酸素を吸ってはいけない世界
ミドリは、今日も黙って呼吸をしていた。
1秒間に2回の深呼吸。
それがどれほど「贅沢」な行為かを、彼女はよく知っている。
「呼吸回数、1分間で18回。規定値+2。注意1回目。」
教室に設置されたエコメーターが冷たく表示する。
クラスメイトたちは見て見ぬふりをした。誰も彼女を責めない。責めないが、誰も味方もしない。
ミドリは、**「排出過多者」**だった。
50年前。
地球は本当に危なかったらしい。
氷が溶け、山火事が絶えず、嵐が都市を飲み込んだ。
「このままでは人類は滅びる」
人々は恐怖の中で団結した。
やがて、国連上部組織**GEO-Ethica(地球倫理庁)**が設立され、
SDGsは最終段階「SDG-X」へと進化した。
CO₂は悪。
出す人間も悪。
生きてるだけで出す?
じゃあ、“少なく”生きなさい。
ミドリの毎日は「数」で管理されている。
呼吸:毎分16回まで
歩行:1日2000歩まで
会話:1日20分まで
食事:炭水化物比率10%以下
笑い声:3秒以上禁止(声量制限あり)
呼吸ひとつ、笑いひとつが、**「地球に対する加害行為」**として記録される世界。
それが彼女の「日常」だった。
ある日、通知が来た。
【緊急告知】あなたの月間CO₂排出量が、規定値を7.6%超過しました。
あなたの「サステナンス・スコア(SS)」は危険域に達しました。
つきましては、30日以内にリサイクルセンターへの出頭をお願いします。
※出頭に応じない場合は、強制冷却処置が適用されます。
ミドリは静かに目を閉じた。
祖父の家の地下に、古いHDDがあった。
彼はかつて「自然農法」とか「有機呼吸法」みたいな、いまでは違法の思想を持っていた人だった。
中には、見たこともない風景が映っていた。
森。
人々が深呼吸して、笑って、踊っている。
子どもたちはマスクもなく走り回って、誰も数字を見ていなかった。
祖父は言った。
「地球は大事さ。でもな、人間を“いらない”って言う世界は、もうそれ地球じゃないよ。」
ミドリはその夜、マスクを外して歩いた。
風が頬をなでた。
星が空を飾っていた。
彼女は、翌朝、街のセンターに立った。
ライブ配信が始まる。すべての言葉が“記録”される。
「私は、地球を壊したくない。でも…」
彼女は、深く、大きく、意図的に吸った。
人々が息をのんだ。
「でも、生きるって、呼吸することでしょ?
それを“罪”って言われたら、私たち、もう“人間”じゃないよ。」
数十秒の沈黙。
その映像は、世界中にシェアされた。
誰かが泣いた。誰かが笑った。誰かはチャンネルを変えた。
そして数時間後、ミドリの「生存許可証」は失効した。
1週間後、GEO-Ethicaは「排出許容制度」の微修正を発表した。
「1分あたりの呼吸回数を+1まで容認」と。
だが、それは誰も知らなかった。
その頃、森林では「CO₂吸収率の悪い樹木」が次々に伐採され、
新たな“効率的”品種に植え替えられていた。
人間の呼吸だけでなく、木の呼吸も「コスト」で評価される時代が来たのだ。
ミドリの存在は、地球を救わなかった。
でも、彼女の最後の一息は、世界に問いを残した。
「生きることが、悪になる世界で、あなたはどう生きますか?」
地球は静かに回っていた。
誰も深呼吸しないまま、今日も1日が終わった。
この物語の未来では、「酸素を吸うこと」すらも贅沢とされ、
人間は生存を「地球に許可された存在」へと矮小化された。
だが、失われたのは人間だけではなかった。
酸素の吸収効率が悪いとされた木々は、「生産性のない森林」として伐採され、
人間に直接役立たないとされた動物たちは、「環境資源の浪費」として絶滅に追いやられた。
昆虫や鳥、土中の微生物すら、「意味のないCO₂排出源」として分類された。
いつからだろうか。
地球を守ることが、命を減らすことと同義になってしまったのは。
かつて「多様性は命の強さ」と語られた時代があった。
いまや「効率の悪い命」は、静かに間引かれていく。
本当の問いは、こうなのかもしれない。
「地球を守る」とは、「命を減らすこと」なのだろうか。
それとも――
命が自由に呼吸し、笑い、語り合える世界こそが、本当に守るべき“地球”だったのではないか?




