ハッピーハロウィン
むかしむかし、あるところに、ずる賢く嘘吐きで乱暴者の、ジャックという男がいました。
ジャックはあるハロウィンの夜、地獄から出てきた悪魔に出会います。悪魔はジャックの魂を取ろうとしました。魂を取られたくないジャックは、「人生最後の酒を飲ませてくれ」と頼み込みました。
悪魔はその願いを聞き入れ、硬貨に変身して酒代を払ってやろうとします。しかしジャックは、十字を切って悪魔を押さえ、自分の財布に閉じ込めてしまいました。向こう十年、魂を取らないことを約束させて、ジャックは悪魔を解放しました。
約束が切れた十年後。再び、ジャックの前に悪魔が現れます。今度こそ魂を取ろうとする悪魔に、ジャックは「最後にあの木になっている林檎が食べたい」と言います。
今度こそ最後だと思った悪魔は、木に登って林檎を取ろうとします。ジャックはその隙に、林檎の木の幹に十字架を刻みました。
すると、十字架が苦手な悪魔は、木から降りられなくなってしまいました。そして、二度と魂を取りに来ないという条件で、ジャックは悪魔を木から下ろしてやりました。
長い時が経って、そんなジャックにも死が訪れました。しかし、生前の良くない行いのため、天国には入れてもらえません。しかし、悪魔との約束のため、地獄にも行けません。
困り果てたジャックに、悪魔は最後の慈悲で、地獄の炎を与えました。ジャックはそれを蕪で作ったランタンに入れ、今も天国と地獄の狭間を彷徨っています。
ここまでが、ジャック・オ・ランタンの由来になったお話です。
さて、今年のハロウィンの夜は、誰が悪魔に出会うのでしょうか?
この作品は、あるハロウィンの夜の冒険の物語。死者の行列に紛れ込んでしまった少女の運命を握るのは、果たして——
今日は十月三十一日。
そう、ハロウィンの日です。
お母さんはお昼から大忙し。だって、学校が終わると子供達がやってきて、
「トリック・オア・トリート! お菓子くれなきゃイタズラしちゃうぞ!」
なんて、言って回るんですものね。子供達にあげるキャンディやチョコレート、かぼちゃパイやドライフルーツのケーキ、他にも色々準備しなくてはいけません。ハロウィンパーティーをするお家は、もっと大変です。三丁目のヘイズさんは、朝から張り切ってお料理に取り掛かっていましたよ。
みんなのお家の周りには、小さなかぼちゃでできたジャック・オ・ランタンがたくさん。天国にも地獄にも行けない死霊達の道を照らす、地獄の炎が宿っています。そう思うと、あのオレンジ色のユーモラスな顔が、なんだか優しく見えてきました。
時計の針が放課後の始まりを告げました。子供達は校門から一斉に飛び出し、真っ先にお家に向かいます。今日はハロウィンですもの。みんな、ゾンビやヴァンパイア、悪魔や魔女や黒猫、不気味な仮装をするのです。じゃないと、通りかかった死者の霊に連れて行かれてしまうかも……なんてね。あら、みんなもう広場に出てきました。なんだか三つのグループに分かれているようです。
こちらは、エリナ・ヘイズちゃん率いる女の子グループ。みんなでお揃いの魔女の仮装をして、準備万端のようですよ。お友達同士で集まって、さあ、出発進行です。お菓子がある程度集まったら、みんなでヘイズさんの家でパーティーを開くのでしょう。男の子グループも、あとで呼ぶことになっています。ホラー映画の音楽のレコードを流しっぱなしにして、ちょっと変わった舞踏会。楽しそうですね。
あちらは、ジョン・ボーデン君率いる男の子グループ。みんなヴァンパイアか悪魔の仮装をしています。みんなを怖がらせることよりも、クールに見えることを優先したようです。意中の女の子と踊るときに、ひどい顔色をしたゾンビの仮装じゃ、格好がつきませんものね。
