87、現在 トンネルの飢え、燃える街、そして予兆
身体から、亜希を支配する声が抜けていかない。
意識だけが濃い霧の中を彷徨っている。
これは……そうだ、侑斗とあの人、そして初めて零に会った日の記憶。
私は置き去りにされた。誰に? ……零さんと修一くん? いや、違う。もっと深い繋がりを持った誰かに。
そして、私の前に誰かがやって来る──いや、誰も来ない。
これは零さんの記憶。哀しい記憶。
「私は嫌だ」
それは、分身である私が零さんの希望を消し飛ばした記憶。
深い悲しみに共感できない、他我の種を持たない私の残酷さ。
ごめんなさい……零さん、私はあなたの望みを叶えるべきだった。
「何を謝るの?」
遠くから零さんの声が聞こえる。
「間違えたのは私、正しいのは貴女」
──次の瞬間、自分の意識が、肉体をようやく認識できた。
誰かの手が、私の手を掴んでいる。
ゆっくりと目を開けると、私の右手を取ったまま、瞳を閉じた零さんの姿が見えた。
「……零さん」
零はゆっくりと瞳を開く。そして、私の顔を見た後、全身に目をやった。
「戻って来たのね、亜希さん……自分の身体の中に」
疲れた笑みを浮かべる零さん。その顔には安堵の色が滲んでいた。
亜希は身体を起こそうとしたが、全身にうまく力が入らない。
「まだ貴女の意識と肉体は完全にリンクしていない。なるべく私の手を放さないで、しばらくは動かないで」
私は再び横たわる。
「零さん……私はどうしたの? あのトンネルを抜けて……彰くん、みんなは?」
「大丈夫、みんなここに居る。もし貴女の肉体が貴女の意識を受け付けなくなったら、貴女に私の身体を渡そうと思った」
私が……零さんの身体に?
そうしたら、零さんはどうなるの?
「そんなのは絶対に嫌」
私は枯れた声を絞り出した。
そのとき、扉をノックする音が響く。零が振り向いて声を掛けた。
扉が開き、琳が入ってくる。
「亜希さん、目覚めたんですね。戻ってきたんですね」
琳は私の顔をじっと見つめる。
零から何を聞いていたのだろう?
多分、亜希はコントロールできない力を使い、それに翻弄され、いや、今も翻弄され続けているのだ。
だから零は、亜希の肉体が声の力に乗っ取られないよう、制御し続けた。
霧の中を彷徨った亜希は、零──私を創った零の声に導かれ、ようやく帰ってきたのだ。
「琳、飲み物と食べやすいものを持って来て」
「了解。あ、松原さんと彰さんも心配してるんで、連れてきていいですか?」
零さんが頷くと、琳は扉の向こうにいる二人に声を掛けた。
「……ああ、良かった。今まで具合の悪い亜希さんなんて見たことなかったもんなぁ」
彰くんが真っ赤な目で私を見つめてくる。
悪かったね、図太くて。でも確かに、健康面で誰かに心配されたことはないな。
「うん、本当に世界の終わりが来たかと思った。こんな、誰にも助けを求められない状況で、どうしたら良いか分からなくて……全部零さんに任せちゃった」
洋も、結構な言いようだなあ。でも、心配かけさせちゃった。申し訳ない。
「ほらほら、どいてください。亜希さんのお食事時間です」
琳がトレイを運んできた。ペットボトルとコップ、そしてゼリー状の食品が載っている。
零が亜希の腕と肩を支え、ゆっくりと起こす。
私はノロノロと腕を上げ、ゆっくりとコップを取った。
何度か落としそうになったが、その度に零が支えてくれる。
乾いた喉に染み込んだミネラルウォーターは、少しずつ私の五感を取り戻させていった。
亜希は、ゆっくりと食事を始める。
「ああでも、本当に良かった。亜希さんに何かあったら、私たち美人トリオが消滅しちゃいますよ」
琳が目を赤くしながらも、明るく言う。
「トリオの三人目は誰のことだ?」
彰くんが茶々を入れる。
「へえ、こんな美人に向かって、さした容姿を持たない人が生意気言ってますね」
──いつもの漫才だ。
しばらくして、洋が零に声を掛けた。
「零さん、ちょっといいかな?」
零は瞳を瞬かせ、亜希の背に触れた手を視線で示す。
「やっぱり、零さんは亜希さんからしばらく離れられないよ」
彰くんが私たち二人を見ながら、そう呟く。
洋は、少し俯いて口ごもった。
「……せっかく亜希さんの意識が戻ったのに、嫌な話をするのは気が引けるんだけど」
「……私は大丈夫。みんな、ありがとう。私にも教えて……」
少しずつ、会話が楽になってきた。
「生きてるLANコンセントが見つかって、ようやくネットに繋がったんだけど……」
洋の言葉が途切れる。その続きを、彰が引き取った。
「あのトンネル、俺たちを飲み込むのに失敗したけど、今でも車を飲み込み続けてる。現在、両側から規制線が張られている。……まだ、あの中には何かがいる」
「……何か?」
亜希が尋ねると、洋が言葉を継いだ。
「教団の連中はまだ、あそこで人や車を飲み込んで……何かを企んでいる」
わけが分からない……零を捉え損ねた以上、あそこの仕掛けはもう無用なはずでは?
亜希は焦点の定まらない視線を宙に浮かべた。
──そして、更に悍ましいことを琳が口にする。
「後本軽井沢で、大勢の人が人体発火現象で次々と消し炭となっているようです」
琳のその言葉が部屋に重苦しく響いた。
「馬鹿! 余計なことまで言うな!」
彰が鋭く叱責する。彼の声は普段の落ち着きを欠き、苛立ちをあらわにしていた。
琳は反発し、声を低く太くして応じる。
「彰さんは亜希さんの気持ちが全くわかってませんね。亜希さんは、すべてを知りたがってるんです」
緊迫した空気の中、琳と亜希、そして零が彰をじっと見つめる。圧を感じたのか、彰は観念したように両手を上げた。
「降参だよ」
その仕草が侑斗に似ていると思った。そうか、彰が教えたのか――。
その時だった。
「とてつもない悪意が、こちらに向かってきているのを感じる」
零が静かに言った。
宝石のような瞳を大きく開き、その奥に冷たく鋭い光を宿す。声には微塵の感情もなかった。
亜希は思わず息を呑む。外の風が音もなく流れ込み、カーテンが揺れた。張り詰めた空気が、肌にじりじりと刺さるようだった。
「私たちは、なるべく早くここを出た方がいい」
零の言葉は、静かであるがゆえに、余計に恐ろしかった。