5 知らない街
それから何時間経ったんだろう。
わからない。
やっと腰を上げてしたことはスーパーの袋から飛び出てる食材を律儀に冷蔵庫にしまって、シーツをひっぺがえして洗濯機に入れたことだった。
明かりは付けなかった。
律儀になにしてるんだろうって思ったけど人は普段してることがこんなときでもしてしまうらしい。
ちょっとおかしくてわらった。
虚しくてまた泣きそうになった。
楽しかった思い出も愛しかった彼も夢見た未来もこの洗濯機が洗剤が綺麗に真っ白にしてくれたらいいのに。
でも、真っ白になるのは情事のあとだけであとは真っ黒にあたしの心が塗りつぶされるだけだ。
こういう失恋の時って酒を飲むんだっけ?
みんな人妻だから誰も呼べないな。
てか、呼んだとこで・・・・黒より醜い私の心が顔を出す。
普段行かない街の絶対入らないようなとこに行こう。
そう思ったら普段使いのバックを引っ掴んで家を出た。
電車に乗って今まで下りたことのない駅で降りた。
といっても、山手線内だから下りたことあるかもだけど。
あてもなく歩いて路地に迷いこんだ。
歩き疲れた先に店?のような看板を見つけた。
ライトに照らされた木の看板には「doubt」と書かれていた。
「doubt」・・・「迷い、疑念、疑惑」
迷う暇さえくれなかったな。とか思った。
足が向いて店のドアを開けた。
「いらっしゃいませ。」
中は、間接照明がおしゃれなバー。
店内はグランドピアノとカウンターに5席、それから奥にボックス席が2つ。
ジャズが流れててカウンターの中にバーテンが一人。
私は、カウンターの一番手前に座った。
「ご注文は?」
「おススメで。」
「かしこまりました。」
客は私の他にボックス席に2人。カウンターに1人。
ボックス席はカップルで、カウンターは全身黒づくめな上帽子を深く被って怪しかったけど服装からして20代くらい青年のぽかった。
バーテンは、30代前半ぽく、整った堀の深い顔で髪が長く後ろで1本結ばれていた。
ミステリアスでエキゾチックなその雰囲気に良太とは大違いとか思った。
良太なんて猿橋の名にピッタリのサル顔でさー・・・
こういう人がさっきの良太みたいな言葉で振ったらわかるけど
あの猿に振られたのかー。
でも、あんなでも好きなんだよ。こんなに苦しいんだよ。
「どうぞ。」
綺麗なキラキラしたカクテルが目の前に差し出される。
「バイオレットフィズです。」
やさしく低音の声が耳を撫でる。
「ありがとう。」
顔をあげると微笑まれた。
目の前には綺麗な紫のカクテル。
一口、口にした。
「おいしい。」
「ありがとうございます。」
「あの・・・失礼ですが、どうかなさったのですか?」
「え?」
「涙のあとがついていますよ。」
「うそ!」
急いで鞄から鏡を出すとだいぶひどい顔になってた。
「あの!お手洗い貸して下さい!」
「はい、突き当り右にございます。」
「すみません!」
この店に似つかわしくない大声を出してしまった。
急いでお手洗いに入って鏡を見直す。
店内より明るく清潔でおしゃれなお手洗いだったけど
鏡に映る情けない化粧崩れした自分の顔に愕然とする。
とりあえず、持ってる化粧ポーチある程度直した。
「これで・・・よし。っと。」
だけど、出てくのはずかしいな。
いつまでもここにいるわけにもいかず、さっさとさっきのお酒を飲んで会計して帰ろう。
そう思った。
「あの、さっきはすみませんでした。大声だしちゃって。」
バーテンの方に謝った。
「いえ、何かお辛いことがあったのでしょう。お話聞きましょうか?貴女ここの近辺の人じゃないでしょう?知らない人間に話すというのも少しは楽になれるかもしれませんよ。」
「・・・・・・」
やさしくそう言われてまた涙腺が緩んだ。