そちらは男女混合、仲良しの四人組です。骸骨にフランケンシュタイン、シスターとナースさんもいます。個性豊かです。お母さんの手作り衣装でしょうか、とても凝っています。お菓子を集めることよりも、仮装するのが楽しくて仕方ないのでしょう、四人ともきゃっきゃと騒いでいます。
さて、子供達は街を練り歩こうと、別々の方向に散りました。残ったのは冷たい木枯らしだけ……おや? 広場の真ん中に、小さなおばけがぽつんと立っているじゃないですか。白いシーツに黒いフェルトで目と口をつけて、なかなか可愛らしいおばけです。どうしたのでしょうか。
「みんな、行っちゃった……やっぱりダメなのかな、こんなしょぼい仮装じゃ」
シーツの下から、女の子の悲しげな声がしました。おやおや、どうやらこの子は、お友達の輪に混ぜてもらえなかったようですね。可哀想に、毎年一人くらいは、一人でお菓子を集めなくてはならない子が出てしまうものなのでしょうか。
女の子は、貧しいお家に生まれた子でした。お父さんはずっと昔に病気で死んでしまい、お母さんは小さなお店をしています。女の子も、いつもは学校が終わったらすぐにお母さんのお手伝いをするのですが、今日は特別でした。お母さんは、女の子に古いシーツで作ったおばけの衣装を被せて言っていました。
「今日はハロウィンだから、お友達と一緒にお菓子をもらっておいで。お前はいつもとってもよく働いてくれてるから、今日はお休みさ」
そんな風に言われたら、もう出かけるしかないでしょう。ですが、残念なことに女の子は一人になってしまいました。どうするのでしょうか。
「こんな格好じゃ、きっと誰もお菓子なんかくれないよね……」
女の子は悲しげに呟くと、ふらっと、あてもなく歩き始めました。どうやら、日が暮れるまで外にいるつもりのようです。お友達が仲間に入れてくれなかった、なんて、お母さんには言えないのでしょうね。
いよいよ、太陽が傾いてきました。子供達のハロウィンの始まりです。さて、女の子が墓地の横の小道をフラフラ歩いていると、いばらの植え込みの向こうから声がしました。
「ハッピーハロウィン! かわいいおばけのお嬢ちゃんや、お菓子はいらんかね。キャンディにチョコレートにクッキー、キャラメルもあるよ」
それは、優しげな顔をしたおばあさんでした。鼠色の髪を首の後ろでひっつめて、顔はしわしわで、うっすら向こうが透けています。お墓の中に一人で暮らすのが寂しいのでしょうか、気に入った子をとり殺して、仲間にしたがっているようです。今日はハロウィンなのだから、お墓から出てみれば他に仲間がいるのに、何かこだわりがあるのでしょう。両手にはあの世のお菓子がいっぱい。食べたらあの世の住人になってしまいます。あの冥界の神ハデスのように、女の子を騙すつもりです。
ですが、ああ、なんて賢い子なんでしょう! 女の子は首を横に振ると、一言言いました。
「……ううん、いらない。だって、おばあさんのお菓子、私には食べられないもん。だから、ごめんね」
そう言うと、女の子は小道をスキップして行ってしまいました。ずんずん、人気のない道を進んでいきます。大丈夫でしょうか。
と、おばあさんのことを忘れていました。おやおや、女の子がいなくなると、おばあさんの顔の肉はみるみる削げ落ちて、髪はボサボサになって抜け、手の中のお菓子は崩れて土に還ってしまいました。
「ああ、残念だねぇ。いまどき珍しい、綺麗な魂を持った子だったのに」
おばあさんはがしがしと歯軋りしてから、墓石の下に戻って行きました。次に子供が通りがかるまで待つつもりです。女の子と同じくらい無垢で、ひとりぼっちで寂しくて、お菓子に釣られておばあさんの腕の中に飛び込むくらい無邪気な子でなくてはなりません。果たして、そんな子がいるのでしょうか。でも、おばあさんは諦めません。だって、寂しいんですもの。
