『短編』人狂わせの姫
怖い
雪は降らなかった。
十二月の夜、俺は駅から三本目の路地に立っていた。街灯がひとつ壊れていて、そこだけ闇が深い。コンビニの袋を提げた男が通り過ぎる。スーツ姿のOLが早足で帰っていく。誰も俺に気づかない。気づかれるつもりもなかった。
目的の人物は、路地の奥のマンションに住んでいる。
田中慎也、二十七歳。証券会社勤務。半年前から柚子と付き合い始め、三ヶ月前から変わりはじめた。
俺はスマートフォンを確認する。午後十時十四分。柚子は今夜、大学時代の友人と食事に行っている。帰宅は十一時を過ぎるだろう。だから今夜がいい。
田中の部屋の灯りが消えた。
俺はまだ動かない。
五分後、エントランスのガラス扉が開いて、田中が出てきた。黒いダウンジャケット。手ぶら。目的地があるというより、何かに引きずられるように歩きはじめた。その歩き方を俺は知っている。
〘狂いはじめた〙人間の歩き方だ。
柚子……栗原柚子と俺が幼なじみになったのは、小学一年生の春だった。
隣の家に越してきた一家の、末っ子だった。引っ越し当日、段ボールに囲まれた玄関先で、彼女は俺を見て言った。
「あなた、お名前は?」
七歳にしては妙に落ち着いて上品な口調だった。俺は驚いて、自分の名前を言うことができなかった。黒い瞳が、ただまっすぐにこちらを見ていたせいで。
「橘宗介です」
と、どうにか答えた。
「柚子です」
と彼女は言った。
「よろしくね、宗介くん」
それだけで終わった。彼女は段ボールの山に戻っていった。俺はしばらく玄関先に立ち尽くしていた。もう話せることはないとあの時は思っていた。
あとになって考えると、あの瞬間から俺は守る側になることを、何となく決めていた気がする。理由はわからない。彼女に守ってほしいと頼まれたわけでも、何か危険なことが起きたわけでもない。ただ…あの黒い瞳を見たとき、俺はこの子は守られなければならない、と心の奥底で感じていた。あの時に気が付かなかっただけで。
子どもの直感は、大人の論理よりも正確なことがある。
田中の後をつける。
距離は二十メートル。夜の住宅街は人が少なく、田中の足音が響く。俺は靴底の薄いスニーカーを履いていた。こういう夜のために選んだ靴だ。
田中は柚子のマンションに向かっていた。
わかっていた。だから今夜ここにいる。
彼女のマンションまで、ここから徒歩で十分。田中はまっすぐ歩く。信号で止まる。スマートフォンを取り出して、何かを確認し、また歩く。柚子のSNSでも見ているのかもしれない。どこにいるか確認しているのかもしれない。
三ヶ月前、田中は変わった。
柚子は気づいていない。
彼女はいつもそうだ。自分に向けられた感情の変化に、まったく気がつかない。それは鈍感とは違う。彼女は感情そのものを正確に読む。ただ、その感情がおかしくなりはじめたときの変化を、見逃す。あるいは、俺が恐れているのはこちらだが…見えていても、止める術を持たない。止めようとは思わない場合。
前の彼氏のことを思い出す。
二年前。村瀬という男だった。
村瀬と柚子が付き合いはじめたのは、彼女が二十四のときだ。
俺は当時、柚子と同じ会社に勤めていた。同期入社で、部署は違ったが、昼食を一緒に食べることが多かった。幼なじみという関係は、社会人になっても自然に続いていた。
村瀬圭一、二十八歳。同じ会社の先輩だった。背が高く、顔が良く、口がうまい男だった。俺は最初から好きではなかった。理由を言葉にするのは難しい。ただ、村瀬が柚子を見るときの目が……どこか、飢えていた。
交際から四ヶ月が過ぎた頃、村瀬は変わりはじめた。
最初は些細なことだった。柚子が男性の同僚と話しているのを見て、あとで彼女に詰め寄る。俺には柚子が教えてくれた。
「ちょっと心配性なのかも」
と笑いながら話していた。
俺も顔は笑っていた。
心からは笑えなかった。
五ヶ月目、村瀬は柚子のスマートフォンを確認するようになった。
六ヶ月目、彼女の帰宅時間を玄関先で待ち構えるようになった。
七ヶ月目のとある夜、俺は村瀬を路上で見かけた。午前二時だった。彼は柚子のマンションの前に立っていた。ただ、立っていた。部屋の灯りを見上げながら。
その顔を、俺は今でも覚えている。
泣いているわけでも、怒っているわけでもなかった。あれが何という表情なのか、俺には言葉がない。ただ人の顔ではなかった、と思う。何かが抜け落ちて、何かに塗り替えられた、空洞のような顔だった。
俺はそのまま引き返した。何も見なかったことにしたかった。けど、できなかった。
翌朝、柚子に電話した。
「村瀬さんと別れた方がいい」
彼女はしばらく黙っていた。
