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86、現在 無垢なる狂気、浅間に降る

灰色の雲が低く垂れ込めた空の下、浅間山の麓に少年が静かに降り立った。乾いた大地に足をつけると、砂ぼこりがわずかに舞い上がる。遅れて、年の近い男女が三人、彼の傍らに降り立った。空気はひんやりとしているが、それ以上に彼の纏う雰囲気が場を支配し、周囲の空気を歪ませているようだった。


「忌々しいなあ」


少年――アローンは小さく舌打ちをすると、苛立たしげに呟いた。


「僕の立てた作戦は完璧だったのに。裏切り者の美沙と化け物のフィーネを参加させた龍斗の間抜けが全部悪いんだ。最初から僕一人ですべてやるべきだった」


彼はそこまで言ったところで、ふと気がつく。

――これは、史音がよく口にする言葉とそっくりではないか?


苦笑しながら肩をすくめる。仕方がない。史音は自分の影響でああいう性格になったのだから。出処を共にする者同士、思考が似るのは当然だ。しかし、それでも相手が美沙だけというのは物足りない。


アローンは顔を上げ、隣に立つレオへ視線を向けた。


「どうかな、レオ。葛原零の強い反応は相変わらず捉えられないか?」


レオは下を向いたまま、引きつった声で答えた。


「アローン、彼女の存在は蛇歐の迷路から小さくなり、今では通常の人間の存在力しかないようです」


頬を強張らせたまま、レオは視線を合わせようとしない。その態度に、アローンはわずかに眉をひそめた。


「……ねえ、レオ。誰かと話すときは、相手の瞳を見るものだって、ママから教わらなかったのかい?」


そう言うや否や、アローンはレオの腹に鋭く蹴りを叩き込んだ。


鈍い衝撃音とともにレオが地面に倒れ込む。喘ぐようにうめき声を漏らす彼の胸を、アローンは無造作に踏みつけた。


「フン、まあいい。滅びの狼煙で他我の種を操られ、あの悪魔のような葛原零が力を失っているというのは、あの薄気味悪いフィーネにしてはよくやったよ。……美沙が裏切らなければ、僕の作戦は成功していたのに」


アローンの目が鋭く光る。


彼にとっての標的はまず葛原零――一度でも自分を壊そうとした存在。その次は、世界ごとアローンを破壊できる力を持つ女王ベルティーナ。だが、女王の相手はあの愚か者、在城龍斗がしてくれている。とりあえず、そちらは後回しだ。


そして、葵瑠衣と西園寺史音――

自分と対等の存在である二人は、いつか必ず手に入れる。


葵瑠衣は行方不明。しかし、史音は今、在城龍斗のいるプルームの岩戸へ向かっている。


「僕の史音に手を出したら、あの男……僕が思いつく限りの残虐な方法で苦しめてやる」


アローンは冷笑しながら、ようやくレオを踏みつけていた足をどけた。


「レオ、もうちょっと苦しそうな顔を見せてくれないと、いたぶった甲斐がないじゃないか。空気を読んでよ」


興味を失ったように、アローンは顔を背けた。代わりに、別の者へ視線を向ける。


「ヒューリ、葛原澪のいた建物は確認した?」


ヒューリと呼ばれた少女は、アローンを睨みつけるような眼差しで答えた。


「はい。確認しましたが、今は誰もいないようです」


ヒューリが言い終えるや否や、アローンの手が彼女の頬を打った。鋭い音が周囲に響く。


「そんな怖い顔で僕を睨むなよ。目を見て言葉を向けられると、怖いじゃないか」


アローンが嘲るように笑う。その様子を見ていた最後の一人、カノンは小さく溜息をついた。


――アローンの不条理には、一生慣れそうにない。


彼ら三人は、自らの意志でアローンのもとに仕えたわけではない。枝の御子の中でも特に力の弱い彼らは、アローンに他我の種を掌握され、従わざるを得なくなったのだ。


「ねえカノン。葛原零のいたという別荘、とりあえず燃やしてくれない?」


「……は? 何のために?」


カノンは心の奥底でアローンを憎んでいた。

機会があれば、女王のもとへ助けを求めるつもりだ。

レオもヒューリも、ただ怯えるだけでなく、反旗を翻す意思を捨てずにいればいい。卑屈な態度を見せることは、アローンを余計に満足させるだけなのだから。


「カノン、あの葛原零が一時でもいたというだけで、燃やす理由としては十分だよ」


アローンは冷たく笑う。


彼は過去に二度、大国のICBMを乗っ取って日本に向けて放った。

一度目は葛原澪により大気圏外で消滅させられ、二度目はベルティーナの真空の瞳によって発射寸前に蒸発させられた。


――あの二人はただ、アローンを不愉快にさせるために存在しているのか?


