90、現在 悪魔
落合美沙は、蛇謳のトンネルの出口から人影が消えていくのを確認し、入り口の五メートルほど手前に立った。闇が脈動しながら流れ出そうとする気配が、空気を震わせている。正面からこれを押しとどめることは不可能だ。真横から、ミクロン単位で漏れ出してくる混沌の塊を、少しずつ蒸発させるしかない。
白亜の帯から放射される糸が、暴発した人々の恐怖の感情を集め、あれを形成している。取り込まれた者たちの苦しみが、さらにその混沌を強化していた。
女王のスパイとしての役割を果たすためとはいえ、フィーネの元でアローンの策略に乗り、世界を包む混沌の塊を生み出してしまったことに、美沙は強い自責の念を抱いていた。
かつて葛原零は、自らのために世界を崩壊させようとした。それは彼女の個人的な都合によるものだったが、その想いは純粋だった。もちろん、それで許されるわけではない。しかし、彼女は決して人々を苦しめることを目的としていたわけではなかった。
それに対し、今のこの塊は、完全にアローンの操る他我の種によって支配されている。もし外に解き放たれれば、アローンの思うがままに、人々を無邪気に、そして残虐に襲うだろう。
美沙のもとにも、すでにアローンによるものと思われる凄惨な事件の報告が届いていた。
「もっと早くアローンの関与に気づいていれば……」
悔しさがこみ上げる。優香がもう少し早く知らせてくれていたら、あるいは、女王の組織を離反した在城龍斗に集中しすぎていなければ——
美沙は頭を振り、己の知成力を惜しみなく放出する。真横から溢れ出してくる醜悪な塊に向けて、絶え間なく力を注ぐ。
だが、枝の神子の中でも特に大きな力を持たない自分の力では、それほど長くは持たない。どこまでも抑え続けることはできない。
やがて、それまで以上の勢いで塊が流れ出してきた。
「——これは駄目だ」
この怨念の塊を自分一人の力で抑えることは不可能だと、美沙は判断する。ならば、最後にできることは——
トンネルの出口の正面に立つ。
「もう私にできることは、これしかないですね」
溢れ出す混沌に支配された怨念の塊。その一部を削り取る。それが、せめてもの足掻き。
薄く青く光る怨念の塊が、美沙の身体を包み込もうとする。
「私の身体をあなたたちにくれてやる気はない。——だが、あなたたちの一部でも私と共に消し去ってやる」
美沙は瞳を閉じ、自らの中にそれを取り込み、浄化する。それも、あと数分が限界だ。
「——さあ、私自身の身体ごと、世界の外へ消えていこう」
あなたたちの苦しみは、これからゆっくりと聞いてあげる——
美沙は自嘲するように微笑んだ。
三十代半ばまで枝の神子として幾多の若輩を育ててきたが、一度も普通の女性として誰かを愛したことはなかった。
——それも、もうどうでもいいこと。
自らの輪郭が失われていくのを感じた瞬間——
背後から、力強い腕が伸び、美沙の身体を掴んだ。
驚く間もなく、強制的にトンネルの前から引きずり出される。
「——一矢……?」
死を覚悟した美沙の目の前に立っていたのは、かつての教え子、氷鉋一矢だった。
彼は頬をかき、少し照れくさそうに視線を逸らす。
「……ええとさ、優香に無理を言って連れて来てもらった。嫌な予感がしたんだ」
椿優香は、一人で行くと言っていた。だが、強引についていくという一矢を、彼女は止めなかった。
「それじゃあ美沙のことはあなたに頼むよ。——亜希は直接アローンの元へ向かう」
そう言い残し、優香は一矢と別れた。
「アローンが操るあの混沌と怨念の塊を……結局、外に出してしまいましたね」
美沙は、それが向かっていった空を見つめ、唇を噛んだ。
アローンの狂気に対し、史音が言っていた「真面目に相手をするな」という言葉の意味が、少しだけ理解できた。あの狂った少年に、正常な論理で立ち向かうことは——無駄なのだ。
「落合さん、あなたのおかげであれは大分小さくなった。それに、フライバーニアの施設は、史音や修一、恵蘭と紫苑が今、機能不全にしている。だから、呪いの狼煙を使ってアローンができることも、奴が思っているほど自由じゃない」
一矢は、『地球を守る教団』に向かっている史音たちの様子を簡潔に伝えた。
「……そうですか。それにしても、亜希と薫に任せると言っていた仕事に、優香が自ら乗り込んでくるとは……どういう心境の変化でしょうか」
「女王がフライバーニアから目を逸らすのを恐れた——だけど、それだけじゃないな」
一矢は、震えている美沙の背中に、自分の上着をかける。
「——俺と同じさ。優香にも、何をおいても守りたいものがあったんだろう」
◇
アローンと、それに付き従う三人の少年少女が、溶岩庭園の入り口へと足を踏み入れた。赤黒い岩肌が不気味に光り、地面の隙間からは粘りつくような熱気が立ち昇る。彼らの足音が乾いた大地に反響するたび、小さな火花が散った。
遠くからその様子を見つめる一人の影――冬樹。
彼は五時間前にこの溶岩庭園に辿り着き、木乃実亜希や葛原零の所在を確認していた。そして今、この入り口で待ち構えている。落合美沙が語っていた『アローン』と呼ばれる少年を。
冬樹の視線の先にいるアローンは、想像よりも小柄で、金髪のあどけない顔立ちをしていた。しかし、その無邪気さとは裏腹に、瞳の奥に渦巻く狂気は底知れない。そこには、自分などとは比べ物にならないほどの、他者を害することへの喜びがあった。己の意のままにならぬものを惨殺することに、何の躊躇もない純粋な狂気が宿っていた。
彼に従う三人の少年少女は、どこか暗い影を落とした表情をしている。彼らの足取りには迷いがあり、沈んだ目元は、彼らが自らの意思でアローンに付き従っているのではないことを物語っていた。
その瞬間――。
アローンの周囲にいた数人の男女が突如として背中から燃え上がった。血管が弾けるような音とともに、彼らは苦悶の叫びを上げながら崩れ落ちる。肌が焼けただれ、炭化していくその様は、まるで地獄の業火に呑み込まれたかのようだった。
さらに、アローンが無造作に指を向けた先では、新たな悲劇が始まる。指された者たちは突如として手足を引き裂かれ、無惨にも地に転がった。激痛に悶え、のたうち回る彼らを見下ろしながら、アローンはゆっくりと歩み寄る。そして、彼らの達磨のような身体を躊躇なく踏みつけた。肉が裂け、骨が砕ける音が響く。絶叫が夜気を裂く中、アローンは満足げに微笑み、喝采のような声を上げる。
「狂っている……」
冬樹の脳裏に浮かんだのは、落合美沙から聞かされていた『化け物』の話だった。しかし、目の前の光景は、彼女が想像していたものを遥かに超えていた。
悍ましい。悪夢の具現。
本当の悪魔は、人間の姿をしていた。