91、現在 黄呂
零と亜希と別れた彰、洋、琳の三人は、寄り添うようにして庭園を繋ぐ岩の回廊をゆっくりと歩いていた。足元の岩肌はざらついており、ところどころ苔むしている。遠くには黒々とした溶岩園が広がり、鉄塔がそびえ立っていた。
「零さんの言う通りだ。純粋で無邪気な悪意とやらが近くにいる。俺、なんとなく感じるよ」
彰が周囲に目を配りながら、乾いた声を絞り出す。その顔には緊張が張り付いていた。
「そうだね。二人とも、五感はもちろん、できれば六感も研ぎ澄ませて慎重に動こう」
松原洋が低く言うと、彰と琳が無言で頷いた。琳は零から受け取った赤い羽帚を握り締める。その指先に力がこもっていた。
「とりあえず、零さんたちの向かった鉄塔から離れたほうがいいですよね。そうすると、この溶岩園のかなり奥を目指すことになると思うんですが……」
琳は羽箒を掲げ、遠くに見える岩屋を示した。
「そうだな。あそこまで700メートルくらいか。零さんの準備もあるだろうから、何とか敵を引きつけておいた方がいいだろう」
彰が賛同し、三人は慎重に歩を進めた。
◆
数百メートルほど進んだとき、空の色が変わり始めた。
三人は思わず足を止め、見上げる。
雲が異様だった。まるで生きているかのように渦を巻き、緑色の光を帯びている。時折、雲の奥で雷のような閃光が走るが、それは通常の稲妻とは異なり、不気味にねじれた形をしていた。
やがて、ぽつりと液体が降ってくる。
彰は反射的に手を伸ばした。
「……なんだ、この雨? 黄色いぞ」
掌に落ちた滴は、ねばついた粘性を持ち、不快な臭気を放っていた。ぞっとして手を振るうと、それは彰が持つ青い羽箒の輝きによって、一瞬で蒸発した。
洋と琳も同じだった。彼らの体に降り注いだ黄色い雨は、すべて霧散していく。
だが――三人以外の者に触れた途端、その雨は容赦なく人間の肉を溶かし始めた。
「ぎゃあああああ!!」
絶叫が響く。
人々は次々と地面に崩れ落ち、その姿がみるみるうちに溶けていく。肌がただれ、骨が露わになり、最後にはすべての形を失って黒い染みと化した。
雨は十数分降り続いた。
そして静寂が訪れたとき、三人の周囲には、もはや誰一人として残っていなかった。
気がつけば、上空の雲は収束し、再び普通の空が広がっている。
だが――その中心に、一人の金髪の少年が立っていた。
◆
「ああ、蛇歐の回廊で育てた僕の『黄呂』は、なかなか出来が良い。邪魔なものは、大体消し去ってくれたな。計算より少し小さいけど、まあ問題はない。それにしても……」
少年は冷笑を浮かべながら、ゆっくりと視線を三人に向ける。
「僕の『黄呂』を浴びて無事でいるそこの君たち……何者なのかな?」
彼の周囲に、三つの影が現れる。
レオ、ヒューリ、カノン――アローンの配下たちだ。
「レオ、とりあえずさ……あの前にいるオジサン、目つきが気に入らないから殺してきてくれないか?」
アローンの無造作な指示に、レオは下を向いたまま黙って頷く。そして、ゆっくりと彰に歩み寄ると、一瞬にして跳躍した。
刹那、空気が張り詰める。
背の高い、気弱そうな少年がナイフを突き立てようと彰に迫った。
しかし――
刃が彰の体に触れた瞬間、ナイフは跡形もなく消失した。
レオの目が見開かれる。
「……なんだ……?」
動揺しながらも、再びナイフを取り出す。今度は知成力を込めて振りかぶる。
だが、彰が軽く手を振った瞬間――
再びナイフは消え去った。
「っ……!!」
レオは完全に取り乱し、後ずさる。そして頼るようにアローンを振り返った。
アローンは、深々と溜息をつく。
「いつもながら、まったく役に立たないねぇ、レオ」
その瞬間、アローンの足がレオの腹を蹴り上げた。
鈍い音が響く。レオの体が吹き飛び、地面に転がる。
ヒューリとカノンが顔をしかめた。
◆
琳が鋭く睨みつける。
「……分かったよ。零さんが言っていた『無邪気で純粋な悪』」
「純粋な悪? それは僕のことを言ってるのかい、お姉さん?」
アローンが薄く笑う。
「この世界で善悪の価値基準を決めるのは、僕のだ。だから僕が正しいと思ってする行為は、すべて正しいことになる。それが世界の正義だよ」
嘲笑から始まった言葉は、最後も嘲笑で締めくくられる。
「……これほど品性のない正義を見たことも、もちろん想像したことすらないね」
洋が静かに呟いた。
アローンが洋に向かって手を伸ばす。
だが――何も起こらなかった。
「フン、君たちは葛原零の関係者だね? 波動関数を操って僕の攻撃を無かったことにしている」
零や亜希との出会いがなければ、三人の心は挫けていたかもしれない。
だが、彼らは知っている。
