夢にも思ってはいらっしゃらないでしょう。


 お屋敷に戻りますと、クラウス様は机に向かってふわふわした羽根を動かしています。きっとお仕事をされているのでしょう。お仕事を中断させるのは申し訳ないのですが、今は緊急事態なので許していただきたいのです。



 「にゃあ!にゃあ!」

 「お帰り、白娘。」



 少し振り向いて膝の上をたたきます。それは乗っても良いという合図なので遠慮なく乗らせていただきます。

 クラウス様、貴方のお命を狙う人間がいるのです。彼らは月末の視察の時に貴方を殺すつもりなのです。



 「……白娘、どうした?腹が減ったか?」

 「にゃああん!」

 「…………遊んでほしいのか?」



 怪訝な顔をしながらもおもちゃ箱のネズミのおもちゃを持ってきてくれるクラウス様はきっとご主人様としてパーフェクトなのでしょう。しかし今は遊んでいる場合ではないのですクラウス様。



 「にゃぁお、ふにゃああ!」

 「……なるほど、わからない。」



 いくら伯爵に言おうとも、私の口から出る言葉は彼には通じません。

 落ち着かせるように私の首元を撫でる伯爵はいつも通りお優しいのですが、今はただただもどかしいばかりです。


 ああ、もし言葉が話せたのなら、クラウス様に危機をお伝えすることができるのに。

 ああ、もし私が人間であったなら、身を挺して凶刃から彼を守ることができるのに。

 いくら願っても、私は猫のまま。


 あの美しく優しい伯爵に、今こそ恩返しをすべき時だというのに、わたくしはただただ泣くことしかできないのです。

 ああ、なんと悲しいことでしょう。なんと口惜しいことでしょう。

 あの方のお役に立ちたいのです。このご恩をお返ししたいのです。

 ああ、けれどどうすればよいのでしょうか

 何としてでも、伯爵をお助けしなくては。







 次の日から、伯爵をお守りするための方法を、皆様に聞いて回りました。

 お屋敷に咲く赤色のバラに聞いてみます。たくさんの人が訪れるお屋敷のお庭に住む彼女たちなら、きっと何か知っているでしょう。



 「バラさんバラさん教えてください。どうすれば人間とお話しできますか?」

 「あら可愛いお嬢さん。伯爵の子猫ちゃんね。貴女が人間に言葉を教えればいいわ。貴女は私たちとお喋りできるけど、彼らは同種としか話ができない。きっと勉強不足なのよ。」



 けれど伯爵に言葉を教えている時間はとてもありません。



 「バラさんバラさん教えてください。どうすれば人間になれますか?」

 「人間になりたいの?人間たちよりも貴女の方がずっと美しいのに。その雲のように白く暖かい毛皮、雨上がりの空のような青い瞳、ちくりと小憎い気高い爪。どれもこれも人間よりも美しいわ。まあ明け方の水浴びを終えた私たちには敵わないけれど。」



 バラさんは刺や葉の生えた身体を上品に揺らして笑いました。

 バラさんはきっと知らないのでしょう。人の持つ五本指が美しいハープを奏でることを。牙のない口が美しい音を紡ぐことを。彼らの膝の上が陽だまりのように暖かいことも。

 お礼を言って、次の方を探すことにしました。


 次に兵舎に住んでいる大きな犬さんのところへ行くことにしました。彼らは日々人間たちと過ごしながら時に一緒に仕事をしています。きっと彼らなら人とのお話の仕方を知っているに違いません。



 「犬さん犬さん教えてください。どうすれば人間とお話しできますか?」

 「そいつあ難しいなぁお嬢ちゃん。奴らってば俺たちに命令はするくせに俺らの話は聞きやがらねえ。こっちが人間に合わせてやってんだ。別に話せてるわけじゃあねえ。まあ飯をくれるってなら文句はないんだがな。」



 お仕事をするということはやはりとても大変なことのようでした。ただただ伯爵のお側にいるだけでご飯がもらえる身が少し恥ずかしくなりました。 



 「犬さん犬さん教えてください。どうすれば人間になれますか?」

 「猫の嬢ちゃんが人間に?あっははは、そいつぁ無理だ諦めな。やつらは生まれた時から人間だし、俺らも生まれた時から犬だ。お嬢ちゃんも生まれた時から猫だろう?人間が犬になることなねえし、犬が猫になることもねえ。んでもって猫が人間になることもねえ。んなできもしねえこと考えても腹が減るだけだぜ?」



 犬さんは、自分が犬であることに誇りを持っているようでした。犬は犬であり、人間は人間である。自分の現状に満足するということが大人になるということなのでしょうか。働いている方はやはり考えることが違います。

 お礼を言って、次の人を探しに行きます。


 お昼ごろまでたくさんの方々に聞いて回りましたが、誰も人間との話し方も人間になる方法も、ご存知ないようでした。半日かけて聞いて回って何の収穫もないというのは辛いことです。

 少し離れたところまで足を運びますと、あまり見かけない黒猫さんを見つけました。金貨のような目が黒い毛によく映えました。もしかしたら旅の方かもしれません。そうであればきっとたくさんのことを知っていることでしょう。



 「黒猫さん黒猫さん教えてください。どうすれば人間とお話しできますか?」



 黒猫さんはにぃんまりと笑いました。



 「黒猫さん黒猫さん教えてください。どうすれば人間になれますか?」

 「ああ可愛い白いお嬢さン。それならうちのご主人がなんとかしてくれるかもしれないナ」

 「ご主人?貴方のご主人なら私を人間にできるのですか?」

 「そうさなァ。きっとご主人ならできるに違いなイ。うちのご主人は皆の恐れる魔女なのサ。できないことなんてないネ。きっとお嬢さんだって可愛い女の子にしてくれるサ。」



 魔女。魔女は知っています。伯爵が読んで聞かせてくれた本の中に出て来ました。魔法を使う恐ろしい相貌をした老婆です。子供を浚ってスープにしたり、人を唆す預言をしたり、生まれてくる子に呪いをかけたりするのです。



 「貴女のご主人は私に手を貸してくださると思いますか?」

 「どうだろうなァ。そう、例えばお嬢さン。もし人間になれるなら、うちのご主人に何をしてくれル?何を差し出せるんだイ?」



 対価が必要ということでしょう。世の中の大抵のことにそれが必要とされることは、私でも知っています。

 私は魔女さんが欲しがりそうなものを何も持っていません。珍しい宝物も、高価な宝石やアクセサリーも、お金も、何ももっていません。しかしもし願いが叶うのであれば、

「なんでも。なんでも差し上げましょう。なんでも致しましょう。ご恩に報いることができるなら、心残りはありません。なんだって貴方のご主人に差し上げます。」

 金の目をした黒猫は少し鼻白んだような顔をして長いひげを震わせました。

 きっと私は回答を間違えたのでしょう。けれど私にできることはほとんどありません。ならば持てる全てを差し出すとしか、私には言えないのです。



 「お願いします、力を貸してください。大切な人を守りたいのです。」

 「……ついてきなァ。ご主人のトコ連れっててあげようじゃあないカ。」



 少し考えた後、鍵尻尾を揺らしながらすたすたと黒猫さんは歩いていきます。戸惑いながら私はその尻尾を追いかけました。他の猫さんと匂いが、話し方が違うことに気が付いていました。恐ろしい魔女のところへ行くこともわかっていました。けれど他に方法が見つかりそうになかったのです。

 ご恩に報いるためならば、あの人の命を守るためなら、何も怖くはありません。藁にも縋る想いで、西の森へと向かいました。


 西の森は日中だというのに薄暗く、根がびっしりと這う地面はとても歩きにくいものでした。黒猫さんは慣れたようにスルスルと根から根へと飛び移ります。

 奥へ奥へと進んでいくといつの間にか室内に入っていたようです。湿った風が遮られ、薬の匂いが強くなります。



 「ディアヴォロ、それはガールフレンド?」



 幾重にもかけられた布の先から、突然女の人の声が聞こえました。驚いて毛を逆立てますと、黒猫さん、ディアヴォロさんは鼻で笑って、勝手知ったように布の先へと進んでいくので慌てて私も後を追いました。



 「馬鹿言っちゃいけねェ。俺はご主人様一筋サ。こっちのお嬢さんが、身軽な体を捨てて、愚鈍な人間になりたいってサ。」

 「へえ。それはまた酔狂な子猫もいたものね。」



 魔女は人間の姿をしていました。菫色のフードの奥の顔を見えませんが、せせら笑う声に思わず後ずさりしそうになりました。



 「何のために、あんな醜い生き物になりたいと思ったの?」

 「……私を拾ってくださったお方がいました。その方は今、命を狙われています。今月末、彼が殺されてしまうかもしれません。しかし私はそれを伝える術を持ちません。この身体では彼を守ることができません。」

 「それで?」

 「私をどうか人間にしてください、お願いします。人間になってあの方を守りたいのです。私を拾ってくださったあの方に恩返しをしたいのです。」



 魔女は高い声で笑いました。その声色はとても恐ろしく響き、心臓が止まってしまいそうでした。

 明確に、侮蔑し、見下す色をしていました。



 「ああ、本当に馬鹿な猫ね。」



 傍に置かれた水瓶の水面を、白い手が撫でます。



 「お前は猫の分際で、人間に恋をした。全く身の程知らず。猫と人間では結ばれないからって、人間になろうだなんて、浅ましい。その浅ましさはもう人間とおんなじくらいじゃないかしら?」



 思わず顔がかっと熱くなる。そんなつもりはありませんでした。ただただ今はお役に立ちたいと思っていたのです。その気持ちには一片の偽りもありませんでした。



 「ご愁傷様。あの伯爵が人間になったお前を愛することはないわ。諦めることね。」

 「違います。確かに、確かに私はあの方をお慕い申し上げています。しかしそれ以上に、私はあの方に恩返ししたいのです。報いることができたなら、お助けすることができたなら、それ以上は望みません。無知な私は恋を知りません。ただあの方が大切だという気持ちは間違いのないものなのです。」



 きっと私のこの必死さも、浅ましいと彼女は笑うのでしょう。けれどそれでもかまいません。これが浅ましさと言うのであれば、私はどこまでも浅ましくありましょう。



 「お願いです、力を貸してください。あの方を助けたいのです。それさえ叶えば、他に何も望みません。代償が必要とあれば、私にできることを何でも致します。なんでも差し上げます。」



 他に何も望みません。クラウス様が生きていられるなら。



 「どうか、どうか一時で良いのです。私を人間にしてください。」



 魔女は疑うように私を見て、深く深く息を吐き出しました



 「……ああ、本当に馬鹿な猫。」



 あれはお前を愛さない。魔女はもう一度言いました。



 「いいわ。お前を人間にしてあげましょう。ただし、人間としていられるのは昼間だけ。タイムリミットは伯爵が襲われる日の晩までよ。そうしたらお前はまた猫に戻る。そして猫に戻ったら私の使い魔として生涯を尽くしなさい。その命が終わる一秒まで、私に捧げると誓いなさい。」

 「っありがとうございます!!」



 立ち上がりフードをとって笑う魔女はとても美しい女性でした。伯爵の読んでくれた挿絵とは似ても似つきません。無垢な10代の少女にも見えたし、全てを知り尽くした大人の女性にも見えました。けれどどちらにしても、彼女が恐ろしいほど美しいことに変わりませんでした。



 「契約はなされた。」



 魔女さんは私に向かって掌を向け囁くように歌うように言いました。



 「叶えよう、貸し与えよう。鈴のような声を、天に伸ばす両手を、物語を紡ぐ言葉を、無垢なるものに貸し与えよう。あるものはなく、ないものはある。目に見えるものはなく、目に見えないものはある。確かさは不確かであり、不確かであることは確かである。日の下に偽であり、月の下に真である。愚かな心に気まぐれを。叶えよう、貸し与えよう。鈴のような声を、天に伸ばす両手を、物語を紡ぐ言葉を、無垢なるものに貸し与えよう。」



