第二二話
いよいよテ一号作戦の大詰めです。
第二二話
前衛警戒隊が米海軍第68任務部隊と死闘を繰り広げいていた昭和十七年(一九四二年十二月二五日二三時〇〇分、先にラッセル島沖にて警戒隊と別れた挺身隊本隊もガダルカナル島ヘンダーソン飛行場基地攻撃の最終段階に入っていた。
ガダルカナル島エスペランス岬沖から艦隊速度を原速(12kt)にて東進、タサファロング沖に到達した本隊の十隻はココで対潜警戒のための第一警戒航行序列から、艦砲射撃のための三つの単縦陣からなる複縦陣に陣形を変更している。
この段階でエスペランス岬、タサファロング岬、クルツ岬の三ヵ所には前回同様に海軍陸戦隊により篝火が設置されており艦隊が該当海域に進入したのを確認して灯されている。
この篝火は艦隊の位置確認用の灯火で、これを基準に三角測量を行って飛行場の位置を正確に割り出すことと成っていた。
加えて挺身隊司令部の要請により観測班が事前にガダルカナル島へ上陸、目標至近の偽装された観測点に於いて逐次着弾修正指示を行い、より作戦遂行に完全を期す為の条件を整えていたのである。
そして更に、この地上の観測員以外にもこ空からも着弾支援を行う準備が成されていた。
この灯火の点灯及び位置を確認すると同時に艦隊は速度を第一戦速(18kt)へ増速、やがて先頭を行く「大和」より搭載機がカタパルトによって射出された。
「大和」だけではない、後続の「金剛」「榛名」の二隻も「大和」に続いて搭載していた観測機を射出している。
射出されたのは零式観測機であった。
零式観測機は三菱が開発した単発複座単フロートの水上機で、最大の特徴は全金属単葉機全盛のこの時代に旧態依然な複葉機として開発されていたことに有る。
この我が海軍が最後に採用した複葉機は、字面だけを追えば確かに旧式機としか言えないものであるが、実物はその様な評価を一蹴するほどの衝撃的な容姿と性能を誇っていた。
まずはこの零式観測機が何を目的に開発されたかを説明しておく必要が有る。
本機の機種名である〈観測機〉の観測とは何か?それは主砲射撃時の着弾観測である。したがって観測機は敵の艦隊若しくは陣地の上空に張り付いている必要が有る。
しかし、敵にはこちらに好きなように着弾観測をさせる理由はない、上空の邪魔な観測機は実力で持って排除される事に成るだろう。多くの場合は戦闘機が観測機排除の主力と成るのは自明の理である。
そうした理由から観測機には任務を阻もうとする敵機の攻撃を避けながら、或いは場合によっては実力で敵機を排除しつつ着弾観測を行える空戦性能が求められていた。
そして、更にハードルは高くなるのだが、この観測機は空母以外から運用する関係上、必然的に水上機に成る、となればフロートの空気抵抗から速度性能は期待することができない、そこで三菱の設計陣が考えたのは究極の旋回性能をその観測機に持たせることで敵戦闘機の攻撃に対応させる事だった。
つまり、この時代錯誤とも言える複葉機と言う姿はそれを実現させる為の施策であった。
二枚の主翼を持つ複葉機と言うデザインは、同じサイズの一枚の主翼を持つ単葉機に比べて倍の翼面積を持つことに成る、つまり複葉機は同一重量と仮定した場合、半分の翼面荷重を持つ機体と成る訳で、三菱の設計陣が目を着けたのはこの点で有った。
この小さな翼面荷重を利用とした優れた旋回性能を持つ機体、これにより敵戦闘機を翻弄する観測機、それが零式観測機であった。
また、この複葉機である機体構成と主翼構造によりコンパクトに折り畳んで格納出来ることは、限られた空間に収容しなければ成らない搭載機にとっても大きな意味があることであった。
