84、現在 コアデータⅡ
アルファから葵瑠衣と史音達がそれまでに呼んでいたものの正体が、あの椿優香だと聞かされていた。何でもすぐに喋りたがる、偽ることが苦手な少女は、ごく自然にその名を口にしていた。
だが、侑斗の聴覚と記憶は、それを拒んでいた。
生まれながらにして、自分という存在を否定し続けた人生。女王や零、亜希の干渉がなければ、今頃、自分は生きてはいなかった。侑斗は、それを強く理解していた。女性を恋愛対象として見ないのは彰と同じだったが、侑斗の場合は”見ない”のではなく、“見れない”のだ。彼女たちがいなければ、今こうして心臓を動かし、息をすることすら叶わなかったのに——。
それでも、女性が苦手だった。それは確かに、アルファの言う通り、葵瑠衣、椿優香に対する恐怖からだった。
——『君には誰かに恋する資格はない』
あの言葉を突きつけられた日から、彼の時間は止まった。
あれから四年。彼女と二度と会うこともなく、関わるつもりもなかった。本当は忘れたかった。しかし、休日に読んでいた本からふと目を離した瞬間。星空を一人で眺めているとき。誰かと冗談を言い合ったとき——。
亜希や零、琳や彰、松原洋と話しているとき——。
ふと、彼女の姿が浮かぶ。そして、心に刺さった棘がさらに深くなり、自分の心が、自分の心を傷つけていく。
——いつになったら、彼女の呪縛から解放されるのだろう。
そして今もなお、彼女は自分の死角から、直接手を下すことなく、静かに縛り続けている。
まるで悪夢のように——。
「先に言っておく。おまえをそういうふうにしか創れなかったベルティーナを攻めないでやってくれ、ベルが残った素材でおまえを創るにはそれが限界だったんだ。
それから......優香は何を考えてるか分からない女だけど、あれの行動には必ず理由がある」
史音の低い声が、湿気を帯びた空気を震わせた。
「アタシは、優香がアンタにしたことを優香本人から聞いた。ベルから散々問い詰められたときは何も言わなかったのに、アタシには全部話したよ。当時11歳だったアタシでも、“やりすぎじゃないか?“って思ったさ。でも、優香はただ一言、“必要なことだった”とこぼしただけだ。アンタに前世の責任を負わせようとしたんだとアタシは思ったけど……どうも、それだけじゃないな……本当は」
「もういい」
侑斗は強い口調で史音の言葉を遮った。
頭の中に、あの日の情景が蘇る。
燃えるような瞳。その奥に込められていた強い意志。
“一生お前を許さない”
あの瞳が侑斗に投げかけたのは、紛れもない断罪だった。
そして今もなお、椿優香は侑斗を許さないまま、利用している。
「本当は、優香はアンタをあの時、ベルの元へ連れ帰るつもりだったんだよ」
史音の言葉が、静かな間をおいて響いた。
そうか——。
“連れ帰るに値しない”と判断したから、彼女は俺を置き去りにしたのか。
地の底へ突き落として、最底辺でなお利用しているのか。
「史音、あの人は俺の存在を嫌悪している。まわりくどく使い捨てするつもりなら……俺は、地球が全部滅びたって構わない。ここで降ろさせてもらう」
史音は寂しそうな瞳で侑斗を見上げた。
「侑斗、自分で自分を否定してるのに、他人に否定されるのは嫌か?」
夜風が、二人の間をすり抜ける。
「確かに、あの女は他人を自分の目的のために道具みたいに使う。使えるものは何でも使う。アンタだけじゃない。アタシも、ベルも、修一も、修一の姉さんもな」
淡々とした口調の裏に、わずかな怒りが滲んでいる。
「……なら、使われてやろうってアタシは思った。いつか、あの女の鼻を一緒に明かしてやろうぜ。そのついでに、世界を救おう。アンタに抜けられると、アタシも困るんだ」
最初に会ったときは、あれだけこき下ろしておきながら、随分と調子のいいやつだ。
「……ダメだ。この感情は、簡単に殺せるものじゃない」
史音が溜息をつき、湿った声を出した。
「侑斗、優香のことなんかどうでもいい。アタシたちが戦わなきゃ、アンタの大切なものも消える」
空に広がる雲の隙間から、日のひかりが零れる。
「さっき、優香から聞いた。天空の白帯——あれは、人の他我の種を育て、傀儡にする力があるんだ。アンタは、守りたくないのか?」
史音の声が静かに揺れる。
「それから、これからはアタシが優香からアンタをずっと守るよ」
風が吹き抜けた。
史音は、そこにいた。
ただ、侑斗の背中を押すために——。
そっと。力強く。優しく。
「……ごめん、史音」
侑斗は右手で顔を覆い、もう片方の眼で地面を見つめた。
「俺が、ガキだった。今の自分の行動を、他人のせいにするのは……卑怯者のすることだよな」
曇り空の下で、侑斗はゆっくりと息を吸い込む。
「俺は……一緒に行くよ」
「おまえなら、そう言うと思ったよ」
史音は微笑み、侑斗の胸を左手で軽く叩いた。
侑斗は、椿優香の影を振り払う。
あの、超然とした、颯爽とした姿を——。