96、現在 砂の森
旅の途中、史音から「現在の枝の神子は二代目である」と聞かされたとき、侑斗は驚いた。それまで彼は、そのような話を一度も耳にしたことがなかったのだ。
かつて枝の神子同士の抗争があり、その結果、地球の大樹は切り倒された。地球が自ら救いを求めた願いは、そこで一旦途絶えた。そして今、二代目の枝の神子たちが、また同じように抗争を始めている。
人は同じ過ちを繰り返すのか?
地球の願いが叶う日は、永遠に訪れないのか?
シュラフの中で身を小さくしながら眠っていた侑斗は、突然、頬を叩かれた。思わず目を開けると、目の前には険しい表情の史音がいた。
「起きろ。ここはもう敵地と言っていいんだぞ、緊張感を持て!」
史音の低い声が耳に響く。
昨夜は、考え事が多すぎてなかなか寝つけなかった。というか、ほとんど眠っていない。だが史音は横になるなり、すぐに寝息を立てていた。どんな神経をしているのか……。
すでに修一は起きており、朝食の準備を進めていた。彼はどこにいても何でもこなす。さすが史音と行動を共にできるだけの男だ。
修一が作る料理は、当然ながら和食が多い。不気味にそびえ立つ砂の塔の森の手前で、湯気の立つ味噌汁と白米を前にすると、その組み合わせがあまりにも場違いに思えた。だが、口に運べば不思議と心が落ち着く。
朝食を取りながら、修一が口を開いた。
「それで史音、奴らはどっちを取ると思う?」
米粒を丁寧に噛み締めながら、静かに問いかける。
「そうだな、両方とも準備しているだろうな」
史音は味噌汁をすすりながら、何でもないことのように答えた。
零と亜希、そしてベルティーナの力によって吹き飛ばされたフライバーニアの極子連鎖機構。その復旧を巡る問題だ。
「フライバーニアに極子連鎖機構を再建するって、そんなに簡単にできるのか?」
侑斗は浮かんだ疑問をそのまま口にする。
史音は手元の箸を置き、口を拭ってから答えた。
「ベルのカーディナル・アイズの監視が外れれば、4日もあれば今までの8割程度の精度のものが完成するだろう。龍斗たちは、破壊されることを想定して予備のパーツを幾つも用意しているはずだ」
恵蘭と紫苑の活躍により、『地球を守る教団』の幻無碍捜索の的中率は半減した。それ以降、破壊された太陽の鞘は二つだけだった。しかし、その二つの地球は消滅し、そこに住む多くの人々もまた消えていった。
さらに、零たちによって極子連鎖機構が完全に吹き飛ばされた後は、一つも太陽の鞘が破壊されていない。
アローンの殺戮行為は、この地球によって否定された。だが、他の地球の人々を救える存在は、もう自分たちしかいないのだ。
「だけどな、ベルの監視がある以上、奴らはもう一つの手段を使うだろう。それに、ベルを牽制するためにフライ・バーニアへのちょっかいを止めることもないはずだ」
史音の言葉に、侑斗は息をのむ。
もう一つの手段——それは、極子連鎖機構を敵の本拠地の真上、地上の虚無の神殿に建設することだった。
「フライバーニア北部のラクベルの座標策定機構は、アタシが解読して、龍斗たちも知っているからな。そろそろ完成も近いだろう」
史音が苦笑いを浮かべる。
よく考えると、史音が余計なことを考え、やり過ぎたせいではないか?
