第二三話
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第二三話
❝南の島❞と言う言葉には何処か❝楽園❞の姿が透けて見える様に思えます、白い砂浜と蒼い海、風に揺れる椰子の木と咲き乱れる花々、そしてたわわに実る果実。それは今日においても❝南の島❞をイメージする文言では無いでしょうか?それに私などは子供の頃に読んだ『冒険ダン吉』なんかの影響も有って余計にそんなイメージを膨らましていた気がするのです。確かに沖縄や台湾、トラック諸島の島々などはそんな感じでしたが、その時私達が送り込まれたそこは❝地獄❞と呼ぶ他にない戦場でした。
私は昭和十七年(一九四二年)十一月十七日に上陸に成功した第三八師団の一員としてその地獄、ガダルカナル島に降り立ったのです。
当時、ガダルカナル島周辺のソロモン海では三度目になる夜戦が行われ、戦艦「八坂」(装甲巡洋艦を陸軍兵は戦艦と思っていた。)が体を張って敵を防いでくれる間に私達第三八師団約一万は無事に上陸することが出来たのです、八隻の輸送船に分乗した私達陸兵が大発で上陸すると、帰りは傷病兵を満載してそれは帰って行きました。予定されていた資材や弾薬、食料や燃料などを急ぎ荷揚げすると輸送船達は先ほどの傷病兵達をを載せて帰って行きました。
二度に渡る総攻撃に失敗し消耗していた第二師団に代わって敵基地攻略を担うことと成った私達でしたが、南の島の想像以上に過酷な環境と精強な敵軍により瞬く間に戦力消耗していったのです。
「記録 ガダルカナル島戦記 ある兵士の証言より。」
第二挺身隊が目的地であるタサファロング沖に到着したのは、第一挺身隊本隊艦砲射撃隊がヘンダーソン飛行場基地への攻撃を開始したのと相前後した頃だと主な資料には記載されている。
タサファロング沖に達した艦隊(実際には主に輸送船で編成されてた船団と呼ぶべきだろう。)は、ここで速度を落として停泊の準備に入る。
対する島側の状況はどうであっただろうか?当然だがこの段階では受け入れ準備はされていない。逆に海側へ向けることが可能な火器は全て海岸へ近付きつつある船団へ向かられ等臨戦態勢を整えている状態だ。
やがて先頭を行く艦より発光信号が送られる、島側ではその内容、符丁が正式なものであるか等を確認して応答の信号を送り臨戦態勢を解いた。
そして、海岸では用意された無数とも言える篝火に火が放たれた。
海岸に沿って灯されるそれは、輸送船団より海岸へ向かう大小の上陸用艇が接岸するための目印として灯された物であった。
停泊場所が確認されると輸送艦や輸送船、その他の艦の内、護衛任務の巡洋艦と駆逐艦を除いく各艦は投錨して完全に行足を止めた。
第二挺身隊の中核を成す輸送船団は九隻、海軍より水上機母艦の「千代田」「日進」と高速輸送艦「吾妻山丸」他二隻の計五隻、陸軍より「摩耶山丸」「玉津丸」「吉備津丸」のM甲型特種船三隻と通常の輸送船一隻が参加していた。
このM甲型特種船は、陸軍が独自に開発した敵前上陸用の強襲揚陸艦の元祖でもある「神州丸」「あきつ丸」の建造の経験から発展改良された量産型の揚陸艦(上陸用舟艇母艦)であった。
この一連の揚陸艦の構造上の最大の特徴は艦内に設けられた巨大な全通式の格納甲板でここに大小計六十隻近い搭載艇を格納運用できた、そしてこの搭載艇を外洋で迅速に発進させる為に船尾に巨大な扉が設けられ、格納庫の全通甲板の末尾をスロープ上の構造とし船体後部のバラストタンクへ注水することでそのスロープより搭載艇が直接海面に降りられる構造と成っていたになっていた。
こうした構造は泛水構造もしくは泛水機能とも呼ばれ、今日のドック型揚陸艦の同様の構造を見ることが出来る、但し今日のドック型揚陸艦の泛水構造は単純なスロープ式(一般にはスリップ・ウェイ方式と呼ばれる)ではなく艦内に海水を引き込み上陸用舟艇を海面に浮かべてから発進させるウェル・ドック方式が標準となっているので運用上の違いは有るもののこの一連の特種船が今日のドック型揚陸艦の先駆的存在と評しても間違いは無かろう。
加えて「神州丸」「あきつ丸」「熊野丸」は航空機運用能力も持っていたので今日で言うところの強襲揚陸艦の元祖とも言うことが出来た。