「・・・・・・・・・・・・浮気されたあげく振られたんです。長く同棲してたんですけど、女を家に連れ込んでるとこ目撃しちゃって、それで、それは彼がわざとしたことで。彼はわたしとこのまま結婚するのが嫌だったらしくて別れたくてそうしたって・・・」
「そう・・ですか。」
「よくある話だな。」
「こら、ユウ!」
奥から黒ずくめの男がそう言った。
若い男の声だった。
「すみません。」
なぜかバーテンが謝る。
黒ずくめの男がこちらを向く。
顔が間接照明で照らされて見えるとその男もまた綺麗な顔をしていた。
そして、どこかで見たことのあるような・・・・
赤い唇とスッと通った鼻筋、白い肌に甘さのある目元。キリっとした眉に帽子からは間接照明によって金髪のように見える柔らかそうな髪が帽子と計算されて彩っていた。
形の良い赤い唇が動く。甘いはずの目元ははっきり意思をもって私を射抜く。
「あんた。重たかったんだよ。」
「・・・・そんなこと・・・」
なかったなんていえない。きっと、重たくならないようならないよう取ってきた行動が逆に重たかったのかもしれない。
「そうかもしれない・・・・だから、振られちゃったのかもしれませんね。」
目の前の紫のカクテルに目を写す。
「・・・あなたはがんばりましたよ。ここまで来たんだから。辛くても、歩くことができる。」
バーテンの優しい声に泣きそうになる。
「あなた、お名前は?私は、及川悟司といいます。」
「水瀬朝子です。」
「ふーん、朝子。おまえ、男なんて死ぬほどいるんだから振られてよかったじゃねーか。その猿に。」
「こら!ユウ!!あ、あいつは静末優です。」
「え?なんで知ってるの?!」
「さっき猿に振られてどうのって自分でいってたじゃねーか。」
「えぇ!!私しゃべってました?」
「・・・・ハイ・・・」
苦笑いの及川さん。
えー・・・・
「まぁ、猿だから女の良しあしがわからなかったんじゃねーの?」
「猿だから・・・・フッ・・・アハハ。」
猿だからって・・・アハハ。おかしくて笑ってしまった。
「笑顔の方がいいですね。」
「笑って忘れちまえ。」
「あなた、まだ若いですし、これからいい出会いがいっぱいありますよ。私のような。」
「え!」
「おい、クソバーテン口説いてんじゃねぇ―よ。」
「私、若いですか?!」
「そっちかよ!」
「えぇ、あなたは若くて綺麗な花盛りだ。こんな素敵な人を振るだなんてその猿は見る目がないですね。」
「友達もみんな結婚しちゃって・・・若いとか・・・もう私も賞味期限ギリギリかと。」
「はぁー?おまえの友達人生損してね?女も男も30からだろ。」
「そう言うお前は、まだ25だけどな。」
「うっせ。おっさん。」
「おにいさんだろ?優くん?」
「・・・・・ハイ・・・悟司お兄さん。」
「ふふ。ありがとうございます。」
「いいえ。よかったらまた来てくださいね。このdoubtに。優もたまにいますから。」
「まぁ、相手してやらないこともない。」
今日ここに来たのは、よかったかもしれない。
お会計をして及川さんが呼んでくれたタクシーに乗り込む。
「これ、お店の名刺です。」
渡された黒字に白のシンプルなカード。
「それから、コレが私の名刺。」
「あ、ありがとうございます。」
私も自分の名刺を渡す。
「朝子・・・さん。やっぱりいい名前ですね。僕、朝が好きなんで。」
意外だと思った。
「では、またの御来店お待ちしてます。」
「えぇ、ありがとうございました。」
家に帰ると洗濯機に放り込んでおいたシーツが乾燥までおわっていた。
あと数時間したらまた朝が来る。
仕事って気分じゃないし、気持ちだって完全に浮上したわけじゃないけど時間は待ってくれない。
大事なプレゼンも近い。
そうやって私は、無理やり気持ちを切り替えようとしていた。
寝室のベットは使う気になれずソファで数時間眠っていつものように出勤した。