 紡がれる声とともに、彼女の掌から美しい金糸の光が現れました。何の匂いもしないそれは宙を泳ぐように私の方へと近づいてきます。ぎゅ、と両目を瞑って光を受け入れます。

 すると身体がなんだかムズムズしてきます。手足がきしむように伸び、尻尾の存在があやふやになっていきました。



 「これでお嬢さんは立派な人間になれたってわけダ。」



 目を開けると、視線がいつもよりずいぶんと高いことに気が付きました。前足を見るといつもの白い手ではなく、人間の子供のように指がしっかり5本に分かれています。振り向いても見慣れたはずの尻尾はどこにもいませんし、顔を触るとヒゲもありません。身に着けていたのはクラウス様のくれた首輪だけだったのに、白っぽい服を着ていました。



 「ああ愚かなお嬢さん。その服は餞別にあげるわ。裸で歩き回ったら浚われるか警吏に捕まるかの二つに一つよ。さてさて、どうなるか見ものね。」

 「ありがとうございます魔女さん!これでクラウス様の助けになることができます!」



 これで伯爵に危機をお伝えすることができます。手足の感覚や声には少し慣れませんが、大した問題ではありません。一刻も早く屋敷へ戻り、伯爵にお話ししなくてはなりません。




 白い髪の少女は跳ねるように森の入口へと走っていった。


 「珍しいこともあるものだネ。君が願いをかなえてやるとハ。」

 「珍しいのは貴方の方もでしょう。よりにもよってあの男の飼い猫を連れてくるなんて。上手くいくはずがないわ。言葉を話せたところで、あんな見ず知らずの怪しい子どもの言うことなんて誰も耳を傾けはしない。たとえ伯爵が襲われる場面になったとしても、伯爵に近づくことすらあの子にできはしないでしょう。」

 「ああ、寂しがり屋な魔女様はオトモダチを増やしたかっただけなのかイ。」



 魔女が振り払うように手をかざすとゴウ、と突風が吹く。さっさと部屋の入口へと避難した。



 「礼のようなもの。あの男が死ぬかもしれないってことを知れただけで御の字。あの愚か者の親から生まれた子がどんな風に死ぬのか、見物することができるわ。」

 「……本当、可哀想な子だなァ。」



 黒猫は肩をすくめて木々の中へと消えていった。







 見慣れたはずの街の景色も、人の視点で見るとまるで違います。巨大であった建物は普通の大きさに、はるか遠くだった空も手が届きそうなくらい近くなっています。スイスイ、と青い空を、一羽の鳥が横切りました。



 「鳥さん鳥さん!私人間になれたんです!」

 「これは驚いた。君はもしかして白娘かい?」



 空を横切ったナイチンゲールがぐるりと空を回って戻ってきました。驚いた驚いたと、歌うように言います。お喋りなナイチンゲールは午前中に質問をした方の中の一人でした。



 「あの伯爵とところへいくのかい?」

 「ええ!人間になれたんですもの!これで伯爵とお話ができます!」



 寄り道している暇はありません。少しでも早くお伝えしたいのです。

 いつものように門をくぐろうとすると普段何も言わない兵士さんに止められます。



 「こらこらお嬢ちゃん、勝手に入っちゃだめだよ。」

 「伯爵とお話をしたいんです!」

 「駄目だ駄目だ、伯爵はお忙しい。それに勝手に屋敷に入ろうとしちゃいけないだろ?何か話したいことがあるならお母さんにでも聞いてもらいな。」



 あっという間につまみ出されてしまいました。血の気が引きます。人間になれば、クラウス様とお話ができるようになれば万事解決するとばかり思っていましたが、そう簡単にはいきそうにありません。

 今の私の姿では、誰にも白娘だと気づいてもらえず、伯爵にお伝えするどころかお屋敷に入ることすらままならないのです。



 「お嬢さん。今の君は人間の女の子で、伯爵と一緒に暮らす白娘じゃないんだ。」

 「鳥さん、それじゃあどうすれば良いんでしょう?どうすれば伯爵に危機をお伝えすることがますか?」

 「可哀想なお嬢さん。とりあえず人間らしくいよう。こっちにおいで。人前で私と話していると周りの人に怪しまれてしまうよ。」



 そう言われてハッとします。そう言えばバラさんも言っていました。伯爵や人間は、私だけでなく他の鳥や犬、植物とお話ができないのです。今人間の姿をしている私がこのナイチンゲールと話しているのはきっと周りの人間たちにとってとてもおかしなことなのでしょう。

 慌てて人気のない路地に飛び込みます。ナイチンゲールにはおりてきてもらって、声を小さくして話します。



 「まず君の名前だ。白娘と名乗ってはいけない。今の君は猫じゃないからね。……そうだ、シロという名前にしよう。白娘とは白い女の子という意味だ。東の商人たちが話しているのを聞いたことがある。」

 「シロ、シロ。覚えました。今の私の名前はシロ。」

 「それからそうだね。君は伯爵を守りたいんだね。」

 「ええ、もちろんです。」

 「けれど今の君が誰にそれを言っても誰も信じてはくれない。だからきっと君自身が彼を守るしかないんだ。」



 誰も信じてくれないのは悲しいことです。しかし人間の私に知り合いも信頼できる人もいません。



 「兵士として潜りこむのはどうだろう。君くらいの年頃なら男の子か女の子か一見わからない。少年のフリをして護衛の中に入れてもらおう。」

 「そうですね、きっとそれなら何とかなります。それに護衛ならきっとその時、伯爵の側にいられるでしょう!」

 「髪を結わえて、顎を引いて。それからキリッとした顔、……そうそう上手。凛々しい人間の男の子に見えるよ。」

 「そうですか?それならよかったです。でも護衛に入れてくれるでしょうか。兵団長のマルコ・アルディーロさんが入隊の許可をしているのですが、彼が駄目だと言ったらきっと入れません。」



 アルディーロさんは一見普通のおじさんに見えますがその実とても厳しい方です。おそらく突然訪問したところで門前払いを食らうのが目に見えてしまいます。



 「そうか、じゃあ策を立てないといけないね。」





 私は一人ドキドキしながら路地に潜んでいました



 「今日彼は非番で街を歩いてる。そこに君が勝負を持ち掛けるんだ。そこで彼に君の実力を見せつけて、入隊をお願いすればきっと大丈夫だ。」



 ナイチンゲールはそう言ったけれど、私の実力は足りるのでしょうか。猫歴は数年ありますが、人間歴はまだ数時間程度です。ようやく5本指で物を持つことになれ、二本足での歩き方に慣れ始めたころです。猫らしく跳躍力やすばしっこさが残っているのが幸いですが、兵士たちを束ねるアルディーロさんと勝負するのはやはり心許ないです。



 「シロ、シロ、もうすぐ彼がここを通りかかるよ!」

 「わ、わかりました!私、いえ僕頑張ります!」



 空から偵察してくれるナイチンゲールの知らせに拾った小型のナイフを握りしめます。タイミングや名乗りを外してはいけません。もし最初で間違えてしまえば私はただ兵団長を襲った無法者となってしまいます。



 「……僕、僕ひとり?」

 「…………、」

 「そこの君だよ。白い髪の僕。」

 「……え、僕ですか?」



 心を落ち着けながら待っていた私に突然話しかけてきたのは路地の奥から出てきたおじさん。もうすぐアルディーロさんが来てしまうので、このおじさんとお話ししている暇はないのですが。



 「申し訳ありません。今から僕は用事があるので、お話ししている時間は、」

 「僕、一人なんだね。」



 ああどうしましょう。今私は人間の言葉を話しているのですが、彼と意思の疎通がうまくできません。何か話し方が間違っているのでしょうか。



 「おいしいもの食べたくない?」

 「結構です。」



 ああ硬いブーツの音が近づいてきます。表通りをアルディーロさんが歩く音です。

 こちらは困惑を隠しもしないというのに、おじさんはそれを察することもなく執拗に話しかけてきます。



 「いいところ連れてってあげるよ。」

 「間に合ってます……、」



 できれば伯爵のお屋敷に行きたいのですが、と考えていると、奥からさらに男の人が出て来ました。一人から三人に増えたおじさん。



 「おいで、痛いことしないから。」



 ふと、これはまずいのかもしれない、と思います。手には人一人入るくらいの麻袋があります。そう言えば、ここ最近伯爵が憂いておりました。



 「子浚い……?」

 「……っちぃ、」



 私が呟くと同時に舌打ちをした男たちは私に向かってきました。

 どうやら最近問題になっていた人攫いです。子供ばかりを狙う彼らの標的はどうやら私のようでした。これはアルディーロさんに勝負をお願いしている場合ではないようです。



 「シロ!?逃げて!危ないよ!」

 「いけません、彼らはクラウス様を悲しませている人たちなのです。」



 ナイチンゲールが慌てていますが、彼らのせいで伯爵は困っているのです。ここで私が逃げて彼らの行方が分からなくなり、また攫われる子がいればクラウス様はもっと悲しむことでしょう。



 「どうかここでお縄についてくださいませ。」



 袋を持って襲い掛かってきたおじさんの顔を思いっきり引っ掻き、前のめりになったその肩を踏み台に高く飛びます。猫らしい跳躍力が健在なのがよく確認できました。



 「っぎゃあ!おい!そっち行ったぞ!つかまえろ!」

 「おとなしくしてくださいませ。」



 人間の姿でもよく跳べます。屋根の上ほどまで跳んで、怒りながら見上げている男の人のお顔に片足で着地します。何かがつぶれるような感覚が足の裏にありますが、悪いことをしている人なので仕方のないことなのです。片足で乗ったままもう一人の男の人の顎も蹴り上げます。どこまで攻撃したらこの方々が倒れてくれるのかわかりませんが、きっと蹴り続ければいつかは倒れてくれることでしょう。



 「仕方ねえ、多少乱暴にしてでも捕まえろ!こういう色の奴はよく売れる!」

 「子供を浚って売っているのですね。」



 悪いことです。それはとても悪いことです。子供は親の宝です。きっと子供たちのご両親はとても悲しみ、胸を痛めていることでしょう。お金のために、親から子供を奪うなど、あってはならないことです。



 「貴方方は悪い人です、とても。」

 「うるせえ!」



 子供を悲しませ、親を悲しませ、そしてクラウス様を悲しませる彼らは許されざる悪人たちです。

 耳を聳てますと、路地の奥からもう一つ二つほど足音がしてきます。どうやらこちらに向かってきているようで。これ以上この狭い路地に人が増えてしまいますと、困ります。私一人逃げる分には問題ないのですが、あまり多いと倒すのが難しくなってしまいます。

 すると隙があったのでしょう、左足を一人に捕まれ、地面にぶつけられました。



 「ぎにゃん!!」

 「手間かけさせやがって……!高く売れてくれねえとわりに合わねえな畜生。」



 顔を近づけたその首元に噛みつき、ひるんだところを空いている手で引っ掻きます。しかしもう大きな麻袋が近づいています。普段よりも身体が大きく硬いせいで左足にかかった手から抜け出すことができません。



 「シロ、シロ!もう少し頑張って!助けが来るよ!」

 「なんだあれ、うるせえ鳥だな。」

 「助け……?」



 鼻がつぶれて血まみれになっている男の人がナイチンゲールを見上げます。

 すると男の人がが吹き飛びました。



 「は……?」

 「おうおうなんだぁお前ら。子供相手に寄ってたかって。俺今日非番なんですけどー。仕事増やさないでほしいんですけどー。」



 片足を上げた兵団長マルコ・アルディーロさんその人がいました。煙草をくゆらせ、いつもの隊服は着ていませんが、人を蹴りとばすブーツの硬さは変わらないようです。



 「そこの少年、こいつらオトモダチ?」

 「いえ、初対面です。わた、僕はよく売れそうなので捕まえたかったようなのです。」

 「ほうほう、それはよくねえなあ。それもクラウス様の領地で?人攫い?人身売買?……舐め腐ってやがるなあ?」

 「はい、よくないです。とても。」



 私を抑えていた手が離れ、男の人たちは走って逃げだそうとします。兵団長のことを知っていたのか、それとも強者を見た時の本能でしょうか。



 「少年、ちょっと表で待ってな。」



 兵士長が銜えていた煙草を捨てて走り出しました。


 しばらく路地の奥から断末魔のような叫び声が断続的に聞こえ、安心しました。兵団長なら彼らをきっと捕まえてくれるでしょう。クラウス様の憂いが一つ減ります。



 「よ、少年待たせたね。」

 「いえ、彼らを捕まえていただきありがとうございました。」

 「助けてくれてありがとうじゃないんだねえ。」



 帰ってきたアルディーロさんは行きと変わらず気だるげですが、両手両足が赤くなっています。殴る蹴るなどの制裁を受けたようですが伯爵を悲しませた彼らには当然の報いでしょう。



