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§4 鎮守の森

§4 鎮守の森


「……いい森ね」


 桂蓮神社への参道を登りながらあおいは言った。

 一週間後の昼過ぎである。

 あおいといぶきは、再び桂蓮神社を訪れていた。

 あれほどの事件である。表参道は、まだ警察とマスコミでごった返していたが、裏参道の方はあの時とは打って変わって静かだ。

 静謐さを取り戻した裏参道を上っていくと、左手にはスダジイ、シラカシ、シロダモなどで構成された常緑広葉樹林、右手にはよく手入れされた真っ直ぐな杉の人工林が広がっている。

 左手の常緑広葉樹林は、このあたりの極相林である。相当古い木が多いようで、樹高も十m以上、幹の太さも一抱え以上はありそうな大木ばかりだ。節くれ立った幹に自然の樹洞が見られるものも多い。落ち葉の深く積もった林床は深山の趣である。

 右手のスギ林の方も、人工林とはいえ悪くない。樹冠が重なり合って暗くなり、もやしのようにひょろ長い木が整然と並んでいる山ではないのだ。

 丁寧に間伐されており、スギの密度は高くない。のびのびと育ったスギは、どれも直径が五十㎝以上はありそうである。明るい林床にはヤブコウジやヒメアオキなどが生えている。所々にアズキナシやホオノキ、ユキバタツバキが残されているのも分かる。


「こういう森なら、生き物も多いでしょうね」


「あ、着きましたよ。あそこです」


 参道を登り切ると、細かな玉砂利の敷き詰められた境内が広がっていた。

 いぶきは、その奥の宮社を指さした。

 この地域では、そこそこ大きな神社であるらしく、宮社の裏手には自宅兼用の詰め所が隣接しており生活感がある。

 子供もいるようで、境内に遊び道具がきれいに整頓されて置かれている。おもちゃの車や、シーソー、プラスチックのバットなど、どれも少し古びていたが、使われているように見える。


 出迎えてくれたのは、腰が低く柔和な顔立ちの宮司であった。

 頭髪はほとんど真っ白だが、肌の張りから見て、まだ五十代にはなっていないように見えた。


「これはこれは。社長さん自ら来ていただくとは恐縮です。森さんには大変お世話になったのですが、ついに枯れてしまいまして、無駄足を踏ませて申し訳ありません」


「とんでもありません。力及びませんで……謝るのはこちらの方です。」


「で、今日は? 近くで殺人事件が起きて、あまり外出するな、と警察から言われているのですが?」


「申し訳ありません。その殺人事件に、大杉が枯れた件が関係あるのではないか、と思いましたもので」


「どういうことです?」


「数百年以上生きてきた巨木が、何の理由もなく枯れるとは思えません。

 何か原因があるはずです。もしかすると……なにかおかしなことが起きているかも知れない。それが何かまでは分からないのですが……」


「しかし、そんなバカな。まさかご神木が枯れた祟りだとでも言われるおつもりですか?」


「そうではありません。でも、枯れ方が不自然すぎる、と思うのです」


「…………分かりました。私も枯れた原因については気になっていました。着替えてきますので少々お待ちを」


 宮司はしばらく考えていたが、あおいの真剣な表情を見て決心したのか、そう言って奥へ引っ込んだ。


「お待たせしました」


 再び現れた宮司は先ほどの紫色の袴姿ではなく、緑色の作業服を着込み、足元もしっかりとしたトレッキングシューズを履いている。


「森へ行く時は、いつもこの格好にするのですよ。」


 宮司はそう言うと、少し照れたように笑った。


「まさか、この森の手入れをされておられるのは……」


「私です。まあ、素人同然なので林業家に教えを請う毎日ですが」


 桂蓮神社の大杉は宮社の裏手を更に降りた場所にある。

 あおい達が宮社へ来るのに使った裏参道とは違い、真っ直ぐ最初の事件現場近くへ降りる事が出来る古びた石段の中腹である。

 歩きながら宮司が話し始めた。


「この神社のある山は、周囲の山系から離れているせいか、独特の植物が生えているらしいのです。私も学生時代、ちょっとかじってましてね……」


「そうなんですか? じゃあかなりお詳しいんですね」


「いやいや、ただの趣味ですからビオトープ管理士の先生ほどじゃないです。でも森を弄っているうちに興味を持ちましてね。この山の植物だけでも全種調べようと思ってはいますけどね」


 カタクリ、オウレン、ムラサキケマン、ショウジョウバカマ、カンアオイ、フユイチゴ……数は少ないが、絶滅危惧種指定されているシュンランやエビネまで自生しているのだという。


「素晴らしいですね。そういえば……志水東のビオトープを創る際には、私もこの麓の林から、いくつか植物を採らせていただきました」


「動物も多いのですよ。キツネ、タヌキ、アナグマ……ムササビやウサギもいるようです。でも、山系からは外れているので、イノシシやシカはいない。それがかえって良いようですけどね」


