§1 怪事件
妖怪ビオトープ管理士の第三話です。ご神木に除草剤を注入して枯らすという、罰当たりな現実の事件に憤りを感じ、書き始めました。ご神木、鎮守の森がどのような役割を果たしているか、そのあたりが書けていれば良いのですが。
§1 怪事件
「……お断りします。ウチは妖怪専門の探偵じゃないんで」
あおいは受話器に向かってぶっきらぼうな口調で言い放つと、さっさと電話を切った。
そしてムッとしたような表情で席を立つと、来客用のソファに沈み込む。
手には、飲みかけのコーヒーが入ったカップを持ったままだ。
ことビジネスに関しては腰の低いあおいが、何の依頼であれ電話の相手にこんな態度をとるのは珍しい。
自分の席でその様子を見ていた葉子が、目を丸くして驚いた。
「あらあら、社長にしちゃ酷い断り方じゃないの。また入堂部長なんでしょ? 電話の相手……」
今日の株式会社トープスのオフィスには、社長であるあおいと、自分のデスクでパソコンに向かっている稲成葉子の二人しかいない。
他の社員達は、現地調査や打ち合わせのために外出しているのだ。
葉子は出産休暇を終えて一週間前に復帰したばかりである。
すぐにでも出社するという葉子に、育児休暇を……と社長のあおいは勧めたが、『あんた達だけで、仕事が滞らないなら、何ヶ月でもとらせてもらうけどね』と言われて言葉が返せず、出産後わずか一ヶ月半での出社となったのだ。
赤ん坊の面倒は、葉子に仕えている二匹の妖狐が見ているとのことで、出社直後から業務を苦にしている様子はなかったが、それでも残業や外出作業は避けるよう、会社全体で気を遣っていた。
晩秋のこの地方には珍しく、うららかな日差しが差し込んでくる午後である。
ここしばらく面倒な下請け仕事が多くなり、体の空かなかったあおいは、つかの間のコーヒータイムを邪魔され、まだ不機嫌そうにしている。
「いえ。野槌さん」
あおいがぼそりとつぶやいた名前を聞いて、葉子はよけいに驚いた顔になった。
「野槌副市長!? そんなお人の依頼を断るなんて、なおさら解せないわねえ。そんな無茶な話だったのかい?」
F市の野槌副市長といえば、女性ながら中央にまで聞こえるF市市政の陰の立て役者。指折りのやり手である。
そして、その正体はカヤノヒメという、古い女神なのだ。
仕事上はもとより霊格上も、その依頼をにべもなく断って良い相手ではない。
「…………稲成さんも知ってるでしょ? 志水東の件」
「あー。例の……誰かが殺された……かも知れないって変な事件?」
葉子は少し納得したような顔でうなずいた。
ここしばらく、F市はそのニュースで持ちきりだったのだ。
地方都市であるこのF市では、事件らしい事件が起こることすら珍しい。
のどかな田園風景の広がる農村部はもちろん、地方都市のご多分に漏れず、うら寂れた駅前商店街も、郊外に広がる新興住宅地も、人通りも少なく凶悪犯罪とは無縁の雰囲気なのだ。
農村部では、いまだに戸口に鍵を掛けないで外出する人も少なくない。
そんなことをしなくても、村の人間は物盗りなどしないし、よそ者がやって来れば、誰かが見ていてすぐに分かる。
排他的、と言えばそれまでなのだが、いったん心を開き地元の仲間として打ち解ければ、こんどは困った時には頼みもしないのに飛んできて助けてくれるようになる。
そういう土地柄なのだ。
穏やかな気候と豊かな農産物、水産物に恵まれ、豪雪以外は災害らしい災害もないことが、この我慢強く穏やかな県民性をはぐくんできたと言えるのかも知れない。
家庭環境もまた平和なのだろう。離婚率もまた全国一低いことがそれを示している。
地方版のトップが、木に登って降りられなくなった子猫救出に消防が出動したというニュースだったりするほどである。
全国紙に載るような事件など、ここ数十年無かったのだ。
そんな地方の県庁所在地であるF市で、それこそ前代未聞といえる不可思議な事件が起こった。
それぞれ二社しかない地方新聞も民放も、中央の政局や経済情報、国際問題をさしおいて、連日その事件を伝えていた。
しかも、その犯人ではないかと噂されているのがなんと、道ばたのお地蔵さんであったのだ。
早朝。異変を最初に発見したのは、新聞配達の少年であった。
場所は、F市の西端を流れる比埜川を越えたあたり。
田園地帯と低い丘、新興住宅地が入り交じり、近くの広域農道には巨大な商業施設もある。
いわゆる、スプロール現象と呼ばれる状況。
地方都市の郊外によく見られる、計画性のない開発にさらされている地区である。
現場は、広々とした水田地帯を貫く真っ直ぐな市道だった。
その市道が、雑木林に覆われた低い丘の麓にさしかかり、集落に入る一歩手前の道路上。
丘へ向かう道と交差する十字路の真ん中に、血痕があったのだ。
いや、血痕などという生やさしい量ではない。路面全体を覆うように広がっていたその血は、二リットル以上はあるのではないかと試算された。
明らかに異常である。
最初は、いたずらではないかと報道された。
血液といっても、人間のモノとは限らないからだ。
だが警察の鑑定で、それが一人分の人間の血であることが分かり、急に事件は陰惨な様相を呈してきた。住民は不安におののき、マスコミは色めき立った。
