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7、現在 共存度ゼロの来訪者

金曜日の夜、喫茶店「ファースト・オフ」はいつもより賑やかだった。窓の外には街灯が灯り、湿った夜風が静かに流れている。店内では、トレッキング帰りらしい日焼けした初老の男性たちが笑い声を交わし、隅の席では気だるげなカップルが互いのスマートフォンを覗き込んでいた。窓際の席では、赤い帽子をかぶった10代の少女が一人、ストローを弄びながらオレンジジュースを啜っている。


「亜希さん、私の考え、どう思います?」


声をかけてきたのは琳だった。彼女の発想は時に突拍子もないが、稀に悪くないこともある。


「アルビレオの話ですよ。ずっと見ているうちに、緑に見えていたのが青く見えてきたんです」琳は興奮気味に言う。「私の情報処理能力が遅いってことですか?」

アルビオレとははくちょう座のくちばしに当たる美しい二重星だ。人によって色が変わると言われている。


隣に座る彰は、露骨に興味のなさを顔に出している。話を受け止めるのは、いつものように洋の役目だった。


「琳ちゃん、そもそもね、僕たちが青や緑だと思っている色が、他人にどう見えているかなんて誰にも分からないんだよ。僕が『青』だと認識している色が、琳ちゃんには『緑』に見えている可能性だってある」


「でも、以前彰さんが言ってたじゃないですか。『物事は観測するまで不確定だ』って。私の中で情報が確定するまでに時間がかかったってことじゃダメなんですか?」


全く話が伝わっていない。洋が気の毒に見えてくる。


「つまらん話にいちいち波動関数の標準解釈を持ち出すな。あれは比喩だ、例え話だ」彰が苛立たしげに言う。


「はあ?都合が悪いときだけ難しい言葉を使ってごまかすの、ずるくないですか?」


正論だ、と亜希は思った。


「それでも、私が皆と同じように星が青く見えてきたってことは、共存度が高くなったってことで良いですよね?」琳が短絡的に結論づける。


「なんでそういう訳のわからん解釈をするんだ。共存度って多世界解釈の例えだろ? 多世界解釈では、そもそも波動関数は収縮しない」


亜希は、ふと零の考えが知りたくなった。


「零さん、波動関数の収縮って、人間が観測することで状態が決定するって話ですよね? 難しい話ですけど、いろいろな解釈があるみたいで……零さんはどう考えます?」


零はカプチーノのカップを指で転がしながら、静かに答えた。


「波動関数とは、共存度の確率のこと。経路積分をどれだけ継ぎ足しても、完全な共存度には達しない。あなたたちが言う波動関数の収縮は、デコヒーレンスの壁の外側では起こらない。この世界の人々が、重なり合った現実を認識していないだけ。自分たちが見ているものが異なるという事実を、理解していないだけ」


彼女の言葉に、一同は押し黙った。


そういうことなのか?


私たちは、認識の曖昧さを「共通の現実」と錯覚し、言葉や視覚情報の齟齬が表面化しないことで、安心しているだけなのか?


「そして、世界との共存度が低いものは、やがて消えていく。世界から切り離されて」


その言葉が響いた瞬間、先ほどまで窓際にいた赤い帽子の少女が、すっと近づいてきた。


「聞いてた通りだ、葛原零。アンタの言うことは本当に面白い」


ハスキーな声で、挑発的な笑みを浮かべる。


「ところでさ、アタシは他人との協調性がゼロなんだけど、共存度が低いものから消えていくって話、どう解釈すればいい? アタシ、ちゃんと存在してるよ?」


突然の介入に、私たちは戸惑いながらも彼女を見つめた。零の表情がわずかに鋭くなる。


「共存度と、人間の瑣末な協調性は何の関係もない。人間同士の意識など、世界全体から見ればどうでもいいこと。共存度とは、世界そのものと共存する力のこと」


零の冷たい言葉に、少女は声を立てて笑った。


「あはは! アタシ、実は人間嫌いで、他人と話すのも大嫌いなんだけど、アンタたちの話は面白いね。修一から聞いた通りだ」


「修一くんの知り合いなの?」


「うん。修一やアオイには『あんたたちに会うな』って言われてたけど、アタシはそれを『会え』って意味に解釈した」


少女はそう言って、零の前まで歩み寄る。そして、体を精一杯伸ばして名乗った。


「アタシは西園寺史音(さいおんじふみね)。アンタの仇敵、ベルの親友なんだ」


その言葉に、零がすっと立ち上がる。史音は瞬時に数メートル後ろへ飛び退いた。


「おっと、ヤバイことは止めてくれよ。アタシの親友がアンタの仇敵でも、アタシとアンタが争わなきゃならない理由にはならないだろ?」


琳が彰の方を向き、ヒソヒソと囁く。


「ほら、彰さんが好きそうな利発そうな女の子ですよ。チャンスですよ」


「お前、どう考えたらそんなアホな発想が浮かぶんだよ」


「アオイって誰でしょう?」


「俺が知るか」


「ベルって誰のことでしょう?」


「だから俺が知るか!」


「人間嫌いでも親友がいるんですね?」


「そりゃ、そういうこともあるだろうよ」


こんな時でも、二人はまるでバカップルのようだ。亜希は仕方なく、零を宥める。


「零さん、修一くんの知り合いだって言ってるし……」


零は伸ばしかけた手を静かに引っ込める。


「大丈夫。こういう娘は嫌いじゃない」


洋が慎重に口を開く。


「零さんの敵の親友……穏やかじゃないね」


史音は肩をすくめて微笑んだ。


「まあ、人は生きてりゃ、いろんな選択を迫られるもんさ。そして、アンタたちの描く未来だって、同じじゃないかもしれない」


その瞬間、彼女の背後で光が走った。


「私たちは何を選ぶべきか、それが重要だよね?」


その問いが耳に残る。


店の窓を開け放った風が吹き抜けた。それが彼女そのものだったと気づくまで、一瞬の間があった。


今、私の目の前には、波動関数が重なり合っている。共存と消失の真理を垣間見る瞬間が、確実に迫っていた。

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