しかしながら、零式観測機が水上機である以上、フロートによる空力的ハンディキャップを持つことになる、従って限界に近い空力的考慮がその機体の設計には成されていた。
フローと機体は極めて考慮されたスムーズなラインで構成されておりひと目で抵抗が少ない事が窺い知れた、特に機体は全金属製のセミ・モノコック構造で見るからに抵抗が少ない美しい紡錘形状をしている。その他、複葉機に付き物の上下主翼を繋ぐ支柱や張り線は極力省かれていてこれが空気抵抗削減に大きな効果をもたらしていた。
その結果、三菱製の新型エンジン「瑞星」(800hp)を搭載した試作機(二号機)は最高速度370km/h、高度5000mまで9分と高性能ぶりを発揮、1940年(昭和15年)12月に、「零式一号観測機一型」として採用された、この名称は後に零式観測機一一型と改称されている。
武装は機首に7.7ミリ機銃二門、後部に7.7ミリ旋回機銃一門、60kg爆弾二発であった。
第一挺身隊艦砲射撃隊は第一戦速のまま、旗艦「大和」を先頭に各艦間距離一〇〇〇メートルの単縦陣でルンガ沖に進入、前回同様に岸からの距離二万メートルを保って東進しながら交互撃ちにて艦砲射撃を開始した。
ヘンダーソン飛行場基地を砲撃するのは艦砲射撃隊の「大和」「金剛」「榛名」の三隻であった、この三隻の戦艦を護るのは、乙型駆逐艦の「照月」を旗艦とした第二水雷戦隊の計七隻(「長波」「江風」「涼風」「巻波」「荒潮」「親潮」)であった。
艦砲射撃隊の指揮を執るのは、第七戦隊指令の西村祥治少将であったが、当初帝国海軍最大の戦艦を含む大艦隊の指揮を中将への昇進間近とはいえ少将に執らせることに反対が多かったと言われている。
確かに先のヘンダーソン飛行場基地砲撃作戦の指揮を執ったのは栗田健男中将であったし、第三次ソロモン海戦時の指揮官であった阿部弘毅、近藤信竹の両名も当時中将であった、この事実を盾に今回の西村少将の起用に反対意見は出されたと言われているが、西田少将を押した山本大将は、特設の戦隊である挺身隊の指揮官と言うことで押し通したが、実際には先のソロモンを廻る戦いでの指揮に不満を抱いていた表れとも言われてる。
当の西村少将については、戦後にアメリカ側の評価の影響で「無能」の烙印を押されていたが、その後の戦史研究や同僚や元部下たちの証言により「慎重で緻密な戦いをする智将」「過去の敗因から学ぶことが出来る武人」と評価が翻されている。
その上で彼は「軍人は上からの命令に忠実であるべき。」との教えを実行している。それ故に勝ち目がないどころか確実に殲滅されるであろう状況下でも敢えて反抗せず作戦に従った、そう言った人物でもあります。
結局西村中将が率いる艦隊はレイテ湾の入り口であるスリガオ海峡で米艦隊の待ち伏せを受け一方的な敗北を喫しますが、西村中将は自分の乗る「山城」を盾にして「扶桑」を敵艦隊至近に殴り込ませ米指揮官・オルデンドルフ中将の座乗するルイスビルを大破させ一矢報いる事に成功している。
また米国においても、こうした実績が知られるに従って戦士研究家の中には米海軍のウイリアム・A・リー大将に匹敵する航空主戦時代の新しい砲術士官と評する者も出ている、その切欠はこのテ号作戦に依るヘンダーソン飛行場基地砲撃の徹底さと手並みの鮮やかさから来ているとも言われている。
当時、連合艦隊の象徴とも言える偉大なる戦艦「大和」を砲艦の様に陸地の固定目標砲撃に使うことに対する心理的精神的な抵抗感が強く作戦に消極的な指揮官が多い中、使えるものは有効に使って戦果を上げることに躊躇しない西村提督の姿勢はある意味、米国でも時期尚早と忌避されたレーダー射撃に積極的に取り組んだ米リー提督との類似性は有りこの評は正鵠を射ていると言えるだろう。