長い長いいばらの小道を抜けていると、空がどんどん暗くなってきました。一体どれだけ歩いたのか、女の子はもう覚えていません。今はおばけになりきって、宙を舞っているような気分でスキップをしています。ゆらゆら、ふわふわ。なんだかダンスをしているようです。
陽が地平線の下に沈むと、暗闇の中でいくつものジャック・オ・ランタンが輝き始めます。炎に照らされた薄暗い道に、ゆらり、彷徨う魂が集まってきました。みなさん、様々な格好をしています。がりがりに痩せこけた人、胸にナイフが刺さっている人、腕や頭がない人もいます。それはおどろおどろしい、死者の行列でした。これからみんなで、あの世へ行くのです。さっきのおばあさんのように何年も墓石の下にいるのは、この世に未練がある人だけです。一体どんな死に方をしたのでしょう。想像もつかないような、深い悲しみの中で死んだのでしょうね。
お空にあるはずの月は見えず、風が吹いても樹々がざわめく音すらしません。女の子はそのときになってようやく、ここが入ってはいけない道であることに気がつきました。けれど、どうしましょう。あたりはもう真っ暗で、一歩踏み出したら、そのまま崖の底に落ちていきそうです。足が竦んで動けません。困り果てて、女の子は道の端にしゃがみ込みました。
「……おや、可愛らしいおばけちゃん。こんなところで何してるんだい?」
ハスキーで優しい声に顔を上げてみると、お髭のおじさんがいました。左手に持っている蕪でできたランタンは、これまでに見たことがないくらい恐ろしい表情をしています。まるで、生きたまま焼かれた人が、嘆きの絶叫をあげているかのようです。でも、おじさんは怪我もしていないし、骸骨のように痩せてもいません。普通の人間のようにも見えます。女の子は少し安心して、薔薇の蕾のような、小さなお口を開きました。
「……あのね。一人でお散歩してたら暗くなっちゃって、お家がどこだかわからないの。おじさん、道を教えてくれない?」
女の子のお願いに、おじさんはううむと唸りました。
「……ごめんな。おじさんはもう、嬢ちゃんのお家があるところには行けないんだ……」
「そっか……」
シーツの下で、女の子は項垂れました。頼みの綱だったおじさんも、無理だと言うのです。他の亡霊達も、勿論無理でしょう。女の子は途方に暮れました。
しゅんとしてしまった女の子を見て、おじさんは慌てて口を開きます。
「……嬢ちゃん、このままじゃ一緒にあの世へ連れて行かれちまう。おじさんの知り合いに、お家に返してくれないかって、頼んでみないかい?」
「……知り合い? だあれ?」
女の子が顔を上げたのがシーツ越しにわかると、おじさんはにやりと笑いました。
「……地獄の番人。悪魔さ」
「あくま……?」
女の子はぽかんとしました。悪魔が人間のお願いを聞いてくれるなんて、思ってもみなかったからです。そんな女の子の頭をポンポンと撫でて、おじさんは言いました。
「……本当だよ。悪魔は魂と引き換えに、ひとつだけ願いを叶えてくれるのさ。おじさんも昔、叶えてもらったんだよ」
「ふーん……」
女の子は少し考えました。お家に返してくれるなら、すぐにでも悪魔のところに行きたいくらいです。ですが、魂を取ると言われると、やっぱり迷ってしまいます。
「大丈夫。悪魔は話のわかる奴だから、どうとでもなるさ。さあ、一緒に行こう」
おじさんは右手を差し伸べて言いました。大きくて、温かそうな手です。女の子は死んだお父さんを思い出しました。優しかったお父さん。気がつくと、女の子はおじさんの手をとっていました。
