94、現在 分節
「女性は物事を言葉や理屈ではなく、イメージと空気で記憶する」
そう言ったのは侑斗だっただろうか? それとも修一か、あるいは彰だったかもしれない。
もし記憶の中のイメージと現実が食い違うなら、別の記憶を探すか、その場での言動や行動を避け、新たなイメージを作り出すしかない。
では、男性はどうだろう? 彼らは物事を理屈で考え、基礎となる知識から、その場に適した行動を計算するのだろうか。
――そんな単純な違いが、本当に存在するのだろうか。
亜希は目の前に広がる風景を眺めながら考えた。
北軽井沢の空は鈍色に曇り、遠くで鳥の鳴き声が響いている。ひんやりとした風が頬を撫で、わずかに硫黄の匂いが鼻をかすめる。周囲には緑の草木が揺れ、地面には溶岩石がごつごつと転がっていた。
男女の思考に本当に明確な違いがあるのなら、女性は記憶の棚から適したイメージを引き出し、状況に応じて行動する。一方、男性は基礎から応用まで計算しなければ、新たな現実に対応できない。
けれど、そんな違いに意味はあるのだろうか。結局、どちらが優れているかは、その時々の状況によるのだから。
亜希は、自分の力が他人とは異なることを早い段階で理解していた。
そして、それを極力隠して生きてきた。
両親にも、学友にも。
唯一、浅川凪だけが「亜希は何でもできる」と言ったことがあったが、その言葉は亜希にとって苦いものだった。何でもできるということは、何をすべきかを選ばなければならないということ。普通の人間として生きるために、亜希は自分の力を抑え、隠し続けた。
そんな亜希とは対照的に、人との関わりを避けて生きてきた零。
亜希は、人と関わらなければならない自分のほうが、零以上に”隠れて”生きてきたのではないかと思うことがあった。
他者と接するとき、亜希は常に細心の注意を払った。
物事をイメージで捉え、その場にふさわしい記憶を引き出し、違和感のない振る舞いを心がけた。そのため、凪や彰以外の親しい友人はほとんどいなかった。
だが、そんな慎重に築いてきた関係も、崩れかけている。
洋や琳、そして彰にまで――隠してきた真の姿の一端を知られてしまった。
この人間関係が壊れてしまうのではないか。
それが、今の亜希にとって何よりの不安だった。
北軽井沢で起きた出来事――あの瞬間、亜希は自分でも知らなかった力を解放してしまった。
零と共鳴するように発した”声”。
それは、抑えきれない激情が形を成したものだった。
けれど、冬樹の命が消えていくにつれ、その声は再び奥底に沈み込んでいった。
冬樹の遺体は、惨劇の犠牲となった他の人々とは違い、正式な手続きを経ることなく運ばれていく。
それを担っていたのは、椿優香と、彼女に従う男女数人。
「所定の機関に任せて、遺族の元に返した方がいいんじゃないか?」
一矢と呼ばれた若い男性が問う。
「薫には遺族はいない。だから、彼女が望んでいた場所の近くに連れて行く」
「彼女の望んでいた場所?」
美沙と呼ばれた女性が尋ねる。
「薫はベルの役に立ちたいと願っていた。……まあ、その役目は十分に果たしてくれたけどね。だから、ベルの近くに連れて行く」
「……枝の墓、ですね」
美沙は寂しげに呟く。
遠くからサイレンの音が響く。
優香が、亜希と零の元へと歩み寄ってきた。
「零、君は私を葵瑠衣と呼んだね。私のことを調べていたんだ?」
零は無言で頷く。
「本当は、こんなに早く君たちと再会するつもりはなかった。だけど、仕方がなかったんだ。アローンが力を失うことは分かっていた。でも、君たちが汚されるのは嫌だったからね」
そう言って去ろうとする優香に、亜希は思わず声をかけた。
「待って……これから私たちは、私はどうしたらいいの?」
椿さんは少しだけ振り向いた。
