§7 恐怖
§7 恐怖
『あおいちゃん?』
ケルピーで桂蓮神社へ向かう途中である。
ナビ席にいたあおいの携帯に馴れ馴れしい口調で掛けてきたのは、野槌副市長であった。
『首無し屍体の身元、分かったわよ。』
「え!? 誰だったんですか?」
『持ち物とか、近くに止めてあった車からの推測なんだけど、木材市売協同組合の理事長らしいの。DNA鑑定しないと確定はできないけど、まず間違いなさそうね』
「木材市売協同組合って……あの伊那頭橋のところの?」
木材市売協同組合は、様々な林業業者から県内の伐採木が集まる場所、いわば木材の卸売市場のようなものだ。
市内を流れる吾洲輪川上流に位置しており、現場へは市街中心部を抜けていかねばならず、相当遠い。
「なんでそんな遠いところから?……」
『前から妙な噂のある人だったけど……どうしてあんなとこにいたのかしらね。それも一人で』
「妙な噂?……って何ですか?」
『木の横流し。庭木とか街路樹とかの伐採木にいいのがあると、組合を通さないで勝手にどっかに売っちゃってたっていう話なんだけど……』
「横流し……なるほど」
『どうしたの? なにか心当たりでも?』
「いえ。すみません。ありがとうございました」
「ふーん。これでますます臭ってきたわね」
葉子が後ろの席でにやにや笑った。
「え? 何、どんな話だったのよ!?」
運転しながらいぶきが騒ぐ。
妖狐である葉子の聴力は、携帯電話を盗み聞くことくらい造作もないが、いぶきも七海も、もちろん玄太もそんな能力は持っていない。
あおいが電話の内容をみんなに詳しく伝えているうちに、ケルピーは現場へ到着した。
現場といっても、表参道の駐車場は首無し屍体の件で、まだ立ち入り禁止であるから、裏参道にある地蔵堂近くの駐車場である。
「ここかい?」
アスファルト上に優雅に降り立った葉子は、白いコートを翻して辺りを見回り始めた。
先ほど見せたような超聴覚だけではない。
嗅覚、視覚その他、五尾の妖狐である葉子は、あらゆる感覚が常人の数十倍以上ある上、霊査能力にも優れている。
あおいが感知できなかった犯人の気も、見分けられるはずであった。
「……見つけたけど……なんだいこりゃ? 人を殺せるような妖気じゃないね」
「やっぱり? 私が見た時もそんな感じで……じゃあ、大変だけど首無し屍体のあった方へも行ってみ……」
「しっ!!」
急に葉子があおいの口に手を当てた。
「隠れているヤツ!! 出てきな!!」
誰もいないはずの山の方へ向かって叫ぶ。
すると途端に茂みがざわつき、そこから数人の子供達が駆けだした。
「子供?」
身長からして小学生くらいだろうか。
服装も子供っぽい明るい配色のセーターやジャンパーを着ている。
「妖怪じゃなさそうだね。普通の子供みたいだよ」
葉子が空気の臭いをかぐように鼻を鳴らしながら言う。
「何してたんだろ? 話、聞けないかしら?」
あおいは子供達の後を追って駆けだした。
「ちょっと!! 君たち!! 待ってよ!!」
駆けていく後ろ姿は、まさにその辺の小学生のようであった。走るたびに運動靴の裏が白く見えている。人数は四、いや五人か。髪をツインテールにした女の子も混じっている。
しかし、子供達の足は異様に速い。
裏参道の登り口辺りで、掻き消すように姿を消してしまった。
足に少しは自信のあったあおいは、悔しそうに辺りを見回した。
「近くには人家もないってのに……どこに隠れたのかしら?」
その後を追って、葉子、いぶき、七海、だいぶ遅れて玄太がやってきた。
「逃げられたの?」
「ええ……田舎の子は足が速いわね……」
その時、玄太が足下から何かを拾い上げた。
「……ん? こいつは……」
「何それ? 木の枝?」
「いえ……まあ、そうッスけど……」
玄太は木の枝を持ったまま、何故か樹上を見上げている。
「犯人……ひとつは分かったかも知れないッス」
「え? ひとつは……って、どういうこと?」
「……枯れたっていうご神木の所、連れて行ってくれませんか」
「なんか分かるの?」
「はい」
玄太の言葉は短いが、不思議な自信にあふれていた。
あおい達は、真っ直ぐに伸びている古い石段を登り始めた。神木へと通じる裏参道である。
既にあたりは暗い。
