3. 長かった1日のおわり
洗浄の準備を終え、保護装置の蓋を開く前にノックをする。
「にんぎょさん、お風呂の用意ができました。
開けてもいいですか?」
するとセヴァがノックをしたように、ゆっくりとしたテンポでコンコンコンと返ってきた。
スーツの腕の部分だけ装着し、蓋を開く。
両手を差し入れると、人魚はとするりと手のひらに乗ってきた。
大きめのフラスコがいくつか連なっている機器の前へ連れていく。
「お風呂って言ったけど、洗浄器だよ。
体を綺麗にしてくれる、怖くないよ」
セヴァの親指にひっしと掴まって固まる人魚へやさしく声を掛ける。
洗浄器の入口へ人魚を近づけてみるが、指にしがみついて離れようとしない。
「心の準備が出来たら自分で入ってごらん。」
とセヴァが言うと、人魚は時間をかけ恐る恐る尾ヒレを近づける。
洗浄液に先の方だけちょんと触れるとジワーっと水が茶色く濁った。
人魚は驚いて尾ひれを引っ込める。
引っ込めた尾ひれの先をよく見ると、ほんの少しだけ茶色が薄まって綺麗になった、ような気がする。
人魚は驚いた様子で自分のヒレの匂いを嗅ぎ、手で触れたかと思うと一気にフラスコの中へ飛び込んだ。
一瞬でフラスコ内が濁り、姿が見えなくなる。
「綺麗になるまで何周かさせなきゃ。」
慌てて次のフラスコへの扉を開け
「次のエリアへどうぞ!」
と人魚へ声をかける。
2つ目のフラスコも順調に濁り始める。
人魚が移動した後のフラスコの洗浄液を新しいものと入れ替えながら、セヴァは人魚に声をかけ続けた。
5つのフラスコを2周ほどした頃
「セヴァ、いい加減にしなさい」
母が呆れ顔で部屋に入ってきた。
「あなた、ご飯も食べずに閉じこもって。何時間経ったと思っているの。
もう夕飯の時間になるわよ。」
母に頭を撫でられた瞬間、空腹を突然感じ始めた。
「母さん、ごめんなさい。ご飯まだ残ってる?。」
「テーブルに用意してあるから食べてきなさい。
洗浄なら母さんが見ておくわ」
母は優しく言う。
「にんぎょさん、ぼく、ご飯を食べてくるね」
濁りが 薄れてきたフラスコ内からコンコンと叩く音がした。
チラリと母を伺うも、驚いている様子はない。
やはり所長や両親は人魚の存在を知っていたのだろうか。
所長に答えられないと言われた事を思い出す。
何も聞かずに食事へ向かう。
リビングは美味しそうな香りで満たされていた。
ホカホカの食事がテーブルに置いてある。
父は入浴を済ませた様子でくつろいでいた。
「洗浄には時間がかかるからね、最初から手伝うべきだったね」
父が申し訳なさそうに言った。
「最初は警戒されてたけど、話しかけながら進めたら、うまく行ったよ。
人魚って人間の言葉を理解しているみたいなんだ。」
父は『それはビックリダネ!』と初めて聞いたというような、大げさな演技をする。
セヴァが質問するより前に
「研究所に報告する義務はないから。
しっかりお世話するんだよ。
育ち盛りなんだ、しっかりご飯を全部食べてしっかり寝ること。
おやすみ!」
一息に喋ると、持っていたタブレットを畳みそそくさと行ってしまった。
セヴァはふぅとため息をつき、食事を始めた。
体がじんわりと温まる。
外はうっすらと明るくなってきていた。
朝陽が昇ると同時に、建物は遮光され人々は就寝の準備を始める。
入浴後、陽が昇ったのか部屋はシャッターで完全に閉め切られていた。
自室に戻ると母がくつろいでいる。
「終わったよ。
水槽へ戻すのはセヴァがしたほうがいいと思って」
母は空になったマグカップを持ち腰を上げた。
「水槽に戻したら寝なさいね。歯磨きもね。
今日は色んなことが起きて楽しかっただろうけど。
海へ行くのに早起きして、ずっと休んでいないのだからね。
しっかり寝てまた明日からお仕事なさいね。
おやすみ。」
「うん、おやすみ」
母とおやすみのハグをすると頭をさらっと撫でられた。
母が部屋から出るのを見送る。
洗浄器を見てみると、人魚は透明なフラスコの中で退屈そうに漂っていた。
どれほど綺麗になるかと期待していたが、そんなに変わっていない。
鱗に少し艶がでたくらいか。
「にんぎょさん、洗浄が終わったのでお部屋に移動しましょう。
専用の水槽を用意してあるよ。」
機器の内蓋を開け、隣の水槽に移ったところで両手を入れる。
洗浄は済んでいるので、簡単な手袋をはめるだけで触ることができる。
あらかじめ用意しておいた水槽の前まで連れてくると、今度は何のためらいもなくすぐに飛びこんだ。
水槽の中は簡単なアクアリウムとなっており、ハウスを水中に沈めてあり、陸部分も作った。
相変わらず人魚の髪の毛はモップのようで顔を覆っているため表情は見えない。
急ぎ用意した水槽だったがくつろいでいる様子だ。
「気に入ってくれた?君のおうちなので、ゆっくり過ごしてね。
さっき食べてた水草を追加で入れておいたから、もしお腹が空いたら食べてね。
ぼくは今日はもう寝るよ、おやすみ」
コンコンと指先で優しくノックすると人魚は口からぷくぷくと虹色の細かい泡をだして手をひらひらとさせた。
美しい泡をみて息を飲んだセヴァは、一つ忘れていた事を思い出した。
虹色の石!
『大事な物入れ』の箱から取り出し、ポトンと水槽に落とす。
人魚は石をそっと拾うと水中の家の中へ持っていった。
セヴァは人魚を見送ったあと、布団に潜り込み、今日の出来事を反芻する。
楽しくて、びっくりして、実はすこし怖かった。
眠れないだろうと思っていたが、ふかふかの布団に包まれると緊張がほぐれていき、水の底へ沈んでいくように一瞬で眠りに落ちた。