 「だって彼らは伯爵を悲しませた人たちです。僕だけでは捕まえることができなかったのです。」

 「君捕まえようとしてたのかあ。最近の子はアグレッシブだなぁ。」



 結構あいつらボロボロだったもんな、と呟く彼に少し誇らしくなりました。



 「シロ、チャンスだ!」

 「あ、えと、」



 空のナイチンゲールに言われ本来の目的を思い出します。計画とは変わってしまいましたが、やるしかありません。



 「お、どうした少年。どっか痛いとこでもあったか?」

 「いえ、痛いところはないので大丈夫です。えと、マルコ・アルディーロさん!」

 「お、俺のこと知ってんのかい?」

 「僕を兵隊に入れてください!伯爵のお役に立ちたいのです!」

 「ほーお?」

 「えと、ちゃんと戦えます!小さいかもしれませんが、高く飛べますし、耳も鼻もいいです!大きな敵にも向かっていけます!」



 にやにやと笑うアルディーロさんは何を考えているかわかりません。しかし今は兎に角自分を売り込むのです。使える奴だと思われなくていけません!ナイチンゲールに教わったようにきりっとした顔を作ります。



 「君、名前は?」

 「シロと申します!」

 「犬猫みてぇな名前だな。年齢は?」

 「年齢、」

 「隊にゃなあ、13歳以上じゃあねえと入れねぇんだわ。」

 「じゅ、13歳です!」



 正確な年齢はわかりませんが、きっと、それくらい、かもしれません。心の中で付け加えます。この見た目がどれくらいの年齢に見えるかわかりませんが、そこは甘めにつけていただけるとありがたいです。



 「13歳、ねえ。実は15歳からなんだわ。だからあと2年後においで。」

 「15!15歳です僕!!」

 「さっきと言ってること違ぇけど?」

 「正確な年齢はわかりませんがそれくらいです!ちゃんとお役に立ちますから!」

 「ふぅん。まあ、いいや。」



 必死の言葉に、無情にもアルディーロさんは後ろを向いて歩きだしてしまいました。心配そうにナイチンゲールが空を旋回します。



 「お願いします!」

 「んあ?来ねえの?」

 「え……?」

 「いいよ。おいで。さっきのでまあまあ使えるのはわかったし。襲われてるってのに俺と普通に話してた、あの豪胆さは嫌いじゃない。戦う上で大事な基礎は相手を恐れないこと、冷静でいること。悪い奴だからって鼻の骨へし折っても飄々としてるの、悪くないよ。」

 「あ、ありがとうございます!」

 「ん、それと明確な年齢制限もないから。」



 もう一度おいで、と言ったアルディーロさんを跳ねるように追いかけました。


 連れてこられたのは伯爵のお屋敷に隣接している兵舎です。たくさんの兵士さんたちが物珍しそうに私を見下ろしています。うっかりボロが出てしまわないように凛々しい顔を頑張って維持します。

 真っ直ぐ進んでいくアルディーロさんが足を止めたのは若い兵士さんの前でした。



 「おうい、ブジャルド。」

 「マルコさん今日は非番じゃ、その子供は……?」

 「おう。今日からこいつ入隊な。」

 「はあ!?」

 「そんでもってお前こいつの教育係な。」

 「はあ!?」

 「お前ここ来てもう半年くらいだろ。喜べ念願の後輩だ。面倒見てやれ。」

 「なんで俺がっ、」

 「ま、一か月くらいだから頼む。んじゃ、俺非番だから帰るわ。それとさっき人攫いの連中捕まえたからあとでこっち護送されてくる。よろしくねー。」

 「マルコさん!」



 言うことだけ言って手をヒラヒラ振りながらそのまま出て行ってしまいました。取り残されて呆然とするブジャルドさんに心の中でエールを送ります。慣れてください。彼はいつでも誰に対してもあんな感じです。

 呆けながらも何を言われたのかを時差で理解したようで、振り向いて私を見下ろします。



 「今日からここでお世話になるシロと申します!よろしくお願いいたします!」



 ピッ、と見よう見まねで敬礼をしてみせると周囲から笑い声が聞こえました。けれど目の前のブジャルドさんはにこりともしません。



 「心底遺憾だがお前の教育係になった、ジャン・ブジャルドだ。」

 「よろしくお願いします!」

 「……よろしく。」



 よろしくしたくない、なんで俺が、と顔に書いてあります。しかし今の私は遠慮をしません。伯爵をお助けするために、どうかお力をお借りさせていただきます。







 「白娘。どこかへ行ってしまったのか思った。」

 「にゃあん。」



 夜になると魔女さんの言っていたように元の姿に戻りました。数時間ぶりに再会した尻尾はご機嫌に揺れています。やはり生まれてからずっといる相棒のようなものなので、ないと落ち着かないのが本音です。

 クラウス様は日中姿を見せなかった私を心配してくださっているようです。心なしか厳しいお顔をしています。しかしどうかお許しください。全ては貴方を守るために必要なことなのです。

 伯爵。貴方は必ず私がお守りいたします。







 猫から人間となり、兵士に紛れ込むことに成功して1週間ほどたちました。二足歩行にも手で何かを掴むにもすっかり慣れ、ようやく尻尾のないこの人間の身体に馴染んできました。昼間は兵士の方々一緒に訓練やお仕事をし、夜になると伯爵のもとに帰るという猫と人との二足草鞋も今ではあまり違和感がありません。

 夕方、人から猫に戻ろうかという時鍵尻尾の黒猫さんが姿を見せました。



 「君戦えるんだなァ。」

 「黒猫さん!」

 「ディアヴォロってぇノ。どうなるかと思っていたが、無事に伯爵の側にいられそうじゃないカ。大人の男相手にあれだけ立ち回れるとは思わなかったネ。」

 「見ていたのですか、ディアヴォロさん。」



 どうやら初日、路地でのことをディアヴォロさんは見ていたようでした。あの狭い場所のどこで見ていたのでしょう。全く気が付きませんでした。



 「なぁんでも見られるからネ。運がよかったのか、そういう運命だったのカ。」

 「わかりません。でも私のすることは変わりませんので。」

 「健気だねェ。シロ、君がどれだけ頑張っても、伯爵はお前のことを愛したりしないのニ。」



 ディアヴォロさんの言葉に思わず眉を寄せます。

 最初にお会いした時から彼らにはずっと感じていた違和感があります。



 「……魔女様も貴方もなぜそんなに愛されないことを気にするのですか。私はただあの方が生きていられるならいいのです。私は猫でいる間、あの方に愛していただきました。慈しんでいただけました。それで十分です。その分のご恩を、今返す時なのですから。シロである私に愛を望みません。」

 「……どこぞの人魚は人間に愛されることを望んで人間になったのサ。結局愛されることなく、海の泡になったけどネ。人間になりたがる奴は、人間に愛されたいと思っているか、人間のような贅沢な暮らしをしたいと思っているかがほとんどだからネ。」

 「愛など望みません。あの方の盾になれるなら、それ以上を望みません。」

 「……そうかイ。一途なことデ。」



 ディアヴォロさんは一つ笑って、どこかへ行ってしまいました。きっと魔女さんのところでしょう。どこか含みのある言葉を紡ぐディアヴォロさんは、いったい私に何を望んでいるのでしょうか。考えたところで無知な私にはわかりません。私は私のことをするので精一杯なのです。

 もし彼が望んでいることがあるのであれば、どこかで叶うと良い、なんて無責任に祈ることしか私にできることはありません。

 空の端が藍色になった時分でした。







 「ぎにゃあ!」

 「だからお前、上に跳ぶなって何回も言ってんだろ阿呆!」



 いいお天気の午後、今日も今日とて私は教育係に任命されたジャンによって吊り下げられています。



 「跳躍力あるのは結構だが、跳ぶ度足掴まれてちゃ世話ねえよ。」

 「だって……、」

 「だっても取っ手もねえ。」



 片足を掴まれ逆さになった世界でジャンが逆立ちしながら説教をしてきます。全くもっと耳が痛いのですが、如何せん手よりも足の方がはるかに力が強いため足技に頼りやすく、またジャンの攻撃をつい上に逃げて躱そうとしてしまい、毎回毎回こうして捕らえらえた獲物よろしく吊り下げられています。

 じわじわ頭に血が上ってきたところでブンッ、放り投げられます。くるっと回って危なげなく着地すると、勿体ねえと呟かれてしまいました。


 ふと、訓練場の端の方からどよめきと張りつめた空気、それから嗅ぎなれた匂いがしてきました。



 「なんなんだ……?」

 「伯爵ですよ!クラウス様がいらっしゃっています!」

 「イチェベルク公……、たまにこうやって見に来るんだよ。ていうかその視線の高さと距離でよく伯爵が見えたな。」

 「心眼です!」



 ジャンの言葉に対し適当にごまかしておきます。匂いで分かったなんてとても言えません。特に人間は匂いを嗅いだりすると怒ったり引いたりする、ということはここに来てから学びました。嘘をつくのはよくありませんが、これ以上変な子を見る目で見られるのはごめんです。伯爵がきちんと見える場所に移動します。

 私たちから遠く離れたところで立ち止まり、兵団長であるアルディーロさんと何やら話をしています。すると一人の兵士さんが刃の引かれた剣をクラウス様に渡しました。



 「……マルコさんと手合せするみたいだな。」

 「ジャンはどっちが勝つと思いますか?」

 「普通に考えてマルコさんだろ。あの人がここで一番強い。……伯爵がどの程度戦えるのかは知らねえけど。」

 「じゃあ僕は伯爵を応援します!」

 「賭けか。マルコさんが勝ったらどうする?」

 「兵舎の裏に生えてた良い感じの猫じゃらしを差し上げます。」

 「いらん。」



 金属と金属のぶつかり合う音に思わず眉間に皺が寄ってしまいました。あの音は冷たくてあまり好きではありません。身体の大きさ上私の訓練は体術と私が何とか扱えるサイズの短剣だけです。刃をひいてあるとはいえ、あんなに大きくて硬いものが身体に当たったら、きっととてつもなく痛いのでしょう。



 「……ほら、やっぱりマルコさんが勝ったぜ。」



 硬いぶつかり合う音の中で一際大きな音が鳴ったと思うと、伯爵の持っていた剣が弾き飛ばされ、アルディーロさんの剣が胸に突き付けられました。



 「仕方がないので猫じゃらしを差し上げましょう。」

 「だからそれはいらん。」



 にやにやと笑いながら伯爵に近づくアルディーロさん、移動したため今度は話している内容が聞こえました。



 「少し腕が鈍ったんじゃないですかイチェベルク公?」

 「そうかもしれんな。」

 「そこは俺が強くなったって言ってくださいよ。」



 落ちていた剣を大して興味もなさそうに拾い上げ、近くの兵士に渡します。ただただそれを見ていると、クラウス様と突然目が合いました。その目はいつもよりずっと遠いのに、なぜだかとても近く感じられました。



 「イチェベルク公?どうした?」

 「……いや、何でもない。戻ろう。変わらず精進しろ。」



 そっけなく言う伯爵に皆敬礼をし、その背中を見送りました。

 けれど私はそんなことより、一瞬でもあの方が人間の姿をしている私を見てくれたことが、嬉しくて仕方がありませんでした。

 ばらばらと休憩に入っていく中、なんとも表現しがたい顔をしたジャンに呼び止められます。



 「……さっきお前、伯爵に見られてたな。」

 「はい!目が合いました!」

 「お前、伯爵の知り合いか何かか?やたらと役に立ちたいだとか言うし。」

 「いいえ、今回初めてお会いしました。」



 少なくともシロとして姿を見るのは初めてのことです。



 「伯爵は本当に綺麗なお顔をされてますね。」



 既に知っていることですが、人間の目線で見るのと猫の目線で見るのとでは違います。人間の姿になってからいろんな人を見て、いろんなものに触れましたが、やはり彼の美しさは格別だと思うのです。