まだ周囲にはほんの少し薄明かりが漂っていたが、石段の伸びる山中は、木に覆われていてほぼ真の闇だ。
あおいはペンライトを懐から取り出したが、妖怪である他の四人は、暗闇の中をすたすたと上っていく。
「ちょちょ……ちょっと待ってよ。みんなあ」
「人間は不便だねえ……ほら社長、手出して」
葉子が指先を軽く鳴らすと、あおいの手のひらに小さな火が浮かび上がった。
「え? あ、ちょっと!」
手のひらの上、数㎝の空中でちろちろと燃える青白い炎は、そう熱くはないが不思議な重さと圧力を伴っていた。
「狐火貸してあげるからさ。消えそうになったら自分で火気足して」
枯れた大杉の根元に着くと、玄太は近くをうろついて平坦な場所を探した。
大杉から少し離れた場所に、乾いた砂のある平坦地を見つけると、そこに落ちていた木の枝で円を描いた。
直径は一mほどであろうか。
そして、興味深そうに眺めていたあおいの方を向くと、はたと困った顔をした。
「しまった……あの社長……たしか、消石灰持ってらしたッスね?」
「え?」
突然振られてあおいは目を白黒させた。
「そりゃ……あるけど、あんなモノ何にするの?」
消石灰は酸性化した土壌の中和剤に使うものだ。
ビオトープ管理の際に弱った樹木の根元に鋤込むことが多いので、あおいは常に3キロの小袋をケルピーに積み込んでいた。
「白い粉なら何でもいいんスけど……山、上る前に言えば良かったッス」
「あ、じゃ、私がとってくるよ」
すぐ走り出そうとする七海を、玄太が慌てて止めた。
「だだ……ダメッス。まだその辺を犯人がうろついているかも知れないッスから。俺が行きます」
言うが早いか、玄太は走り出した。
一瞬で闇の中へ姿が消える。相当な速度である。
「真菰君って……走れるんだ」
「あら、それはちょっと失礼ですよ社長。」
感心したように言ったあおいの言葉を七海が聞きとがめた。
「あ、いや、だって、いっつも彼、着実っていうか、堅実っていうか……」
「動きが遅いってんでしょ? 言葉選ばなくてもいいわよ。本人いないんだから」
しどろもどろになったあおいを見て、葉子がくすくすと笑った。
「でも、真菰君……ひとりで大丈夫かな……」
七海が心配そうに石段を見下ろした。
「ま、大した距離じゃないし、何かあったらすぐ分かるんじゃない?
そんな心配しなくてもさ」
狐火に照らされた葉子の顔は、意味ありげに微笑んでいる。
「ん?」
いぶきが玄太の降りていった方向を不思議そうに眺めている。
「どしたの?」
「木……あんなに道にかぶさってましたっけ?」
言われてみれば、あそこまで木が覆い被さった状態ではなかったような気がする。
すっかり暗くなったせいでそう見えるのか?
「まあ、彼も妖怪だから滅多なことはないでしょうけど……」
七海も心配そうに呟きながら、玄太の走っていった道を見下ろした。
*** *** *** *** *** ***
「おう、運ちゃんここまででいいや。あとは歩くぜ。釣りはいいや」
棚家は五千円札を出してそう言うと、まだ人家のある集落の中でタクシーを降りた。
今はまだ金回りは悪くない。
だが、明日はどうか分からない。
そうなれば釣りをもらわなかったことを後悔するのだろうが、どうでもいいことだ。
宵越しの金を持たない、とまでは言わないが、どうせ家族も家もない根無し草の人生だ。
金なぞ貯めたって仕方がない、とは思っていた。
その日を生きる。それも、生きるために生きているだけ。それが今の自分だ。
この商売を一発当てれば、またしばらくは遊んで暮らすのだ。
「うう……寒いな。神主、いるかな」
棚家は裏参道への農道をとぼとぼと歩き出した。
表参道側にはパトカーの明かりが見える。
職務質問でもされたらどうしようかと、言い訳まで考えていたが、裏参道側の道はどうやらノーマークであるらしかった。
とはいえ、登り口まではかなり距離がある。どうせなら、もう少し先で下ろしてもらえば良かっただろうか、いや、用心に越したことはない。タクシーの運転手にであろうと自分の足取りを知られたくはなかった。
万が一、大杉が除草剤で枯らされたことに神主が気づいたとすると、まず真っ先に疑われるのは自分だからだ。警察に捕まって終わるようなヘマだけはしたくなかった。
「……あそこだな」
何回も来た道だ。間違えようはずはない。
