93、現在 疾風凌駕
優香は感情のこもらない瞳でアローンを見つめ、まるで空気そのものを踏みしめるかのように軽やかに歩く。彼女の足元には影すら生じず、まるで重力の束縛から解き放たれた存在のようだった。
「アオイ、君は特別な人だ。史音と同じく、この世界で僕が認める数少ない貴重な女性だ」
アローンの口調はいつになく静かだった。冷たく、しかしどこか焦燥を含んだ声音。今まで誰に対しても見せていた冷笑が、今は消え去っている。
「だから?」
優香は僅かに唇を開き、静かに問いかけた。その目には何の感情も宿らず、ただアローンを見据えていた。
アローンは、まるで幼子のような表情を浮かべる。彼の瞳の奥に宿るのは、困惑か、それとも――恐れか。
「僕は君を殺したくない。どうか来た道を戻ってくれ。そして史音と一緒に、僕を待っていてほしい。お願いだ」
哀願とも取れるその言葉。しかし優香の顔には、一片の笑みも浮かばなかった。
「おまえは、誰かの願いを聞いてやったことがあるのかな?」
静かに紡がれる言葉は、まるで冷たい刃のように鋭く、アローンの心を刺す。
「私はおまえの願いなど、一切聞くつもりはない。まあ、史音は私以上にお前を許さないだろうけどね」
優香の低く、鋭い声がアローンを突き放す。
「なんで……」
アローンの声が震えた。まるで親に突き放された子供のように、愕然とした表情を浮かべる。
「君や史音は、僕が創る世界の大事なツールだ。僕に認められた君たちが、僕を否定するはずがない……そんなことがあっていいはずがない!」
優香は、すっと息を吐いた。その顔には、微かに哀れみすら浮かばない。
「それは私にとっても、史音にとっても、この上なく不名誉なことだね」
優香の唇が歪み、冷笑が浮かぶ。
「そんな戯言を吐く餓鬼は、気持ち悪いからさっさと消えてもらうよ」
アローンは一瞬打ちのめされたように視線を落とす。しかし次の瞬間、彼の指先から操作線が伸び、優香に向かって鋭く放たれる。
「アオイ、君が悪いんだ……もう、僕にはもう史音がいればいい!」
操作線は優香の胸元に直撃する――はずだった。しかし、するりと彼女の身体を通り抜けた。
「なっ……」
アローンの目が見開かれる。
「どうして……どうやって僕の操作線を防いだんだ? 他我の種さえ縛ることができれば、君だって僕の人形になるのに……!」
優香は、その問いにも冷笑で応じる。
「おまえは自分の知らないことがないとでも思っているのかな? だから、こんな簡単なことも理解できないんだよ」
優香は静かに告げる。
「私には最初から、他我の種なんてないんだよ」
アローンの顔が青ざめる。自らの絶対的な力と信じていたものが、何の意味も持たない。それを理解した瞬間、彼の手が震え始めた。
「なら……力で証明するまでだ!」
アローンの掌から液体気流が放たれる。空間を震わせながら、青白い流体が凄まじい勢いで優香に向かって襲いかかる。
「アオイ、僕の造った量子気流波で、君の身体を細切れにする! 僕に理解できない存在など、この世界にあってはいけない!」
しかし、優香はただ左手を軽く動かし、その気流を掌に載せると――握りつぶした。
「……ふむ」
優香の目がわずかに細められる。
「おまえが私をアオイと呼ぶのなら……久しぶりに、葵瑠衣の力を使うことにしようか」
アローンは苛立ちを隠さず、新たな波動を放つ。しかし、優香は静かに右腕を回し、大きな円を描くように動かすだけで、すべての攻撃を握りつぶしていった。
アローンは必死に液体ヘリウムを用いた攻撃を続ける。だが、それも尽き果てた。
「葵瑠衣の力は……高分子結晶能力は元々は強敵に対抗するための深くて強い想い」
優香が淡々と語る。
「無意識下で必要なものを、他人に与える力」
アローンの腕から流れ出る量子気流が、次第に途絶えていく。
「……ふざけるな! こんなことがあっていいはずがない!」
「そんなはずが、あるんだよ」
優香は静かに言い放つ。
「ここには、おまえに殺され、傷つけられた人たちの強い願いが溢れている。その想いに呼応して、葵瑠衣の力はおまえの攻撃を消し去っているんだよ」
優香は、音もなく位相の波頭を跳ぶ。そして、アローンの目の前に現れた。
アローンは無意識に後ずさる。しかし――そこから先へは、一歩も動けなかった。
「……は? なんで……僕が……動けない……?」
アローンは狼狽え、上空の黄呂を呼び寄せようとする。しかし、何も起こらない。
「どういうこと……?」
「アローン、私たち枝の神子は、この地球から願いを託され、力をもらっている」
優香は冷たく言い放つ。
「だけどね……地球はもう、おまえを必要としていないんだよ」
アローンの顔から血の気が引く。
「僕の力が……なぜ……」
「答えは簡単だよ」
優香は嘲笑を浮かべた。
「おまえは、実在するものを取り込んで、自分の都合のいい世界を創ろうとした」
彼女の瞳は、まっすぐにアローンを射抜いていた。
「だから、地球はおまえを”自らを滅ぼすもの”と断定し、枝の神子の資格を剥奪したんだ」
アローンの身体が小刻みに震える。
絶対の力を持つはずだった自分が――何者にもなれないまま、消え去る運命を突きつけられていた。