 「……綺麗なのは顔だけだろ。」

 「そんなことありません。お心だって綺麗な方です。」

 「なんだよ、お前伯爵と話したことあんのか?」

 「うっ……」



 ジャンの言葉に思わずむっとしますが、シロの状態で話したことはありません。



 「見た目に騙されんなよシロ。あいつは血も涙もない人間だぜ?」

 「うう、ジャンこそ伯爵とお話ししたことがあるのですか?」

 「…………、」

 「ジャンもないんじゃないですか!」

 「なんだお前ら面白い話してんじゃねえか。」



 どこから聞いていたのか、先輩のイゴールさんが笑いながらジャンの背中を叩きました。そう厚くもない背中は大きく前のめり急き込みます。可哀想にと思わないでもありませんが、伯爵をないがしろにするような発言の手前、冷たい視線を送っておきました。



 「ジャンが伯爵のことを悪く言うんです。血も涙もないって。そんなことないですよね?」

 「あ?当たり前だろう。ここの領地が荒れてないのも重税に喘いでないのもクラウス様のおかげだ。……でもま、ジャンの言わんとするところもわからんでもない。」

 「ええっ、」



 せっかく味方を得たかと思えば、イゴールさんまで反伯爵のようです。あんな素敵な方であるのに、周囲にまるで伝わっていいないようで衝撃です。イゴールさんこそ、長い間兵士として伯爵の下に仕えてきたというのに。



 「いやいや、ひどい人じゃねえよ。ただなあ、あのイチェベルク伯爵は誰も愛せないんだ。」

 「愛せない……?」



 それはどこかで聞いた言葉でした。



 「クラウス様が生まれる前、身籠っていたイチェベルク夫人が魔女に呪いをかけられたのさ。」


 『お前から生まれる子は、誰も愛さない。実の親であるお前のことも、伯爵のことも、部下のことも、民のことも。その子は誰も愛さない。』


 「呪いなんて、馬鹿馬鹿しい。まして魔女だなんて。」

 「ここだけの話だぜ?その魔女は今も森の中に住んでるんだってよ。」



 胡散臭げにジャンがイゴールさんを見ます。



 「だいたいなんで愛さない呪いを?」

 「さあ?詳しいことはわかんねえよ。先代の伯爵たちが魔女を怒らせたとしかな。実際、クラウス様は誰に対しても平等に興味がない。実の両親が亡くなった時も泣かないどころか顔色一つ変えなかった。」

 「はっ、それはまた難儀なことで。」



 どこまでいっても何を言っても、ジャンは伯爵が嫌いなようです。この態度に流石のイゴールさんも呆れたように苦笑いをします。



 「……ジャンお前よくそんな悪感情でここに居られるな。」

 「給料が良いんで。」

 「だよなー俺もー。」



 兵士と言うものは、命がけのお仕事だと私は思っています。主人のために死ぬこともあるでしょう。

 給料が良いからここにいるという二人は、もし死んでしまったとき、主人のために命を投げうったのではなく、お金のために命を投げうったと考えるのでしょうか。

 お金は大事です。ご飯を買うためにはお金が必要です。生きるためにはお金が必要です。けれど生きるためにお金が必要で、お金が必要だから命をかけるなんて、おかしな話のように私は思いました。

 私には理解できないきっともっと複雑な何かがあるのでしょう。貨幣社会で生きる人間は、随分と不自由なようです。

 なにより、お金がもらえるからという理由で嫌いな人間を守るのは嫌ではないのでしょうか。

 全部全部好きになった方が、遥かに幸せに暮らせるだろうに、と言えば、きっと先ほどのようにジャンから阿呆、だなんて言われてしまうのでしょう。



 夜の匂いが漂い始めたころ、人波を抜けていく黒の鍵尻尾を見つけました。ふと昼間のイゴールさんの言葉が蘇ります。


 『クラウス様が生まれる前、身籠っていたイチェベルク夫人が魔女に呪いをかけられたのさ。』


 この街に魔女がそう何人もいるとは到底思えません。きっと魔女は、あの西の森に住む美しい魔女のことでしょう。

 彼ならことを知っていると思い、誘うように揺れる尻尾を追いかけました。



 「そうさ、昔魔女エーヴァが伯爵の母親にかけた呪いダ。」



 私が来ることなどディアヴォロさんはわかり切っていたことらしく、人気のない草むらで悠々と私のことを待っていました。



 「彼女はなぜ、そんな呪いを……?」

 「それをお前に教えてやる筋合いはないネ。」

 「…………、」

 「それが知りたきゃエーヴァの使い魔になって気にいられるんだナ。そうすれば話が聞けるかもしれン。」



 彼は、知っているということでしょう。エーヴァと言うあの美しい魔女がなぜそんな呪いをかけたのかを。それを魔女から聞いたのか、はたまたその現場を見ていたのかはわかりません。伯爵が生まれたのは二十数年も前の話です。しかしこの猫らしくない猫である彼であれば、当時から生きていてもおかしくないと思うのです。

 風が出てきて、草がこすれあうサラサラという音に包まれます。西の森は木々が揺れ、生き物の唸り声のような音を立てます。空に浮かんでいた白くて薄い月は金貨のような色に姿を変えていて、一瞬目を瞑るともう私は草むらに飲み込まれそうになる白猫に戻っていました。



 「あと、一週間です。」

 「そうだねェ。それが人間にいられる時間で、伯爵の愛猫でいられる時間で、伯爵が生きられる時間かもしれン。」

 「伯爵は生きられます。私が必ず助けます。」

 「……しっかり周りを見ておくことダ。目的があるなら目を曇らせてはいけなイ。決しテ。」



 あと一週間後悔のない様にナ、と言ってディアヴォロさんは夜に溶けていきました。




**********




 早朝、伯爵の視察の日ということもあり、皆がバタバタと忙しなく動き回っていました。馬車の手配、各場所の兵の配置調整とやることは山積みです。もっとも、下っ端である私にできることなど限られているので、先輩たちに言われるがまま物資や武器を運びます。

 伯爵は午前の間、市街地を視察し街に住む人々の話を聞いたり様子を見たりすることになっています。そして午後からは馬車で移動し農場や牧場の方へ行くこととなっていました。


 『ああ、今月末、伯爵は領地を視察することになっている。普段はほとんど街に降りてくることがない奴がだ。これ以上のチャンスはない。』


 あれから変わっていないのであれば、”街”に降りてくるタイミング、今日の午前中に襲撃されることになります。



 「シロ、こっちに。」



 木箱を運んでいると、まさに忙しさの中心ともいえる兵士長アルディーロさんに呼ばれました。木箱を他の人に託して小走りでヒラヒラ振られる手に向かいます。



 「何かお手伝いすることがございますか?」

 「ああ、お前に市街地での伯爵の護衛を任せたいんだ。……市街地は人の多いうえ、場所も狭い。サイズが小さい分お前はこまわりがきく。それに最初会った時の路地での立ち回り、あれは町中においても望ましいだろう。ほとんど武器を使わない戦い方は周囲の被害が小さく、巻き込みにくい。威嚇には向かんが懐刀としては悪くない。」

 「あっ、ありがとうございます!」



 やっと、一か月の成果が認められた気分でした。私が正しく望んだ場所への配置。まさにその時、私は伯爵のお側で守ることができるのです。私一人で守るわけではありません。他の方だってたくさんいます。一か月ここに居てわかりました。兵士さんたちは皆強いです。きっと私がいなくても伯爵を守ってみせるでしょう。けれど計画を偶然耳にした私が一人混ざるだけでも、その安全をより安泰なものとすることができると思うのです。

 人間になっても私は微力です。けれどわずかでも私は役に立てるのです。ぐしゃぐしゃと大きな手で頭を撫でるアルディーロさんの期待に応えます、と敬礼をしてみせました。



 「シロ、」

 「どうしましたか、ジャン。」



 もう出発も間際というときにジャンに呼ばれました。彼は感情は置いておいてよく働く真面目な教育係です。この忙しい時に呼ぶということは何か大事なことがあるということでしょう。

 呼ばれるがままについていくと兵舎の奥へと進んでいきます。皆ことごとく出払い、建物の中は閑散としていました。黙って歩くジャンを追いますが、そこはかとない不安が生まれました。ついていった先は、今は使われていない牢でした。さびれていて、うっすらと埃が積もっています。以前の人攫いが捕まってアルディーロさんから聞いた話では、今は新しい牢が作られており、兵舎に併設した方は使われていないと。



 「お前に伝えなくちゃいけないことがある。」

 「なんです?あまり時間がないのですが……、」

 「ああ、時間がないんだ。だから、」



 ふわ、と身体が浮かびました。訓練中によく味わった浮遊感。あ、と思う間もなく掴まれた襟首を放られ、牢の扉が閉められました。ガチャンと冷たい音を立てて下ろされた錠前。唖然とする私を、格子越しにジャンが見下ろしていました。



 「ジャン……?」

 「悪いな、お前が邪魔なんだ。この日のために俺が、俺たちがどれだけ準備してきたと思ってる。」

 「ジャン、待ってください!」

 「クラウス・フォン・イチェベルクには今日死んでもらう。お前みたいなどういう動きするかわからない野生動物みたいなのは邪魔なんだ。それも喜んで伯爵の盾にでもなりそうな奴。」

 「まさか貴方が伯爵を狙っていた……!?」

 「知ってたのか、まあ遅いが。」



 あの時の声がよみがえります。若い男の声でした。一か月も傍にいたのに、まるで気づくことのなかった自分の鈍さに歯噛みします。



 「お前、まだまだ子どもだろ。こんなところで死ぬのはもったいない。伯爵が死んで新しい社会が来たらまた会おうぜ。」

 「待って、待ってください!何で伯爵を、あの方が貴方に何をしたんですか!?」

 「なにもしなかったんだよ。」



 ジャンは歯を食いしばりうなるように言いました。私を見下ろす目は私を通して他の誰かを見ているようでした。心底悔しい、恨めしい、腸が煮えくり返っているような明らかな怒りが、空気を震わせていました。



 「半年前、俺の妹が攫われた。お前と同じくらいの年だ。」

 「あ……、」

 「それなのに人攫いは一向に捕まらない。それどころか被害者はどんどん増えてく。調べてほしいって、早く捕まえてほしいって言っても、捕まらなかった。……ああわかってるよ、子供がいなくなるなんざザラだ。家出する奴もいれば、事故に遭って勝手に死んでる場合もある。でも妹は、ルーチェは路地に靴片方残していなくなった。攫われたのは明白だろ?それなのに警吏の奴らはまともに取り合わなかった。捜索され始めたのはずいぶん経ってからだった。」

 「で、でも人攫いはもう捕まって、」

 「ああ、聞いてるよ。お前が捕まえようとして足止めしてたんだろ。自分がさらわれそうになったのに。……怖かっただろ、それでも戦ってくれてありがとう。ようやくあいつらが捕まった。」

 「それなら、」

 「でもルーチェは返ってこない。」



 半年も前に売られた子供の足取りなど、犯人たちは知らないし、興味もなかったでしょう。領地の外で売られたのであれば、なおさら見つかる可能性は低いものです。



 「捕まえるのに一役買ったお前には感謝してる。できれば傷つけたくない。だからここでおとなしくしててくれ。」

 「伯爵は、伯爵は悪くないでしょう!?」

 「警吏たちがもっとも真面目に取り合っていれば、もっと早く捕まえられたかもしれない。他の攫われた子供たちだって、今もこの街で暮らせてただろう。部下の不始末は上司の不始末だと思わないか?」

 「そんな……!」

 「……悪いな、シロ。ここで待っててくれよ。全部終わるまで。」



 私を残してジャンは去っていきました。

 やっとここまで来たのに。兵士の誰かが伯爵の命を狙っているのは知っていたのに。話し声を聞いていたのに。ジャンだったと気が付かなかった。信頼できる先輩だと気を抜いてしまった。