 この付近でも、最近は特にイノシシやシカによる農作物の被害が多くなっている。

 実際、個体数が増えすぎると、畑に限らず林床の草を食べ尽くしたり、掘り返したりする被害も出始めるのだ。


「夏には昆虫採集の子供達もよく来ますし、鳥も多い。

 私は生まれ育った場所なので、どこもこんなものかと思っていたのですが、学生時代に県外に出て初めてここの豊かさに気づきました」


「周囲が田園地帯なのも良いのでしょうね。鳥は農地で餌を採ったりもしますし、作物の茎葉を積んで置けば、そこにはカブトムシが産卵しますから」


「はい。それにこのあたりではまだ一部で、落ち葉をかき集めて肥料にしていますからね。おかげで林床の植物も絶えないでいてくれます」


 表参道側はコナラ林であり、里山としてよく利用されている場所のようだ。

 利用されつつ、鎮守の森として保全もされているのは珍しい。


「しかしそれもこれも、あの大杉をはじめとする何本もの巨木が、山全体の環境を守っているせいだと、最近気づきましてね……」


 この山にも、多少切り開かれたエリアはある。

 氏子の要望で参道の整備が必要であったこともあり、参詣客やハイカーのために麓には小さな駐車場やベンチも作った。


「そうしましたら、その周囲にはこの山中とは違う植物が生えてきてしまったのです」


 古くから里山として維持されてきたこの山には、コナラやクヌギなどの薪炭用の落葉樹エリアと、スダジイ、シラカシ、シロダモで構成された常緑樹エリア、そしてスギの人工林エリアがある。

 切り開いたのは、里山としては利用されていない常緑樹エリアだった。


「ブタクサやセイタカアワダチソウ、ベニバナボロギク、アメリカオニアザミなんていうトゲだらけの化け物みたいな草まで生えてきましてね。この山は外来種などとは無縁だと思っていただけにショックでした……」


 土木工事には、別の地域から施工しやすい砂利や土を持ち込む。

 おそらく、そうした土砂の中に外来植物の種子が混じっていたに違いなかった。

 だが、たとえ同じ事が起きていても、植物に造詣が深いこの宮司でなければ気づきもしないことではあったろう。


「でね。これはいかんってことで、とにかく草刈りをして、そこへ元々生えていた林床の植物を植え直したんですよ。でも……ダメでした」


 栄養豊かな表土や堆積物を失い、直射日光にさらされ乾燥した土壌に、林床の植物は根付かなかった。わずかに根付いた植物も夏を越せずに枯れた。

 これはやはり、樹木による日陰が必要なのだと気づき、スダジイの苗木を探してきて植えたが、外来植物は一ヶ月もすると人の背丈ほどまで伸び、苗木はどこに行ったか分からなくなった。