もっとも「神州丸」にはカタパルトによる射出能力のみが有って帰還能力は備えられていないなど限定的な能力であった、これに対して全通平甲板構造の「あきつ丸」と「熊野丸」も当初は着艦設備は持っていなかったが大戦末期には対潜哨戒機を運用するために着艦設備が追加されている。
なお甲型特種船は外見からその運用目的を知られることを防ぐために一般的な商船の外観をしている。
これに対して海軍がこの作戦に投入したのは水上機母艦である「千歳」型二番艦の「千代田」と準同艦の「日進」であった。
この二艦の特徴は何と言っても船体の上甲板の半分以上が水上機の搭載スペースとされていたことと海面や陸地への上げ下ろしの設備も充実していることであった。このため過去にもガダルカナル島への輸送任務にその特徴は活用されており今回も甲板上には水上偵察機ではなく大小発動艇各種が多数搭載されていた、そして何よりも二九ノットの高速と対空戦闘能力を持ち防御力も(商船に比べてだが)高い等今回の作戦にうってつけ艦であるとされていた。
尚「千代田」は第二挺身隊の旗艦も努めていた。
やがて投錨から各艦船が停止すると、一斉に搭載艇が海面に降ろされた。そうなると発進の早いのは陸軍の特種船である、船尾を少し沈め船尾ハッチ(泛水扉とも言う)が開け放たれると素早く搭載艇である大発(大発動艇)が滑り降りて来て発進してゆく。
向かう先はタサファロングの海岸に灯された篝火の下である、しかし、不思議なのは各艦船が降ろした大発、小発(小発動艇)の各艇には僅かな人間が乗っているか若しくは空の状態であることであった。
先頭の大発が海岸に乗り上げ艇首の道板が倒されると、岸に控えていた一群の兵士たちがそれを登って艇内へ乗り込んだ。彼らの多くは包帯で巻かれた身体を即席の担架に載せられた負傷兵もしくはマラリア等を患った罹病兵であった。
そうした傷病兵を載せた大発は急ぎ岸を離れると艇首を巡らせて特種船へ向かった、そこには彼らを受け入れる準備が成されていたのだ。
そうした傷病兵の搬送が済んで戻ってくる大発や小発にも兵士の姿はなかった、やがて、そうした緊急性の高い者達の輸送が済むと次に控えていたのは完全武装の兵士たちであった、彼らは隊ごとに海岸に整列し順番が来ると無言のまま大発や小発に乗り込んでいった。
載せられたのは兵士だけではない、残りも少なくなっていた歩兵砲や移動可能な重砲も順番を待って大発に載せれていった。
確か十二月に入った頃からだと思います、妙な噂が流れたのです。それは「内地に帰れるかもしれない。」と言った内容で、「何時」や「何故」等の説明は無いものでした。
この話を聞いた私達は敵の調略の危険も考えてそれ極力話題にしないように努めましたが、その噂は瞬く間に広がったようです。それと同時に二十日以降に総攻撃が決行されるとの噂もあって、この後自分がどうなるか想像がつかない日々も続いたのです。しかし、十二月二十日になると伝令により「二三日夕刻までにタサファロング海岸近くの終結地点へ移動せよ。」との命令を受けることに成りました、理由は戦力の再編成とされていましたが予想外の命令に戸惑いながらの移動の準備を始めたのです。
「記録 ガダルカナル島戦記 ある兵士の証言より。」
私達、野戦重砲兵第七連隊第二中隊は、ガダルカナル島へ八門の九二式十糎加農砲と供に投入されていました。最初は唯一上陸に成功したジッカ(十加)二門で散発的なゲリラ的攻撃を行っていました、徹底した偽装を行い慎重に配置転換行っていたおかげで敵に見つかること無く嫌がらせ程度でしたが敵の滑走路への継続的な攻撃をすることが出来ました、その後、第三次ソロモン海戦等の隙に六門のジッカの揚陸に成功し弾薬も補充されたことで敵の砲兵陣地などへ砲撃も可能と成り、組織的な攻撃も可能と成ったことから以後の攻撃の重要な戦力になれたと思い次の総攻撃でその力を発揮するべく準備を整えていたのです。しかし、我々に届いた命令は耳を疑う内容でした。伝令兵から口頭で伝えられた命令は次のようなものでした。
「野戦重砲兵第七連隊第二中隊は、備砲を二門を残して二四日夕刻までにタサファロング海岸まで移動せよ。」