 ジャンがしようとしてるのは八つ当たりです。正しい行いではありません。伯爵を殺しても、妹さんは帰ってきません。

 ジャンは決して悪い人ではありません。怒りの矛先を間違えてしまっただけで、行き場のない怒りや恨みに耐え切れなかっただけで。


 『……怖かっただろ、それでも戦ってくれてありがとう。』


 そうでなければ私にあんな優しい、労わるような表情はしなかったでしょう。


 だからこそ、止めなければなりません。ジャンを止めて、伯爵を助けます。けれど無情にも私は牢屋の中。鍵もなければ誰かがここに助けに来てくれる当てもありません。



 「おやおやおや、もう伯爵は出発したのに、君はこんなところでお留守番かイ?」

 「ディアヴォロさん……!」



 どこかのんきな声一つ。ゆらりと鍵尻尾を揺らしながら、神出鬼没な黒猫が現れました。



 「ああ、可愛そうなお嬢さン。仲間に裏切られてしまったんだナ。あれほど、目を曇らせてはいけないと言ったのニ。」

 「……貴方は知ってたのですか。」

 「知ってたヨ。俺はなぁんでも知ってるからネ。でも君に教えてしまうのはフェアじゃないだロ?」



 おかしそうに黒猫がにやにやと笑います。確かにこれは私の問題で、自分で気が付けなった私自身の過失です。なぜ教えてくれなかったのと、なじるのはお門違いです。



 「どうするんだイ?ここでお留守番してるのかイ?」

 「……行きます。必ず私が、伯爵をお守りします……!クラウス様を助けて、ジャンも止めます!」

 「どうやっテ?」



 私は一人牢屋の中。伯爵一行はすでに出発していて、こんな使われていない牢屋に来る暇な人はいません。扉には錠前がかかっていて、そのカギはきっとジャンが持っているのでしょう。牢屋の格子は小さくて今の私には通れません。



 「出られない、出られないねェ。」

 「……ディアヴォロさんがカギを開けてくれたりは、」

 「鍵をもってないからなァ。」



 飄々と悠々と、ディアヴォロさんは牢の前を行ったり来たり。それは決して私が外に出る方法を一緒に考えているわけではないでしょう。彼は、私がどうするのか眺めて楽しんでいるのです。



 「残念だったネ。君が猫だったら、この格子も潜り抜けられるだろうニ。」

 「……一時的に、猫に戻ることは。」

 「一度猫に戻ったら、牢屋から出でも猫のまマ。伯爵のもとに駆け付けても君は可愛い白娘のままだヨ。」



 あれほど、人間になりたいと、人間になれたらと願っていた私が、今では猫であったらと考えていました。猫は不自由で人は自由。そう思っていました。しかし猫は自由で人は不自由。人になってから幾度となく感じたことでした。



 「……貴方は、私を猫に戻せますか?」

 「できるネ。猫に戻るのかイ?せっかく何もかもなげうって人間になったのニ。」

 「ええ、戻してください。私をただの猫に。」



 願っていました。人のように言葉が話せたら。

 願っていました。人のように文字が書けたなら。

 願っていました。人のように二本足でさっそうと歩けたのなら。

 願っていました。人のようにあの方の傍に立てたのなら。



 「ここに閉じ込められるだけで動けない人間の身体などに興味はありません。」



 私が人になりたいと思ったのも、役に立ちたいと思ったのも、全てはクラウス様がいてのこと。



 「私の力はきっと微力です。猫は弱く、身体が大きく武器を持つ賢い人間にはとてもかないません。……けれどそれはきっと人間の姿をした私にも同じこと。伯爵を守る兵士さんたちはとても強く頼りになる方々です。一方私は微力ですが、ジャンが伯爵を狙っていることを知っています。」



 私はほんの少し、ほんの少し彼の邪魔をすればいい。

 そのほんの少しでも、きっと私は役に立てると思うから。



 「一瞬、ジャンを邪魔するだけでも、伯爵が無事でいられる可能性は上がるでしょう。」

 「……猫になれば君が殺される確率も上がるヨ。あの男は君がシロだから、人攫いを捕まえるのに協力したから、妹と同じ年頃の子供だから、一か月面倒を見て情が湧いたから君をこの安全な場所に閉じ込めて行っタ。けれど猫になれば関係なイ。邪魔する小動物なんて簡単に殺すだろウ。」

 「命など、伯爵をお助けすると決めてから惜しいと思ったことはありません。」



 覚悟など、とうの昔にできています。



 「私は猫の白娘です。私は大切な人を猫として助けに行きます。」

 「……正気かい?」



 表情を読ませない顔つきで、黒猫は聞きました。



 「はい。全てを助けることは、私にはできません。」



 ジャンを止めて、クラウス様を助けて、妹さんを取り戻して、誰も悲しまないような大団円なんて、私には用意することはできません。矮小な一匹の猫では、ハッピーエンドを作れません。

 ならば私はわがままになりましょう。

 あの方を悲しませたくはありません。けれど私は彼を悲しませないことよりも、彼が無事であることの方が大事なのです。



 「ディアヴォロさん、私を猫に戻してください。役に立たない人間より、微力ながら役に立つ猫でありたいと、私は思うのです。」



 もう何も怖くありません。なにも私の目を曇らせるものはありません。

 私はただ、大切な人を助けたいだけなのです。



 「……わかった、強情な子ダ。負けたネ。」



 突如黒猫の足元から藍色の煙のような、影のようなものが出てきて、その黒い身体を包み込みました。目の前のことに呆然としていますともうそこに黒猫はおらず、一人の男が立っていました。



 「ディア、ヴォロさん……!?」

 「全く勇敢な子猫だ。ただ拾われただけなのに、愛玩動物として飼われていただけなのにここまで主人に尽くそうとするなんて。」



 男の人が錠前に黒い手を掛けると煙を立ててそれは溶けていきました。戒めを失った牢の扉はあっさりと開きます。



 「さぁ、行きなよ。ジャン・ブジャルドが何をするか知っているのは君だけなんだから。」

 「いい、のですか?」

 「いいよいいよ。ただし気を抜かないことだ。君は知っているだけ。歴戦の戦士でもなければ身体の使い方に長けた武人でもない。君が弱いことに変わりはない。突然力を身に着けたり、魔法が使えるようになるなんて奇跡はおきはしない。」



 黒い爪のついた大きな手は、私を励ますように頬を撫でました。姿形は変わりましたが、ディアヴォロさんの匂いは変わっていません。ディアヴォロさんが猫だとか人だとかそれ以外だとか、今は些細なことです。



 「もちろんです!私は私のできることを全力でするんです。それは最初から何も変わっていません!」

 「……さぁ行きな、可愛い白娘。か弱い白娘。小さなお手てで、せいぜい足掻け。」

 「ありがとうございます!」



 開かれた牢の扉から駆け出しました。

 どうか一刻も早くあの人のところへ行けるように。その無事を願いながら。





 駆けだすその小さな背中を見送っていた。



 「エーヴァ、君も見ていると良い。君が誰も愛せない呪いをかけた子供は、今こんなにも愛されている。」



 愛する者のためならば、何も怖くないと。喜んで命を投げうつと。

 愛する者が無事でいてくれるなら。

 愚かなほどの真摯さ、懸命さは見覚えのあるものだった。

 あの何も恐れない背中を、かつて俺は見たことがあった。



 「かわいい子、その空虚さに気が付くと良イ。」




*****




 今日ほど耳が、鼻が良いことに感謝したことはありません。兵舎を飛び出し、たくさんの足音が聞こえる方へ、一か月で嗅ぎなれた匂いのする方へ走っていきます。街はいつも以上に賑わっていて、背の低い私では視界はあてになりません。匂いと音だけを追って伯爵の方へと走ります。


 突如、怒声が響きました。複数人の怒鳴り声、そこから波及していくどよめきと悲鳴。


 『複数人でかかれば間違いなくあたりの護衛はそれにかかりきりになる』


 恐らく、これがジャンの言っていた尖兵でしょう。あたりは混乱して逃げ惑う人でいっぱいになっています。人が走ってくる方が騒ぎの発生源だとはわかりますが、そのせいで道がすっかりふさがれ、とても近づけません。

 けれど尖兵が来たということは、ジャンが伯爵を刺そうとしているということです。

 どうすれば傍に行けるでしょう。もう時間がありません。一刻も早く、彼らのところへと行かなければ。


 ある店の前に、荷車が放り出されていました。持ち主はすでに逃げていて、人の肩あたりまで積まれた麻袋が残されています。そしてそれに向かって駆けだします。麻袋を踏み台に、屋根の上へと駆け上りそのまま屋根を伝って騒ぎの中心へと走ります。剣を振り回す男たちを相手取る中にアルディーロさんがいました。



 「やっぱり、伯爵の側にいない……!」



 全てが、ジャンの想像通りに進んでいます。頭上を駆け抜けようとして、アルディーロさんがこちらを見て目を剥きました。



 「シロ!?なんでお前屋根に……、いやいい!クラウスのとこ行け!早く!ブジャルドがいねえ!」

 「む、向かいます!ご武運を!」



 アルディーロさんの口からジャンの名前が出て驚きます。彼はジャンが伯爵を狙っていることに気づいていたのでしょうか。考える時間も惜しくて思考を放棄します。数十メートル先に目を向ければ、あの美しい銀糸が見えました。そしてそのすぐ傍に、ジャンの姿も。



 「伯爵、こちらへ!」



 伯爵を誘導するジャンの手から刃が見えました。人でごった返す混乱の中なら、手に隠れる武器は至近距離でも気が付きません。

 その右手が、伯爵に近づきました。



 「間に合えっ……!」



 歯を食いしばり、屋根を思い切り蹴り飛ばして跳躍しました。逃げ惑う人たちの頭上を飛んでいき、着地点は、伯爵の前。



 「ぎ、ぐぅっ……!」



 間一髪身体を滑り込ませることができました。颯爽と助けることなどできず、無様に呻き声を零れました。お腹がひどく熱く、痛みます。脈打つように熱いのに、刺さっている刃はあの日の雪のように冷たいものでした。



 「なん、でお前がここに……!」



 目の前のジャンはひどく傷ついたような顔をしていました。貴方の企みは失敗したんです。いっそのこと邪魔をするなと怒ればいいのに。どうか、そんな顔をするなら、傷つくような優しい人なら、こんな方法を選ばなければよかったのに。

 周囲が異変に気が付いて、ジャンを地面に引き倒します。彼が持ったままの短剣が抜け去り、熱さと痛みだけがお腹に残っていました。ぼたぼたと血が落ちていくのを見ていると地面が急激に近づいてきました。もう身体に力が入りません。


 背後から腕が回されました。

 いつも私を抱えてくれる、力強い腕でした。



 「クラウス、様……、」

 「っ誰か、早くこの子を……!」



 今まで見たことがないような、焦った顔をしていました。伯爵の美しいお顔はいつも落ち着いていて、穏やかなものです。彫刻のような美しさだと思っていましたが、こうしたお顔を見ると、ただほほ笑むだけが美しさや優しさではないなと感じました。


 ああ、魔法は今晩とけてしまいます。


 何とか伯爵を守ることができました。随分と無様で格好よくお助けすることはできませんでしたが、私は猫のわりに頑張れたのではないかと思うのです。伯爵の肩越しに、黒い猫が私を見下ろしていました。ディアヴォロさんの言っていた通り、足掻けたと思うのです。

 達成感に溢れている私に未練はもうありません。小さな猫でも、ご主人を救えたのですから。ですが一つ、したいことがあります。

 それはもう時間がありません。人間として、シロとして生きている間に、言葉を持っている間にお伝えしたいことがあるのです。



 「私は、貴方に拾われて、幸せでした……、」

 「シロ……?」



 ああどこで私の名前をお聞きになったのでしょう。



 「少しでも、ご恩をお返ししたかったのです……、」



 寒い雪降る夜に、私を拾っていただきました。

 名前のない私に、白娘という名前をくださいました。

 何も知らなかった私に、言葉を、文字を、物語を教えてくださいました。

 もっともたくさん、お伝えしたいことがあるのですが、身体が寒くていけません。時間がないのに、とても眠たくなってきたのです。

 だからせめて、これだけはお伝えしたいのです。



 「幸せな猫にしていただき、本当に、ありがとうございました。」



 この方に拾われた私は、きっと世界で一番幸せな猫なのでしょう。


 クラウス様が何か仰いましたが、私には聞き取れませんでした。




 「見たかいエーヴァ!彼女の勇敢な物語の結末を!愛する者のために、思いのままその身を投げうったその美しい生き様を!見ていただろう?見ていなかったはずがない!この森から一歩も出ずとも、その魔法の水瓶で彼女の様子は見られるのだから!あの男が死ぬだろうと思っていた君が!見ていないはずがない!」



