§8 玄太
§8 玄太
「…………!!」
石段を駆け下りた玄太は、ケルピーまでの砂利道を一歩踏み出そうとして立ち止まった。
「これは……」
玄太ののど元、数センチ手前。
来る時にはたしかに無かったものが、空中に張られていた。
「糸……」
細い玄太の目が、さらに細くなる。
糸には微かな妖気がまとわりついていた。
葉子ならば気づいたかも知れないが、あおいや七海、いぶきでは気づかなかったかも知れない。
だが、玄太は妖気の変化に敏感であった。その感覚の鋭さを、玄太は得意に思ったことはない。それは、自分の依り代が極端に臆病な生物であるせいだと考えていたからだ。
糸は限りなく細く、強靱なモノだと一目で分かった。
玄太は注意深く周囲の「気の流れ」を探った。そして糸がのど元だけではなく、自分の周囲を囲むように張り巡らされている事に気づいた。
のど元と足元に張られたそれは、限りなく細く強靱に見えたが、それだけではない。
玄太の並外れた視力は、糸の表面に水滴のような粘液が点々と付着しているのを見て取っていた。
おそらくこの糸は粘り着くのだ。
そして、それに引っかかった獲物を身動きできなくさせる。
「クモ……か」
これだけ見事に用途によって糸を使い分けられる生物は、クモ以外にはないことを玄太は知っていた。
しかしもちろん自然のクモの巣ではありえない。妖気を纏う強靱な糸である事もそうだが、この寒い時期にクモが巣を張るはずはなかった。
糸を張った妖物が何者かまでは分からないが、クモの変化なのだ。
いまだに相手の妖気は抑えられたまま、感知することは出来ない。
だが、周囲から玄太を押し包むように迫る殺気だけは、その密度を増している。
玄太は二十mほど先に停めてあるケルピーの方を見た。
様子は変わっていない。とりあえずは無事なようだ。
だが、ケルピーほどの妖怪の目を盗み、こうした罠を張るというのは相当の強者であろう。
しかも、増しているのは自分に向けられた殺気のみ。
これではケルピーも気づきようがない。
声を出せば、一瞬に襲いかかってくるつもりなのだろう。
目の前のケルピーはもとより、距離の離れたあおい達に助けを求めることなど問題外だ。
しかも相手の姿は見えず、寒さは容赦なく彼の動きを奪っていく。
かなり不利であるはずだが、玄太は不敵に笑った。
(やる……か)
静かに覚悟を決める。
細い糸から伝わってくる気の質は不明だ。
自分は金気。
相手が火気なら手強い。
だが相手がクモなら、土気か木気のはず。どちらも金気の力の通じない相手ではない。
(俺はこいつを知っている。しかし相手は俺のことを知らない。なら……勝機はある)
敵を知り、己を知れば百戦危うからず。
自分を息子と呼んでくれた真菰が教えてくれた言葉である。
彼が真菰川に来たのはほんの十年前。
異郷に来て何か霊的なタガが外れたのか、それとも陰界と関わりの深い地で潜在的な力が目覚めたのか、それは自分にも分からない。
ある日突然、妖怪としての自我に目覚めた玄太は、川の生き物、水生植物を食い散らかし、その力で川岸の地形が変わるほど暴れた。
真菰はそれを厳しく諫め、地域の生態系の中で生きることを教えてくれた。
地域に住む無数の生き物。
ひとつひとつの生き物ごとに違う生態。形態。そして命。
それらを知ることがいかに大切かを玄太は知った。いや、教わった。
よそ者の自分が真菰川に棲むことを許し、その姓まで与えて息子と呼んでくれた真菰。
その恩に報いるためにトープスへ来たのだ。
この敵を倒し、真菰への恩を返す。
狡猾で禍々しい妖だった頃の血が蘇るのを、玄太は感じていた。
(俺がコイツを知っていることを、悟られてはいけない)
玄太はわざと狼狽えたふうに尻餅をつき、しゃがみ込んだ。
すでに周囲は妖糸に取り囲まれている。しかもその糸は、少しずつ範囲を狭めてきていた。それにつれて、周囲の茂みが近づいてくる。
おそらく、糸を周囲の植物に付着させて張り巡らせているのだ。それを引き寄せることで獲物の動ける範囲を狭めていくつもりなのだろう。
触れれば一瞬で身動きがとれなくなる。それだけの力を糸は秘めているはずだ。
粘着性だけではない。この手の罠に使われる妖糸は相手の気を奪い、地面に流してしまう。いわば避雷針のような役割を持つことも玄太は知っていた。
(次は……脅しに来る)
これだけ罠を張って、その罠に誘い込めなかった敵は、次は玄太を脅して走らせようとするはずだ。
数瞬後。
思った通り、玄太の後方で茂みが鳴った。しかし、そちらに気配は感じない。
(後ろで音……つまり本体は……こっちか!!)
