夏の宿題
ハシビロコウという鳥を見たことがあるだろうか。名前の通り幅の広い口ばしと、灰色の羽毛を持ち、数時間でもじっとしていられる石像のような鳥だ。名前と姿が一致しなくても、こう説明すれば、動物園などで見たことを思い出してくれる人もちらほらいるかと思う。オリの向こうで微動だにしなかったあの鳥だ。もう随分長い時を動かずに過ごしているのではないかと思えるほど、動く気配さえない。運よく彼(または彼女)が動くところを見られた人はどれだけいるだろうか。歩く姿は、普段じっとしているだけになかなか荘厳だ。
さて、突然人間の話に移るが、麻奈という小学生の女の子は、夏休みの宿題を学校が始まるぎりぎりまで放っておくタイプの子どもだ。もうずっとそうだった。毎年、「来年こそは」と思うのだが、気が付くと始業式がもう3日後に迫っていたりする。もう小学校生活も5年目になる今年の夏もそうだった。よりによって、「わたしの町の歴史」という、時間がかかりそうな課題を手付かずでやり残している。追い詰められた麻奈は、町を散歩することににした。気分転換だ。現実逃避とも言う。
熱気を帯びたアスファルトの上を、自動車がたびたび走り抜けていく。麻奈は排気ガスの熱気に顔をしかめた。8月の初め、海に行ったときはあんなに嬉しかった青い空と白い雲さえ、今はひたすらうらめしく感じられる。
せめて車の熱気から逃れたくて、麻奈は路地に入った。窓際に洗濯物が干されていたり、犬が吠えたり、どこかからシャボン玉が漂ってきたり、路地は生活の色が濃い。最初から目的地があるわけでもなかったから、麻奈は適当に曲がり角を曲がって歩いた。雨戸の閉じた家の角を曲がったとき、麻奈は思わず声をあげた。曲がった先の道の真ん中に、鳥が立っていたからだ。大きな口ばしに灰色の羽毛の鳥だった。麻奈に横顔を見せて、空を見上げていた。麻奈の上げた声に反応して、ハシビロコウはゆっくりと麻奈の方に顔を向けた。ハシビロコウの鋭い眼と麻奈の丸くなった眼がぶつかる。
「南の方にある湖は」
何の前触れもなく、ハシビロコウがしゃべりだした。麻奈はぽかんと口をあけて、ただ聞いていた。
「大昔はもう少し大きくてな。ずっと昔にあった噴火で、今の形になった」
ハシビロコウは、呆然とする麻奈に構わず語り続ける。
「今、電車は北の方に終着駅があるが、かつてはもっと南の静岡まで線路を伸ばす計画があった」
驚きながら、麻奈の頭の中では、これは課題に使えるかもしれないという計算が働き始めていた。
「昔に噴火で埋まった土地を通る計画だった。住民からの反対が大きくて、結局は立ち消えてしまったがね」
「ど、どうして、そんなことを知ってるんですか?」
ハシビロコウはニヤリと笑った(ように見えた)。そして言った。
「不死身だからさ。いろいろ見てきたのだ」
鳥がしゃべるのだ。麻奈は不死身といわれても、なるほどそういうこともあるかも知れないと納得した。
「長い年月の間に、出会った者たちはみんな先にいってしまった。寂しいが、こういう面白い事もある」
「面白い?」
ハシビロコウは、真っ直ぐに麻奈を見つめる。
「見てきたことを、君のような若い者に語ることだよ。新しい知識を得るのは喜びだが、新しい知識を与えるのもまた喜びだ」
ハシビロコウは、麻奈から空に視線を移した。遠くをみるような眼が何を映しているのか、麻奈には解らない。
「この身が不死なら、問題なのはこころだ。こころが死んだときに私は死ぬ。けれど、こころの寿命は延ばすことができる。そうだろう?」
麻奈にはなんと答えてよいか解らなかった。ただ、あいまいに頷いた。そんな麻奈の様子がおかしかったのだろう。ハシビロコウはククッと笑った。それから、翼を勢いよく広げた。風が、麻奈の頬をなでる。
「必要なときに思い出すのだな。朽ちる身においても、同じことだ」
麻奈は、ハシビロコウの話を半分も理解できない。ただ、突然語られた歴史が、課題に使えるかどうか、ということだけ考えていた。そんな麻奈を置いて、ハシビロコウは青い空に舞い上がっていった。麻奈は小さく手を振って、ハシビロコウを見送った。それから、弾かれたように自分の家に向かって走り出した。今起きたことを、忘れないうちに日記に書きとめておきたかった。いつか思い出した時、夢を見たのだと思ってしまわないために。
まだ幼さの残る麻奈は、この日出会った出来事が持つ意味をつかみかねていた。けれど、ハシビロコウが言うように、いつか必要な時が来たとき、新しい緑が芽を出すように、思い出されてくるだろう。そして、彼女にとっての羅針盤のひとつになるに違いない。それがいつになるかは解らないが、その時は必ず来る。案外、そういう出来事は人生のなかに、いくつも転がっているものだ。