ここのご神木を枯らすため、人目を盗んで深夜に明かりもつけずに通ったのだ。
こっそり根元に穴を掘り、樹皮を剥がしたあと電動ドリルで穴を開けた。
そして除草剤を針のない注射器で注入し、何もなかったかのように樹皮を被せて埋め戻す。
除草剤は規定量に薄めなければ、うまく木全体に回らない。生きた組織が吸い上げて初めて効果を発揮するのだ。だから、薄めたものを何回か根気よく注入する必要があった。
「真っ暗な林ン中で、結構苦労して枯らしたんだ。こんなことで、でかい商売を棒に振れるか」
ぶつぶつと呟きながら山沿いの道を歩いていくと、山の方から茂みが道に覆い被さるように塞いでいるのにぶつかった。
「なんだこりゃ? 崖崩れか? 」
迂回路はないか、と振り返るとなんと後ろにも同じように茂みが道に被さっている。
「あ……?」
棚家は戸惑った。自分の歩いてきた道が無くなったように見えたからだ。普通ではあり得ない現象ではあったが、酒が入っていたせいもあってか、その時点ではまだ、棚家の心に恐怖はなかった。
きょろきょろと辺りを見回した棚家は、山側の方にうっすらと道があることに気づいた。
獣道か、山仕事の人が作った道か……暗がりでそれは分かりにくかったが、日の入り直後の薄暗がりに、その道は白々と浮かび上がって見えた。
「バッカ野郎……だったらこっち行きゃいいんじゃねえか」
ぶつぶつ言いながら、そちらに向けて足を踏み出した瞬間、足元の感触に驚いて一歩後退った。
「な……なんだこりゃ?」
山道なら歩き慣れているが、こんな感触の道は通ったことがない。
喩えるなら、弾力のある毛布かなにかの上を歩いているような感じだ。
「いったい……何で出来てやがる……」
しゃがんで地面に手を触れようとした棚家の頭上で、突然金属音が鳴った。
『ガチイイイン!!』
「うお!?」
棚家は、そのまま道に倒れ伏して仰向けに転がった。見上げたその目に飛び込んできたのは、棚家に覆い被さるようにして襲ってきた、何者かの巨大な影であった。
「う……うわああああああ!!」
立ち上がろうとした棚家は、自分の体が地面にくっついて離れなくなっていることに気づいた。道は砂利でも木でもなく、何か粘着力のあるシートのようなもので作られていたのだ。
酔いはすっかり覚めた。
恐怖で顔から血の気が引いていくのが自分でも分かる。
何があったのかはまったく分からない。
だが、さっきもし、自分がしゃがみ込まなかったら、この巨大な影の鳴らした金属音に、自分が両断されていたのだと、即座に理解した。
黒い影の動きはあまり速くない。棚家を見失ったのか、もたもたと方向を変えようとしている様子だ。今のうちに逃げなくてはならない。
棚家は焦ってもがいた。地面にくっついて離れない衣服を無理矢理脱ぎ捨てると、アスファルトの農道へまろび出た。
投げ出されるように倒れた棚家は、素肌むき出しの手足を路面に激しく打ち付けた。
強烈な痛みが走るが、構ってはいられない。唯一開けている田んぼの方へ真っ直ぐ走り出した。
背後で先ほどの金属音が連続して鳴った。あの黒い影が迫って来ているのだろう。
恐怖のあまり膝が笑って上手く走れない。
三十㎝のU字溝を跳び越えるだけのことに、恐ろしく時間がかかったように感じた。そしてようやく稲刈りの終わった水田に足を踏み入れようとした瞬間、まるで空中で抱き留められたかのように棚家の動きが停止した。
「なななな……なんだこりゃ!?」
体が完全に宙に浮いている。
手足をばたつかせることは出来るが、無数の見えない腕に掴まれてでもいるかのように、それ以上何も出来ないのだ。
「た……助けてくれえッ!!」
もうなりふり構ってはいられないと悟った棚家は、悲鳴を上げようとした。
しかし、出たのはかすれたような声だけだ。まるで力が吸い取られてしまったかのように大きな声が出せない。気づけば手足も動かせなくなりつつあった。
振り向くと、後ろからゆっくり影が迫ってくる。それにしても巨大だ。影は、棚家の知るどんな生物とも違っていたし、クマよりも牛よりも大きいと感じた。
(これが……神罰だってことかよ……)
振り向くと、間近まで迫った黒い影の頭らしき部分に、先ほどの金属音の源である黒い牙と、いくつもの赤い目が光っている。
棚家は観念して目を閉じた。