「……わかった。行く。おじさんのお名前は?」
女の子の問いかけに、おじさんはまた、にやりと笑いました。
「……俺の名は、ジャック。君は?」
「……リリー」
「そう、リリーか。さあ行こう。俺と一緒ならもう平気さ」
ジャックはそう言うと、リリーの手をぎゅっと握って歩き始めました。リリーもそれについて行きます。ずんずん、ずんずん、どこまでも歩いていきます。
亡霊達の旅はまだまだ続くようです。だんだん眠くなってきて、リリーは眠気覚ましにお喋りをすることにしました。
「……ねえジャックおじさん、おじさんは悪魔に、どんな願いを叶えてもらったの? 魂を取られるって、どんな感じ?」
「うーん……なんだったかな……そんな大層なものじゃないさ。それにな、俺は魂を取られたりはしてないんだ」
ジャックは遥か昔、自分が生きていた頃を思い出して、溜息を吐きました。どうして人を騙してばかりいたんだろう、何故あの約束を破ったんだろう……後悔ばかりが募ります。
「ふぅん……そうなんだ。じゃあ、ジャックおじさんは、なんでこんなところにいるの? やっぱり、死んじゃった人なの?」
眠いせいか、リリーはジャックのお話をあまり聞いていませんでした。それでも、子供というのは意外に鋭いいきものです。ジャックが既に死んでしまっていることを、なんとなく見抜いていました。
「はっはっはっはっは……リリーは鋭いなぁ。そうさ。俺は随分前に死んだ。でも、地獄にも、天国にも行けないんだ」
諦めたように笑うジャックは、天国と地獄の狭間を彷徨ううち、生前の自らの行いを悔いるようになったのでした。けれど、ジャックの懺悔の声は、神には届きません。悪魔が最後の慈悲でくれた炎でランタンに火を灯し、ジャックは今年のハロウィンも、審判に向かう死者達を見送るのです。終わることのない寂しい旅でした。
「どうして? ジャックおじさんいいひとだもん。絶対天国に行けるよ」
「ははは……そう言ってくれると嬉しいよ。でも俺は、もうどこにも居場所がないんだ……悪魔との約束を、破ったから」
ジャックは淡々と語ります。もう、諦めてしまっているのでしょうか。そんなことはありません。本当は、天国にいる家族や友人達に会って、謝りたくてたまらないはずです。けれど、そんなささやかな願いももう、叶いません。それが、何度も人を騙した罰だからです。
「……だから、十月三十一日だけ、こうしてみんなとの旅を楽しむのさ。ほら、あんな辛気くさい連中でも、いないよりはいいだろう?」
前を歩いている赤いドレスの貴婦人を指差すと、ジャックは唇をすぼめて、ふぅと息を吐きました。よくよく見てみると、そのドレスは元から赤いのではなく、貴婦人の血で赤くなっていたのでした。シニヨンにした金髪から血が滴っています。頭を怪我して死んでしまったのでしょうか。前から見ると、頭が潰れているかもしれません。他の亡霊達も、まともに話ができそうな見た目はしていません。口を噤み、息を止めて、旅の終わりを目指すだけです。
リリーは黙って、ジャックの話を聞いていました。悪魔との契約を破ったせいで、行くあてもなく永遠の夜を漂うジャック。優しいリリーには、ジャックの淋しい気持ちが痛いほどわかりました。思わず、涙を零してしまうほどです。
「そっか……約束を破るのは確かにいけないけど、でも、それじゃジャックおじさんがかわいそうだよ……」
「リリー……」
シーツで顔が見えなくても、子供の素直な泣き声は、大抵の大人に届くものです。ジャックの悲しみを分かち合う純粋な涙は、諦めに凍りついてしまったジャックの心を、優しく溶かしていきました。