侑斗は忌々しげに史音を睨んだ。
「……そりゃあ後先考えず、色々な仕組みを探ったのはアタシが悪いけどさ……未知のものを解明したくなるのは、人間の本能みたいなものだろう? アインシュタインだって、質量とエネルギーが等価だと証明した後で、原爆が作られるとは思ってなかったろうし、オットー・バーンだって、核分裂の連鎖反応が人間に向けられるなんて想像してなかったはずだ」
アインシュタインは、原爆の製造をルーズベルト大統領に進言していたけどな……。実際に投下が決まった時は猛反対したらしいが。
ふと、侑斗が思いついて言う。
「その女王様の瞳の力で、虚無の神殿そのものを吹き飛ばせばいいんじゃないか?」
もしかすると、零も協力してくれるかもしれない。彼女は修一の姉なのだから。
だが、史音は顔をしかめ、きつい目で侑斗を睨んだ。
「侑斗、それができるなら、とっくにやってる。奴らの本拠プルームの岩戸は、地球深部のプルーム・テクトニクスのコールドプルームの真上にある。そんな場所でベルや修一の姉さんの力を使ったら、地球表面のプレート・テクトニクス機構が破壊される。奴らも、本拠を根拠なく定めたわけじゃないんだぞ」
プルーム・テクトニクス——つまり、マントル対流の要となる部分。そんなものが暴走したら、プレートの上にある地表は壊滅する。
朝食を終えた三人は、それぞれ荷物を手に取り、修一が見つけた砂の森の入り口へと向かう。
砂が渦を巻き、空へとそびえ立っている。侑斗には、どこが入り口なのかまるで分からない。
「おお、さすが修一、よく見つけたなあ」
史音が驚嘆の声を上げる。
「ああ、よく見ると、この二つの砂の塔だけが上空まで届いていない。カモフラージュが途切れてるんだ」
そう言われて、侑斗も目を凝らした。
……確かに、そんな風にも見える。
「さてと」
史音は、昨日組み立てた四角い装置を慎重に取り出した。手のひらほどの大きさの金属製の箱で、表面には複雑な紋様のような回路が走り、青白い光が脈打つように明滅している。
「修一には言うまでもないが、侑斗、これを使わないと私たちはこの中に入れない」
史音が指さした先に広がるのは、そびえ立つ砂の塔。森というには異様な光景だった。砂粒が空中に漂い、時折渦を巻きながら塔のように固まり、天へと伸びている。目を凝らしても、どこまで続いているのか分からない。
「……どういうことだ?」
侑斗は眉をひそめた。
「簡単に言えば、この機械で身体の構造を一時的に書き換える必要がある」
史音は装置をひねると、回路がさらに明るく光り、低く唸るような音を発し始めた。
「待てよ、それって……まさか、自分の存在を数値化してゼロとイチの世界に入るようなものか?」
不安を覚えた侑斗は、史音の顔をまじまじと見つめる。
「昨日話したよな?中間階層の生命の話」
史音は塔を見上げながら続けた。
「この砂の塔の森は、先代の枝の神子が生み出した、形を持ったシニスの亡骸だ。亡骸とはいっても、私たちの認識できる世界には存在しない。骸になったコイツは、ブランク時間のみに存在する素粒子でできた存在だからな」
「ブランク時間……?」
侑斗は頭を抱えた。マイクロ秒以下の時間単位、つまり、通常の時間の流れでは観測すらできないほどの短い瞬間にしか存在しない素粒子の集合体が、消滅と生成を繰り返しながら、ここに森のようにそびえ立っているというのか。
「そんなものが現実世界に影響を及ぼせるのか?」
「及ぼせるどころじゃない。在城龍斗がやろうとしていることと、まったく同じことが過去に起きた」
史音は静かに言った。
「その結果、この地球は、形を持ったシニスたちにとって都合のいい形に変えられそうになった。でも、それを防いだ奴がいたんだよ。地球の大樹を切り倒すことでな」
史音は懐かしむように遠くを見つめ、ぽつりと言葉を続ける。
「確か、私たちと同じ日本人だったはずだ……何て名前だったかな?」
すると、その瞬間――
「トキヤ」
鋭く響く声が、砂の塔の間から発せられた。
侑斗が驚いて振り向くと、いつの間にかそこに黒いストールで口元を隠した、不気味な女が立っていた。塔の影と溶け込むような黒衣をまとい、その目だけが冷たく光っている。
「我が主を討ち倒した男の名前はコウジョウ・トキヤ」
彼女はそう告げると、ゆっくりと一歩前に進み出た。乾いた砂の上で、靴音がかすかに響いた。
――砂の森の静寂が、不穏な気配に包まれる。