祖父の霊
先日、祖父が亡くなった。私がこんなにも成長するまで、よく長生きをしてくれた。
私が幼かった頃、二つ年の離れた弟とよく祖父の家へ行った。
大きな屋根一面に瓦が敷かれているのは、まるで大河ドラマに出てくるお屋敷のように見えたのだと思う。よく伸びた松が特徴的な庭も広く、かつ手入れが行き届いていた。頭の中に武家屋敷でも思い浮かべながら、ここで弟とチャンバラでもしていたのだろう。ある程度記憶しているし、それでなくとも盆栽の周りで騒いでいる少年の姿など容易に想像できる。
すぐ近くの寂しい公園に落ちている棒切れを拾ってきては振り回す、というのも祖父の家に遊びにいく一つの目的だったが、一番はその家主に会いに行くことだったと記憶している。
垂れ目で、頭頂部が少し禿げている、穏やかそうな人だった。毎日畑仕事に励んでいるおかげか、腰を曲げて杖をついている姿は見たことがない。
今にして思えば、これがまた子供心をよくわかっている人で……いや、むしろ祖父がまだ子供だったのかもしれない。私たち兄弟と祖父は、互いに悪戯を仕掛けあった。
例えば夏には、蝉の抜け殻を服にこっそり付け、冬には、祖母が出してくれた白い饅頭の隣に雪玉を置いた。
しかし決め手と言えば、それは祖父が多くの怪談を知っていたことだろう。
夏休みの半分ほどを、その祖父屋敷で過ごした時は、夜毎にひとつ聴かされたものだ。
私はその時小学三年生にしてすごくつまらないというか夢のない子で、幽霊などというものをハナから信じていなかった。サンタクロースには自分の都合のために出動してもらったが。
そういうわけで私は平気だったのだが、小学生になったばかりの弟の怖がりようといったら可哀相なほどだった。何度か、怪談を聴くのをやめてはどうかと言ってみたが、怖くないもんの一点張りでどうしようもない。
ああ、そう。と言って、弟が一人で怖がっていれば済む問題ならばそれで良かったのだが、血の繋がっている兄弟である。弟は小学一年生。そういう子が助けを求めるのは最も近い知り合いで、この場合のその知り合いは私だったわけだ。
いつもどおり、祖父が怪談をする。私の弟の反応を楽しんだ後、祖父が私たちに充てられた寝室を出て行くと、決まって私の布団へと侵入してくる。
夏休みの夜。昼間のやかましい蝉の求愛とは一変して、網戸の外では虫の涼し気な合唱が行われている。が、どうにもこの、私の胴に巻き付いてくる四肢は暑苦しくて仕方がない。
力づくで引き剥がすが、気づけば再セット完了、という具合だ。人の睡眠を妨げながらぐっすりと眠るその顔に張り手をする衝動を抑えつつ、何日かの夜を過ごした。
弟からの束縛がより一層辛かった夜の翌朝、私はいつもより一時間ほど遅く起床した。朝食に焼き魚をつつき回した後、庭で蟷螂を弄っている弟を虫採りに誘った。
カブトムシはいないかと入念に、庭の木を見て回っていると、正午の鐘が鳴った。
私はすぐに庭木のパトロールを放棄して、祖父宅へと戻る。
「おじいちゃん」
ちょうど畑仕事から帰って来たらしい出で立ちの祖父に話しかける。
「なんだい」
「今日の怪談はね、あまり怖くないのにしてほしいの」
「おや、幽霊なんて信じていなかったんじゃないのかい」
いたずらっぽく笑いながら、祖父は泥のついた軍手やブーツを脱ぐ。それを見ながら、私は昨夜の事を話した。
それが終わると、祖父はにっこり笑って私の背中を叩いた。
「おじいちゃんに任せろ」
「お兄ちゃーん!」
私がいなくなったことに気がついたのだろう。私と祖父は弟の叫び声の方向に向かった。
その夜、いつもどおり、私と弟がパジャマに着替えて寝室にいると、いつもどおり、祖父が寝間着で部屋へとやってきた。弟の布団のそばに座り込むと、祖父は語り始めた。
昔々、ある村に、悪い山賊がいました。村人の畑から野菜をとって食い、こっそりと民家に忍びこんでは金目の物を奪い、金目の物がないときはその家に住んでいる人を殺して着ているものを剥いでしまう、とてもとても悪い奴でした。
やがて山賊も年を取り、若い頃のように動けなくなると、昔から山賊に乱暴をされていた村人たちに殺されてしまいました。
村人たちは、これで安心できると喜びましたが、それからというもの、村で不自然な人影を見かけるようになりました。それが現れるのは決まって夜です。
殺された山賊が、村人たちを恨んで幽霊となってきたのではないか。
そんな噂が村に出回りました。村人たちは大慌て。どうやって自分たちの身を守るか必死で考えます。しかし良い考えは思い浮かばず、やがて夜になってしまいました。
村人たちは皆、戸をしっかりと締め、怯えながらその夜を過ごしました。夜が明け、村人たちが互いに安全を確認すると、驚いたことに誰ひとりとして山賊に襲われた者はいませんでした。
いったい、どうしたことでしょう。
そこで祖父は話をやめ、弟に訊いた。
「どうしてだと思う?」
弟が小さな声でわからないと答えると、祖父は破顔とともに言った。
「先祖代々の幽霊が守ってくれるんだよ。おじいちゃんのおとうさんはもう死んじゃったけれど、ここで見守っていてくれるんだ。だから、何も怖がることなんかない。どんなに悪い幽霊がいても、おまえたちを襲うことはできないんだ」
その日の怪談はそれで終わりだった。翌日から、またいつもどおりの怪談が続いたが、少なからず効果はあったようで、弟は少しづつ、私から離れても大丈夫になった。祖父の家に泊まる最後の日には、少しこちらに寄る程度まで成長していた。
あれから何年が経ったろうか。
私も弟もすっかり社会人で、幽霊がどうのこうのといった話を鵜呑みにする年齢は過ぎてしまった。
そのうえ、私はもとから幽霊の存在を信じない主義の人間だ。
しかし、私には見えなくても、あの物腰の柔らかそうなしわだらけの笑顔がそばにあるというならば、幽霊の実在にすがりつきたくもなる。