「……リリーは優しい子だな。でも、俺は大丈夫だから、今は家に帰ることを考えろ。お前はまだ生きてる。悪いこともしてない。大きくなって、幸せな人生を送って、それから天国に行くんだ。な? おじさんとの約束だ」
ジャックはリリーにそう言い聞かせると、にっこり笑いました——サンタクロースのような、人懐っこい笑顔でした。
「……うん。ありがとう、ジャックおじさん」
リリーはシーツで涙を拭うと、背筋を伸ばして、シーツから透けて見える、ジャックのランタンを見ました。あの苦しそうな表情がジャックの本当の気持ちなのだと思うと、胸がきゅっと痛みます。できるなら、一緒にいてあげたいと思いました。でも、お母さんのために帰らなければならないのも確かです。悪魔のいる宮殿を目指して、リリーとジャックは歩き続けました。
やがて、この旅も終わりに近づいてきました。天国への階段と、地獄への縦穴が見えてきたのです。亡霊達は誰に導かれることなく、二手に分かれていきます。白くてつやつやの石でできた階段に登った人達は、傷ついた身体がどんどん治り、白く光る衣を着せられて天国に入っていきます。黒い煙が溢れ出す縦穴に落ちていくのは、恐ろしい形相をした人達ばかりです。穴の中からは罪人達の苦悶と絶望の叫びが聞こえてきます。ジャックは穴の中を覗き込むと、一声叫びました。
「おーい、ちょっと来いよ。お前と取引したいって言ってるかわいいお客がいるぞ!」
ジャックの声が穴の中に響き渡ったと思うと、ゴゴゴゴゴゴ……という地響きがして、黒い影が現れました。
「またお前か……ジャック。今度は何だ?」
そう言って溜息を吐いたのは、間違いなく“悪魔”でした。リリーのお家よりも大きい、山羊の怪物の姿をしています。その身体からは、もの凄い闇の力が溢れ出しています。ジャックは平然としていましたが、リリーはジャックの手をぎゅうっと握りしめて、ぶるぶる震えていました。
ジャックはそんなリリーの背中を優しく撫でると、悪魔に交渉を試みました。
「……いやな。このおばけちゃん、リリーっていうんだけどさ。一人でふらふらしてるうちに、俺達の行列に紛れ込んじまったんだと。あっちに返してやってくんねぇかな」
「ほぉ……また迷子の世話を焼いているのか。ご苦労なことだ。まあいい。考えてやろうじゃないか」
悪魔はやれやれと言いたげに首を振ると、ぐっと首を伸ばして、リリーに顔を近づけました。
「さて、天国と地獄の狭間を彷徨う子羊よ。たったひとつだけ、望みを叶えてやる。ただし、代わりに魂をもらうぞ。さあ、言ってみよ。そなたの願いを」
「……お家に、帰りたい」
薄い綿布の向こうに、悪魔の大きな黒い瞳がギラギラしています。とってもこわいです。でも、リリーははっきりとそう言いました。
「そうかそうか、家に帰りたいか……ちょうどいい。少し待っていろ」
悪魔はそう言うと、一旦穴の中に戻ってしまいました。そして、戻ったときには、ベッドみたいに大きな手のひらの上に、リリーと同じくらいの歳の、茶色の髪を三つ編みにした、緑の瞳の女の子を乗せていました。
「……今回に限り。いいか、今回だけ……魂を取らないでおいてやる。代わりに、このスーザンの願いを聞いてやれ。そうしたら家に返してやる。構わんな?」
悪魔はそう言うと、忌々しそうに頭を掻きました。だって、こんなに綺麗な魂をもらい損ねてしまうんですもの。
リリーがこくりと頷くと、そのスーザンと呼ばれた女の子はてててっとリリーに駆け寄って、なにやら紙切れを差し出しました。
「あのね、これを、私のお母さんに渡してほしいの。あなた、ここに来るまでに会ったでしょ? お墓の下に、ずっといるおばあさん」
「……あっ! あのお菓子のおばあさんね!」
