彼女は無表情に微笑む
私の中には何もなかった。
既に人としての心は死んでいる。いや、そもそもそんなもの産まれてすらいなかったのかもしれない。
私には感情と言うものが存在しなかった。
母親に言われるがままに生きてきた。ちゃんとご飯を食べなさいと言われれば、味もしない食べ物を口の奥に流し込んだ。部屋にばかり居ないで外で遊んできなさいと言われたら、体が動かなくなるまで走り回り続けた。 たまには勉強をしなさいと言われたら、父親が持っている本を全部読み切った。学校の教科書に載っている事は一通り覚えた後だった。
周りの大人たちは天才だの神童だの言われたが私には興味が無かった。
私はただ誰かの言う事を聞くだけだった。それがものわかりのいい子だと思われていたのだろうか。
小学校二年生の頃、私の事を妬んだらしい同級生に私の教科書を川に投げ捨てられたり、暴力をふるわれたりといじめられる事があった。
しかし、教科書は内容を覚えた後だからもう必要はないし、暴力をふるわれた所で私はそもそも痛みなんて感じてはいなかった。私は抵抗もせずに、ただ同級生の行動を見ていた。数日は面白がって私の周りで騒いでいたが、何日かすると徐々につまらなそうになりはじめて、最後には気味が悪いと言って近寄ってくることすらなくなった。
学校では友達と呼べる人はいなかった。クラス替えがあったりすると最初は近くの席の子が話しかけてきたりするのだが、日が経つにつれて次第に話しかけてくる回数は減り、一度席替えが行われるとその子たちが話しかけてくるという事はなくなった。
いつのまにか私は関わらない方がいい人という噂が流れるようになった。私としては周りに人がいてもいなくても構わないのでそのまま友達のいない小学校生活を送った。
中学生になり周りの人が総変わりすると、小学校の時の噂もなくなって、また席の近い子達が話しかけてきたが、そのほとんどが何週間か経つと話しかけようとはしてこなくなった。いつも通りの事だ。不満でもないし、満足でもない。しかし、ただ一人何週間経っても話しかけてくるのをやめない子がいた。名前を鎌井瀬和と言った。
「ねえねえ木梨さん。木梨さんって言う何だかよそよそしいし、神奈ちゃんって呼んでもいい?」
「鎌井さんの好きにすればいい」
「いやっほー! これで神奈ちゃんと親密度アップ!? あ、私の事は瀬和って呼んでいいからね」
「わかった」
瀬和は他の子とは違い一ヶ月が過ぎても私と一緒にいようとした。
しかし、私は特別興味が無かった。私から瀬和に話しかけることはなく、瀬和が近寄ってきて話しかけてきたらそれに対応するだけだった。
いつも一人だった私の周りに人がいると言うだけで母親は「中学校に入ってお友達ができたのね」なんて嬉しがっていた。
この日もいつも通り下校しようとすると瀬和がついてきた。
相変わらず瀬和は饒舌だ。この子なら壁に向かってでも延々と会話ができる気がする。
「世の中って不公平だよねー。私も神奈ちゃんみたいに頭もよくて、可愛い子になりたかったよー」
「そう、残念だったね」
「そうだそうだ、前から思ってたんだけど神奈ちゃんってなんで笑わないの? いや、無表情なのもお人形さんみたいで可愛いんだけどね。笑った方が絶対可愛いと思うよ!」
「特に理由はないけど。笑えって言うなら笑うよ?」
「ほんと!? 笑ってみて笑ってみて!」
「ん……あれ……?」
笑顔を作ろうとしてもひきつって表情が上手く作れなかった。今までずっと表情なんて変えた事が無かったから顔の筋肉自体衰えていたのだ。
そんな私を見て瀬和の方が笑っていた。
「神奈ちゃん……ひきつってるよ」
「案外難しい」
「まあ、神奈ちゃんは今のままでも十分可愛いからいいじゃん。じゃあまた月曜日ねー」
次の日はちょうど土日で、他にやることもないのでテレビを見ながら笑顔を作る練習をしていた。土曜日は頬がぎこちなくひきつるだけだけで、夜には頬が筋肉痛になったりした。日曜の夜ごろにはある程度は自然に笑えるようになっていたと思う。それでもまだ頬が痛い。
母親と父親の前でも笑顔で話してみたら二人とも驚いたあと、嬉しそうに、そして安堵したように笑った。「中学校に入ってから神奈は変わったなあ」と二人で話していた。私は今までと何も変わっていないのに。
月曜日になり教室に入るといつもの通り瀬和がおはようと飛びついて来た。私はおはようと練習したように笑顔を作ってみた。すると瀬和はその場に停止したかと思うといきなり大きな声出しながら抱きついて来た。
「可愛い! 可愛いよ神奈ちゃん!」
「そう? 私にはよくわからないけど」
「何言ってんの! もう、ものすっごく可愛いって!」
瀬和の声が大きかったせいか周りのクラスメイトの視線が私に集まってくる。「なあ、木梨って笑うと案外……」「あいつ、あんな可愛かったっけ」などとざわついている。
「ほらほらー、皆も可愛いって言ってますぜー」