 それどころか台風時の大雨で表土が流れ出し、苗木も倒れたようで、気づかないうちに枯れた。スダジイの若木だけでは森を作り出す力はなかったのだ。

 宮司は、このままでは一度切った森はどうやっても元には戻らないのだと思った。


「私は巨木なんて場所をとるものは小さな植物にとっては邪魔で、単に日陰を提供するもの、くらいの認識でした。

 でも、違ったんですね。日陰だけじゃない。毎年、葉や枝を落として土を育て、根で土を守り、山全体を保護してくれている……」


 話し続ける宮司の目には、微かだが涙が浮かんで見えた。


「夏にね。巨木の傍によると、涼しいんですよ。木の周りにだけ爽やかな風が吹いている。

 日照りが続いても、深く張った根が水を吸い上げ、周囲に潤いを与える。

 それでようやく、どうして林床でないとカタクリやショウジョウバカマが育たないか分かったのです」


「そうですね……樹木は自分の周りに微気候を作り出します。それも数百年かけて育ったものであればなおのこと……人間が易々とその環境を作り出せるものじゃありませんわ」


 言いながらあおいは、少しほっとしていた。

 こんな風に植物を思い、よく分かろうとしてくれる宮司さんが、森の管理までしておられるなら、きっとこの山は大丈夫だ。


「切り開いた場所を森に戻す方法、なくはないんです。実は……」


 あおいが言いかけた時、前を歩いていたいぶきが振り向いた。


「着きました。あれですよ」


 あおいは、その樹を見上げて息を呑んだ。


「立派な……神木だったんですね」


 たしかに杉は枯れていた。

 しかし、晩秋の高い空に届きそうなほど、真っ直ぐに伸びた美しい樹形はそのままである。ただまるで時間だけが凍り付いたかのように、その葉はすべて赤茶けてしまっていた。

 命を失い、それでもなお雄々しくそびえ立つ古木は、いまだ荘厳な気配を纏っていた。


「はい。この神社の象徴であり、もう一つのご神体でもありました。」


 直径二.五mと聞いていたが、どう見てもそれ以上……三m近くはありそうな幹には、太い注連縄が巻かれている。


「昨年古くなった宮社の建て替え工事の話が出た時、どこから聞きつけたのか木材として買い取りたいという人も何度か来られたのですがね……」


「お断りになられたんですね?」


「まさかご神体を売るわけにはいきませんから」


 自嘲気味に微笑む宮司の表情は暗かった。


「しかしこのままでは危険ですからね。

 結局、切り倒す予算も作れず、買い取り業者に払い下げることになってしまって……枯れた木だから価格も当初の話の半分以下になってしまいました……」


「?? どうせ切り倒しちゃうのに、枯れると木の価格が下がるんですか?」


「私どもは素人なので分かりませんが、そういうもののようです」


 あおいは首をひねった。

 立ち枯れてから長時間放置された木ならともかく、それほど木の価格が変わるものだろうか? 虫が食うとしても病気だとしても、それはあくまで表皮から数㎝レベルの話であって、木材としての部分には大した影響は出ないはずだ。


「買い取りに来たのは、同じ業者さんなんですね?」


「ええまあ……名刺を置いて行かれたので……こちらからご連絡したのですが……」


「宮司さん、その名刺を見せてください。森主任は、ちょっとこの木の根元を掘って、太めの根の周りを調べて。」


「え? 根の周りですか? それなら治療の時に結構掘りましたけど……」


「それは腐朽の有無や土質の調査、あと土壌改良でしょ? 土に埋まった部分の幹の方、樹皮そのものをよく見て欲しいのよ」


「樹皮……ですか?」


 怪訝そうな顔で根元を掘り始めたいぶきは、すぐに声を上げた。


「…………社長……これ……」


「思った通りね。」


 穴がある。

 根、というよりは土に埋まっていた幹の部分と言った方が良いだろう。その部分に、泥で汚れて分かりにくいが、直径10mmほどの丸い穴が空いている。

 しかし最初にいぶきが見逃したのも無理はない。いったん剥がされた樹皮が穴の上にかぶせられているのだ。

 深さはよく分からないが、少なくとも数センチ以上はあるのではないかと思われた。

 カミキリムシやタマムシなど、幼虫時代を樹木の材中で過ごし、樹皮にこうした穴を穿って羽化する昆虫も居なくはない。スギにもヒメスギカミキリという昆虫がつく場合があった。

 が、杉の代表的な食害昆虫であるヒメスギカミキリの羽化跡であるなら、こんな土中に穴など開けないし、もっと穴は小さい。なにより、虫が樹皮を穴にかぶせるようなこともするはずがない。

 しかもよく調べると、穴は幹の周囲に等間隔に開けられており、その数は十六カ所も確認できた。


「何なんです? この穴は」


 穴を確認していた宮司が、怪訝そうな顔で聞いた。


「電動ドリルの穴でしょう。

 分析しないと分かりませんけど、誰かがここに除草剤……たぶんグリホサート系の薬剤を注入して……枯らしたのだと思われます」


「そ……それは……いやまさか……」


 あまりのことに宮司は言葉を失った。

 まさかご神体でもある神木に、そのような罰当たりな行為を働く者がいるとは信じがたかったのだろう。


「四国で何件か、同様の事件があったのを思い出したんです。犯人は捕まっていません」


「な……何のためにこんな罰当たりなマネを……」


 宮司の声は涙で詰まっている。

 植物への思い、木々への思いを語っていた宮司の心情を思うと、あおいの胸にも怒りがこみ上げてきた。


「目当ては木材です。大径木ってのは、それだけですごく高く売れるんです」


「ばかなことを……今や、安い輸入材なんかが幅をきかせていて、山持ちの人も木が売れずに困っていると聞いていますよ? 山から切り出すだけでも大変な費用だと」


「それは樹齢数十年の細い間伐材のことですよ。

 日本は戦中から戦後にかけて、一度山を丸裸にしていますからね。こうした樹齢を経た大木は、どこの山中にもまずありません。もしあったとしても切り出しにとても費用がかかります。だから、平地にあって切り出しやすいご神木が狙われるんです」


「じゃあ……まさかこの名刺の人物が?」


「そうとも言えないから困るんです。明らかな器物損壊ではありますけど……情報を得た他人がやったのかも知れないし、なにより証拠がない」


「証拠……たしかに」


 宮司は悔しそうにぎりっと歯を鳴らした。

 電動ドリルなどどこでも買えるし、除草剤もそうだ。

 人気ひとけもなく監視カメラもない山中の神社では、目撃者もないだろう。誰が何をしたのかなど分かりようもない。


「しかし、とにかくこの人物に木を売るのはやめてください。全然関係ない地元の業者を当たってみた方がよろしいでしょう。たぶん……今言われている買い取り価格も不当に安いはずです」


 名刺を見ながらあおいは言った。


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