リリーははっとして叫びました。やっぱりあのおばあさんは、幽霊だったのです。天国にも地獄にも行かず、ハロウィンの列にも加わらない、ひとりぼっちの幽霊。娘が自分を待ってくれているなんて、全然知らないのでしょう。だから、生者の世界にしがみついてしまうのですね。
「そうなの。私、死んでからずーっと、お母さんを待ってるの。でもお母さん、全然来てくれないの。だから、これ」
スーザンはリリーの手を取ると、四つ折りにした紙をしっかりと握らせました。リリーもそれを、しっかりと受け取ります。
「……わかった、スーザンちゃん。これ、あのおばあさんに、絶対に渡すね」
「……うん。ありがとう、リリーちゃん……」
二人は小指の誓いを立ててお約束しました。すると、待ちくたびれたと言いたげな悪魔が、リリーの前に手を出しました。
『さて、契約は済んだようだな。ならば、我が背に乗るがよい。生けるものの世界の入り口まで、送り届けてやろうぞ』
悪魔はいつのまにか、大きなドラゴンの姿をしていました。黒い鱗に覆われた身体、どこでもひとっ飛びで行ける大きな翼。声は耳には聞こえず、頭の中に直接響いてくるようです。リリーは悪魔の背中によじ登ると、ジャックとスーザンに手を振りました。
「さようなら、ジャックおじさん、スーザンちゃん。またね」
リリーの別れの挨拶に、ジャックとスーザンも応えます。
「じゃあな、リリー。もうこんなとこに迷い込むんじゃないぞ」
「リリーちゃん、じゃあね! お元気で!」
腕をぶんぶん、ちぎれそうなくらいに振ります。ほんの少しの間一緒にいただけなのに、三人とも別れを惜しんでいます。リリーは生き物の世界へ、スーザンは天国へ、ジャックはこのまま死者の街道に残ります。三人は離れ離れになってしまうのです。一番寂しいのはジャックです。でも、ジャックは寂しそうな顔なんてしていません。口を開けて豪快に笑っていました。
『……さて、そろそろ出発するぞ。夜が明けてしまったら、お前は帰れなくなってしまうのだからな』
悪魔は大きな翼を一振りすると、バッサバッサと羽ばたき、宙に浮かびました。
リリーは後ろを振り返って、ジャックとスーザンを見ました。二人はまだ手を振っています。そして、なんて不思議なんでしょう! いつの間にか、ジャックの立っていたところには、リリーのお父さんがいました。手を振っています。病気で弱ってしまう前、元気だったときの姿です。
「リリー! お前は自慢の娘だよ! 元気でな!」
お父さんは確かに、そう言ったのです。妻と娘を残して逝ってしまったのが心残りで、まだ天国に行っていなかったのでしょうか。でも、今は笑っています。リリーはおばけを脱いで、お父さんの顔をもっとしっかり見たくなりました、でも「死者の道を通るときは、仮装をしていないとあの世へ連れて行かれてしまうよ」という話を思い出して、すんでのところでやめました。だって、おばけの仮装を脱いだら、帰れなくなってしまうかもしれないんですから。
「うん! じゃあね、お父さん!」
リリーは一声叫ぶと、前を向いて、悪魔の首にしっかりつかまりました。スーザンに渡された紙はポケットの中です。まもなく、悪魔の翼が空を切り、風を巻き起こして、星ひとつない空へ飛び立ちました。
リリーが何気なく下を見てみると、それはそれはすごい眺めでした。はるか下の地面には、ジャック・オ・ランタンがつくる、光の道ができています。死者の道を照らす彼らは、全てジャックの子分みたいなものです。ハロウィンの夜、みんなが作ったランタンに火を灯し、死者を導く。それが、天国にも地獄にも行けないジャックに、唯一任された仕事でした。
『……美しいだろう。またと見られぬ眺めよ。とくと見ておけ』