彼にとって、許し難い存在だった。


「今、仕掛けておいた火を放ちました」


カノンが淡々と報告する。


「さすがだね、カノン。君は話がすぐに通じて便利だ。これからも、僕のために便利に働いてくれ」


アローンは満足げに薄く笑うと、愉快そうに肩を揺らした。

その笑い声は、曇天の下、乾いた大地にゆっくりと溶けていった。



 冬樹の車の助手席に乗っていた美沙は、スマートフォンの画面を見て眉をひそめた。

「どうも、小鳥谷財閥の別荘が燃やされたらしいです」

彼女の言葉に、後部座席に座っていた落合が静かに頷く。


冬樹はハンドルを握ったままルームミラー越しに落合を見た。

「葛原零たちがいた別荘ですね。今は誰もいないはずですが……落合さん」


美沙は軽くため息をつき、冬樹を見つめる。

「私のことは、優香のように“美沙”と呼び捨てにしてください。私もあなたのことを“薫”と呼びます」

冬樹が軽く頷くと、美沙は続けた。

「アローンは感情の赴くまま、思いついたことを躊躇せず即座に実行します。そこに、私たちの考える“意味”なんて存在しません。前にも話しましたが、アローンは“良識”というものを持てない、サイコパス中のサイコパスなんです。自分と極わずかな人間を除いて、他人を昆虫並みにしか見ていません。思いついたこと、ふと感情が動いたこと、気に障るものは——まるで無邪気な子供のように、ただ害するんです」


美沙は拳を握りしめ、わずかに唇を噛んだ。

「女王と優香で、あれを抹消する作戦を立てていました。でも……在城龍斗の問題が起きてしまった」


冬樹は無言でアクセルを踏みながら、考え込んでいた。

自分は悪人だし、決して純粋でもない。だが——アローンは、自分のことを“善人”だと思い込んでいて、確かに純粋だった。純粋な“狂気”なのだ。


「美沙……さん」

冬樹は、意識して言葉を選んだ。

「私は、燃えた小鳥谷家の別荘から脱出する零たちを確認しました。葛原零は……何か、酷く弱っているように見えました」


美沙は目を閉じ、悔しそうに唇を噛む。

「……残念ながら、蛇歐のトンネルでのアローンの作戦が、私の予想を超えていたのでしょう。彼女の力は、そこで大きく削がれた……本当は、葛原零にアローンを消してほしかったのですが」


椿優香の話では、アローンの計画を破ったのは零ではなく、木乃美亜希だったという。

そして、別荘から出てきた二人は、ひどく疲弊していた。


「貴女方、枝の神子たちは存在力の強い者がいれば、遠くからでも察知できると聞いていますが……美沙、貴女にも葛原零の居場所がわからないほど、彼女の力は弱まっているのですか?」


冬樹は考えた。

零と亜希が、それほど遠くへ行ったとは思えない。だが、手がかりがない。

——あえて、尾行しなかったのだ。

教団の目を向けさせないために。


「薫、確かに私にも葛原零の居所は分かりません」

美沙は、ゆっくりと首を振る。

「ただ……アローンにも分からないはずです。ですが、私たちと違い、アローンは“探す手段”を選びません」


美沙が言葉を切った、その時だった。


——プルルルルル。


静まり返った車内に、スマートフォンの着信音が響く。

「……このタイミングで?」

美沙は画面を見つめる。


冬樹がちらりと視線を向けた。

「優香でしょうか?」


「いいえ……見たことのない番号ですが……」


美沙はゆっくりとスマートフォンの画面をタップし、耳に当てた。


——『よう、美沙。久しぶりだな』


低く、ハスキーな声が響く。

車内の空気が、わずかに緊張を帯びた。


美沙は静かに目を細める。

「……貴女が女王以外の人間を信用して連絡するようになったとは、俄かには信じがたいですね」


——『まあ、その……何だ。アタシも最近、色々あったんだよ』


何でもはっきり言う西園寺史音が、珍しく口ごもる。


「それで?」

美沙は冷静に問いかける。

「教団討伐に向かっている貴女が、私に何の用ですか?」


——『アローンの相手をすることになったって、アオイから聞いてな。対処法を教えてやるから、有難く聞け』


美沙は、わずかに目を見開く。

史音は、相変わらずの口調だった。

20歳近く年上の自分に対しても、まるで年下のように偉そうな態度を取る。


「拝聴しましょう。少し待ってください」


そう言って、美沙はスマートフォンを持ったまま、運転席の冬樹に声をかけた。

「アローン対処の“大ベテラン”が、対処法を教えてくれるそうですよ」


冬樹の指が、一瞬、ハンドルを強く握った。

「……!」


そのまま、美沙は通話に戻る。

「さて、教えていただきましょうか」


——『……いいか、よく聞け』


史音の声が、真剣に響いた。


数秒後。


美沙は、通話を終えた。

冬樹が、すかさず尋ねる。

「対処法は分かったんですか?」


美沙は、そっと頭を抱えた。


「……真面目に相手をしないこと、だそうです」


冬樹は、思わずハンドルを切り損ねそうになった。

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