不思議な命令ですが、命令は命令です、直ちに実効の準備に入ったのですが、拙いことに最初に陸揚げされた二門は射程を伸ばすために強装薬である一号装薬を長期間に渡って使用してきていた為に薬室にクラックが入るなど強度の限界に来ておりそう長い期間は使用できないことが予想できる状態でした。そこでその二門と供に比較的損耗の激しい砲を残置することとし他の四門を移動させることとしました、中隊に備えられた九二式五屯牽引車を動員して移動準備を開始すると、残された二門はテ号作戦の開始と共に航空攻撃に合わせた飛行場攻撃や艦砲の撃ち漏らした敵重砲陣地等へ残存する砲弾を撃ち尽くす勢いで砲撃を開始、部隊の移動を気取られない様にした後、尾栓と照準器を取り外して破壊、砲本隊も爆破して敵の鹵獲を妨げると砲兵各員も終結地点へ移動したのです。
「記録 ガダルカナル島戦記 ある砲兵の証言より。」
第三次ソロモン海戦において戦艦「霧島」「比叡」装甲巡洋艦「八坂」の犠牲と引き換えに成された兵員と物資の揚陸と傷病兵の引き上げにより一時的に戦力の立て直しに成功した帝国陸軍は、以後タサファロングと飛行場の有るルンガの中間地点であるマタニカウ川に沿って監視哨とトーチカを設置して米軍勢力の西進を阻んでいた。
余談ではあるがこの時引き上げられた傷病兵の中に大本営参謀本部で「作戦の神様」の異名を持つT中佐と言う英才がいた、彼はガダルカナル島の戦いに第二次総攻撃を支援する名目で参謀本部より現地へ派遣されていたが、現場の状況や実情、兵員の心情を無視して現場の指揮官の頭越しに強硬に作戦を実行し七〇〇名超える戦死者行方不明者を出す要因を作った人物であった。加えて作戦の失敗後に原因は現場指揮官に有るとして自分の責任を認めず独善、独断専行の批判を受けていた、彼は第二次総攻撃の後、現場視察(事実上の督戦)の為に前線陣地を訪れたところを米海兵隊の狙撃兵に狙撃されて後頭部の戦傷を負っている。
重症を負ったものの一命を取り留めた事を聞いた兵が、『下手くそめ、なんで一発で仕留めれなかったのだ!』と米兵に文句を言ったことから彼が現場の兵にどう思われていたかが窺い知れる。
しかしながら、飛行場奪還作戦に固執してきた勢力の中心人物であるT中佐の退場は、当時陸軍参謀本部や海軍軍令部において主流となりつつあったガダルカナル島からの撤退を画策する勢力を勢い付かせる事となりテ号作戦の実施が決定する運びとなったのである。
読者諸兄もここに至ればお気づきかと思うが、「テ号作戦」の「テ」とは当時皆が考えていた「徹底抗戦」の「テ」では無く「撤退」或いは「転進」の「テ」を意味していたのだ。
テ号作戦は実際には、ガダルカナル島攻撃隊約二万の将兵を米軍勢力圏外へ撤退させる為の作戦であった。
これまで陸海軍ともにガダルカナル島からの撤退を想定した作戦を立案していたので、その後陸海軍の間ですり合わせが済めば、テ号作戦の実施は比較的短時間で実施に移せた。
しかし、そのままではソロモン諸島に米軍の有力な航空基地を放置することになり、そこを基点にラバウルやトラック諸島の安全が脅かされる結果が予測された。
加えて何よりも撤退作戦における制空権の確保と言う見地からも敵基地の無力化が求められた、そこで行われたのが前回のヘンダーソン飛行場基地砲撃をはるかに上回る「大和」を含む戦艦三隻を基地砲撃に投入する作戦を、大規模な航空攻撃と併用して同時進行で行い徹底的に破棄しつくす事となったわけである。
対する米軍側は、このテ号作戦の発動そのものは察知していたがその目的までは気づかず新たなる大攻勢の前兆として一連の軍事行動を認識しいた。その結果、ガダルカナル島へは陸軍と海兵隊の兵員が合わせて約5万まで増員と航空機が戦闘機と陸上爆撃機合わせて九十機まで増援され戦力の拡充が図られていた。
当時日本軍は陸海空それぞれで攻勢の勢いが弱まっており、この備えで日本軍の攻勢は余裕を持って弾き返せるはずであったと言われている。
しかし、日本側は米軍の想定を遥かに上回る最新鋭戦艦の「大和」まで投入した戦艦部隊でヘンダーソン飛行場基地を粉砕しにきたのだ。
ガダルカナル島に於ける戦いは、上陸当初より我々(米軍)の想定していたシナリオとは異なるものであった。確かに12月25日〜26日の日本軍撤退を根拠にこの島を巡る戦いが我が軍の勝利でもって集結したと評価は多い。
確かに我が軍おいてニューカレドニア諸島から南太平洋最大の拠点であるオーストラリアへと繋ぐ補給路を脅かすガダルカナル島の日本軍による基地化は阻止することには成功し、さらに多くの兵と物資、艦船や航空機を消耗させることにも成功した。これは何れも国力の小さな日本にとって後々戦争遂行の足枷とすることが出来る要素である。
しかし、我が軍とってはどうであろうか?