「貴女は、今まで通り人として、自分が正しいと思うように生きていけばいい。時が来るまで――零、それまで、自分の分身を大切に守ってほしい」
風が吹き抜ける。
優香たちは、冬樹の遺体を運びながら、そのまま風の中へと消えていった。
「亜希さん、零さん、今の人は?」
近づいてきた彰くんが尋ねる。
「……ずっと昔に、一度だけ会った人。いつでも風のように現れて、風のように去っていく、不思議な人」
「……なんか、カッコいい人でしたね」
琳が呟く。
一度静まり返った園内は、警察や医師たちの到着で騒がしさを取り戻していた。
「ここを離れた方がいい」
零がそう言い、指を弾く。
次の瞬間、亜希たちは溶岩園の外へと転移していた。
五人で零の車が止めてある場所へと向かう。
その時、ずっと黙っていた洋が口を開いた。
「車では、零さんと亜希さんが行って。僕たち三人は、公共交通機関で帰るから」
「……え?」
亜希は驚いて、洋と彰、琳の顔を見た。
「そうだな」
彰も頷く。
琳だけが、きょとんとした顔をしている。
「ええ、私は零さんや亜希さんと帰りますよ」
「いいから、お前も来い」
彰くんが琳の袖を掴む。
「お互い、いろいろ考えなきゃいけないと思うんだ。僕たちは、電車の中ででゆっくり考えるよ」
松原さんはそう言って、二人を連れて歩き出した。
「ちょっと待ってよ! みんな、もう私たちと関わりたくないの?」
溜まった言葉を抑えきれず、思わず叫んだ。夜風が吹き抜ける中、その声は静かな園内に響き渡った。
「違うよ。」
松原さんがふっと目を逸らし、低い声で言う。
「僕たちが零さんに選ばれたから、こうしていられるのなら……一度離れて、自分自身を見つめ直したいんだ。」
零さんは寂しげに微笑んだ。彼女の瞳はどこか遠くを見つめている。
「私は確かに道を選んだ。でも、あなたたちは……たまたまそこに居ただけ。」
その言葉に、静かな夜の空気が染み込んでいく。遠くでパトカーのサイレンが響いていた。
「だからこそ、二人のいないところで、自分がどう存在しているか確かめたいんだよ。」
彰くんの声は、かすかに震えていた。
「零さんや亜希さんが特別な人だっていうのは、もうずっと前から知ってる。だけど、それが当たり前になる前に……俺たちが本当はどんな人間だったのか、それをちゃんと確かめたい。」
琳が大きく息を吸い込んだ。
「自分探し……ですよね?」
彼女は大きな声で言ったが、その表情には不安が滲んでいた。
「分かりました。でも、ちゃんと戻ってくるんですよね? 零さんと亜希さんの元に。」
松原さんが、やわらかく微笑む。
「もちろん。僕たちが零さんや亜希さんなしで我慢できるはずがない。またファースト・オフで会おうよ。」
そう言って、三人はゆっくりと背を向け、歩き出した。彼らの姿が暗闇の中へと消えていくのを、私はただ見つめるしかなかった。
零さんの車の助手席に座り、夕日野へと向かう。車内は静かで、エンジンの音だけが響いていた。窓の外には、夜の街の灯りが流れていく。
私は零さんに聞きたいことがたくさんあった。
私は、零さんの何なのか?
どうして、私は普通の人間と違うのか?
けれど、喉の奥に引っかかったように、言葉が出てこない。答えを聞くのが怖かった。だから私は黙ったまま、ただ無言のドライブが続いた。
家に帰り、しばらく経ったころ、日本で『地球を守る教団』の活動が急速に下火になったというニュースが飛び込んできた。
それは、教団の関係者と思われる者たちが、大量虐殺を行ったという情報が一斉に広まったからだった。
わかりやすい悪は、淘汰されるのも早い。
けれど、空を見上げると、そこにはまだ白い線が残っていた。まるで、苦しみの痕跡が消えずに刻まれたかのように——。