悪魔はフフンと鼻を鳴らすと、得意げに翼をはためかせました。いつも真っ暗な地獄に住んでいる悪魔にとっても、この眺めは宝物です。
やがて、前方に白い光の輪が現れました。生者の世界への入り口です。悪魔はその真ん前でリリーを下ろすと、黒い服を着た魔法使いの姿に化けて言いました。
「さて、人の子よ。この先を進めば、もとの世界に帰ることができる。だが、己の務めを忘れ、役目を果たす前に夜が明けてしまったとき、儂は即刻、お前の魂をいただく。急ぐがよい。もうすぐ夜明けだ」
「……うん」
悪魔の声に背中を押されて、リリーは歩き始めます。一歩一歩、確実に。眩しくて前が見えなくなっても、ひたすらに、歩き続けました。
そして、落ち葉を踏んだような、カサカサという音がしたとき、リリーはいばらで囲われた墓地の横に立っていました。
「やった……帰れたんだ……」
リリーはそう呟いて、空を見上げました。東の空が赤くなりかけています。もう、あまり時間がありません。慌てて墓地に入ると、リリーは一声叫びました。
「おばあさん! スーザンちゃんのお母さん! 出てきて! スーザンちゃんが、渡したいものがあるって!」
「……なに、スーザンが?」
リリーの狙い通り、墓石の下からおばあさんが出てきました。よくよく見てみれば、どこかスーザンに似た顔をしています。落ち窪んだ瞳は、スーザンと同じ緑色です。
「そうなの。スーザンちゃんがね、お母さんにこれを渡してほしいって」
リリーはそう言うと、ポケットから紙切れを引っ張り出して、おばあさんに差し出しました。
「……見せて、おくれ」
おばあさんはおそるおそるそれを受け取ると、ゆっくりと開きました。そこに書いてあったのは——
『お母さん、大好き。ずっとずっと、一緒にいようね』
ミミズがのたくったような字と、おばあさんらしき似顔絵でした。今より若い頃、髪が白くなってしまう前です。その絵に描かれた女の人は、とっても明るく笑っていました。娘を亡くしてしまう前の、幸せだった頃の笑顔です。その絵が放つ輝きが、おばあさんの胸を突き刺しました。
「ああ……スーザン……スーザン……私の娘……私が死なせてしまったのに……それでも、好きだと言ってくれるのかい……?」
娘からの手紙に心を動かされて、おばあさんは泣き崩れてしまいました。あのとき目を離さなければ、あの子は人攫いにあった挙句、殺されたりなんかしなかったんじゃないか……娘に合わせる顔がなくてあの世に行けず、でも寂しくて一人でいることもできず。おばあさんは、娘と同じような年頃の子供を取り殺していた怨霊でした。おばあさんは、娘に恨まれていると思い込んでいたのです。
「おばあさん、スーザンちゃんね、お母さんのことをずーっと待ってるって、言ってたよ。だから、ね、スーザンちゃんのところへ行ってあげてよ」
ぽたぽたと涙を流している幽霊のおばあさんに、リリーは優しく言いました。リリーはもう、道連れにされそうになっていたことなんて覚えていません。スーザンとおばあさんの再会を祈っているだけです。その優しさは、おばあさんの心にも伝わったようでした。
「……ありがとう、お嬢ちゃんはとっても優しい子ね。スーザンを思い出すわ。あの子もとっても優しかったの。そう……あの子今でも、私のことを……」
この世になんとしてでも残ろうとしていた、おばあさんの頑なな心が揺らぎます。もう、あの世に行ってしまおうか。そんな風にも思います。けれど、どうしましょう。何十年もここにいたおばあさんは、どうやってあの世に行けばいいのかわかりません。そんなおばあさんの心の内を知ってか知らずか、リリーはさっき通ってきた小道を指差して、おばあさんに言いました。