「なんで?」
短く、探るような声。
「俺の感覚だ。うまく説明できない」
沈黙。
「……わかった」
少しの間をおいて、彼女は言った。
柚子はいつもそうだった。俺が
「感覚だ」
と言うと、理由を聞かずに従う。子どもの頃からずっとそうだった。それが俺には時々、重かった。彼女は俺を信頼しているというより、自分の外側の判断に委ねることに慣れすぎている気がした。
村瀬は別れを告げられた翌日、道端で見知らぬ男を殴った。
相手は通りすがりの会社員で、何の関係もない人間だった。村瀬は取り調べで
「目が合った」
とだけ言ったらしい。
柚子はそのニュースを俺から聞かされて、静かになった。
「怖くなかったか」
と俺は聞いた。
「怖いというより悲しい」
と彼女は少し考えて言った。
「悲しい?」
「圭一くんが、そんなふうになってしまったのが」
俺は何も言えなかった。
田中が立ち止まった。
柚子のマンションの手前、百メートルほどの場所にある自動販売機の前だ。缶コーヒーを買う。プルタブを開けて、飲む。煙草を取り出して、火をつける。俺は物陰から見ている。
田中が煙草を吸うのを、俺は初めて見た。
彼女から聞いていた。「慎也くん、煙草は吸わないんだって。体を大切にしてるって」。三ヶ月前の話だ。
人は変わる。
柚子に近づいた人間が変わっていく様子を、俺は何度も見てきた。村瀬だけじゃない。大学時代に彼女が一時期仲良くしていた女友達は、柚子に依存しはじめて、最後には彼女のSNSに中傷を書き込んだ。高校時代の同級生は、告白を断られた後、彼女の家の前を毎日通るようになった。
柚子は何もしていない。
彼女はただ存在している。白い肌、サラサラとした黒髪、すらりと伸びた手足。声は低すぎず高すぎず、笑うときだけ少し目が細くなる。俺が知っているのは全部そういう表面的なことで……いや、違う。俺が知っているのは彼女の中身でもある。
柚子は、優しい。
ただし、その優しさは人に向かって積極的に発揮されるものではない。誰かが傷ついていると、彼女はそれを黙って受け取る。受け取って、抱えて、それでいて言葉にしない。その沈黙が、人には理解されていると感じられるのかもしれない。
本当に理解しているのか、俺にはわからない。
彼女が何を考えているのか、二十年近く隣にいても、俺には最後までわからない。
そんな彼女を俺は守る。
田中が煙草を踏み消した。
缶を自動販売機の横のゴミ箱に捨てて、また歩きはじめた。柚子のマンションへ向かう足取りは、来たときより速い。俺はついていく。
マンションのエントランス前で、田中は止まった。
インターフォンのパネルを見る。押さない。ただ、見ている。柚子の部屋番号は、エントランスの表示で確認できる。305号室。田中はそこに視線を固定したまま、動かない。
俺は路地の角から見ている。
三分が過ぎた。
五分が過ぎた。
田中は動かない。
この動かない時間が一番怖い。村瀬もそうだった。何かをしようとしているのではなく、何もできなくなっているのだ。意志が飽和している。行動に変換されない感情が、ただそこに溜まっている。その圧が、どこかで弾けたとき……。
スマートフォンが震えた。
俺のものだ。画面を見る。柚子からのメッセージだ。
「もう帰るね。今日楽しかった」
俺は田中を見る。田中のスマートフォンも、光っている。
彼女は田中にも送ったのだろう。今日楽しかった。と、きっと同じような文面で。
田中の肩が動いた。
スマートフォンを見て、何かを打つ。送る。そしてエントランスから離れて、もと来た道を戻りはじめた。
俺は息を吐く。
今夜は、これで終わりだ。
帰り道、俺は自分が何をしているのかを考える。
陰から守るというのは、聞こえのいい言葉だ。しかし実態は、ただのストーカー
二十年、俺は彼女の隣にいた。
告白したことは、一度もない。
正確には、しようとしたことは、ある。大学二年の夏。俺たちは同じ大学に進んでいた。柚子が帰省するという日の前夜、俺は彼女に話があると言った。
彼女は頷き、ついてこようとする。
でも俺は何も言えなかった。三十秒ほど黙って、
「いや、やっぱりいい」
と言った。
柚子は何も言わず、何も聞かなかった。
翌日、彼女は帰省した。俺は部屋で一人、自分が何を恐れているのかを考えた。
答えは出た。
俺が柚子に想いを告げたとき、俺もまた狂うかもしれない。そう思ったのだ。
根拠はない。ただ、村瀬を見ていて、高校の同級生を見ていて、俺の中で何かが結晶化した。柚子に強く引きつけられた人間は、変化する。それが恋愛感情であれ友情であれ、彼女への想いが一定の密度を超えると、人は別の何かになっていく。
ならば俺は?