 魔女は水瓶の前にたたずんでいた。すぐ側に寄って水瓶を覗き込むが、もうそこには何も映っていない。



 「……ああなんて可哀想な子だろう、君もそう思うだろうエーヴァ?」

 「……耳障りなことを言わないでくれる?本当に悪趣味ね。」

 「いい趣味してるだろう?……さあエーヴァ、どうする?」



 力なくうな誰ていた魔女はゆっくりと足を進めた。もう何年も向けていてない、森の入り口の方へ。



 「……ああ美しく可哀想なエーヴァ。呪いの解ける時間だよ。」




*********




 兵舎に併設されている救護室のベッドに一人の白い少年が寝ている。いや少女だと先ほど知った。数いる兵士の中でもひときわ目を引いた彼女は最年少であるからだけではないだろう。首の黒いチョーカーは見覚えがありすぎるものだった。

 以前訓練場で目が合ったあとマルコにあの子が何者なのか聞いた。曰く、人攫いに抵抗しているところを見込んで拾ってきた子だと。



 「……君は、白娘なのか?」



 馬鹿馬鹿しいにもほどがある。この少女が自分の愛猫であるなど。しかし兵団長曰く、彼女を初めて見たのは月の初め頃。そして同じころ、白娘は日中姿を消すようになった。家の中で、私の側や部屋にいる彼女にしては珍しく、少し汚れて帰ってくることもままあった。

 けれど、猫が人間になるなど、おとぎ話でしかない



 「そうよ。その子は白娘。人間としてはシロと名乗っていたわ。」

 「なっ……!」



 誰もいないはずだった部屋の中に、一人の女がいた。慌てて腰に差していた剣を抜くが、女は慌てる素振りもなく手を振りかざした。すると扉、窓がガタガタと動き始め、その全てに鍵がかかった。あり得ない光景に目を瞠る



 「マルコ、いるか!?」

 「だめよ。ここには誰も入れない。声が誰かに届くこともない。諦めておとなしくなさい。」



 異常だというほかない。突然扉や窓に鍵がかかれば外からでも異変に気が付くだろう。それに部屋の外に控えていたマルコに声が届かないはずもない。けれど外からは何の物音もしなかった。まるでこの空間を切り取られているかのように。



 「……何者だ。」

 「あらやだ、子犬が唸っても可愛いだけよ。」



 くすくすと笑う女は嘲りを隠そうともしない。睨みつけつつ、ベッドを庇うように移動すると、すっと目を細めた。



 「……初めまして、クラウス・フォン・イチェベルク。イチェベルク伯爵。愚かな伯爵の一人息子。誰も愛せない呪いの子。」

 「貴様、あの西の森の魔女か……、」

 「西の森の魔女、エーヴァ・パラヴィディーノ。知っての通り、貴方に呪いをかけた魔女よ。」



 魔女など、呪いなどあるはずがないと思っていた。どれもこれも勝手な誰かの妄想で、尤もらしく語られているだけのお伽噺だと。

 けれどわかった。これが魔女であると。そう認めざるを得なかった。



 「そして彼女に魔法をかけたのも私。可愛い可愛い貴方の白娘。随分と可愛がってたのねえ。貴方に恩返しをしたいって私のところへ頼みに来たのよ。健気ねえ。人間になって、凶刃から貴方を守るって。そのためなら何をしても、何を差し出してもいいっていうのよ。笑っちゃったわ。だから私の使い魔になることを代償に人間にしてあげたの。」



 やはりこの子供は白娘であるらしかった。彼女が首に着いてけているのは私が付けてやった黒の首輪だった。彼女はどこかでジャン・ブジャルドの計画を知り、それを阻止しようとしていたらしい。そのブジャルドは今牢に入っている。随分と焦燥しているた。



 「白娘を貴様にやる気はない。」

 「あらでももう契約してしまったもの。まあ契約も何もぱあになりそうだけどね。」

 「それはどういう、」

 「だって彼女、死にそうじゃない。」



 思わず顔をしかめる。私をかばいブジャルドに刺された彼女は腹部に15センチほどの傷を負った。不幸中の幸いであるが、内臓に損傷はなく、感染症や出血にさえ気を付ければ命に関わるものではないと医者は言っていた。

 しかし魔女は嗤う。



 「子供にとってはね。」

 「……事実彼女は子供だろう。」

 「何言ってるのよ。その子は貴方の白娘。猫よ。人間から猫に戻ったら、その傷はとんどもない大怪我。まず死ぬわ。貴方だってわかってるでしょ。その子が人間でいられるのはお昼の間だけ。夜になれば猫に戻るわ。」

 「そんな……!」



 そうだ。夜になると白娘は私のもとへと帰ってきていた。懐中時計を取り出すと、針は16時を指している。日没まではあと長くて3時間ほどだろう。

 あと3時間もすればこの勇敢な少女は猫に戻り、そして死んでしまう。その事実に血の気が引いた。

 恩返しなんて望んでいない。ただ私の側にいてくれさえすればよかった。

 側にいてくれるだけで私が幸せだったのに。



 「どうしたらいい。」

 「どうしたら?」

 「……どうすれば彼女は助かる?貴様ならできるのだろう。彼女が死なずに済む方法くらい知っているのではないか?」

 「……たとえその子が生き延びる方法があったとしても、死ぬか私が飽きるまで使い魔にさせられるかの二つに一つよ?」

 「それでもいい。私のもとにいなくとも、彼女が生きていられるなら。」

 「その子にとって、私の使い魔になるくらいなら死んだ方がましって思うかもしれない。」

 「死ぬことより悪いことなんて、ありはしない。」



 私の知らないところでもいい。どこかで生きていてくれるなら。



 「……『誰も愛さない』呪いにこんな穴があるなんて思わなかったわ。」

 「穴?」

 「こっちの話。……それで、この子を生き永らえさせるその代償は?この子がいてもいなくても、私としてはどっちでもいいわ。使い魔にさせる契約も命を代償にする勇気があるかを試すもの。この子を助けるメリットが私にはほとんどない。」



 何でもする、何でも差し出す。だから彼女を助けてくれ。そう言いそうになり口をつぐんだ。

 それくらいの気持ちはある。けれどそれは軽々しく言っていい言葉ではない。



 「……お前はなにを望む。何を欲しがる。」

 「私?」

 「なんでもやるとは言えない。民の命を差し出すことも、部下の命を差し出すことも、領地の全てを差し出すこともできない。それらは私のものであり、私のものでない。だが私に差し出せるものであればなんでも出そう。」

 「…………、」

 「金か、家畜か、地位か、言ってみろ。」



 けれど魔女はかぶりを振る。悩まし気に、懊悩するように否定する。



 「いらない、そんなつまらないものはいらない。どれもこれも私には必要がなく、興味もないわ。」

 「では、」

 「クラウス・フォン・イチェベルク。イチェベルク伯爵。愚かな伯爵の一人息子。……人殺しの一人息子。私は……、貴方からの謝罪がほしい。それ以外に何も望まない。」

 「……それは、西の魔女の存在を知らなかったことか、その存在を消し去っていたことか?」

 「差別を行っていたことも今の世代は知らないのね。」

 「……すまなかった。」



 魔女は嗤う。さっきよりも小さな声で、微かに震えた声で。



 「違うわ。私が謝ってほしいのはそれじゃない。ただの薬師の家系を魔女として迫害したことでも、差別も何も忘れ去ったことでも、私を魔女だと謗ったことでもない。」

 魔女は言う。

 「言ったでしょう。人殺しの一人息子だと。」

 「まさか、」

 「魔女でも何でもなかった、本当にただの人間だった私の妹に謝って……。」



 怨みを双眸に湛えた女は、吠えるように囁くようにそう言った。




*****




 この街には古くから、パラヴィティーノ家という薬師の家があった。薬学、中でも薬草学に精通したその家は森の中に住み、その森でとれた植物を使って作った薬を街へ売りに出たり、床に伏した人に元を訪れ薬を調合した。薬学とは一般人には理解しがたいものであったが、その薬が効いたため人々は度々パラヴィティーノを頼った。森の隠者のように扱われるパラヴィティーノは理解者こそいなかったが確固たる役割を、居場所を持っていた。

 しかし遠く都の方で、”魔女”というものを火刑に処すことが広まり始めた。魔女は悪魔と契約をすることで、特殊な力を得て魔術を行う。その魔術とは病を流行らせ、人を呪い、土地を枯れさせ、敬虔な者を唆す。各地で多くの”魔女”が処刑された。それが事実で在れ、事実で無かれ、多くの者が殺された。それは一般人には理解しがたい薬術を繰る者にも嫌疑の目を向けさせた。そして森に住むパラヴィティーノもまた例外ではなかった。


 当時、パラヴィティーノには二人の娘がいた。父は事故、母は病で亡くなり、姉妹は慎ましく家業である薬を作りながら生活していた。

 ほどなく、妹もまた母と同じ病に伏した。かつて母にも手を尽くしたが、結局病から回復することなく帰らぬ人となった。エーヴァはあらゆる方法を、知りうる全ての手を使った。けれど妹は日に日に衰弱していくばかりで、回復の兆しは見られなかった。


 焦燥した。このままでは唯一の家族、妹すら失ってしまう、と。

 街の医者には行けなかった。エーヴァは森の外では自分たちが魔女なのではないかと疑われていることを知っていた。もし妹を連れて行けば難癖をつけられて殺されてしまうだろう。



 魔女なんていない。

 この世には神も悪魔もいない。人を陥れるのはいつだって人で、人を救えるのもまた人だけだ。



 「なぁ、その妹を助けてやろうか?」



 けれどそう言って、救いの手を伸ばしたのは人ではなかった。

 男の姿を模したそれは紛うことなく、人ではない。大きく裂けた口、大きな手についた黒い爪、ニンマリと笑う金色の目。


 それは人ではなかった。ディアヴォロと名乗る悪魔は囁いた。



 「美しい子だなぁ。まだまだ若く、命の灯が消えるには早すぎる。君もそう思うだろ?」


 ”魔女は悪魔と契約することで特殊な力を得る”


 「この子を、唯一の家族を助けたいんだろ?俺ならそれができる。その力をお前に与えることもできる。」



 大切な子。他に代わりのいないたった一人の妹。美しく優しく、天真爛漫な可愛い子。



 「……なんでもするわ。この子を助けて。この子を助ける力を私に頂戴。」

 「良いのかい?お代はエーヴァ、君の全てだ。その身体、魂、全て俺にくれるなら、君に力をあげよう。なんでもできる。魔法も魔術も呪術だって。なんでも叶う。」

 「何にもいらない。この子を助ける力以外。この子が、ベルが生きていられるなら私は身体も命も貴方にあげるわ。」



 ベルが生きていられるなら、何も怖くない。

 彼女が死んでしまう未来よりも、恐ろしいものなんてない。

 この子が助かるのなら、悪魔にだってこの身を売ろう。



 「……契約成立だ。」

 「っ……!?」



 悪魔が嗤う。心底愉しいというような悍ましい声で。足元から藍色の影があふれ出す。身体中を這うような悪寒に逃げ出しそうになる足を歯を食いしばりながらとどめて、エーヴァは藍の影の中で嗤う悪魔を見ていた。