エスペランス岬に達し、灯火の点灯を確認した挺身隊本隊艦砲射撃隊はここで砲撃準備に移る、駆逐艦の内、旗艦の「照月」ほか二隻は本隊の南、ツラギ側に位置して米艦隊の不意の来襲に備え、残りの駆逐艦三隻は本隊の前面に出て進路啓開を行った。先に警戒隊より敵艦隊と交戦中との電文が入っていたが慎重を期すために警戒は怠ることは出来なかった。
やがてエスペランス岬、タサファロング岬、クルツ岬の三つの篝火が確認され現在位置が特定され、三隻の戦艦は進路を修正、射撃進路に乗って攻撃準備の最終段階へと入っていく。
この日は満月より二日ほど過ぎた未だ月の明るい夜であったが、前述のように低い雲が立ち込めて闇夜と成っていた。
その闇の空の中に突如として眩い火球が一つ出現した、これは「大和」から発進した零式観測機が投下した吊光弾だった、砲撃の基点と成るポイントへ投下されたそれはユックリと光を放ちながら降下した。激戦中の警戒隊の旗艦「八咫」の秋山少将や米第68任務部隊のメリル少将が見た火球はこの吊光弾であった。
艦の正確な位置の測定、目標の確認と相対位置の確認が済めば砲撃準備は完了であった。各艦の主砲、副砲には対地攻撃用の三式弾が装填されており発射の命令を待つだけとなっていた。
この時、挺身隊指揮官の西村少将は旗艦「大和」の第二艦橋に居た、俗に「サルの腰掛」と呼ばれる艦橋備え付けの椅子に座って状況報告を聞いていた少将は、一度頷くとまるで気負うことなく次のように語ったと言われている。
「よろしい、では始めよう。」
昭和十七年(一九四二年)十二月二六日〇時〇〇分、西岡少将の命令は素早く各艦へ伝えられ各艦の艦長より砲術長へと伝達された。
「交互撃ち方始め!」
照準を済ませ、装填を完了していた各艦の主砲群は既に目標を指向、その命令で第一砲塔の一番砲が火を吹いた。それは第二砲塔から三番砲塔へと一番砲の発砲が続き、続いて各砲塔の二番砲の射撃が始まる、これは後続する「金剛」「榛名」も同様でこちらは二連装砲なので各砲塔の一番砲、二番砲と射撃が行われる。
試射の結果、各艦各砲の照準が修正されやがて満足いく結果が出たところで一斉射撃が始まる。標的のガダルカナル島ヘンダーソン飛行場基地の詳細地図には細かく細分化された升目が引かれそれぞれ担当する艦に割り当てられて、各艦はその升目を塗るつぶす要領で砲撃の照準を定めて艦砲射撃を行ってゆく。
最初の一航過目の四〇分では主に三式弾を使って地上に残った敵施設を中心に徹底的に破壊してゆく。一斉射撃開始より以降三隻の戦艦の二五門の主砲はほぼ一分間に一発の間隔で砲撃が行われその着弾結果が地図上に記されてゆく、地上は常時どれかの砲の砲弾が炸裂する状態となり既に間接射撃の照準修正も必要ないぐらいに地上を火の海にしていた。
やがて一航過目の艦砲射撃が終わり艦隊は一度砲撃を中断、左に舵を切って反転、反航進路で再び射撃を開始した。
今度も最初は交互撃ちによる観測射撃から始まり射撃照準が修正されると再び一斉射撃に移った、今回発射する弾種は敵の装甲を撃ち抜く為の徹甲弾である一式徹甲弾であった。
一式徹甲弾はこれまで使用してきた九一式徹甲弾が先の六式徹甲弾を、風帽の延長と砲弾尾部の形状変更により空力的改善を図り更に水中弾効果を狙った物であったのに対し、被帽(風帽の下に装着)の取り付け方の変更と着色剤を封入して着弾観測を容易にしたりと使い勝手の改善が成された物であった。