俺はとっくに、その閾値を超えているはずだった。二十年間、ずっとそうだった。なのに俺は狂っていない。
これが神の定めか、別の何かなのかは分からない。
路地を曲がる。自分のアパートが見える。古い木造の二階建て。家賃が安いのは、この辺りでは唯一の長所だ。それ以外に、ここに住む理由がある。
柚子のマンションまで、徒歩七分だ。
翌朝、俺は柚子から電話を受けた。
「ねえ宗介くん、相談があるんだけど」
「なんだ」
「慎也くんのこと」
俺は少し間を置いた。
「どうした」
「昨日の夜、私が帰ったら部屋の前に来てたの」
俺の手が止まった。
「お前が帰ったとき?」
「うん。十一時半くらい。突然。連絡もなしに」
田中は引き返したはずだった。俺が確認した。マンションの前を離れて、駅の方へ戻っていった。
「それで?」
俺は急かすように聞く。
「びっくりしちゃって。どうしたのって聞いたら、会いたかったって。それだけで。入ってもらってお茶飲んで、一時間くらい話して帰った」
「何を話した」
自分でも声がこわばるのが分かる。
「……あんまり覚えてない。慎也くんがずっと私を見てて、私が話すたびに頷いてて、でも何か言葉が……うまく出てこないみたいだった。なんか、怖かったかも」
「怖かった?」
「怖いって言うか」
と彼女は探るように言う。
「見られ方が、変わった気がして」
俺は窓の外を見る。冬の朝の光が、アパートの向かいの壁を白く照らしている。
「別れた方がいい」
俺はできるだけ強く言った。
沈黙。
前と同じ沈黙。
「……また、感覚?」
「ああ」
「……わかった」
彼女はそれだけ言って、電話を切った。
俺はしばらくスマートフォンを持ったまま立っていた。
わかった、と彼女は言う。いつもそう言う。俺の感覚を信じて、理由も聞かずに従う。
俺はその従順さが、ずっと好きではなかった。同時に……それに依存してきた自分がいる。彼女が俺の判断を疑わないから、俺は守る側でいられる。
もし彼女が一度でも
「なんで? 慎也くんのどこが問題なの?」と押し返してきたら、俺は何を言えただろう。「夜中に様子を見に行ったら変な顔をしていた」?
「マンションの前で立ち尽くしていた」?