 「エーヴァ・パラヴィティーノ、俺の可愛い魔女。これで君は私のものだ。」

 「……約束は守りなさい。」

 「ああ勿論だ!悪魔は契約に忠実!全てを意のままにする力を君にあげよう!」



 身体が何か大きく変わったようには思えない。けれど安堵感に包まれていた。

 これでベルを助けられる。

 だから気が付かなかった。ディアヴォロといるところを見ていたその人影に。




 ディアヴォロの言ったように、エーヴァは不思議な力を使えるようになっていた。望むままに風は吹き、植物は生え、地形は変わる。そしてベルの病気も、今まで手も足も出なかったのが嘘のように好転した。

 ベルには何も言わなかった。ただ良い薬を見つけたとだけ言って。何も知らずにただそれを喜ぶベルに何も言う気にはなれなかった。



 「大丈夫よ、ベル。もう少ししたら前みたいに外に出られるわ。森の奥に綺麗な花畑を見つけたの。起きれるようになったら一緒に見に行きましょう。」



 悪魔と契約して魔法が使えるようになっただなんて、そんな夢物語わざわざ話すべきじゃない。

 何も知らなくていい。ただ元気でいてくれるなら。



 「ベルの調子はどうだい?」

 「ええ、大丈夫そう。起きていられる時間も長くなったし、家の中も少しなら歩けるようになった。一か月もすればたぶんもうよくなるわ。」

 「それで今日は?」

 「森の奥にハナハッカの群生があったでしょ。この時期採れる最後だからそれなりの量を採集するの。」

 「手伝えって?魔女様は悪魔遣いが荒いなあ。」



 ディアヴォロは文句を言いながらも楽し気に傍を歩く。

 悪魔、それも身体や魂をよこせなどと言うからもっと恐ろしいもので、とっとと食べられてしまうだろうと思っていたのに、そうでもないらしい。どちらかと言えば大らかでいつも機嫌が良い。

 サクサクと森を歩いていく、とても穏やかな昼下がりだった。


 どこからか、黒い煙が風に乗って流れてくるまでは。



 「煙……?」

 「何が……、エーヴァ!」



 珍しく、ディアヴォロは焦ったような切羽詰まった声を上げた。



 「森のどこかが燃えてる!しかも自然発火じゃない、街の人間たちが森に入ってきている。……奴らが何かに火をつけたらしい。」



 エーヴァはザア、と血の気が引く音を聞いた。

 街の人間は森の中で迷ってしまうからよほどのことがなければ入らない。

 つけられた火、入り込んだ人間、そして隣にいる悪魔の存在。燃やされているのは何か、そんなのは考えるまでもない。



 「ベル……!」



 何を言うでもなくディアヴォロは四つ足の獣に化けた。エーヴァを背に乗せ風のように煙の元へと走っていく。

 轟々と、音を立てて燃えていた。立ち込める煙と熱風の中、もうほとんど崩れてしまった家の影が見えた。



 「ベルッ!いや、ベル!どこに居るの、返事をしてっ!」

 「エーヴァ駄目ダ!近づいてはいけなイ!君までッ、」



 身体を押さえつけるディアヴォロの言葉で嫌でも理解してしまう『君まで』ということは、もう助けられないということだ。



 「ディアヴォロッ!助けて!貴方ならできるでしょ!貴方はなんでもできるって、何でも叶うって言った!ベルを、ベルを助けて、お願い!」



 願いもむなしく黒い獣はかぶりを振る。



 「……あるものをなくしたり、変容させたりすることはできル。けれどないものを作ることはできなイ。命は命であり、構成要素を集め作り直すことも消えてしまったものを呼び戻すこともできなイ。」

 「なんでよっ……、ようやく、」



 ようやく、元の生活に戻れると思ったのに。やっと力を手に入れて、ベルを助けられると思ったその矢先に。



 「おいいたぞ!魔女だ!」

 「まさか本当に魔女だったのとは……!あんな悍ましい使い魔まで連れている!」



 炎の向こう、男たちの声が聞こえた。その手に松明を剣を持っている。

 奴らが火を放ったのだ。悲しみを飲み込むように、腹の底から怒りがあふれ出す。

 恰幅のいい男が言う。



 「魔女の姉妹か。妹を先に殺しておいて正解だった。化け物を二人相手にするのはごめんだ。」

 「伯爵!奴は、」

 「女一人だ。姉の方は生け捕りにして、見せしめに広場で火刑にしよう。……こんな化け物共が二度とこの領地に踏み入れぬよう。道を誤る者がいないように。」



 道を誤る者。

 確かにエーヴァは道を誤った。人の道から外れた。悪魔に魂を、身体を売った。


 けどそれは誰も助けてくれなかったからでしょう?


 エーヴァは魔女になった。人ではなくなった。全ては妹を助けるために。人に疎まれることも、厭われることも当然だ。それでもよかった。ベルを助けられる力が得られるのなら、どんな罵倒も迫害も、仕方がないのだと諦めよう。そのくらいの覚悟はしていた。

 けれど、



 「ベル……、」



 ベル・パラヴィティーノは紛れもなく人間だった。悪魔の存在も知らず、魔女の存在も知らない、ただの薬師だった。

 ただの罪のない人間だった妹を、奴らは焼き殺したのだ。

 そんなものを訴えても仕方がない。訴えても奴らは認めない。何よりベルは返ってこない。奴らがベルを殺したという事実に変わりはない。



 「人でなし……!」



 エーヴァは涙でぼやける視界で確かにとらえた。あの男を、伯爵と呼ばれた恰幅のいい男を。

 この街の領主であるイチェベルク伯爵を、ベルを殺した殺人犯を、確かにとらえた。

 右手を振るうと燃えていた火が全て消え去る。もう一度手を振れば燻る火を消し潰すように雨が降り出す。男たちに手を向ければおかしいくらいに吹き飛んだ。


 『なんでもできる。魔法も魔術も呪術だって。なんでも叶う。』


 この身は人を呪う術を知っている。呪いは難しい詠唱も、手順も道具も必要ない。


 ただ”呪いあれ”と願うだけで。


 殺そう、と思ったけれど、その気持ちは萎んだ。殺せなかった、その悲しみがどれほどのものか、知っていたから。ああそうだ、もうすぐ生まれる子供が、この伯爵にはいたはずだ。

 人を殺し、堂々としている男に、きっと愛など必要ない。



 「お前から生まれる子は、誰も愛さない。実の親であるお前のことも、母親のことも、部下のことも、女のことも、民のことも。その子は誰も愛さない……!」



 家族に愛される資格もないだろう。人の最愛を奪う奴なのだから。

 豪雨の中逃げていく男たちには目もくれず、崩れた家を見た。今はもう煙が燻っているだけで火はない。炭のようになった家の中、ベルを見つけた。ただただ、それを抱きしめた。



 「……エーヴァ。」



 ぐしょ濡れになった獣が鼻を押し付ける。



 「……ごめン。」



 悪魔である自身が手を貸して、魔女にしてしまったせいでベルが殺されてしまった。それを謝っているのだ。



 「……違う、貴方は悪くない。」



 ディアヴォロがいなければベルは遅かれ早かれ病気で死んでいただろう。それに奴らが魔女だと確信をもたなければ来なかったとも限らない。魔女狩りとはそういうものだ。

 血も涙もない、神でさえ厭う悪魔にすら謝罪ができるというのに、あの人間たちは謝罪の一つもできなかったことに、妙な笑いが込み上げた。



 「……エーヴァ、行こウ。もっと森の奥へ。ここに居たら奴らはきっとまた来ル。」

 「ええ……、行きましょう。恐ろしい人間たちが来ないところへ。」 



 変わり果てたベルを持って、森の奥へと歩いて行った。

 どうか伯爵家が愛と無縁なものであれと。



*****




 「貴方の父親が、私の宝物を奪っていった。さも自分たちは正しいことをしているという顔で。私は魔女だった。だから私が殺されるならまだわかったわ。でも、でもベルは本当に何も知らない普通の子だった。ようやく病気を治せて、これからというところで、生きたまま、あの子は貴方の両親の命令で焼き殺された!」



 「なんで僕は魔女に呪われたの?」

 年配の使用人に聞くと、顔を青ざめさせてわたわたと焦って、言葉を濁して足早に去っていた。

誰もが魔女の呪いについて口にしたのに、呪われた理由だけは誰も知らなかった。いや、子供の時はきっと皆知っていたのだろう。そのうえで口を閉ざしていた。そしてかつて魔女と迫害してきた歴史を、きれいさっぱり忘却してしまった。隠蔽してしまった。

 そして残ったのは、私にかけられたおとぎ話のような呪いの話。



 「エーヴァ・パラヴィディーノ。話していただきありがたく思う。今となっては私には知ることができなかった事実だ。そしてベル・パラヴィティーノに謝罪を。謝ったところで許されない、許されざる行いを、我々はした。謝罪をしたところで何もかもが遅い。しかしどうか謝らせてくれ。その蛮行は先代の罪であると同時に、イチェベルク家の罪でもある。……君の妹を殺し、君に絶望を与えたイチェベルク家の当主として謝罪する。すまなかった。」



 謝罪をしたところで何も解決はしない。何も戻ってはこない。

 それでもこの女性は私の謝罪を求めたのには理由があるのだろう。


 深々と頭を下げる。愚かしい前時代の罪を贖うには足りないだろうが、確かにその罪を今代当主たる自身が背負うという意思を込めて。


 幼子の呼吸音だけが、救護室を占めていた。


 何の反応を示さない彼女に、怪訝に思い顔を上げた。

 ただただ涙を流す彼女は、幼い少女のように見えた。



 「エーヴァ、気は済んだかい?」

 「っ誰だ!」



 背後から声がした。とっさに振り向くが、そこには誰も何もいない。扉も窓も鍵がかかったままだ。



 「エーヴァ。」



 今度は前からして向き直る。エーヴァ・パラヴィティーノのすぐそばに黒装束の男が立っていた。音もなく部屋の中に現れた男は私に目もくれず、ただ滂沱する魔女の隣にたたずんでいた。



 「エーヴァ、俺の可愛い魔女。26年の怨みも、怒りも、歯がゆさもこれでおしまいだ。そうだろ?」



 透き通るように白い肌、金貨のような目をした男は謳うように慰撫するように語り掛ける。



 「悲劇、喜劇、復讐劇、全部ここでおしまいだ。もう呪いは解けて良い頃合い。物語が終われば、皆自由になるのさ。」



 魔女の涙をぬぐう、鋭い爪の大きな手を見て、その男が人でないことを悟った。



 「物語の最後はいつだってハッピーエンド。人魚だって風の精になって天国へ行った。どんな悲しみも、救いを作ることができる。もうわかるだろ、エーヴァ。」



 男に促されるように、彼女は右腕を振るった。手のひらから太陽を紡いだような金糸の光があふれ出る。

 少し震えた澄んだ声で、彼女は囁いた。



 「愛を返そう、光を返そう。閉じ込めていたぬくもりを今持ち主へと返そう。あるものはなく、ないものはある。目に見えるものはなく、目に見えないものはある。確かさは不確かであり、不確かであることは確かである。天の与えた祝福を。愛を返そう、光を返そう。閉じ込めていたぬくもりを今持ち主へと返そう。」


 「叶えよう、与えよう。鈴のような声を、天に伸ばす両手を、物語を紡ぐ言葉を、無垢なるものに与えよう。あるものはなく、ないものはある。目に見えるものはなく、目に見えないものはある。確かさは不確かであり、不確かであることは確かである。豊かな心に祝福を。叶えよう、与えよう。鈴のような声を、天に伸ばす両手を、物語を紡ぐ言葉を、無垢なるものに与えよう。」



 部屋の中に光が満ちる。揺らめく金糸は宙を舞い、零れた光は床を跳ねていた。ひときわ輝く風のような光が私と白娘へと向かってきた。


 少しずつ収まっていく光の中、黒い男が芝居がかった仕草で言う。



 「さてさてこれにて幕引き終焉!三つで一つの物語もこれでおしまい!二つの呪いは解け、幼子に一つの祝福がなされた!悲劇も喜劇も復讐劇も、これにて皆様大団円!」



 黒い爪が私を指さす。



 「さてさて、醜い人間から生まれた美しい伯爵、クラウス・フォン・イチェベルク伯!誰も愛せない呪いは解かれた!物語の終焉をもって、愛は再び返ってきた。しかし忘れてはいけない。人生で一度も人を愛したことのない貴殿は愛が返ってきても愛し方も存じ上げない。せいぜい頑張って学ぶと良い。白のお嬢さんに教わりなさい。彼女は愛が何たるかをよく知っている!」



