§2 むじな
§2 むじな
「はあッ?!」
あおいは、思わず素っ頓狂な声を上げて見下ろした。その目に飛び込んできたのは、一体の地蔵像であったのだ。
*** *** *** *** *** ***
「えーと。つまり、お地蔵様はご自分の無実を晴らしてもらいたい、と、こう仰るわけですか?」
テーブルの上に茶と菓子を並べながらあおいが聞いた。
ソファの上に置かれた地蔵像は、斜めに傾いて据わりが悪そうだ。
『当たり前じゃ。あのような不穏な噂が立っては、誰も近づこうとはせぬし、供え物もろくにもらえぬ。』
「でも、何故ここに?」
『ここは妖怪専門の探偵事務所だと、カヤノヒメに聞いたのでな』
「かっカヤ……野槌副市長ッ!? 食えないわね、あのおばさん!!」
あおいの脳裏に含み笑いをする野槌副市長の姿が映った。
先ほどあおいが同じフレーズの嫌味を言って電話を切ってから、三十分と経ってはいない。
お地蔵様が携帯を持っているとは思えないから、神仏同士にしか分からない連絡方法かなにかで即座に伝えたに違いない。
「でも……そもそも、ご自分で動けるほど通力をお持ちのお地蔵様が、どうして犯人の一人や二人、見つけられないんですの?」
葉子がさらっと嫌味を口にするが、お地蔵様は平気そうだ。
『お主も妖狐なら分かるであろう?
神仏は常に神体とともにあるわけではない。人の信仰心によって顕現するものじゃ。特に逢魔が時には現界への影響力も薄れる。それに、アレが行われたのは朔の日じゃ。』
「朔の日って?」
「社長、知らないんですか? 新月のことですよ。」
「あ、はいはい。朔の日、朔の日ね。」
葉子の呆れたような視線を受けて、あおいは真っ赤になって繰り返した。
新月という事ならわかる。
単に闇夜であるだけではなく、妖魔が最も力を増し、神仏の加護が最も薄れる夜、それが新月なのだ。
『そうじゃ。ゆえに我はあの場所で誰が、何を行ったかを知らぬ。それにな。自分で歩いてきたわけではない。おい、むじなよ』
「へい」
答えてドアの陰からひょいと顔を出したのは、淡く短い毛に覆われた、とがった顔の小さな獣であった。
目の回りに黒い隈があるところはタヌキにも似ているが、それよりむしろ鼻筋に真っ直ぐ入った白いラインが特徴的に見え、耳もかなり短い。
「あ、むじなさん。お久しぶり」
あおいは驚いて声を出した。
むじな……すなわちアナグマのことである。
里山里地の代表的な哺乳類の一つであり、タヌキやキツネと並んでこの地域では一般的な動物ではあるが、数はタヌキやキツネほど多くない。
年経て妖怪化するものは更に稀な上に、本来は妖狐や妖狸と違って組織だった連携もなく、神仏に仕えるようなこともない。妖怪としては珍しい部類に入るが、このむじなは志水町のアナグマ一族の長であり、地元妖怪の顔役でもあったのだ。
『ほう……知り合いかの?』
「はい。志水東公民館のビオトープ整備の折には色々お世話になりました」
このむじなは人間としての生活こそしていないが、人語を解することもでき、地元住民との関わりも深かった。
公民館からの依頼で、カサスゲのびっしり生えた湿地と、外来植物に覆われた空き地の二カ所をビオトープとして整備したあおいは、その場所に過去、どのような生態系が存在していたか、むじなに様々なアドバイスをもらったのだ。
「あの時は……多古烏池のヌシにまでお話しを通してくださって」
「いや、そんな前のこと。いいってことですよ。アイツもウシガエルが増えすぎて困ってましたからねえ。そのおかげでここの場所も知ってたわけですし」
そう言いながらも荒い息をつくむじなは、後足をだらりと投げ出し、立ち上がる様子がない。
どうやら地蔵像を運んできて、ドアの陰でへたばっていたらしい。
いかに妖怪とはいえ、手足が短く体も小さいむじなが、ここまで数十kgもある地蔵像を運んできたのは相当な重労働だったのであろう。
『こういうわけでな。
むじな殿にここまで運んでもらったのじゃ。むじな殿は地蔵堂の世話を焼いてくれる代わりに、儂への供え物を食べるわけじゃ』
「なるほど……ってでもちょっと待って!!」
こともなげにしゃべり続ける地蔵像を頷きながら眺めていたあおいは、突然はっとしたように我に返って葉子を見つめた。
「事件渦中のお地蔵様が突然居なくなっちゃったんじゃ……」
「ま、もしかしなくても大騒ぎになってんじゃない」
葉子は諦めたように肩をすくめてあおいを見返した。
今頃気づいたの? とでも言いたげな表情だ。
あわててTVをつけたあおいの目に、興奮した様子で話すアナウンサーの姿が飛び込んできた。場所は言うまでもなく、地蔵堂の前である。
『また怪事件が起きました!! ごらんください!! 何者かによって、殺人疑惑のある地蔵像が盗み出されてしまったのです。いえ、もしかすると本当に動いて人を殺せるお地蔵様なのか? 謎は深まるばかりです!!』
「う゛あああああ……」
あおいは画面の前でがっくりと膝をつき、うなだれた。
「う゛う゛……どうやって返しに行けばいいのかしら?」
「ま、ほとぼりが冷めてから、ゆっくり返しに行くしかないわねえ」
「冷めるのかしら、ほとぼり……」
「私も、よくそこ通りますから、なにかのついでにこっそりお返ししますよ」