玄太は逃げるふりをしながら、敵のいるはずの前方へ走り出した。
たちまち全身に妖糸が絡みつくが、構わず走る。糸から自分の気が吸い取られていくのも感じたが、一瞬であればそれほど気にする必要はない。
さしもの妖糸も重戦車のような玄太の突進を止められないようだ。
走りながら玄太は無言で変化した。
背中が丸く広がり、体が平たくなっていく。
首をすくめ、手足を縮め、低い姿勢で走る玄太に正面から黒い影が襲いかかってきた。
『キシャアアアアアア!!』
玄太に覆い被さった黒い影は、首のあったあたりで牙をがちがちと鳴らしている
しかし、玄太の首は完全に体の中に隠されてしまっていた。
それに気づいたのか、今度は体に突き立てようとした牙も、金属音を立ててあえなく跳ね返される。
黒い影は、戸惑ったように動きを止めた。
次の瞬間、隠されていた玄太の右腕が伸び、影の丸くふくらんだ腹から黄色い体液が飛び散った。
その手に生えた長い爪が、巨大なクモの腹部を貫いたのだ。
『シャアアアア!!』
耳障りな威嚇音を発したクモは、またも素早い動きで来た方向へ戻ろうとした。
しかし、玄太は黒い影を抱えたまま、更に突進のスピードを上げた。
『ぐぢゅる』
濡れたぞうきんを叩き付けたような不快な音が響き、周囲に黄色い体液が飛び散った。
数m先のスダジイの古木に押しつぶされたクモがへばりついた。
体長は優に三mはある。
手足を伸ばすと五mを越える怪物だ。
だが、その体から土気と木気が拡散する粒子のように大気に溶けていくと、残ったのは小さなクモの屍体だけであった。
「真菰君!! どうしたの!?」
あおいの声がした。
クモの威嚇音を聞きつけて、参道を降りてきたのだろう。
「社長!! 一匹やったッスけど……油断しないでください!! この手のヤツは……」
言いかけた玄太の横から、また黒い影が襲いかかってきた。
「くっ……」
身構えた玄太の直前で、クモは力を失いへたり込んだ。
『愚か者が。わしの目をそう何度も誤魔化せるか!!』
ケルピーの声が響く。
へたり込んだクモには、見た目は何も変わった様子はない。
だが、その頭部には小さな穴が空いていた。
ウィンドウウォッシャー液を高圧で飛ばし、クモの頭部を貫いたのだ。
「ケルピーさん……助かったッス」
『いや、おぬし一人でも大丈夫であったろうがな。手を出させてもらったぞ』
そこへあおい達が裏参道を駆け下りてきた。
「これ……土蜘蛛じゃない!!」
ケルピーに倒され、少しずつ縮んでいくクモの屍体を見たいぶきが驚いて声を上げた。
「土蜘蛛?……ってあの伝説の怪物の?」
「ええ……強い毒を持ち、強力な糸で相手を絡め取る……って伝わってるわ。
でもこんな……」
クモの襲ってきた方向を探すと、大きなスダジイの根元に丸い穴が開いていた。
しかも、その穴には扉まで付いている。落ち葉や草で作られた扉だ。それを糸で固めて完全にカモフラージュされており、ちょっと見ただけではまったく分からない。
が、その穴の直径は一m以上はあり、奥は暗くて見えないが、相当深そうだ。
「なかなか手強い相手ね。巣に扉をつけて地面に擬態するなんて……」
葉子が穴の中をのぞき込み、顔をしかめた。
「これ、陰界につながってるわ。糸のトンネルで境界面を開けっぱなしにしてある。いちいち顕現してたらエネルギーも食うし、獲物に逃げられるから、こうやって陰界に潜んだまま罠を張ってたんだわ」
「まるでトタテグモね。巣から糸を張ってレーダーみたいに獲物が来るのを待ちかまえていたってワケか……」
あおいは地上性のクモの名を言った。
トタテグモは地面の穴を掘って住み、この土蜘蛛と同じような開閉式の扉を巣穴につけるのが特徴のクモだ。近くを昆虫などが通りかかると、扉を開けて襲いかかり巣穴に引きずり込んで食べる。その生態までも似通ったところがあるようだ。
「そのトタテグモの変化なんでしょうね。目立たないクモだけど珍しいモノじゃないから……」
「やっぱり……大杉が枯れたせいで?」
「凶悪で有名な大物妖怪だからねえ……昔、坊主か陰陽師が地脈に封じたんじゃない?
そんなのをあっさり片付けるなんて、真菰君、あんたもすごいもんだね。さすがだわ」
「いえ。コイツ……子グモかも知れないッス」
玄太は表情を変えずに、ぼそりと言った。