そしてこの一式徹甲弾と併用するように使用されたのが零式通常弾であった。零式通常弾は時計式の時限信管付き対空用榴弾で三式弾と違い一式徹甲弾等と同じ弾道で飛翔し炸薬量が多いためその破片効果も強力であった。
二航過目はこの二種類の砲弾を混ぜながら砲撃を加えてヘンダーソン飛行場基地とその周辺、更に奥地の米軍陣地までその砲撃目標として砲撃を加えた。
前回は敵の第二滑走路を事前の偵察で見落としたことから結果的に砲撃の効果が薄れてしまう事と成ったが、今回は先の航空攻撃に合わせて度重なる写真偵察を実施、日時を変え高度も変えて複数回基地周辺の写真を基に敵基地の状況分析が行われて怪しい建物や施設は全て攻撃対象として攻撃作戦用の地図にその位置を書き加えられていた、さらに二五日の最後の攻撃の後にも航空偵察が行われてその写真は挺身隊がショートランド泊地近海を通過した際に通信筒に入れられて「大和」艦上に投下され、戦隊の情報士官の手で分析が行われていた。
挺身隊艦砲射撃隊がルンガ沖を一往復する間に打ち込んだ砲弾は各種合わせて約二千発であった(資料によりバラつき有り)。多くの砲術士官に言わせれば、本来は相対速度で30ktを超える相手を補足する術として訓練を積んできた訳であり、その彼らにすれば夜間とはいえ動かない陸上基地への砲撃は何の手柄にもならないような容易な事案なのだと言う。
勿論、攻撃に使用されたのは主砲だけではない、「大和」の15.5センチ三連装副砲や「金剛」「榛名」の15.2センチ単装副砲も主砲の攻撃に合わせて砲撃を行っている。更に艦砲射撃隊の護衛として同航し進路啓開任務を行っていた駆逐艦三隻も同航しながら敵基地への砲撃を行っている。駆逐艦の主砲は12.7センチと海軍の標準から考えると小口径砲であるが、陸軍であるなら重加農砲に匹敵する存在と成る。当然その射程距離は短い事に成る、それ故に攻撃目標は海岸付近のモノに成る、港湾施設や海岸線の重砲陣地などがその対象だ、実際には昼間の爆撃で港湾施設も大半が損傷していたが、今回はその止めを刺す形に成った。
戦艦三隻による艦砲射撃の効果は予想以上であった、前回の砲撃において使用された「金剛」型戦艦の主砲は四五口径35.6センチ砲で、これが一六門使用されたが今回はこれに加えて「大和」型が持つ四五口径四六センチ砲九門が投入された、この結果、砲撃隊がルンガ沖を一往復する間の砲撃でヘンダーソン飛行場基地を中心とした10km四方は完全な焼け野原となり、この段階でそこに飛行場と基地が有った痕跡は完全に消され、地図から完全にその存在が消される事と成っていた。
二六日一時三五分、旗艦「大和」の第二艦橋から麾下か全艦に「撃ち方、止め。」が発令され全艦が焼き付いた砲身の仰角を解いた。
挺身隊本隊は攻撃態勢から警戒態勢へと移行、北上して米第68任務部隊を蹴散らした警戒隊と合流するとそのままサボ島沖の北水道を通ってタサファロング沖へ向かった。
テ一号作戦はここに終演を迎えた。
しかし、テ号作戦そのものは終わってはいなかった、テ一号作戦が終局を迎えるのに先立つ一時間前、一群の艦船がタサファロング沖に姿を表した。
それはテ号作戦と言う大スペクタクルのトリを飾る第二挺身隊が、ガダルカナル島と言う名の死闘の舞台に入場したことを示していた。
テ号作戦の第二幕の開演である。
テ号作戦編(?)ももう一話で終結です、何か最近は海魔だか天魔だかわからなく成っています><
ここまでお付き合い頂き、ありがとうございます。あと少しで完結ですもう少しお付き合いお願いします。
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