計り知れない力を持ちながらも、友人として接してくれる二人がいる。だから、彰も洋も琳も、この悪魔を前にしても怯まない。
「……う、ああ……」
背後から、かすれた女性の声が響いた。
五体を失わず、どうにか意識を取り戻した者がいたのだ。
アローンは、すかさず指を向ける。
琳が反射的に彼女の前に踊り出た。
だが――アローンの攻撃は琳をすり抜け、女性を直撃する。
次の瞬間――
苦痛に満ちた、絶望の叫びが響いた。
「ハハハ、君を守る力は君自身にしか効かないんだよ」
アローンは堪えきれない、といった様子で高らかに笑った。
地面に倒れていた何人かが、微かに呻きながら意識を取り戻す。
そのうちのひとり、小さな女の子がよろめくように起き上がり、状況が分からないまま怯えた瞳で周囲を見渡した。
「僕はね、子供のような不条理な生き物が大嫌いなんだ」
アローンの細い指が、少女を狙うように真っ直ぐ伸ばされる。
琳の顔が怒りに歪んだ。
「この、悪魔! 化け物! 世界の敵!」
怒声とともに、琳はポシェットから赤い羽箒を引き抜き、アローンに向かって勢いよく振り下ろした。
その瞬間、アローンの指先から放たれた邪悪な力が霧散する。
『敵に対して直接振るえば武器にもなる』
――零の言葉は本当だった。
アローンの顔に驚愕の色が浮かぶ。指をさすりながら、目を細める。
「痛いなあ。なんてひどいことをするんだい? 悪魔は君のほうじゃないの?」
「おまえの痛みなんか、痛みのうちに入るもんか! おまえに他人の痛みが分かるのか!」
琳は怒りのままに羽箒を振るい続けた。
だがアローンは舌打ちし、カノンとヒューリを前に立たせる。
「やめろ、琳ちゃん!」
洋が叫ぶ。琳ははっとして手元を見下ろした。
柄の根元から、赤い色がじわじわと白に変わっている。零が与えたこの羽箒は、あくまでも“守る”ためのもの。攻撃すればするほど、その力は失われていく。
「ふむ、なるほどね。じゃあ対処法は簡単だ」
アローンがヒューリに向き直り、無邪気に微笑む。
「ヒューリ、あの人のところへ行って、直接あの羽箒を奪ってきてよ。君は身体能力が他の二人より高いし、女性同士だからやりやすいだろう?」
ヒューリの瞳が揺らぐ。だが次の瞬間、波頭を跳び、琳の目の前に降り立った。琳はとっさに羽箒を翳す。
「……ごめんなさい……」
小さく呟きながら、ヒューリが琳の腕を掴む。突然の接触に琳は驚き、羽箒を手放してしまった。
「なぜ謝るの?」
琳が問い詰める。
「あなたも強い力を持っているじゃない。なのに、なぜあいつの言いなりになってるの?」
ヒューリは悲しそうに微笑んだ。
「私は……あの悪魔に“他我の種”を支配されている。でも、支配されていることが分かっていても、どうすることもできない……でも、もう……もう嫌だ!」
ヒューリは震える手を、自らの胸に伸ばす。
「こんなもの、今すぐ切り捨ててやる……!」
強く握りしめた左腕が、大きく曲がる。黄色い操作線が振動する。
鋭い痛みが走り、彼女は声を詰まらせた。
「ヒューリ、僕を裏切るのかい?」
アローンの声が冷たく響く。
「そういうの、僕は絶対に許さないよ」
アローンが右手を振る。
琳は咄嗟に地面に落ちた羽箒を拾い、アローンに向かって振るった。
しかし、そのたびに羽箒の赤が失われていく。
「馬鹿野郎!」
彰と洋がそれぞれ青と緑の羽箒を取り出し、琳とヒューリを庇うように立つ。
「ようやく手の内を見せてくれたね。じゃあ次はこれだ」
アローンの上空に漂っていた不気味な緑の燐光を放つ物体が、ゆっくりと形を変え、今度は三人に向かって押し寄せる。
「人の怨念でできた“黄呂”に、君たちはいつまで耐えられるかな? まあ、そのうち君たちも、怨念の一部となるんだろうけど」
黄呂がうねりながら襲いかかる。
彰、洋、琳、そして守られているヒューリは必死に耐えていたが、彼らの羽箒はすでに色を失いつつあった。
「畜生、もうちょっと役に立ってから死にたかったぜ」
彰が冷めた目で呟く。
「僕は、彰くんや零さん、亜希さん、琳ちゃんに会えただけで、この人生に悔いはないよ」
「二人とも格好いいですね。私も最後まで、かっこよく付き合いますよ」
アローンが苦笑しながら黄呂を操る指を高く掲げた、そのときだった。
――ドンッ!
アローンの身体が、横から強い衝撃を受けて倒れる。
驚愕するレオとカノン。
「……っ!」
その時、誰よりも早く動いたのは、冬樹薫だった。
彼女は、全身の力を振り絞り、アローンを押し倒したのだ。
その一瞬の隙が、彰たちにとっての“時間”となる。
だが――
胸に風穴が空いた感覚が、薫の意識を飲み込んでいった。