上陸当初こそ奇襲となったため損失は最小限で飛行場の占領と言う目標は達成する事が出来た。
だが上陸と同時に行われるはずだった輸送船団からの物資の揚陸が第62任務部隊の我が身を犠牲にして(米豪計五隻の巡洋艦が撃沈ものしくは大破となっている)時間を稼いだのにも係わらず、揚陸途中で四隻の輸送船が敵の雷撃で沈められたことから作業を途中で断念、退避してしまったためその後同島では常時物資が欠乏することと成った。
更に、その後に反撃に出た日本軍(同島守備隊の残存兵力)が己の全滅と引き換えに自らが残した物資を焼失させた事でそれ以降食料と弾薬の不足は危機的となり貴重な空輸能力をそれらに割り振る結果となり同島を支配下に置くために必要以上の兵と物資そして時間が消耗させられることと成ったのである。
(余談であるが戦後の調査で、この時の雷撃がサボ島沖で行われていた海戦で日本軍が放った酸素魚雷の不運な流れ弾であったことが判明している、また不運は重なるもので沈められた四隻の内二隻には食料が一隻には弾薬がもう一隻には航空機用の燃料が積まれておりこれが失われたことから、たとえ船団が退避しなくてもその後の逼迫した状況に大きな変化は無かったとの推測も出されている。)
確かに12月26日未明よりガダルカナル島より完全に日本兵の姿は消えた、これは同島が我が軍のモノと成ったことを示していた。
だがそれと同時に嘗てその島にあった筈の軍事的価値は喪失していた。
各2本滑走路を有する飛行場は新旧とも、いや既に造成中であった第3飛行場までもがそこへ配備されていた百機を超える航空機と供に敵戦艦の艦砲射撃により完全に粉砕され焼き尽くされた、残るのは大量の瓦礫と大小無数のクレーターのみであった。
それだけでは無い、それに先立つ航空攻撃と艦砲射撃により基地周辺に配置されていた重砲陣地や僅かながらも整備されていたレッドビーチの港湾設備、ジャングルに隠されていた高オクタン価の航空機燃料もまでも同様に破壊され業火に焼かれて無に帰していた。
それは、これまで日本軍が再占領後考えて敢えて攻撃対象から外していた基地施設や発電所なども例外では無く、前日の航空攻撃を含めて徹底的に破壊され、そこに居た(正確にはその周辺のシェルターに居た)基地守備隊司令部の要員は司令官のバンデクリフト海兵少将共々粉砕され埋没して終わっている。
我々はこの海域に於ける最大であり今後の反攻の拠点と成るはずであった基地は一夜にして消え去ったのだ。
破壊されたのは基地設備だけでは無い、当時そこに居合わせて幸運にも生き延びた将兵の心も微塵に砕かれ多くが今日で言うところのPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患うこととなり以後戦力となりえない結果を生むこととなった。
ここにヘンダーソン飛行場基地はその存在が名実共に失われたのである。
日本軍の地上部隊が攻勢に出てきたのは25日の夕刻だったと記憶しています、分隊の誰かが「チェッ!クリスマスのディナーが台無しだぜ。」とぼやいたのが面白くて皆で大笑いしたので印象深く覚えていました。
私達は飛行場の北側、ルンガ岬の海岸に近いところに砲兵陣地を築きM2A1105ミリ榴弾砲を設置し、ここから支援の要請に従って敵目標を砲撃していたのです。
それは毎日の事で、特にピストル・ピートと渾名された敵の重砲を潰すために、要請により敵が潜んでいる思われる地点を幾度と無く砲撃したのですが、仕留める事は出来なかったようです。