「おばあさん、大丈夫。今はまだハロウィンの夜だもん。そこの道をずっと行けば、ランタンがいっぱいある道があって、迷ったらジャックおじさんが案内してくれるから。だから、大丈夫だよ」
「お嬢ちゃん……」
リリーの言葉に顔を上げて、おばあさんは小道の先を見ました。あの先に、スーザンがいる。そう思うと、おばあさんは勇気を出して、あの世へ行くことを決めました。
「……ありがとう、お嬢ちゃん。スーザンの手紙を渡してくれて。とっても嬉しいよ。じゃ、ちゃんとお家に帰るんだよ。お嬢ちゃんがいなくなっちゃたら、お母さんが悲しむだろうからね」
おばあさんはそう言うと、閉じかかっているあの世への入り口に立ち、リリーに手を振りました。
「あ、そうだね。でも、大丈夫、ちゃんと帰るから。じゃあね、おばあさん。ハッピーハロウィン!」
そうです。お母さんが心配していることを忘れていました。リリーはおばあさんの言葉にはっとすると、そう言って足早に去って行きました。
早く早く、お母さんが心配しています。お家に帰って、安心させてあげなくてはいけません。夜がどんどん明けていきます。真っ赤な朝焼けが、リリーの頰を赤く染めていきます。いつの間にかシーツは脱げていました。でも、リリーは気にしませんでした。だって、もうハロウィンは終わってしまったのですから。
さあ、お家の扉が見えました。窓には明かりがついています。リリーはドアノブを握ってぐいっと捻ると、勢いよく開け放ちました。
「お母さん! ただいま!」
リリーが大きな声でそう言うと、お家の中からガタガタガタッと、何かが倒れるような音がしました。そして次の瞬間、エプロン姿のお母さんが飛び出してきました。
「リリー! リリー、良かった! どこ行ってたのよ! ちゃんと帰ってこなくちゃダメじゃない!」
お母さんはリリーを抱きしめて叫びました。心配で心配で、胸が張り裂けそうだったのです。口では怒っていますが、本当はホッとしていたのでした。
「お母さん、ごめんなさい! 道に迷っちゃって、でも、おばあさんの幽霊と、親切なおじさんと、スーザンていう女の子と、あと悪魔に会ったの! みんな親切にしてくれて、なんとか帰って来られたんだ!」
リリーは早口で、昨日あったことを話しました。ジャックと死者の行列のこと、悪魔の背中に乗ったこと、寂しいおばあさんのこと。お母さんは目をぱちくりさせながら、リリーの不思議な話を聞いていました。
「……そうかい。リリー、随分不思議な目にあったみたいだね。まあいいよ、ちゃんと帰って来たんだから。さあ、少し遅いけど、お母さんからプレゼントだよ」
お母さんはリリーの手を引いて、リビングに入りました。すると、そこには——
「わぁ! すごい! お菓子がいっぱい! かぼちゃのランタンも!」
お部屋は紫とオレンジできれいに飾り付けられて、机の上にはかぼちゃパイやミートパイ、色とりどりのフルーツが入ったケーキ、色々なご馳走でいっぱいです。お母さんはリリーが出かけている間に、ハロウィンパーティの準備をしていたのでした。
「ハッピーハロウィン、リリー」
「ハッピーハロウィン、お母さん!」
リリーとお母さんの声で、少し遅いハロウィンパーティが始まります。ジャック・オ・ランタンに照らされた二人の笑顔は、朝日よりも明るく輝いていたのでした。
さて、リリーの冒険は、ここでおしまい。
ハロウィンの夜一人でフラフラしていると、リリーのように、死者の行列に紛れ込んでしまうかもしれません。そうなったら、生きて帰れる保障はありません。リリーは親切なジャックと悪魔の気まぐれ、地獄の掟のお陰で帰ってこられましたが、次はないでしょう。
みなさんも、ハロウィンの夜はお気をつけて。悪魔はいつだって、あなたの魂を狙っているのですから。