アローンの体は震え、しなびた足がガタガタと音を立てる。これまで想像すらしなかった絶望が、今、現実となって押し寄せていた。
「ありえない……こんなこと、あっていいはずがない……」
怯えたように呟きながら、アローンは最後の頼みの綱を求めて視線を彷徨わせる。
彼にはまだ仲間がいるはずだった。
史音なら、彼なら理解してくれるはずだ。
そして――
「カノン、レオ、ヒューリ……君たちは、まだ僕の価値を認めてくれるだろう?」
祈るような言葉が、震える唇から零れ落ちる。
だが、その返答は残酷なものだった。
彰と洋の間で静かに様子を見守っていたヒューリが、わずかに首を傾げながら乾いた声で言い放つ。
「お前のような怪物に、最初から価値なんてなかった」
レオが冷ややかに続ける。
「お前を消し去るのを、ずっと待っていたよ」
そして、カノンもまた、冷淡に断じた。
「おまえは俺の敵だった――初めて会った時から、ずっとな」
その言葉は鋭い刃となって、アローンの心を抉る。
「……な、何で? 何でだよぉ……」
アローンは嗚咽混じりに叫び、頭を抱えて崩れ落ちた。
「アローン、お前はずっと一人だ。これまでも、そしてこれからも――な」
優香が淡々と告げる。彼女の瞳には、一片の情けも浮かんでいない。
ゆっくりと右腕を掲げると、鋭く空を指し示した。
「だが、お前を迎えてくれそうなところが一つだけある」
アローンが顔を上げた先には、青白く輝く黄呂が静かに広がっていた。
それは彼が創り出した怨念の塊。
かつて彼に踏みにじられ、無惨に散った者たちの怨嗟が渦巻く空間。
「……見えるかな? 彼らは、お前を呼んでいるよ」
静かに語る優香の言葉とともに、黄呂がアローンの頭上へと迫る。
「お前は彼らの中に取り込まれる。だがな、その中でさえ、お前は受け入れられることはない。お前は永遠にあの中で、拒絶され、否定され続けるんだ」
アローンの体が、無数の手のような光に包まれる。
その瞬間――
「……史音……!」
アローンの目が見開かれ、叫びとともに、何かが彼の身体から飛び出した。
『僕の史音……! 今から君の元へ行くよ。身体なんて要らない……!』
その怨念の一部が、彼方の空へと猛スピードで駆け抜けていく。
『史音……待っていてくれ……!』
だが、次の瞬間――
『誰だ、そいつは? なんでそんな、どうでもいい奴と……そんなに楽しそうに話してるんだ……!?』
目の前に映し出されたのは、史音と侑斗が並び立つ姿だった。
優香は、少し離れた場所で手を取り合って立ちすくむ亜希と零のもとへと歩み寄る。
「君たち二人の力を貸してほしい」
優香の声は静かだが、力強かった。
「彼を、私の分身を助けなきゃいけない。そして――君たちの想いを、この世界に導くんだ」
零は優香を見つめ、ゆっくりと頷く。
「亜希さん、あなたの力を、少しだけ貸して」
その言葉に、亜希もまた黙って頷く。
零はそっと亜希の左手を取り、そのままアローンの残滓が飛び去った方向へと翳した。
掌の中に、三つの輝石が現れる。
クライン・スピア――
零が創り出したその槍に、亜希の力が流れ込む。
エネルギーが結晶化し、強力な三角の輝きがアローンの思念を追って放たれる。
零が呟いた。
「ラナイの女王よ。貴女なら、この状況が見えているはずだ。ならば――己の成すべきことも、分かるだろう?」
箔花月の森の手前――
アローンの残滓が、執念のままに侑斗を目がけて飛んでくる。
「何だ、あれ……?」
侑斗の声に、史音が振り向く。そして、すぐにそれが何なのかを理解した。
「……アローン……! 侑斗、短剣で防げ!」
だが、間に合わない。
その刹那――
彼方から飛来したクライン・スピアが、アローンの残滓を瞬時に貫いた。
一瞬で消滅する残滓。だが、槍はそのまま弧を描き、さらに上空へと舞い上がる。
「優香……貴女には、この状況さえも見えていたのか?」
ベルティーナが、静かに呟いた。
フライ・バーニアの空を見上げながら、彼女の真空の瞳がわずかに細められる。
「ブルの最強戦士よ。どうして貴女は、そんなにも全てを見通してしまうのか?」
彼女の手が、散在していたカーディナル・アイズの力を集める。
「……そうだ。分かってしまう」
零が応じるように言う。
「私たちは――同じものを求めた」
カーディナル・アイズが大きく弓の形へと変わる。
そして、その弦にクライン・スピアが捕らえられた。
「!」
ベルティーナは全身でその反動を受け止める。
ゆっくりと弦を引くと、そこに亜希の声の力が注がれる。
そして、零のサイクル・リングがクライン・スピアをさらに研ぎ澄ます。
ベルティーナの真空の瞳が、進むべき道を指し示した。
上空のフライバーニア。
『地球を守る教団』のヘリコプター部隊が、女王の結界が緩むのを待ち構えている。
その真下から――
クライン・スピアが、天を衝くように立ち昇った。
氷の先、恵蘭と紫苑の身体が眠る場所から少しだけ離れた、継ぎ足された氷の平原が、一瞬にして切り裂かれる。
極子連鎖機構の設備もまた、崩れ落ちていく。
「そうだな……気高きブルの戦士よ」
ベルティーナが、ゆっくりと息を吐きながら言葉を紡ぐ。
「私たちは結局――」
『同じ他我の種を持つ者同士』