そしてその日は様子が違っていました、いつもは弾丸を節約するためか然程多くの銃弾を撃っては来ないのが通例だったのに、この日に日が沈むと同時に積極的にこちらの陣地に銃撃を加えてきている様子でした。
この日は敵機による地上攻撃を激しく、多くの砲兵陣地もその攻撃対象と成り相当数の重砲と砲兵が犠牲と成っていました、私達の砲も偽装が間に合っていなかったら同じように破壊されていたかも知れません。少なくなった105ミリ榴弾砲が見方の支援要請に応えて砲撃を行いました、勿論我々もです、途中、サボ島沖に日本艦隊が現れたが味方が基地砲撃を阻止しているとの情報が入りましたが私達はたいして気にすることもなく砲撃を続けていました。
そして時間が25日の23時を過ぎた当たりだったと思います、突然回りが昼間のように軽く成ったのです。
それは敵の偵察機が落とした吊光弾でした。
その明かりがユックリと降下し飛行場の方へ落下してゆきました。突然海岸の遥か彼方で轟音がしました、続いて何か空を切り裂くような音がして飛行場周辺に幾つもの火柱が立ち上がりました。
敵の砲撃が始まったのです。
誰かが「シェルターへ逃げろと!」と叫んで走り出しました。砲兵陣地の分隊の数名がそれに続きますが私は砲兵陣地の西を流れるルンガ川の岸近くのジャングルへ逃げ込むことにしました。後ろを振り向くと数名が私の後に続いています。私達は標的である飛行場の滑走路を迂回し時には地面に這いつくばりながら砲撃を避けてジャンルへと逃げ込んだのです。
そこでやっと飛行場の方へ振り向くと、敵は通常の砲弾だけではなく焼夷砲弾を混ぜて使っているらしく当たり一面は火の海となっていました。私達はジャングルの中で蹲って砲撃が止み火が消えるのを震えながら待っていました。
敵の砲撃は日付が変わって暫くしてから止みましたが火の手は26日の未明まで燻っていました。やっと以前の砲兵陣地と思われる場所へ戻ると私達の砲は僅かに台座を残して綺麗に吹き飛ばされていました。呆れた思いで回りを見渡すと周囲は瓦礫と巨大なクレーターで埋め尽くされ、昨日まで我が軍でも有力な戦力が存在した痕跡は跡形もなく無くなっていました。2万人を数えていた筈の陸軍と海兵隊の将兵の内、この時点で生き残っていたは5千名足らず、半数がこの機に乗じて攻勢に出てくる敵軍に備えてジャングル内の陣地で臨戦態勢を執っていましたが、何れも士気は低く夜に成っても睡眠が取れない、寝むれない者が続出していたのです、無論私も同様でした。やがて敵の攻勢くとも消耗し憔悴しきったまま我々生存者は救援が来るまでの3日間をこの地獄の島で震えながら待つことと成ったのです。
「兵士たちの記録 地獄の島ガダルカナル より」
テ号作戦に参加した各艦は明朝までにショートランド泊地まで帰還、第一挺身隊の前衛警戒隊において駆逐艦二隻が撃沈され残り三隻も中破の損害を受けたが全体を見れば成功の内の終了し歓喜することが出来た。そして無事の帰還と作戦の成功に湧くテ号作戦参加の各艦上や日本軍の基地とは対照的に同時刻、私(檜山)はショートランド泊地に停泊する病院船のベットの中で生死の境を彷徨っていたのです。
時間が掛かってしまいましたが、これでテ号作戦は終了です、途中で作戦の意図に気付かれた方はいらっしゃいますか?
もう少しで天魔も完結です、あと少しお付き合い下さい。
ここまで読んで頂きありがとうございました。誤字脱字がありましたら感想で構いませんのでお知らせ頂くと助かります。もちろん感想も大歓迎です。