教室が徐々にざわつき始めたが、先生が入ってくるとそれもすぐに治まった。
変化が起こったのは昼休みだった。クラス替え直後に何度か話しかけてきた子達が瀬和の所に、と言うより私の所に集まって来た。
「木梨さん、どうして急に笑うようになったの?」
「瀬和が笑えって言ったから」
「どうして鎌井さんが?」
「知らない。瀬和に聞いてみて」
練習通りに笑顔を作りながら受け答えする。もう大分自然に笑顔を作れるようになった。
私に聞くより瀬和に聞いた方が早いと判断したのか、今度は瀬和が質問攻めにされ始めたのを私は黙ってみていた。
瀬和はその子たちに質問されながら、私の事を何故か自慢げに語っていた。
瀬和が他の子と違い、私と長く一緒に入れたのは瀬和が変わりものだと言うのもあるが、それよりも私たちの相性が良かったのだろう。
私は笑顔が作れるようになっても感情が無いままだった。自分の感情が無い私には、他人の感情が理解できない。人を気遣うと言う事ができなかった。察して欲しい、なんていうのが私には通じないのだ。
だが瀬和は思ったことは何でも口に出して言う子だった。「構ってよー」とか「宿題手伝ってー!」とか「ねえねえ、神奈ちゃんのお弁当美味しそうだけど、ちょっとちょうだい!」とにかく思ったことを全部口に出しているような人だった。
普通の人ならずうずうしいと思うところなのかもしれないが私にはそんな感情はなく、ただ瀬和の言う事に対応するだけだった。
「神奈ちゃんって私がこれこれしてーっていうとなんでもしてくれるけど、どうして?」
「瀬和の言う事はできないことじゃないから」
「じゃあ、私が空を飛べー! って言ったら?」
「道具も何も使わずにだったら無理だから諦める」
「じゃあ、今度の週末遊ぼうって言ったら?」
「いいよ。でもお母さんに聞いてみないと行けるかどうかはわからない」
「いいの!? やったー! 今週末は神奈ちゃんとデート!」
「……? デートってのは異性と行くものでしょう?」
「ふっふっふ、女の子同士でもデートってことはあるんだよ」
「そうなの? 知らなかった」
家に帰り、母親に週末遊びに行っていいか聞くと、母親は嬉しそうに二つ返事で了承した。それどころか楽しんで来なさいとお小遣いまで渡してくれた。お金自体は普段使う事が無いので余っているくらいだと言うのに。
日曜日になって待ち合わせの場所に行くと私を見つけた瀬和が手を振りながら近寄って来た。
「おお! 神奈ちゃんの私服! 神奈ちゃんはファッションセンスもよいですなー」
「これ、母さんが買ってきた奴だよ」
「でも、よく見えるのはやっぱり着てる人が可愛いからだよ!」
「そうなんだ。それで今日はどこに行くの?」
「ん? あ……どこに行こう?」
「どこでもいいよ」
「んー……とりあえずぶらぶらしない?」
「わかった」
待ち合わせ場所から近くの商店街を適当に歩いて行った。
母親に何度か連れ出された場所だったので特に目新しいものはなかった。
それなのに瀬和はショーウインドウを見ては「入ってみようよ」と私の手を引いた。
私は瀬和に連れられるままにいろんな店を渡り歩いた。
瀬和はいろんな服を試着して私に「どう?」と聞いて来たが私は「わからない」「サイズが合ってない」「寒そう」位しか言わなかった。瀬和は少し不満そうだった。
結局、瀬和は「お金がない」といろんな服を見ていた割には買ったのは二着だけだった。私は瀬和が可愛い可愛いと騒いだ帽子を一つ買わされただけだった。
帰り道は途中まで一緒なので二人で歩いて帰ることになった。
「神奈ちゃん、今日つまんなかった?」
「よくわからない」
「じゃあ、楽しかった?」
「よくわからない」
「やっぱり……えっと、神奈ちゃんって何したら楽しい?」
「楽しいって言うのがよくわからないから。でも、瀬和がはしゃいでる時はきっと楽しいんだろうなってのはわかる」
「うーん、どうしたら神奈ちゃんを楽しませられるんだろう……」
「わからない」
瀬和はなにやら考え込んでいる。瀬和はどうやら私を楽しませたいらしい。
「んーっと……えーっと……あー! だめだー! 私に難しいこと考えるのは向いてないよー!」
「そうね」
「私は神奈ちゃんといられてこんなに楽しいのに、神奈ちゃんは楽しくないなんて悲しいよう!!」
「どうして瀬和が私が楽しいかどうかを気にするの?」
「ん? だって神奈ちゃんが楽しんでくれた方が私も嬉しいもん」
「なんで私が楽しいと瀬和が嬉しいのかわからない」
「なんでもなにもそう言うものなの! そういうことになってるの!」
「瀬和、それ何の説明にもなってない」
「うるさーい! とにかく笑えー!」
うがー、と唸ったかと思うと、ぐにぐにと人の頬を弄り回してきた。相変わらず瀬和のやることはよくわからない。
「ちょっと何? 何がしたいの?」
「いいの! いいから帰ろ」
一通り人の顔をこね回して満足したのか、瀬和はにこにこしている。
私には瀬和が何故笑っているのかはよくわからなかった。