俺が何をしているかが、ばれる。
田中に別れを告げた翌週、柚子は俺に
「お昼でも食べよう」
と誘ってきた。
近所のカフェで、二人でサンドイッチを食べた。
柚子は別れの経緯を話した。田中は泣いたという。なぜと何度も聞いたという。それをどうしてもと断ったと。
「そう言うしかなかったんだもんね」
と俺は言う。
彼女は首を縦に振る。
「……でも、なんか申し訳なかった」
「お前は何も悪くない」
「そうかな」
コーヒーカップを両手で包んで、彼女は窓の外を見る。冬の光の中で、彼女の輪郭が少しぼやける。
「私、なんでこうなるんだろう」
と彼女は言った。
俺は何も言わない。
「好きで付き合った人が、変わっていく。私が何かしたわけじゃないのに。ただ一緒にいるだけで」
「柚子」
「宗介くんは、変わらないね」
俺は止まった。
「二十年、ずっと同じ宗介くん。ありがたいな、って思う」
彼女は俺を見て、少し目を細めた。笑っているのだ、と俺はわかった。
俺は何も言えない。
変わらない、と彼女は言う。
俺は本当に変わっていないのだろうか。二十年間、同じ場所に立ち続けることは、変わらないことなのか。それとも止まっているだけなのか。
三月になった。
田中慎也は、柚子に別れを告げられてから二ヶ月間、まともに出社していないと人伝に聞いた。仕事が変わったのかもしれないし、単純に休んでいるのかもしれない。それ以上は確認していない。俺の仕事は守ることで、追跡することではないと思う。自分でも、その境界がどこにあるのかわからなくなることがある。
柚子は元気だった。
元気、というのは正確ではないかもしれない。彼女はいつも同じように見える。悲しいときも、楽しいときも、疲れているときも、柚子は柚子のままだ。その同一性が、彼女の磁場を作っているのかもしれない……人は変化に惹かれるが、もっと深いところでは変わらないものに惹かれる。柚子は変わらない。だから人は彼女の軌道に入り込み、自分が変わっていく。
四月、柚子は新しい職場の同僚と仲良くなった、と話してくれた。
女性だという。俺は少し安堵した。
面白い人でさと柚子は言い、言葉を続ける。
「本をたくさん読む人で、話してると楽しい」
「そうか」
「宗介くんも会う? 今度三人でご飯でも」
「考える」
考える、は俺の返事のパターンだ。柚子への関与が増えることへの、小さな抵抗。守る側でいるためには、守られる者との距離を一定に保つ必要がある。近づきすぎると……。
五月の終わり、柚子からメッセージが来た。
「ちょっと話せる?」
俺は電話をかけた。
「沙耶ちゃんのことなんだけど」
と彼女は言った。沙耶、というのが新しい女友達の名前らしかった。
「最近、なんか変で」
俺は目を閉じた。
「変、というのは」
「私に毎日連絡してきて。返信が遅れると、どうしたのって何回も送ってきて。昨日なんか、私が返信しなかったら会社まで来た」
「……それは、怖いな」
「怖い、というより」
と柚子は言いかけて、止まった。
「悲しい、か?」
と俺は言った。
少し間があって、そっかと彼女は言った。「なんでわかるの」
「お前はいつもそう言うから」
沈黙。
「宗介くんは、私のことよく見てるね」
俺は何も言えなかった。
「沙耶ちゃんとは、距離を置いた方がいいかな」
と柚子は言った。
俺は頷く。
「お前が判断したなら、それが正しい」
「でも、傷つけたくないし」
「お前が選んだことで、相手がどうなるかは、お前のせいじゃない」
「……そう言える宗介くんが、ちょっとうらやましい」
俺は窓の外を見る。五月の夜の空気が、網戸越しに入ってくる。
うらやましい、と彼女は言う。
俺が何を捨てて、この場所に立っているかを、彼女は知らない。
梅雨が明けた頃、俺は初めて限界という言葉を意識した。
自分の限界ではない。俺がこのまま守る側でいることの、構造的な限界だ。
柚子の周りで人が変化していくサイクルは、止まらない。止める方法は、柚子が人と関わることをやめるか、柚子の周りに常に俺がいて介入するか、のどちらかだ。前者は不可能だし、そうあるべきではない。後者は……俺がすでにやっていることだが、それは永続しない。
俺はいつか、この役割を終えなければならない。
あるいは、俺自身が狂う前に。