 黒い爪は未だベッドで眠る少女へと向かう。



 「さてさて、純粋無垢なる愛らしい猫、白娘!人間になりたいと願った君の想いは叶えられた、おめでとう!起きてから喜びをかみしめると良い!勇敢な物語の終焉をもって、人として生きられる祝福が与えられた!けれど人としての生き方を君は知らない。せいぜい頑張って学ぶと良い。愛する伯爵に教わりなさい。彼は人間が何たるかをよく知っている!」



 黒い爪はしまわれ、包み込むように男は魔女の肩を抱いた。



 「さてさて、燃え上がった怒りに飲まれてしまった可愛い俺の魔女、エーヴァ・パラヴィティーノ。恨み辛みに縛られた空虚な呪縛は解かれた。物語の終焉をもって、君はハッピーエンドの呪文を紡いだ。悲しみを忘れろとは言わない。全てを許せとは言わない。けれど君自身は許しなさい。行き先を失った怒りや恨みは、風に攫わせてしまいなさい。」



 消えゆく光とともに、男と魔女の姿も薄くなっていく。あわやかな藍色の光が静かに足元から溢れ出ていた。



 「家族を愛したエーヴァ・パラヴィティーノ。西の森の魔女。虚ろの呪いは全て解けた。祝福をもって、この物語は幕引きだ。君の手をもって幕はひかれた。幸福は君の手によって与えられた。」



 光は消え、二人の姿も掻き消えた。



 「エーヴァ、君は自由だ。」



 声だけが部屋に残って、それから擦れて行った。


 掛かっていた鍵は全て解かれ、閉じていた窓が一つだけ開いていた。



 「クラウス!何があった!」



 けたたましい音を立てて救護室の扉がマルコによって開けはなたれる。やはり外から見ても鍵がかかっていたらしい。



 「マルコ……、」

 「突然この部屋の扉と窓が開かなくなったんだ。お前が閉めたわけじゃないだろ。」

 「魔女が、来ていたんだ。」

 「……魔女だぁ?」



 怪訝な顔をしながら器用に心配そうな顔をするマルコを見る。長い付き合いだが、彼の顔をこうもまじまじと見たのは初めてな気がした。それはきっと閉じ込められてきた愛が返ってきたからだろう。初めて興味を持って、人の顔を見た。



 「魔女が、私の呪いを解き、白娘を人間にする魔法をかけていった。」

 「……クラウス、お前相当疲れてるな。まあ今日はいろいろあったしな、今日はもう休め。シロの嬢ちゃんは俺が見ておくから。」

 「いや、シロじゃなくて白娘だ。白娘が魔女の魔法でシロになっていて、これから白娘は人間として生きるらしい。」

 「本当、マジでもう休んでくれ、な?白娘はお前の猫!シロは人間!理解したか?」

 「だから猫が人間になっていて、白娘がシロに……、」



 顔色を悪くしながらもう一つのベッドに俺を押し込もうとするマルコに説明しようとするが、まるで聞いてもらえない。けれどこれ以上抵抗して余計なことをいえばそれこそ屋敷に戻され医者を呼ばれてしまうだろう。そうなれば眠る白娘から離れてしまう。


 男は、二つの呪いが解け、一つの魔法がかけられたと言っていた。

 あの魔女も、誰かに呪いをかけられていたのだろうか。

 嫌われているだろう俺が、再び彼らに会い答え合わせをすることはきっとないだろう。




*****




 「シロ、フォークが左手でナイフが右手だ。」

 「シロ、床で寝ないでくれ。」

 「シロ、むやみに跳ね回ってはいけない。スカートが捲れてしまう。」



 私のご主人様は私にたくさんのことを教えてくださいます。

 食事の時のマナー、就寝時のマナー、淑女としての立ち振る舞い。今までの私が知らなかったこと、必要でなかったことがたくさん求められます。少し難しいこともありますが、それ以上に私は日々たくさんのことを教えてくださるのが本当に嬉しいのです。



 「はい!クラウス様!」



 こうしてはっきりと返事ができることが至上の喜びであることを、微笑まし気に見る使用人の皆様はご存知ないでしょう。

 私の返事を、少し微笑みながら聞くクラウス様は、以前よりも表情が柔らかく、使用人の方や部下の方と“雑談”に興じているところも見られます。麗しく優し気な表情で皆様と仲良くなることはとても喜ばしいことなのですが、秘密のようであったそれが私だけのものでなくなってしまったのには一抹の寂しさを感じます。


 あの襲撃の日、私は何とか伯爵をお守りすることができました。けれど猫にとってあの短剣の傷は重傷であり、人間になる魔法が解ければ死んでしまうところでした。しかし眠っている私と伯爵のもとに西の森の魔女と一人の男性が来たらしいのです。そして伯爵に掛かっていた「誰も愛せない呪い」が解かれ、反対に私には人間としてこれから生きていける魔法をかけて、二人とも消えてしまったのです。これは全て伯爵からお聞きしたものであり、結局私は魔女さんにお礼を言うことも、ディアヴォロさんに会うこともありませんでした。会いに行こうと森へ入ったのですが、彼らのもとへ辿り着くことはついぞありませんでした。


 人間として、シロとして生きていく私は、伯爵に引き取られることになりました。周囲には行方不明になっていた親戚として紹介され、女でありながら身内を守るために立ち回る武勇伝がまことしやかに囁かれるようになっています。反対に白娘は行方不明、ということになりました。人間たちの間では猫は死ぬ時に姿を消すといわれているらしく、そうおかしなことでもなかったようです。事実を知っているのはマルコ・アルディーロさんだけのようですが、彼はいまだに胡乱げな目で見ながら時折猫じゃらしをチラつかせてきます。当初私の入団を許可したのは不穏な動きをしていたジャンを教育係にし足枷とするためだったそうです。


 伯爵襲撃の首謀者であるジャンには一度だけ会いました。彼は処刑されることはありませんでしたが牢屋に入れられていました。アルディーロさんは足枷として彼に私の教育係を任せたそうです。うな誰ていた彼に声を掛けると、勢いよく顔を上げそれからボロボロと泣き始めました。ジャンは伯爵を殺そうとした悪い人です。けれど根は決して悪いわけではありませんでした。生きていてくれてよかったと、閉じ込めて、殺しかけてしまってすまなかったと、彼は泣きながら私に言いました。行き場のない怒りをどうすることもできなかったのでしょう。それで伯爵に向けてしまった、それだけなのでしょう。したことは許されることではありません。今、攫われた彼の妹ルーチェ・ブジャルドの捜索を進めています。近隣の領主たちにも触れ回り、各地に売られていった子供たちの保護をしているようです。きっとジャンも、ここで終わるということはないでしょう。



 ふと、窓の外に飛んでいる蝶を見つけました。白くて黒い斑のある蝶は踊るように飛んでいます。

 クラウス様は飛び回るのははしたない、と窘められますがこればかりは仕方がないことだと私は思うのです。幸い今クラウス様は席を外しており、私を見ている人は誰もいません。

 窓を開けてバッと飛び出します。捕まえたら伯爵に見せてあげましょう。


 ひらひらと飛ぶ蝶を追いかけていますと、いつの間にかお屋敷の敷地から出てしまっていました。これはまずい、とお屋敷に戻ろうとすると、一人の男性が目につきました。彼も舞う蝶を見つめています。大きな黒い帽子の影の中、金貨のような目がキラキラと太陽を反射させていました。



 「お嬢さん、俺に何か用かい?」

 「いえ、お兄さんが私の知り合いによく似ていたので。」

 「あれ、そうかい。知り合いの名前は?」

 「彼はディアヴォロさんと言いました。」



 金貨のような目が、来ている黒い服が、とてもよく似ていると思ったのです。猫でなくとも、口が裂けていなくとも。



 「珍しいこともあるもんだね。俺もディアヴォロっていうんだ。」

 「すごいです!目も話し方も似ていて名前も同じなんて!」



 もしかしたらディアヴォロというのはよくある名前なのかもしれません。あまりたくさん知り合いのいない私には、どんな名前が多いだとかは詳しくありません。お兄さんは少しおかしそうに笑います。



 「あまりいい名前じゃないから少ないんだけどね。」

 「ディアヴォロさんはどんな意味なんです?」

 「ディアヴォロは悪魔って意味さ。……お嬢さん、そんな顔をしないでくれよ。」



 思わず心が顔に出ていたようです。慌てて顔を隠します。

 しかしなぜ悪魔なんて名前を付けたのでしょう。名前は親から子供への最高のプレゼントだというのに。



 「あんまり好きじゃなかったんだけどな、最近はあだ名で呼んでくれる人ができたんだ。」

 「あだ名?愛称のことですね?」



 嬉しそうにお兄さんは笑います。きっとその愛称をとても気に入っているのでしょう。誰かに言いたくて仕方がない、この喜びを誰かと共有したいというお顔です。幸せをおすそ分けしてもらおうと私もドキドキしながら愛称を待ちます。



 「“ディア”って呼んでくれるんだ。スペルは違うけど“親愛なる”のディアとよく似てるだろ?」

 「ディアさん!素敵な愛称ですね?」

 「だろ?もしお嬢ちゃんの知り合いのディアヴォロに会うことがあったら、提案してみると良い。喜ぶかもしれない。」

 「わかりました!最近お会いできていませんが、呼んでみせます!」



 妙な使命感にかられながら、手を振り去っていくディアさんの背中を見送ります。

 きっと愛称を付けてくれた人のことが、ディアさんは大好きなのでしょう。好きな人からもらった名前は本当に宝物のようで、呼ばれるたびに幸せになることを私は知っています。



 「シロ!」

 「クラウス様!」

 「部屋で待っているようにと言っただろう。」

 「申し訳ございませ、ん。」



 そこでハッとする。蝶はいつの間にかどこかへ行ってしまったようで、すでに影も形もありませんでした。



 「……蝶を捕まえてお見せしたかったのですが、取り逃がしてしまいました……。」

 「……いや、蝶は良い。でも突然いなくなると心配になる。どこかへ行く時は一声かけてくれ。」



 困ったように少し笑いながら私を抱き上げてくださいました。高い視界のままお屋敷の方へと向かっていきます。



 「クラウス様、お願いがあるのです。」

 「なんだ?」



 シロという名前も呼ばれ慣れました。しかしやはり、たまにはあの柔らかい音の名前を呼ばれたいのです。



 「……名前を呼んでいただけませんか?」



 彼は少し虚を突かれたような顔をしましたが、すぐに優しく笑いました。



 「白娘。私のかわいい子。」




*****




 「ディア、」

 「なんだ?やっぱ長く暮らした土地を離れるのは寂しいか?」

 「……まあ多少の感慨がないこともないわ。」



 小さな馬車には人が二人だけ乗れるスペース。美しく愛らしい魔女の膝にはガラスケースに入った一輪のヘリクリサムが乗せられていた。



 「ただここは狭かった、とても。離れればよく分かるわ。あの中にいたころはあの場所が全てだと思っていたのに。」

 「そうかい、エーヴァ。この世界は君の思っているよりもずっと広く大きい。」

 「さあ、じゃあその世界どこから見て回れば良いものかしら。」

 「まずは南から。夏に向かう南の国は、太陽に愛された民が住む。それから東へ向かおうか。時間は無限。可愛い魔女がこの世の全てを見たいのなら、全ての国を、街を訪れよう。いつまでもどこまでも、俺は君の手を引くよ。」

 「……物好きな悪魔ね、ディア。」



 馬車はイチジク、馬は鼠、御者は木人形、乗り込んでいるのは魔女と悪魔。魔法でできた不思議な馬車は、誰に気づかれることもなく南へ南へ進んでいた。

読了ありがとうございます!


こちら文フリ用に短くしています。そのうち完全版上げると思います。

あと続編(?)としてディアヴォロ主人公の話が一つありますので、そちらと合わせて投稿できたらな、と思ってます。

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