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88、現在 醜塊

冬樹は美沙と共に、夕闇迫る百歌トンネルの入り口で様子を窺っていた。

逢魔が時、トンネルの周囲には非常線が敷かれ、進入禁止の札が鈍く光を反射している。


「あのトンネルを迷宮にしていた者たちは、貴女によって解放されたはずでは?」


冬樹の問いかけに、美沙はすぐには答えず、目を細めて思考を巡らせた。


「確かに一度は、あのトンネルは正常になった。けれど……アローンによって再び迷宮になった、としか考えられませんね……ですが、一体何のために……」


美沙の視線はトンネルの奥に向けられていた。


「……あの中に閉じ込められた人たちを、放っておいてもいいのですか?」


冬樹は奥歯を噛み締めながら、かつて自らが切断した振詮ケーブルを完全に破壊したいという衝動に駆られた。

その気配を察したかのように、美沙が静かに彼女の腕を押しとどめる。


「もう二度と、貴女が一度破壊したケーブルの近くに行かない方がいい。アローンは残酷な子供だから。枝の御子でない貴女は、想像を絶する手段で苦しめられた挙句に殺されるわ」


辺りが次第に闇に包まれていく。

その時、トンネルの入り口が仄かに発光し始めた。

淡い緑色の光が、まるで霧のように揺らめきながら漂っている。


「……?」


冬樹が目を凝らすと、それが次第に形を成していくのが分かった。

人の形をした影が、幾重にも折り重なるように蠢いている。

時折、その輪郭が崩れ、別の形へと混ざり合い、のたうち回る。


美沙の背筋を悪寒が駆け上がる。


――恐怖だ。


あのトンネルは、人の形を恐怖という概念で整え直したのだ。

いや、人だけではない。

あの迷宮に呑み込まれた全ての存在が、元の姿を取り戻そうとして足掻いているのだ。


その時、近くに立っていた警官の一人が息を呑んで後ずさる。

しかし、遅かった。


「うっ……!」


足を掴まれ、悲鳴を上げる暇もなく、警官はトンネルの中へと引きずり込まれた。


「退避! 退避だ!」


警笛が鳴り響き、警官や警備員が次々とその場から逃げ出していく。

だが、トンネルの奥から、更なる何かが迫ってきていた。

呼吸をするかのように、緑の塊が吸い込まれ、次第に膨れ上がっていく。


「あれは駄目……何てことを、あの子供は……!」


美沙は忌々しげに吐き捨てた。


冬樹がさらに目を凝らす。

トンネルの奥から、確かな意志を持った何者かが、ゆっくりと這い出してきていた。


美沙は大きく息を吸い込み、自分の電話機を冬樹に差し出す。


「薫、これから私は自分の力を尽くして、その場しのぎで対処する。だから貴女は葛原零たちを探して」


冬樹が驚いて顔を上げる。


「美沙……?」


「私の携帯を貴女に貸します。状況次第で優香に連絡してください。これは優香や女王に繋がる数少ない端末なんです」


突然の申し出に、冬樹は戸惑いを隠せない。


「でも美沙、あなた一人で何をするというのですか?」


美沙は軽く唇を噛みしめる。


「あのトンネルの奥に潜むものは、仕掛けられた確率振幅を常態として具現化したもの。存在を非存在にする……シニスに近いとも言える。でも、人の恐怖の知成力を集めたあれは、他我の種を集合させ、アローンに操られる醜塊になっている」


冬樹は乾いた喉で声を振り絞る。


「あのトンネルの奥から出てくるものは……何をしようとしているのです?」


「あれは散らばって、この地域一帯を覆い尽くす。それに包まれた空間は、アローンの思うままになる。私はなんとか、集約された確率振幅を再び不安定にする努力をする」


瞬間、美沙の姿が消えた。

枝の御子、葛原零、女王ベルティーナだけが可能な位相の波頭移動。


冬樹は逃げ惑う人々に紛れながら、必死に自分の車へと駆け込んだ。

シートベルトを締め、荒い息を整える。


「……葛原零や、木乃実亜希を探さなくては……」


彼らは今、どこにいるのか。

どこかに身を潜めているのか、それとも逃走し続けているのか。

いや、もしかするとその両方……。


だとすれば……



アローンが跳んだ先にいた老人の足を踏んでしまい、老人は険しい表情で睨みつけた。

「この金髪の小僧! 年寄りに何をするか!」


その瞬間、アローンの瞳が冷たく光る。

突如、老人の背中から炎が噴き上がった。

悲鳴が空気を震わせる。火は容赦なく肉を焦がし、皮膚を炭のように黒く変えていく。

苦悶の叫びを上げながら、老人の身体は真っ赤に焼かれ、最後には崩れ落ちた。

燃え尽きた灰が、ゆっくりと風に舞い上がる。


ふと、足元に柔らかい感触があった。

見下ろすと、まだ歩き始めたばかりの幼児が、小さな手でアローンの足にしがみついていた。


「やあ、坊や、こんにちは。」

アローンは軽く微笑んで言った。


「それから……さようなら。」


次の瞬間、幼児の腕が無造作に引きちぎられた。

澄んだ喉から響いたのは、途切れがちの絶叫。

地面に転がる小さな指先、血に濡れた断面。幼い体は無残にも四散し、肉片が地面を赤く染めた。


「ぎゃあああああっ!」


母親の悲鳴が響く。

その場に崩れ落ち、打ちひしがれたように泣き叫ぶ彼女を見下ろしながら、アローンは満足げに口元を歪めた。


「ああ、良かった。ちゃんと苦しんでくれたね?」

彼は穏やかな口調で語りかける。


「じゃあ、君も味わってみようか?

母親なんだから、当然だよね。」


アローンの指が軽く動く。

次の瞬間、彼女の体も幼子と同じように四散した。

鮮血が地に飛び散り、臓腑が吐き出される。

肉片となった母親の残骸が、子供のものと並んで転がった。


「ふぅ……もう燃やし飽きたからねえ、たまにはこういう趣向もいいだろう?」


振り向いたアローンは、レオに向かって問いかけた。


レオは無言だった。

吐き気を催すのさえ、もう飽きていた。

だが、心の奥底にある敵愾心だけは薄れることがない。

いつか、必ず報いを与える。

その決意は、ますます強く根を張っていった。


「しかしアローン、人間一人を抹消するのに、いちいち燃やしたり、身体をバラバラにしたり……面倒ではありませんか?」


絞り出すような問いかけに、アローンは肩をすくめながら真顔で答えた。


「分かっていないなあ、レオ。

僕は葛原零やベルティーナみたいに横着じゃないんだよ。

波動関数を操って存在を消すなんて、そんな無精なこと、僕には耐えられない。


相手が苦しんだり、悲しんだりするのを、

この目でちゃんと見届けないと、

僕の心は満たされないじゃないか。」


アローンは恍惚とした笑みを浮かべ、自らの醜悪な本性を誇らしげに晒した。

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