七月の夜、俺は自分のノートに書き出した。柚子に関わって変化した人間のリスト。名前、関係、どのように変わったか。
村瀬圭一。暴力。
高校の同級生、安達。ストーキング。
大学の友人、橋本。依存と中傷。
田中慎也。……まだ、何もしていない。
田中の欄が空白なのは、俺が間に合ったからだ。しかし間に合ったと言えるのか? 田中は今、どこで何をしているのか。俺には追う義務はない。ないはずだ。
ノートを閉じる。
リストを書きながら、俺は自分の名前を書かなかった。
「橘宗介。幼なじみ。二十年間、告白もせず、離れもせず、陰から監視し続けている」
それを書いてしまったら、俺は何になる。
八月。柚子から会いたいと連絡が来た。
珍しかった。俺から誘うことはあっても、彼女からは少ない。
待ち合わせは、駅前の喫茶店だった。
彼女は先に来ていた。窓際の席に座って、外を見ていた。夏の光の中で、彼女は白かった。白い肌が、薄い青の服の中にある。
彼女は手を振る。
俺は前の席に座る。
「話があって」
「なんだ」
柚子はカップを両手で持って、少し目を伏せた。
「私、引っ越そうと思ってるの」
俺は動かなかった。
「遠く?」
と俺は聞いた。声が平静であることを確認しながら。
「そんなに遠くはないけど。今住んでるところ、なんか……居づらくなってきて」
「沙耶さんのこと?」
「それだけじゃないけど。なんか、今の環境を変えたいなって。新しく始めたい」
俺は窓の外を見た。夏の通りを、人が歩いている。
「そうか」
と俺は言った。
「宗介くんは、どう思う?」
俺は何を言うべきか考えた。
「お前がそうしたいなら、そうすればいい」
「冷たいな」
と彼女は少し笑った。
「冷たくはない」
「お前の決断を、俺が止める理由がない」
「止めてほしかったわけじゃないけど」「……意見を聞きたかった」
「引っ越すことで、何かが変わると思うか?」
「……わからない」
本当に分からないときの声。
「変わらないかもしれない」
「うん」
「場所が変わっても、お前はお前のままだから」
柚子は俺を見た。しばらく、ただこちらを見ていた。
「それって、いいことなの? 悪いことなの?」
俺は答えられなかった。
「どっちでもある」
と、少しして言った。
「たぶん」
彼女はまた外を見た。
「そうだね」
と言った。
柚子が引っ越した。
徒歩七分が、電車で十五分になった。
実質的には大した差ではない。しかし俺は、自分の部屋の窓から彼女のマンションの方角が見えなくなったことに、予想以上の喪失感を覚えた。
見えなかったとしても、見ていたわけではない。ただ、方角を知っている、という事実が俺を支えていた部分があった。
どこが守るで、どこが執着なのか。
十月に入った。
新しい職場の同僚が、柚子に好意を持ちはじめた、と彼女から聞いた。
「告白されそう」
と彼女は言った。
「受けるのか」と俺は聞いた。
「……どうしようかな」
「好きか?」
「まだよくわからない」
「なら、わかるまで待てばいい」
本当は受けてほしくない。
「そうだね」
「ありがとう」
ありがとう。
その言葉が、俺の中で何かに刺さった。鈍い刺さり方で、深いところへ届いた。
ありがとう、と言う。俺が何かをするたびに、彼女はそう言う。感謝している。俺を信頼している。二十年間の幼なじみとして、大切に思っている。
それ以上でも、それ以下でもない。
俺が望んでいたものが何であるかを、俺はとっくに知っている。知っていて、言えなかった。言えないまま、守る側でいることを選んだ。
なぜなら……俺は狂いたくなかったから。
それが本当の理由だ。
村瀬を見て、安達を見て、橋本を見て、田中を見て……俺は自分を守った。柚子への想いを封じることで、変化することを避けた。
しかし今、その選択の結末が見えている。
俺は狂わなかった。
その代わりに止まった。
十一月の終わり。
柚子から電話が来た。夜の十時過ぎだった。
「宗介くん」
声が、いつもと違った。
「どうした」
「ちょっと、怖いことがあって」
俺は立ち上がった。居ても立っても居られない。
「何があった」
「田中くんが」
「今日、新しい職場に来てた」
俺は部屋の中を歩きはじめた。コートを探す。
「今どこにいる」
「家。もう帰ってる。大丈夫」
「声をかけられたか」