血液の主が普通の人間であれば、生きているはずがない。
しかし、遺体はどこにもない。
それどころか、車のタイヤ跡はもちろん、血だまりの上には被害者が倒れた形跡も、遺体を運び去った者の足跡すらなかった。
ところが、血の跡が点々とつながっている場所が一カ所だけあった。
それが、丘へ向かう山道の入り口にある小さな地蔵堂だったのだ。
いかにも大衆受けしそうな怪奇事件である。
全国からマスコミが押し寄せ、大騒ぎとなった。
しかし……事件から二週間が経とうとしている現在も、警察は捜査の進捗状況を発表してはいない。実際、何の手がかりもつかめていないようなのだ。
「だからって頭から妖怪の仕業って決めつけるのは、ちょっと腹が立つじゃない?」
あおいが怒っていたのは、野槌副市長が妖怪の仕業と見込んで依頼してきたせいのようであった。
「まあ、たしかにあんな妙な事件持ち込まれちゃ、困るって気持ちは分かるけどさ……妖怪じゃないにせよ、獣とか……人間の仕業じゃない可能性はあるんじゃないの? 野槌さんならその辺もお分かりになった上で依頼して来られたんでしょ?」
「そんなこと分かってるわ。でも、あの地域には、私が設計させてもらって継続管理しているビオトープがあるの。だから、あの辺の妖怪達は全部知っているけど……そんな凶悪な子は一人もいないのよ」
あおいがビオトープを作る時には、必ず地域の神や妖怪に伺いを立てる。
地域の自然を尊重したビオトープを創るには、過去の自然環境、生態系を再現するのが手っ取り早く、またそれらを再現するには古くから土地に住み着き、自然環境と共に存在し続けてきた妖怪達が住みやすい状況を作り出してやるのが早道なのだ。
そうすることで、本来の地形や様子が再現しやすく、潜在的な植生の回復や住み着きやすい生物種の選定も容易になるのである。
なにより土地の妖怪達の力が回復してくれば、自分たちで環境維持しようとする力も働きはじめる。そうした助力を得られることで、失敗なくビオトープを維持していけるというわけだ。
「むじな、野ぶすま、風狸、蟇、傘小僧……数はいるけど、どれも善良で小さな妖怪ばかり。あのへんに大それたことのできる妖怪なんかいないのよ。しかもあんな凶悪な事件。どうせ人間の仕業に決まってるわ。そりゃあ、霊査すれば犯人は分かるかも知れないけど……私は人間のドロドロした悪意が苦手なのよ……」
そこへ、事務所の古いドアを軋ませて、森いぶきが帰ってきた。
「あ、おかえり……どしたの?」
浮かない顔のいぶきを見て、あおいが眉をひそめた。
「社長……桂蓮神社の大杉、もうダメみたいです」
山神の正統系列である山姫を本性とし、樹木医の資格も持ついぶきがダメと言うからにはもうダメなのだろう。
桂蓮神社の大杉、とは神社の境内に生えている直径二.五mもある巨大な神木である。
その大杉がこの夏頃から急に弱り始めたのだ。樹冠の葉が茶色く枯れてきた、と思ったら急激に樹勢が衰え、バサバサと葉が落ち始めた。
これには神主はもとより、地元の住民も驚いた。樹齢数百年にも達しようかという大杉が枯れてしまったのでは縁起が悪いことこの上ない。
すぐに専門家が呼ばれ、あらゆる手が尽くされたが、回復の兆候は見られなかった。
そんな時、その桂蓮神社の神主からトープスへ依頼が入った。
なんでも神主の夢枕に立つ者があり、いぶきを呼ぶように指名してきたのだという。
不思議な話ではあったが、トープスの社員のほとんどが妖怪であることもあり、あおいはさほど驚かなかった。
たしかに、いぶきは樹木医としては資格を取得したばかりの駆け出しであったが、山姫でもある彼女は樹木の生命力をある程度操ることが出来る。
おそらく、その事を見抜いた桂蓮神社の祭神か神使が、白羽の矢を立てたのだろうということになった。
「周囲の樹木から木気を送り込んで、最初は少し回復したように見えたんですけどね……」
いぶきはあおいの向かいのソファに腰掛け、頭を抱え込んでいる。
「最後の方は、なんだか気を送り込めば送り込むほど、枯れ方が進む感じで…………」
治療を開始してから一ヶ月。今日、ついに杉から発せられる生命の気が途絶えたのだという。
「森主任……そんなに落ち込まないで。山姫のあなたが治療してダメだったのなら……誰がやってもダメだったと思う。きっと」
「気休めは言わないでください……原因すら特定できないなんて……樹木医としての初仕事がこれじゃあ……」
仕事を請ける時には張り切って向かってだけに、落ち込みが激しいのも分かる。
山姫としてのプライドも、大きく傷ついたのだろう。あおいは、掛ける言葉を探してしばらく沈黙した。
その時、事務所のドアが小さくノックされた。
「あれ? お客様みたい。はいはあい」
先ほどの不機嫌顔とは打って変わった明るい声で、あおいがドアを開けた。
正直、いぶきの持ち込んできた暗い空気を吹き飛ばせるなら、どんなお客でもありがたかった。
しかし、開けたドアの先には誰もいない。
「おっかしいな。気のせい?」
『気のせいではない』
きょろきょろと見回して、再びドアを閉めようとしたあおいは、飛び上がった。
その声は足下から聞こえたのだ。