「え?」
苦笑いしながら口にしたいぶきの言葉に、あおいは思わず顔を上げた。
「ああ、その例の事件現場って、桂蓮神社のすぐ裏手……山の反対側なんですよ」
「へえ……妙な偶然もあるものね」
そう言われてみれば、あおいの管理するビオトープは桂蓮神社と同じF市の西に位置する。
だが、まさかそんなに近いとは思いもしなかった。
「と……とにかく、あらぬ疑いを掛けられる前に、野槌副市長……いえカヤノヒメ様とお会いしてくるわ」
*** *** *** ***
「ちょうどいいわ。その大杉の枯死に関する周辺の土壌環境調査とかなんとかって名目をつければいいじゃないの。県警に言って、裏山から現場に入ることくらいは出来るようにしておくから」
仕事の着手報告を兼ねて、一言文句を言いに市役所に乗り込んだあおいに向かって、野槌副市長はこともなげに言った。
「私の権限ではないけど、そのくらいは聞いてくれるでしょ」
そう言うと、野槌副市長は艶やかに笑った。
本職の探偵でもないあおいは、なんらかの理由をつけて現場へ行かなくてはならなかったのだが、それには桂蓮神社の大杉枯死事件が役に立ちそうだった。
「でも…………ウチにそこまでしてやらせたい……えへん。いえ、私のような者にご依頼くださったということは、肝心の警察と消防に妖物がおられないということですか?」
「べつにいないワケではないの。ただ職務上、神族に近いクラスの者ばかりだから現場に残った小さな妖気なんか消し飛んでしまうのよ。だからとても捜査にならないってわけ」
たしかに危険な上、事件の原因が強力な妖物だった時に小妖では対処できない職務だろう。
しかし、今回のような凶悪事件で、神族クラスの出番がないというのも変な話だ。
「…………公僕にそんな強力な連中がいるなら、前のダーキニー騒ぎの時に手伝ってくれたってよかったじゃない……」
「え? 何か言った?」
ぼそりと文句を言ったあおいに、野槌が鋭い視線を向けた。
目の奥が緑色に光っている。
「いえいえいえ。なんでも」
あおいは目の前でぶんぶんと手を振った。
「ふふっ。ゆえにあの時は妾が行ってやったではないか」
野槌副市長は、ふくれっ面のあおいをなだめるように肩に手を置き、急に時代がかった口調になって耳元でひそひそと囁いた。
栗色の髪がふわりとふくらみ、瞳孔の色も緑色に変わっている。
「……ちゃんと聞こえてんじゃ……いえ聞こえておられましたか」
「そうカリカリするでない。ストレスは美容の敵ぞ」
あおいの不作法にも絶やさないその微笑みは、たしかに怒りとは無縁に見えて美しかった。
五十代も半ば過ぎと聞くが、葉子とは違ってまた年相応の美しさだ。淡い緑色のスーツがトレードマークであり、それがまた比較的大作りの顔によく似合っている。
「そういえば、いつもくっついてたあなたのとこの若い烏天狗……座間君っていったっけ? 彼はどうしたの?」
「里帰りです。お盆休みの振り替えで休暇とって」
里帰りとはいっても、遊びに行ったわけではない。
小学校の秋休みに入った大月姫子と共に、彼女が大天狗としての記憶と能力に覚醒するための修行の手伝いに京都の月輪山へ行っているのだ。
それもあおいの不機嫌材料のひとつであった。
いくら天狗同士の重要な修行とはいえ、姫子は肉体的には二十二歳の女性、それも座間に少なからず好意を抱いているのである。
その二人が京都の深山で何日も二人きり。
とりあえず座間に告白し、部下と上司という関係からは進歩したものの、まだ関係はギクシャクしている。友人以上恋人未満という状況を打破し切れていないあおいにとっては、とても平静でいられない状況であった。
「そ……そんなことより……私どもはあくまで民間企業です。今回の件についての報酬はいただけるんでしょうか?」
「ええ。大丈夫よ。あの辺の環境調査業務って事で、環境保全課に一本仕事を作らせるわ。私が決裁すれば済む話だもの」
「ちょっと、それってまさか随意契約……」
「そうよ~。だって入札にしちゃったら、あなたのとこが落とすとは限らないし、落とせるように画策したら官製談合になっちゃうじゃない。」
あおいはがっくりと肩を落とした。
市の随意契約案件は三十万円が最高額である。要するにそのくらいの報酬で凶悪殺人事件を捜査する探偵まがいの仕事をしろと言っているわけだ。
「それじゃあ、あのハゲ親父と同じじゃない……神様だったら、通力でウチが落札できるようにすることくらい出来るでしょうに……」
「ほう? お気に召さぬかえ?」
またぶつぶつとつぶやいたあおいに、野槌は再び緑色の視線を向けた。
「いえいえ。とんでもない。やります」
あおいは慌ててまた顔の前で手を振った。
相手は古い女神である。妙なバチでも当てられてはたまったものではない。
そもそも野槌副市長はコンサルタント業務の仕事上、もっとも売上の多いF市の総元締めでもあるのだ。本来の業務外のことだと電話では言えても、面と向かって断れようはずは無かった。
「大丈夫よ、相手が何者だろうと。
強力な天狗や妖狐、山姫までも従えているうえに、あなた自身もガネーシャを追い返したほどの能力持ちだもの」
あおいは、カヤノヒメが口に手を当ててころころと笑うのを睨み付けたくなったが、唇を噛んで堪えた。