「うん。……話しかけてきて、また会えてよかった、って。笑いながら。でも笑い方が変で」
俺はコートを着る。
「今から行く」
「え、来なくていいよ、大丈夫だって」
「俺が来たい」
沈黙。
「……うん」
と彼女は言った。「じゃあ、来て」
電車で十五分。
俺はドア横に立って、窓に映る自分の顔を見る。
田中が新しい職場を調べた。柚子が転職したことを、どこかで知った。それだけの執念が、八ヶ月を経てまだ続いている。
俺の予測は、甘かった。
間に合ったと思っていた田中は、止まっていなかった。ただ、水面下に潜っていただけだ。
電車が駅に着く。俺は降りる。
柚子の新しいマンションのインターフォンを押す。
「宗介くん?」
と声がして、すぐに解錠される。
三階。305号室……ではなく、今は212号室。部屋番号まで変わったのに、田中はここを知っている。
ドアが開く。
柚子が立っている。白いルームウェア。少し顔が青い。でも姿勢はまっすぐだ。
「ありがとう、来てくれて」
俺は中に入る。
「警察には言うべきだ」
俺はそう提案する。
「そこまで?」
「今日のことを記録しておけ。日時、場所、何を言われたか。次があれば、すぐに相談できる状態にしておく」
彼女は小さく頷く。
「宗介くん、なんかプロみたい」
俺は答えない。
プロでもなんでもない。ただ、俺はこういうことを、何度もやってきた。
「お茶、飲む?」
そう言って彼女は席を立つ。
「もらう」
と俺は短く言って、ソファに座る。
彼女がキッチンに行く。お湯を沸かす音がする。俺は部屋を見る。段ボールがまだ少し残っている。棚に本が並んでいる。窓に薄いカーテンがかかっている。
「ねえ」と柚子がキッチンから話しかけてくる。
「なんだ」
「田中くんのこと、宗介くんは前から変だと思ってたんでしょ」
俺の中の時が止まった。
「なぜそう思う」
「感覚で、って言ったとき。あれ、全然説明してくれなかったじゃない」
「ああ」
俺は納得する。
「今回も、同じ感覚だったの?」
俺は少し考えた。
「今回は、事実がある。お前が怖いと思ったのが、事実だ」
「宗介くんは、私のこと、ずっと心配してくれてるよね」
「幼なじみだから」
「それだけ?」
俺は答えない。答えられない。
カップを持って、柚子が出てきた。俺の前に置いて、向かいに座る。
「昔から、宗介くんは私に何かを言おうとして、やめることがある」
俺は窓を見る。
「大学のとき、話があるって言ったこと、覚えてる?」と彼女は聞く。
俺は覚えている。もちろん覚えている。
「あれ、なんだったの」
「もう関係ない」
俺はもう未練はないと見せていたい。
「関係ない?」
「今となっては、ということだ」
彼女はしばらく俺を見ていた。カップを持ち上げて、飲む。窓の外で、冬の風が木の枝を揺らしている。
「宗介くんは、幸せ?」
俺は答えなかった。
答えようとして、言葉が出てこなかった。
幸せかどうか。それを考えたことが、なかったわけではない。ただ俺は、幸せの定義を守ることに置き換えて、長い時間を過ごした。守れている間は、大丈夫だ。それ以外のことを、考えないようにしてきた。
「……わからん」
と俺はどうにか言った。
柚子は何も言わない。
「私も、たまにわからなくなる」
と彼女は続けた。
「幸せなのか、そうじゃないのか。私の周りの人がどんどん変わっていって、私だけが同じでいて。それがいいことなのか、悪いことなのか」
「お前は悪くない」
「そうじゃなくて」
と彼女は少し首を振る。
「変わらないことが、幸せかどうかって話」
俺は何も言えない。
彼女は窓の外を見ている。
「宗介くんも、変わらないじゃない。ずっと同じで、ずっと優しくて、ずっといてくれる」
「……そうだな」
「それが、嬉しい」
「嬉しいんだけど」
少しの間があった。
「なんか、怖いときもある」
俺は柚子を見た。
彼女はまだ窓を見ている。
「怖い?」
「変わらない人って、どこかで溜まってるんじゃないかって。私のせいで、どこかが止まってるんじゃないかって」
「それを私が作り出してたら……」
俺は無意識に彼女の口に手を当てる。
俺は何かが胸の中で崩れる感覚がした。
それ以上聞いたら崩れてしまう。
崩れる、というのは正確ではない。ずっとそこにあったものが、ようやく形を持ったような……。
「そんなことはない」
俺は首を振る。
嘘だった。
初めて、俺は柚子に嘘をついた。
彼女はそちらを向いて、俺を見た。何か言おうとして、止まって、また窓を見た。
「そっか」
と彼女は言った。
信じたのか、信じていないのか、俺にはわからなかった。
翌月、田中慎也は柚子に接触を試み、俺が話をつけた。
話をつけた、というのはぼかした言い方だ。正確には、俺が田中の前に立って、
「これ以上近づくな」
と言った。穏やかに。静かに。ただし、引かない意志を持って。田中に穏やかに見えたかどうかは定かではない。
田中は俺を見た。
しばらく俺を見て、何かを言おうとして、やめた。
「お前は何者だ」
と田中は聞いてくる。
「幼なじみ」
それ以外の回答は持っていない。
田中はまた俺を見た。それから、ゆっくりと俺から視線を外して、下を向いた。
「……わかった」
と田中は言って、背を向けて歩いた。
俺は後ろ姿を見送った。
田中の歩き方は、あの夜とは違っていた。引きずられるのでなく、ただ疲れた人間の歩き方だった。何かが終わったのか、あるいは何かを捨てたのか。
俺にはわからない。
柚子には話をしたとだけ伝えた。彼女はありがとうとだけ言った。
ありがとう。
また、その言葉。
年が明けた。
俺は今、柚子の新しいマンションから、電車で十五分の場所に住んでいる。
越した、というほどではない。以前のアパートの更新が切れて、新しい部屋を探したとき、俺は無意識に電車で十五分圏内を選んでいた。
それに気づいたのは、引っ越しが終わった後だった。
俺は自分のリストを取り出した。
名前のない欄の前で、俺はペンを持った。
書こうとして、やめた。
書いてしまったら、俺は自分が何であるかを認めなければならない。
ペンを置く。ノートを閉じる。
窓の外、一月の空は低く曇っている。
柚子は今日、新しい職場の同僚に告白されると言っていた。受けるかもしれない、と言っていた。
「よかったな」
「応援してくれるの?」
と彼女は笑った。
俺は首を縦に振る。
これも嘘ではない。本当に、よかったと思う部分がある。同時に……思わない部分がある。
俺は、複数の自分を持てるようになっていた。柚子の幸福を望む自分と、柚子を独占したい自分と、何も感じないふりをしている自分と、感じすぎて止まっている自分と。
薄々気がついていた。
どれが本当の俺なのか。
全部だ、と今は思う。全部が俺で、全部が二十年かけて積み重なってきたものだ。
柚子は変わらない。
俺も変わらない。
ただ俺たちは少しずつ違う方向に止まっている。
二月の夜。
俺は一人で、駅から三本目の路地に立っていた。
今は誰かをつけているわけではない。ただ、散歩の途中でここを通った。柚子の旧マンションがあった場所だ。今は別の人が住んでいる。当然だ。
街灯がひとつ、壊れたまま放置されている。あの夜と同じだ。
俺はしばらく立っていた。
柚子から昨日、メッセージが来た。付き合うことにしたと。笑顔の絵文字が一つついていた。俺はよかったと返した。
新しい男が、今度こそ変わらないといい。
そう思う。本当に思う。
同時に……準備している自分がいる。
何かが起きたとき、俺は動ける場所にいる。電車で十五分。連絡が来れば三十分以内に着く。リストはある。記録はある。
俺は守る側だ。
それが俺の選んだ生き方で俺が選んだ止まり方だ。
やはり恋は人を狂わせる。
俺だけが例外だと、ずっと思っていた。
しかし今、冬の路地に一人立ちながら、俺は初めて考える。
狂うことができなかった人間と、狂った人間の、どちらが本当に狂っているのか。
村瀬は暴力を振るった。田中はマンションの前に立ち尽くした。橋本は中傷した。安達は毎日通った。
彼らは確かに狂った。
俺は、二十年間、静かにここにいた。
感情を封じ、距離を保ち、監視し、介入し、守る側という役割に自分を収めて。
一度も告白せず、一度も離れず、一度も自分の欲望を認めず。
それを正常と呼ぶのなら。
俺の正常は、彼らの狂気より、ずっと静かで、ずっと長く、ずっと深いところまで染みていた。
街灯の壊れた区画に、風が吹く。
俺は道を戻る。
柚子は今夜、新しい彼氏と食事に行っているだろう。
俺は部屋に帰る。
明日も、俺はここにいる。
〘それが俺の、狂い方だから〙
自分も狂わされてる




